作品一覧
- 春は、来る / 太田ユミ子
- この瞬間、私は変わった。 / 下地カナ
- 『子宮喪失』 / 入江佑紀加
- 夢を追う母さん / コモリ サチエ
- 「人生が変わった瞬間」から、また「人生が変わった瞬間」へ / 艶姫
- 母と離婚と進化と@娘目線 / たまき マキ
- わたしはまだ、終われない――名前はママ / fujikochan
- 引き出された決断 / 千達 優
- 捨てた時間と動き始めた時間 / つきね(月音)
- 予定外から、人生は変わった / ナンシー
- 失った先で、もう一度出会えたもの / 藤井 郁美
- 杖を手放した日 / 正岡和子
- 今を生きる / エルメス
- 鳥かごから飛び発つ / はる
- 谷あり谷ありの先で見つけた生きる意味 / わたらい あき
- 女たちの変遷 / 北山ちひろ
- ㊗️マルいち25 / ぶー
- 背中 / えみりお
春は、来る
一九九五年一月十七日、午前五時四十六分、阪神・淡路大震災。私が住む神戸市東灘区にあるアパートは何とか無事だったが、同じ町内にある夫の実家は全壊した。義父母が結婚以来五十年住んでいた家だった。
前年、リフォームしたばかりだった。初めて瓦を葺き替えて、天井を張り替え、台所、風呂場、トイレなど全て新しくした。それが一瞬のうちに瓦礫の山となった。義父母は二人とも瓦礫の下に埋ったが、無事に救出された。
その日から電気、ガス、水道が止まった二Kのアパートの六階で、義父母と夫、娘の五人暮らしが始まった。昨日までの平穏無事だった日々が遠い昔に思えた。
「一番大切な命が助かってよかった」
みんな、呪文のように繰り返し、不自由な生活に耐えていた。
三宮にある夫の店も全壊、娘が通う小学校も全壊。西宮にある私の勤め先も被災して、私は失業した。義母は一月末に神戸市中央民病院で股関節の手術を受ける予定だったが、延期になった。娘が通う小学校も全壊した。
突然、家を失った義父母は心身ともに弱ってしまった。義父母の家と私たちのアパートは歩いて五分。共働きをしていた私たちは、何かと義父母を頼りにしていた。頼っていた者から頼られる者へ、立場は逆転した。
愚痴を言っている暇はない。どんな時でも、人は食べて、トイレに行って、眠って、生きて行かねばならない。
三月下旬、全壊した家は家族全員が見守る中、解体撤去され更地になった。
「みんな、なくなってしもた」
義父の後ろ姿は、一回り小さくなったような気がした。
「思い出はなくならへん。また、ここに家を建てて、みんなで思い出いっぱいつくったらええ」
義母は気丈だった。七十歳を過ぎた義父母がどうしてこんな目に遭うのか、私の心は持って行き場の無い怒りで溢れていた。
「どんな時でも桜は咲くなあ」
夫がのんびりと言った。線路を挟んで向かい側にある、五反田公園の桜が満開だった。いつの間にか春になっていた。
「そや、みんなでお花見に行こう」
夫が言い出した。ライフラインは全面復旧していたが、家も店の再建も見通しが立っていなかった。義母の手術は延期されたままで、足は悪くなるばかり―私はため息と共に、
「こんな時にお花見なんて……」
夫は私を真っ直ぐに見て、力強く言った。
「こんな時やから!」
みんな、うなずいていた。
数日後、私たちは王子公園へお花見に行った。義母を車椅子に乗せ、JR灘駅から王子公園までの上り坂をみんなで交代して押した。満開の桜の下でお弁当を開けた時だった。義母が桜を見上げ、
「きれいやなあ、生きていてよかった」
家が全壊しても涙ひとつこぼさなかった義母が泣いていた。
「ほんまや、生きていてよかった…」
義父の涙を見たのは初めてだった。どんな時も季節は巡り、春が来て、桜は咲く。私はこの桜を見ることが出来なかった、六千人以上の人々を想った。
私たちの春は遠い―でも生きていれば、必ず春は来る。桜は咲く。
元の生活には戻れないけれど、みんなで新しい生活を作って行けばいい。新しい思い出がいっぱい出来るだろう。
―私は未来を予想した。
来年の桜が咲く頃には新しい家が建ち、私たちの新しい生活が始まる。店も再建できる。義母の手術は成功する。私は新しい仕事を見つける。来年も家族全員でここにお花見に来る。
生きていれば、何とかなる!
生きてさえいれば!
私は、この日を忘れまいと思った。桜は何事も無かったように咲き誇っていた。
終
この瞬間、私は変わった。
けれどそれは私自身が望んで選んだのだ。専業主婦。なぜ、専業主婦を選んだのかと、よく人から聞かれる。
もともと私の母は兼業主婦だった。午前中は家事をして、午後から保育士のパートに出かけた。毎日部屋は綺麗に掃除され、ご飯が作ってあった。仕事もし、家事も育児も担っていた母を私はスーパーウーマンだと思っていた。
母の生き方はいつしか私の理想になった。私も手に職をつけたい、そして結婚をしたら、家事と育児とパートの両立が出来たらいいな、と思っていた。
そして二十五歳の時、私は結婚をした。
義母は、私の母と随分違う人だった。
まず、一切の家事をしなかった。家には常に家事代行の女性がいて、掃除も料理も彼女がしてくれた。
義母の口癖は
「女性は社会で働いていないとダメなのよ、これからの時代は」だった。
恐らく家事が苦手なのだろうと、察した。
私は、価値観の違いは尊重する。
義母がバリキャリの人生を選んだことは、生き方の一つだ。他人の私が否定することなどない。けれど義母にとって、私の生き方はよく映らなかった。
「落ち着いたらパートをしようかと思っています」と言う私に
「パートなんかじゃダメ」と、容赦なかった。
夫は母親に逆らわない従順なタイプだった。
それは結婚して初めて見つけた夫の意外な一面だった。
「結婚する前は両目を見開いて見よ、結婚してからは片目を閉じて見よ」と言ったのは、英国の歴史家、トーマスフラーだ。
悲しきかな、恋は盲目。私は完全に両目とも閉じたまま、自分が作り出した理想像の夫を見ていたのかもしれない。
嫁と姑は永遠のテーマだと思う。結婚してからすぐに、義親問題が勃発した。もめごとに関して、男性が本当に役に立たないことをこの時初めて知った。
舅と夫の「臭い物には蓋をする」姿勢にイライラした。男どもの、裏工作。二人とも、こそこそ私のところに電話をよこして
「とりあえず、表面上は合わせてみたら」
「とりあえず、従ってくれない?」
「言うこと聞くフリでいいから」
などと、毎日お願いをしにくるのだった。
私はもともと人に気を遣う性格であった。繊細なのだ。だから、他人と争うことはあまり得意ではなかった。その場限りの付き合いならば、適当に合わせて、それ以降は話すこともしなかった。けれど、嫁姑の関係となると話は別だ。一生続く関係で自分を偽ることなどできない。
最初こそ、姑の気が落ち着くようなふるまいをしてみようかと試みてみたが、すぐに自分には無理だと悟った。繊細なくせに、割と自分を持っている、という長所なのか短所なのか分からない一面が自分にあったのだ。
それ以来私は、姑に自分の考えを理解してもらおうと話し合いを試みた。
けれど、不思議なくらい姑は融通が利かなかった。そして、不思議なくらい舅と夫は姑に従順だった。
私がパートをするか、専業主婦でいるか、という問題に関しては、結婚して家庭が落ち着いたらパートを始めることで合意をしていた。夫婦ではそのように合意をしていたが、姑が許さなかった。
私も頑なに「それは夫婦で決めることですので」と伝え続けたが、姑はいつまで経っても夫婦の間に入りたがった。そして、夫婦の決め事の指揮を執りたがった。
結婚して半年も経たないうちに、夫婦関係、義親問題のあれこれがヒートアップしていった。私が働く働かない問題だけではなく、子供を産む産まない、産むならいつのタイミングか、まで姑が指図するようになったのだ。反比例して夫は口をつぐむようになってしまった。
「仕事が忙しい」
「それどころじゃない」
などと言って、職場に逃げていくようになった。夫の就職先についてきた私は、新天地で知り合いもおらず、慣れない土地で四苦八苦していたというのに、肝心な夫は仕事ににげた。どうやらそこで人間関係も構築していったようで、飲み会の回数が増えて行った。いよいよ不在がちになってしまったのだ。
一人取り残された私は、毎日かかってくる電話に気が滅入り始めていた。
そしてとうとう事件は起こった。繊細な私が融通の利かない姑と電話でやり合ったのだ。私の「いい加減にしてください」という言葉を皮切りに、今まで積み重なって、溜まっていたヘドロのような感情を、毒を、姑は浴びることとなったのだ。
案の定姑は驚いていた。そして
「あなた、やっぱり猫かぶっていたのね。こんな性格だとは思わなかったわ」
と、言い放った。私は泣きながら
「これは異常ですよ」と反発した。
受話器はガチャンと音を立てて切れた。私が切ったのか、姑が先に切ったのか分からなかったけれど。とにかく怒りは収まらなかった。
五分も経たないうちに職場で仕事をしていた夫から電話がかかってきた。
「喧嘩したんだって?今、お母さんから電話がかかってきたよ。なんかすごく怒ってるみたい。とにかく、これ以降電話がかかってきても絶対取らないでね」と夫は言った。
「あなた、お母さんのご機嫌取りなんてやめてよね。話がややこしくなる! 職場に自分の母親が電話をかけてくることさえ、おかしいでしょう。あなたは気にならないの?」
と、私が夫を罵ると、夫はダンマリをきめこんだ。私の怒りに驚いていたのかもしれない。私はその瞬間、悟った。これが私なのだ、と。そして初めて息が出来た気がした。結婚して半年。確かに私は猫をかぶっていた。はっきり言わずとも、のらりくらりと交わせば察してくれるだろうと信じていた。けれど、自分の生き方に関して、ハッキリと自分を示して見せても、納得してもらえないのなら、もう戦っていくしかない。私は悟ったのだ。
このとき、私は「可愛い新妻」から「鬼嫁」へと変貌を遂げた。私の人生はこの瞬間に180度変わってしまった。
その夜、夫が帰宅して私たちは今後の二人の行方を話し合った。私の腹は決まっていた。
「自分の生き方や感じ方でさえ、誰かの言いなりにならなきゃいけないなんてあり得ない。申し訳ないけど、あなたが親に自分の主張が出来ないなら離婚させてもらう。選んで」
すると夫は、うなだれたまま
「言っていることは分かる。僕は結婚を選ぶよ」と言って受話器を取った。決別だった。あれから17年。夫と義親は連絡を取っているようだが、私との交流はない。
今でも考えることがある。もし価値観が同じ人と結婚していたら、育った環境が似ている人と結婚していたら、と。私は変化する必要がなかっただろう。簡単な人生だったかもしれない。心の葛藤が少なく平穏無事だったかもしれない。
けれど、経験値は限りなく低かっただろう。子どもや孫の代まで苦難少ない保証などない。これでよかったのだと思う。結婚は、私を逞しく育てあげた。
『子宮喪失』
「無事に手術が終わりましたよ」
看護婦さんと思われるやわらかい声が耳に届いた。
四十九歳の初春だった。年の暮れから数か月間、生理が止まり、年齢のこともあって、このまま閉経に向かうのだろうと自己判断していた。しかし、三月末、今までに体験したことのない腹痛・多量の出血・そして下痢に悩まされるようになった。
私は、近所のクリニックを受診した。子宮筋腫が二つあるが、経過観察と診断された。 しかし、症状は急速に悪化し、総合病院に紹介状を書いてもらった所、子宮・卵巣二つ・卵管すべてを摘出する必要があると診断されて、急遽手術が決まった。四人の医師が必要な手術のために三週間待ってほしいとの事であった。その間、私は、あまりの痛みに耐えかねて、休日に婦人科に駆け込んだ時もあった。座薬を使い、毎日痛みに耐えた。本当に拷問の様な時間であった。
私は、今まで独身を貫いてきた。一般的な常識といわれる結婚や出産とは無縁の人生であった。前職の頃、『女性は、出産を経験して一人前』・『気ままな独身貴族』などの言葉を沢山の既婚者達から言われ続けてきた。その業界では夫婦共働きが当たり前であり、女性は普通に結婚して出産していた。そして仕事に復帰して働いていた。つまり仕事・家事・育児を全てこなすのが女性の役割だと言われていた。中には独身の女性もいたが数は極めて少なかった。
しかし、私はそれらの辛辣な言葉が心に刺さる事は全く無かった。それは私自身が仕事に忙殺されていた事に加えて、家族の介護等が降りかかり日々生きて行くのが精一杯の状況に陥っていた背景が影響していた。周囲の女性達が結婚に向けて憧れる気持ちを持つ時間も心の余裕もなかった。常に私は忙しかったし疲れていた。
また、我が家の家訓として、自立してこそ一人前の人間であるという教えがあった。幼少期から結婚は厳しい現実のみであると言われていた。まずは経済的にも精神的にも自立して生きて行くことが先決であると教えられて育った。少女漫画の中に出て来る様な夢物語は一切見なかった。食卓でもそのような話題も出た事が無かった。
入院するにあたって持ち物リストを渡された。大浴場などなくシャワー室しかないために固形石鹸を持参する事が記載してあった。
私は大の入浴好きである。いつも全国各地の温泉の素を入れた浴槽に浸かってゆっくりするのが至福の時間だ。そして、薔薇の香りのするボディーソープで全身を洗う。髪の毛も良い香りのするシャンプーを使う。
しかし、今回の一週間の入院中は固形石鹸しか認められていない。私は、自宅の洗面所の引き出しの中に固形石鹸があるかどうか探した。歯ブラシや洗剤の中にようやく一つの固形石鹸を見つけた。それは、市販の牛乳石鹸であった。他に選択肢もなく時間もないために他の荷物に紛れて石鹸を入れて入院する流れになった。
現代の医療は進歩している。わずか三時間の腹腔鏡手術と、八日間の入院であった。
術後、摘出した複数の筋腫のある子宮・腫れあがった二つの卵巣・卵管全部をカラー写真で見せられた時、私は改めて自分の女性としての生き方を考えさせられた。私は、今回の手術によって、強制的に出産の機能を失った。しばらくの間、結婚願望が無かった私になんとも言い難い虚無感が襲ってきた。
手術翌日には、医師から痛くても歩くように促された。少なくとも一か月は腹痛に耐えなければならないと主治医に言われた時は、とても驚いた。私は、女性の体の仕組みについてあまりに無知だった。毎日、痛み止めを飲みながら腹痛に耐えて病院の廊下をよろよろと歩いた。夜中になると、心細くなり、涙があふれた。
術後二日目にようやくシャワー浴が認められた。私は、固形石鹸とタオルを握りしめてシャワー室に向かった。ある年配の女性が私に話しかけてきた。
「私は、四十代半ばの時と六十五歳になった今、両方の卵巣を失ったのよ。あなたは?」
私は、子宮全摘出の話をした。正直、想像以上の痛みが続いて心底疲弊していた。その時、想いもかけない言葉が私の耳に届いた。
「私は、入浴の時、石鹸で全身を洗いながら『今まで本当にご苦労様でした』と自分の体を労わって誉める事を習慣にしています。元気がでるわよ。あなたもやってみたら?」
私は、シャワーを浴びながらぎゅっと両手で体を抱きしめて、『今までよくがんばりました』と声に出した。柔らかい牛乳石鹸の香りは不思議と亡き祖母の匂いに似ていた。
幼い頃から、祖母と私は一緒の布団で朝まで抱き合って寝ていた。朝目が覚めた途端、祖母は私の顔を自分の顔にくっつけて『なんて可愛い子だ』と言って強く抱きしめた。私は、無償の愛を捧げて育ててくれた祖母の事が大好きであった。退院前日の夜、大きな光に包まれた祖母が笑顔で夢の中に出てきた。実に不思議な体験であった。
その後、結局、手術の後遺症が腸の機能に影響するために、数年単位で腹痛とも付き合っていかなければいけないと消化器内科の医師に言われた。この痛みにあと数年耐えるのかと思うとさすがに落ち込んだ。
今回の手術で、私のお腹には四つの傷跡が付いた。入浴後、腹部にある四つの傷を改めて鏡で見ると、出産を一度も経験しない人生を送ってきたのだと痛感させられた。本当に一人になったのだと思った。
しかし、医師に励まされながら、毎日の散歩を日課にするようになった。太陽の日を浴びて歩くととても清々しい気持ちになった。
週末は、図書館にパソコンを持ち込んで小説を執筆して、カラオケ屋で好きな歌を自由に歌うようになった。次第に体力もついてきてうまく気分転換を取れるようになった。痛みはあるものの、少しずつ生きる気力を取り戻した。
私には、二つの大きな夢がある。一つは、一人前の小説家になる事だ。念願の自費出版も済み、現在は、来年度の公募に向けて新たな大型ミステリー小説を執筆中である。
二つ目の夢は、宮城県気仙沼市の東日本大震災の被災地の復興支援活動に参加する事である。私は、震災時、前職の勤務先の気仙沼市で、悲惨な現実に直面した被災者の生きざまを見てきた。家を失い、家族を失う人々の涙を沢山見た。
私個人の小さな幸せを追求するのは、私の人生の目的ではない。自分を律し、小説家として大成する事、そしてなお困難を極める被災者の支援をする事が、私の女性としての覚悟である。残りの人生はこの夢を追う。
『子宮喪失』という体験をした私にしか書けない物語がきっとあるはずだ。今、私は、その二つの夢に向かってゆっくりと歩を進めている。必ず叶えてみせる。
夢を追う母さん
「子供は三人以上欲しいなあ」と思っていた。しかし現実はそんなに甘くはないのである。
結婚してすぐに、私と夫は妊活を始めた。しかし、自己流妊活を始めてから一年経っても、妊娠に至ることはなかった。私の心の闇はどんどん広がっていき、友人や芸能人の妊娠報告を聞いて、勝手に心を病ませていた。そのことを夫に言ってみると
「君がそんなことを思うなんて」と呆れられた。夫のことは今も昔も大好きだが、この時ばかりは、夫のことを少しだけ恨んだ。私は妊活沼にどっぷりハマって真面目になりすぎていたし、夫も妊娠するまでの経緯を甘く感じていたのだろう。つまり妊活への熱量の違い、ただそれだけのことである。
そしてなんとか一人目を出産してから二年後、二人目も無事に生まれた。そして三人目となるはずだった命もスムーズに授かることができた。三人目の心拍確認ができて、夫に報告するととても喜んでくれた。すごく幸せそうだった。そして私も心拍確認ができて、
「三人目も出産まであっという間だろうな」と生まれることが、さも当然のように感じていた。そんな私に急展開が起こる。
三人目妊娠、心拍確認後に行われた妊婦検診でのこと。いつものように主治医がエコー検査をしてくれていたのだが、いつもよりも検査の時間が長く、そして普段たくさん喋る主治医が無言だった。私は目の前にあるモニター(エコーの動画が映る)に目をやった。胎児はピクリとも動かない。その時点で、私は胎児が正常に育っていないことを察した。エコー検査を終え、診察室のイスに座り、主治医と向かい合う。そして
「胎児が大きくなっていません。心臓の動きも確認できません。つまり、流産と言えます」と主治医が言った。主治医は手元にあったティッシュボックスを私の方へと差し出した。私が泣くことを想定してである。しかし、私の目からは涙が一滴も出てこなかった。妊娠が継続できることは当たり前のことでもないし、エコー検査中に一人で存分に悲しんだので、もう十分だと思った。
流産して約一年し、私はまた流産した。このときも、エコー検査中に自分で気づき、主治医の前で泣くことはなかった。しかし、二回連続流産は、一回目の流産よりも落ち込み度合いがひどかったし、ずいぶん長い間モヤモヤしていた。そしてさらにその一年後、自分の誕生日を目前に控え、三度目の流産宣告。三度目となると、胎児を取り出す流産手術にも慣れてくる。それでも、やっぱり辛いものは辛い。また、三度連続流産すると『習慣流産』と呼ばれるようになり、不育症検査を受けることが推奨されるのだ。不育症検査に関しては健康保険でカバーされない範囲もあり、私の場合、不育症検査にかかる費用は十万円近く。私は不育症検査を受けるかどうか悩んだ。すでに生まれてくれた子供二人は、健やかに育ってくれているし、
「不育症検査に費やすお金があれば家族旅行だってできるじゃん。こんなことを考えられるってことは、もう無理に三人目を望まなくても」と感じた。夫も同意見だった。でも、私の頭の中では、やっぱり三人目への未練はあり、この文章を書いている現在も、三人目のことをふと考えることがある。ただ未練はあっても、私の人生が暗いままかというと決してそうではない。むしろ、流産前よりも輝けている。
三人目を流産してから、私は自分の人生についてよく考えるようになった。今まで『子沢山家庭のにぎやか母さん』をイメージして、人生設計をしていたが、どうやら自分は身体的にそうなれないようだ。では、私はどのように、これかの人生をイメージしていけばいいのか。
「このまま死んだらきっと後悔する」私はそう感じた。そして、そのことに気付いたとき、私は流産宣告を受けたときよりも、ずっとずっと怖くなった。後悔をしないための生き方を私は考えなければならなかった。そんなとき、一人目の子供が、
「僕は将来、考古学者になりたいんだ」と将来の夢を語ってくれた。輝かしい未来を夢見る子供の目はとても美しかった。そして子供の夢を応援しているうちに、私も自分の夢をまた追いかけだす。
私には子供の頃から叶えたい夢があり、それなりに勉強をしてきた。しかし、子供が生まれてから、自分の時間がほとんどなくなり、夢を追うことを一旦止めていた。夢を追うことができていない自分にがっかりし、夢を実現することを諦めかけていたことも。それでも夢を忘れずに、
「いつかまた」と思い続けられたことは、とても良いことだった。二人目の子供もそろそろ幼稚園へ入るし、三人目を持つことはもうできないかもしれない。そうなると、自由に使える時間が格段に増え、夢を叶えるための努力をまた始められる。私は
「今しかない。死ぬときに後悔しないためにも、夢を叶えてやろう!」と強く思い、そこから『夢追い母さん』にレベルアップをした。
夢を追うのは、何歳になってもとても楽しい。毎日が充実しており、生きている感覚をヒシヒシと感じられる。
「今日の自由時間はゆっくりスマホでもいじってダラダラしていたい」と思うことも正直ある。実際にダラダラすることへの誘惑に負ける日も。しかし、
「負け続ける日々はよろしくないぞ。夢は叶えるためにあるんだ」と自分を奮い立たせ、しっかりと夢を叶えるために進むことができている。学生時代に夢を追っていたときよりも、今の方がずいぶんと真剣に夢と向き合っているし、実現への進捗もなかなか良い。
「自信を持って生きていくこと」はとても大切だと知ってはいるが、実際は難しいこと。学生時代の私はとても地味で、成績優秀な子や友達が多い子を見て、羨ましさという妬ましさを感じていた。習い事も長年取り組んできたのにも関わらず、周りの子の方がどんどん上手になっていく。そういうわけで、私は自信を持てずに若い日々を過ごしたわけだ。しかし、三十歳オーバーになった今、私は自分に自信を持てている。それは間違いなく、三度目の流産がきっかけ。三度の流産を通して、私の心は深く傷つき、いつの間にか自分の未来を否定することもあった。しかし、辛い辛い流産をバネにして、私は今の自分をやっと認められるようになった。私は今、スーパーポジティブに生きている。
私が叶えたい夢は、なりたい人が多いにも関わらず、狭き門をくぐり抜けていかなければならない。それゆえ、叶えられる人よりも、挫折してしまう人が多いだろうことも知っている。しかし、私は人生が終わるその瞬間に、後悔は絶対にしたくない。だから、私は夢を叶えるために、これかも進み続けていく。きっとそれは、自分が自分であるために、必要不可欠なことに違いないのだ。
「人生が変わった瞬間」から、また「人生が変わった瞬間」へ
鏡に映る自分の手を眺め、私はそっとつぶやく。
節くれだった指の関節、血管の浮き出た手の甲。
それは三十四年間、休むことなく誰かの肌に触れ続けてきた証だ。
私はもうすぐ六十五歳になる。
熊本の自宅で小さなエステサロンを営む、現役のエステティシャンである。
私のサロン人生が産声を上げたのは、今から三十四年前のことだった。
当時の私は、幼稚園に通う六歳の長男と四歳の長女を育てる、ごく一般的な主婦。子供服を手作りしては委託販売に持っていき、近所の蕎麦屋でパートをこなす。
そんなささやかで穏やかな日常の中にいた。
転機は、当時の夫が放った唐突な一言だった。
「オマエがしてくれんや?」
いささか乱暴な、言葉の荒い彼らしい頼み方だった。事業の一環として扱っていた補正下着の販売を、独立して自分たちの手で行いたいという。
女性相手の実務を自分はできないから、お前がやってくれ、と。
「店を持ちたい、商売をしたい」
そんな漠然とした夢は持っていた。
しかし、いざ目の前に道が現れると、足がすくんだ。
家業を背負うということは、私が失敗すれば家族が路頭に迷うということだ。
幼稚園から帰る子供を迎えに行き、夕飯を囲む――そんな当たり前の「母としての幸せ」が失われてしまうのではないか。
激しい葛藤の末、私は「これも運命かもしれない」と一歩を踏み出す決意をした。
これが、私の最初の「人生が変わった瞬間」だった。
当初は補正下着の販売から始まったが、お客様と接するうちに、女性たちの切実な願いが聞こえてきた。
「綺麗になりたい」「痩せて自分を変えたい」「彼氏が欲しい」。
彼女たちの想いに応えたい一心で、私は未知の世界へ飛び込んだ。
リンパマッサージ、インドエステ、アロマテラピー。暇を見つけては講習に通い、技術を習得した。
私の手は、プロとして働くには小さすぎた。
しかし、そのハンデを埋めるために、指先の角度、圧の加え方、密着させる面積など、文字通り血の滲むような自己研鑽を重ねた。解剖学や人間工学の本を読み漁り、新しい脱毛機を導入する際は、まず自分の体で一年かけて効果を確かめた。
「人に触れる」ということが、心底好きだったのだ。お客様の肌が、私の手を通じて柔らかく解きほぐされていく。その感覚が、何よりの喜びだった。
店舗は増え、スタッフも八人を数えるまでになった。
しかし、華やかな成功の裏側で、私生活の歯車は音を立てて狂い始めていた。
夫は財務管理を握り、私の給料は月五万円。
家業だからと自分に言い聞かせたが、実態は違った。彼の長年にわたる浮気、子供への暴力、そして多額の借金。気づいた時には、自宅マンションは差し押さえられ、私たちは住む場所さえ失おうとしていた。
どん底だった。離婚を決意し、子供たちを連れて借家へ移り住んだ。
「お母さんのせいで、可哀想な思いをさせてごめんね」
今でもその時期を思い出すと、胸が締め付けられる。
けれど、私には立ち止まる自由さえなかった。一人のスタッフと、私を信じて通い続けてくださるお客様がいる。
他の仕事など考えられなかった。
その後、協力者を得て新店舗を出すも、今度はその男性からの暴力にさらされる。
私はまた、逃げるようにして家を出た。
「今度こそ、たった一人で歩いていく」
そう決めて拠点に移したのが、今のアパートの一室だ。
華やかな看板はない。
けれど、そこには私が一番大切にしたかった「エステティックの基本」があった。
オールハンドのリンパマッサージと、心を込めたフェイシャル。
宣伝もせず、場所も変わったというのに、お客様は変わらず私を探して訪ねてきてくださった。
しかし、ようやく手に入れた静かな日常を、運命はまたも翻弄する。
熊本地震。街の動きが止まり、日常が崩れた。
そのわずか二ヶ月後、私に乳がんが見つかった。
「死」という言葉が、すぐ隣に座っているような恐怖。
仕事ができなくなるという危機感。
追い打ちをかけるようにコロナ禍が襲い、さらに子宮がんの疑いで子宮を摘出。
極めつけは、信じていた人からの詐欺被害だった。頑張って稼いでいたお金が、一瞬で消えていった。
「私はどれだけの宿業を背負って生きているのだろう」
眠れない夜、暗い天井を眺めては問いかけた。神様に見放されたのではないか。もう、頑張り続ける気力が残っていないのではないか。
そんなある日のことだ。
長年通ってくださっているお客様に、ふと弱音をこぼしてしまった。
「私はこんなに必死に働いてきたとに、結局、形に残せるものはなぁんもなかったです」
すると、その方は私の目を見て、静かに、けれど力強くおっしゃった。
「何ば言いよるとね。立派に育った子供さんも、お孫さんもおって。こうして私たちが通い続けとる。それで充分だろたい」
その瞬間、目から鱗が落ちるような感覚と共に、涙が溢れて止まらなくなった。
お客様の前で声を上げて泣いた。
そうだ、私は独りではなかった。
どんな時もそばにいてくれた子供たち。
私の技術を必要としてくれるお客様。
何も残せていないなんて、なんて忙しない思い込みだったのだろう。
私はこんなにも多くの愛に生かされていたのだ。
現在は、かつての無理が祟ってか、手首や指の関節が悲鳴を上げることがある。
定期的に病院へ通い、注射を打って痛みを抑えながらの施術だ。
それでも、ベッドにお客様が横たわり、私がその肌に触れた瞬間、痛みはどこかへ消えていく。
私の小さな手から伝わる温もりが、誰かの疲れを癒やし、明日への活力になる。
それ以上に尊い仕事が、私にとって他にあるだろうか。
こうして振り返ってみると、あの三十四年前の決断から、私の人生はずっと変わり続けてきた。
迷い、苦しみ、遠回りもしたけれど、その全てが今の私の「手」を作っている。
新たな気持ちで前に進み、これからも素晴らしいエステティシャンとして一生続けていくと強く心に誓った。
これが私の「人生がまた変わった瞬間」である。
六十五歳のエステティシャン
趣味と実益兼ねている
幸せなことと励まして
小さい身体と細い指
お客様には全身全霊
今日も行きつけ病院で
手首と指に注射をし
頑張ろうねと柔らかく
愛いっぱいの
手と手合わせる
ゴッドハンドと口コミに
書いてもらえて有難い
神の手持つと言われるならば
仏様も味方でしょう
母と離婚と進化と@娘目線
うちのお母さんは離婚してから自由になった。
髪の毛染めたり、ショートにしたり、前髪作ったり、今まで着なかったような服も着ている。
今まで気にもとめなかったが、これは父の言葉で発覚した事実であった。
父は私に得意げに「あいつの服はなー、俺が全部選んでたんだよ!髪の毛も伸ばせって言ってな!」と言った。ガハハ!と笑っているが、私はドン引きしていた。
今までのお母さんの格好は、お母さん自身が選んだものだと思っていたからだ。違ったのか。衝撃的すぎて開いた口が塞がらなかった。
たしかに、離婚前の写真に写っているお母さんの姿はいつだって父の好みそのものだ。
ロングヘア、少しピタッとした大人っぽい服、メイクもしっかりしている。
こういうところがあるからお母さんも離婚したんだな……。としみじみ思いながら父の自慢(?)話を右から左に受け流し、帰宅。
当然お母さんに今聞いた話を言えるわけもなく。疲労困憊気味の私はお母さんの姿をまじまじと見た。
うーん、自由になっている。
父と結婚したままだったらしないであろうベリーショート、金髪、ツーブロック、好きなバンドのバンT。
私はとてつもなく安心したのを覚えている。お母さんは呪縛から解き放たれたのだなー!と。
人生において、人間は異性と関わって進化することが多いと思う。
恋愛や結婚、妊娠出産もそうだし、仕事や私生活においても違う考えを受けて自分の考えが変化することだってある。
しかし、それは時に人間の進化を止め、退化させることすらできる呪縛となりうる。
うちの父がそうだったように。
離婚した理由はもちろんこれだけじゃないだろうし、もっともっと嫌なところ、不安なところはあったのだと思う。
が、私はこれ一つでもドン引きしているのでお母さんの今までの苦労を思うと……。長めのため息が出てしまう。
さて、ここまで書いてきて何が言いたいかと言うと、離婚は最悪の選択肢ではない、ということだ。
私は現在21歳。10年前、3ヶ月間毎日怒鳴り合いの夫婦喧嘩を聞いてたし、いよいよ離婚を告げられた時は泣いて両親を責めたが、今となってはこの感じである。
このサイトでエッセイを読む人は、家庭で悩んでいること、私生活で悩んでいることがある人が多いのかもしれない。
だからこそ私は声を大にして言いたい。
親が両方がいなきゃ、ってことないよ!!!
確かに最初は寂しい。今まで一緒に住んでた大好きな父がいないなんて、と思うこともあった。
でもそれも最初のうちで、いないことにも慣れるし、なにより悩んでる間のどんよりした空気感が消えサッパリしたお母さんの雰囲気は何にも変え難い。
安心、という言葉がいちばん近いと思う。
悶々と暗い顔をしているお母さんを見るのが、正直いちばん不安になる。
子供ながらに空気や顔の表情で何かと察知するもので、話しかけちゃダメなのかな?と感じる子供もいれば、私が元気づけなきゃ!と話しまくる子供もいると思う。(私は前者も後者もやったのでよく分かる。)
ご飯は外食だっていいし、昨日の残り物でも誰も怒らない。お母さんが明るい顔で今日起きたことを聞いてくれる食卓がいちばん嬉しい。
私は育ててもらった側なので、支援制度がどうとかは正直分からない。市区町村によっても違うだろう。
繰り返しになるが、とにかく言えるのは、お母さんの明るい顔がなによりも安心するということ。
全てのお母さんが幸せになって、全ての子供たちが不安を感じずに楽しくスクスクと育ってくれよー、と思う。
お母さん。大丈夫です。子供って案外育ちます。だから、優しい顔で見守ってね。
わたしはまだ、終われない――名前はママ
親に捨てられた赤子の孫を引き取り、子どもとして育ててきた。
あれから七年。
その子はこの春、やんちゃな小学三年生になる。
一歳半のとき、その子の首には絞められた跡があり、自力で座る力もなく崩れ、目は虚ろだった。
抱き上げても泣かず、笑わず、ただ生きているだけのように見えた。
その一年半後、白血病を宣告された。
ようやく、表情も出てきて、笑顔を見せてくれたのに。
生まれて三年。
何のために生まれてきたのか。
そう思った瞬間、涙が止まらなかった。
一年半の入院生活が始まった。
過酷な治療。
点滴の管。
繰り返される検査。
見ているこちらが耐えられなくなるほどの日々だった。
長い入院生活により、仕事を辞めざるを得なくなった。
生活費の悩みも、覆いかぶさるように重なってきた。
どこまで試練を与えるのか、と何度も思った。
よく「人は乗り越えられる試練しか与えられない」と言うけれど、その言葉を素直に受け取れる余裕はなかった。
シングルマザーとして必死に働き、子どもたちもようやく手が離れ、自分自身に「よくやってきた」と思えた、その矢先だった。
それでも、その子から出てくるものは、いつも笑顔だった。
屈託のない笑顔。
本当に病気なのかと疑うほどの、やんちゃぶり。
病室を走ろうとし、叱られ、また笑う。
痛みを知っているはずなのに、その子は重たいものを背負っていなかった。
そして、退院を目前にした頃。
自閉症だと告げられた。
正直、驚く余裕もなかった。
乗り越えたと思ったところに、また新しい現実が置かれたようだった。
それでもその子は変わらない。
笑い、走り、怒り、泣く。
ただ、そのまま生きていた。
私は祖母である。
けれど、その子の中で、私は母親だった。
あの子の口から出る言葉は「ママ」。
訂正することは、一度もしなかった。
母としての覚悟はある。
しかし、学校の先生や、友達のお母さん方に「お母さん」と呼ばれるたびに、心のどこかで問いが浮かぶ。
本当にこれでいいのか。
この子にとって、これが正解なのかと。
それでも——。
「ママ、大好き」
そう言って抱きしめてくる小さな体。
腕の中で見せる、何の曇りもない笑顔。
その瞬間、これまでどこかで思っていた「いつ死んでもいい」という気持ちは、消えていった。
長く生きたい。
生きなければならない、と思うようになった。
「ママも大好きよ。愛してる」
そう言って抱きしめ返し、頬にキスをする。
そのときに見せる、あの子の表情が、たまらなく愛おしい。
私は五十三年生きてきた。
それなりに苦労もしてきたつもりだったが、この子の前では、自分の人生経験など何の役にも立たなかった。
守るべき存在を前にして、正解も希望も分からなかった。
それでも、負けじと笑って生きた。
泣いている場合ではなかった。
この子の世界に、影を落としたくなかった。
時間は進み、その子は生き延びた。
今では言うことも聞かず、口も達者で、毎日が騒がしい。
静かだったあの頃の面影は、もうほとんどない。
せめて、この子が立派に成人するまでは。
そう思いながら生きていた、その矢先。
今度は私が、乳がんを宣告された。
再び、心に影が落ちた。
この子を残していくかもしれない恐怖。
自分の命よりも、そのことの方が怖かった。
それでも今日も、やんちゃな二年生の背中を見送りながら思う。
この子が生きている理由を、私は答えなくていい。
生き抜いている姿そのものが、もう答えなのだと。
五十三年の人生の中で、一番長く、濃い八年。
未来のことは分からない。
それでも私は、生きる。
この子の「ママ」として。
引き出された決断
このまま、ここにいるべきか。それとも新しい地に行くべきか。
私は、地元が好きだ。
本命の東北地方の就職試験前、力試しに関東の試験を受けた。試験会場が地元であった。
結果、関東の試験のみ受かってしまった。
地元しか考えていなかった私は、衝撃を受けた。一緒に同じ試験を受けた友人の中で、あろうことか私だけ。さて、どうしよう。
私は自分で言うのも何だが、地元愛に溢れており、ずっとここで生きていくと信じて疑わなかった。見ず知らずの土地。違う場所へ踏み出すことなど、到底予定になかった私である。
だが、この事実を真摯に受け止め、決断しなくてはならない。
私は、迫り来る期限の中、信頼できる友人、人生の先輩方に相談することにした。
二者択一。
一つは、その当時、行っていたアルバイトにて、貴重な経験をさせてもらっていたこともあり、このまま継続し、翌年の地元の試験に再度チャレンジするという道。
そしてもう一つ。関東の地に行く、という選択。私は、保育士として、保育園で仕事がしたいと思っていた。
友人たちは、私のことを心配し、ここに残った方が良い。何も、知らない所に行かなくとも、長い人生なのだから、ここで次のチャンスを頑張れば良い、と。
一方、私の新たな世界に、背中を押してくれるべく、せっかくだから行ってみる方が良い。
行ってみてから考えればいいんじゃない?と、言ってくれる人も。
先輩方は、保育士はあなたの夢なのだから、せっかくのチャンスを活かした方が良い、と。
私は、どう決めれば良いのかわからず、連日のように様々な人に話を聴いてもらい、アドバイスを受けた。もちろん、一人一人、考え方はそれぞれである。私のことを思い、考え、時間を割いてもらったこと、本当に感謝している。
家でも、夕食時に涙が出ることもあった。「そんなに嫌ならやめればいいんじゃない?」と、母。その通りである。なかなか決められない自分に焦りも感じていた。
そして、ある日、いつものように友人たちと話をしていた、その時。
一瞬、友人たちの声が耳に入らなくなった。
もちろん、話を聴いていないわけではない。自分のために話をしてくれていたのだから。
しかし、言葉が入ってこない。自分の中で一瞬の静けさがあった。
「行ってみよう。」心の声が呟いた。
自分の中で、何が起こったのか?友人の言葉に反応したわけではなく、共感したということでもない。たくさんの人の話を聴けたから、気が済んだのか?明確に決め手となる言葉があったからでも、劇的に何かが起こったということでもない。
ただ、確かなことは、自分自身が、あの瞬間に「納得」できたということなのだと思った。
それ以降、決心が揺らぐことはなく、心は変わらなかった。
あれから、41年。
定年退職まで、私は子育てをしながら、保育士の仕事を続けてきた。
もちろん、地元が大切であることに何の変わりもない。ずっと心配してくれていた友人たちは、今でもとても大切な存在である。
と、同時に、関東の地で、多くの人に助けられ、たくさんのご縁に恵まれた。
初めての就職先の保育園の園長先生が、私の地元に縁のある方だったということも、奇跡的であった。
人生は決断の連続である。振り返ってみないと、その時の判断がどうだったのかはわからない。しかし、その時々に悩み苦しみ、出した答えを最善の道と信じ、進んできた。
大切なのは、決めた後で、どう頑張るか。ということなのかもしれない。
あの時、答えが出た瞬間、「納得」に辿り着けたのは、話を聴いてくれた、たくさんの友人方のおかげである。
話を聴いてもらうこと。それは、安心感の中で自分の答えが整理され、明らかになっていくことだと思う。話を聴いてもらうことで、もしかしたら、自分では気づいていない心の深いところにある言葉を、引き出せるようになるのかもしれない。
それまで話を聴いてくださった多くの方々に、あの決断を引き出してくれたことを、心から
感謝している。
あの「納得」があったからこそ、新たな一歩を踏み出す勇気に繋がり、これまで続けてくることができた。
聴いてもらうことの凄さを、今でも感じている。
私は最後の十数年、園長として子どもたちや親御さん方、職員の方々と接する中で、できる限りではあるが、「聴く」ことを大切に時間を費やしてきた。
「聴いてもらうこと」が、自分の中の「納得」に繋がることを信じて。
私自身の経験、実感したことが、少しでも、どなたかの力になっていれば嬉しい。
捨てた時間と動き始めた時間
講師になる前、配属先を決める場面で言われた。
「うちで習っていた子だから、うちの先生になってもらうように希望を出しておいた」
その言葉を信じ、十年以上働いた。
復職の三か月前、人事担当者から電話があった。復職後は別の楽器店に行ってほしいと言われた。理由を求め、話し合いの場が設けられた。
人事は「店長がそう言った」と言い、店長は「人事が決めたこと」と言った。二者で責任を押し付け合っていた。
——こんなところに戻れば、また捨てられる。
産休明け、本来なら元の教室に戻るはずだった。だが当時、二人の子育てをしながら働く講師はいなかった。
“子どもの創造性を育む”と掲げる教室が、二人の子育てを認めなかった。矛盾だった。
さらに本店の奥さんには
「2人も子どもがいて何言ってるの!!」
と信じがたい言葉を投げつけられた。
——私の子どもを否定された。
放心状態になった。
その数日後、勤続十年の記念として金の置き時計が送られてきた。箱は開けなかった。背面には「十年勤続記念 楽器店名 私の名前」と刻まれているらしい。
見るたびに過去に引き戻されると思い、婦人会のバザーに出した。
時計を手放したあと、生徒の家に一軒一軒電話をかけ、「戻れないかもしれない」と伝えた。泣いてくれる生徒も母親もいた。
講師仲間も集まってくれた。ある父兄は「労基に訴えましょう」と怒った。仲間が弁護士に相談してくれたが、返ってきた答えは冷たかった。
「あなたたちは個人事業主です。使う側が“要らない”と言えば、それで終わりです」
その瞬間、私は守られていなかったことを理解した。“人”ではなく“駒”として扱われていた。
その日を境に音を閉じた。鍵盤に触れられなくなった。音が胸に刺さり、音楽を聴きたくなかった。無音の世界に行くことを選んだ。
それでも生活は続く。いくつかの紹介で新しい教室へ移り、淡々とレッスンをしていた。音は出せても、心はまだ戻っていなかった。
そんなある日、家の電話が鳴った。前の教室で年少の頃から教えていた生徒からだった。まだ携帯が一般的ではない時代。辞めた先生の自宅に電話をかけるのは勇気がいったはずだ。
「進路の相談がしたいんです」
その声を聞いた瞬間、悟った。——この子は本気だ。
彼女は短大進学が決まっていた。私のように講師養成校には進めない。それでも「鍵盤の先生になりたい」と言った。
私は、かつての先輩講師にお願いした。音大近くで自宅教室を開き、何人もの講師を育ててきた人だ。
「本気なら、この先生のところに通いなさい。できる?」
「絶対にやる」
私は、彼女を先輩講師に託した。
短大に通いながら、ピアノと楽典を学び直し、エレクトーンはこれまでの経験をさらに深めていった。努力は裏切らない。卒業後、彼女は個人レッスン講師として夢を叶えた。
その後も「生徒への声かけはこれでいいですか」「音大卒じゃないことを聞かれたらどう答えればいいですか」と事あるごとに電話をくれた。
そのたびに思い出していた。——講師になった頃から抱いていた願いを。
誰かの人生に影響をもたらす存在になりたい。
その願いは、私が音を閉じていた時期でさえ、静かに叶っていた。
私は今も音楽を教えている。61歳になった今も鍵盤の前に座り続けている。あの頃生まれた二人目の子どもが、来月母になる。
捨てた時間
それでも時間は続いて行った。
予定外から、人生は変わった
ずっと「ちゃんとした大人」になりたかった。努力して、いい会社に入り、結果を出し、社会に認められる人間に。そのスタートラインに、ようやく立てたと思っていた。だから、同時に始まったもう一つの現実に、戸惑った。「これから私はちゃんと働けるのだろうか」「周囲に迷惑をかけるのではないか」「せっかくつかんだキャリアを、自分で手放すことになるのではないか」仕事を頑張りたい自分と、お腹の中の命を守りたい自分。どちらも本当の気持ちなのに、どちらかを選ばなければいけないような気がした。当時の私にとって、女性であることは、そのまま「リスク」のように感じられた。私は社会に出る前から、すでに周囲に対して「申し訳なさ」を抱えていた。妊娠を会社に伝えたとき、「教えてくれてありがとう」「まずは、体を一番に考えよう」「どうやったら続けられるか、一緒に考えよう」と言ってもらった。その言葉に、私は救われた。
実際に入社してから、オフィスにいられる時間が短くても、先輩はきちんとフィードバックをくれた。「この部分、すごくいいね」「ここはもう一歩踏み込めると思う」限られた時間の中でも、どうすれば仕事を前に進められるかを一緒に考えてくれた。育児のために夕方には退社し、残った仕事は自宅で進める。「無理しなくていい」ではなく、「どうやったらできるか」を前提に話してくれる環境だった。それでも、うまく前を向けない日もあった。会議室から聞こえてくる議論の熱量に、私は保育園のお迎えの時間を気にして、何度も時計を見ていた。誰かが「もう一度ここ整理しよう」と言うたびに、心のどこかで「あと何分だろう」と考えている自分がいた。その場にいながら、同じ場所に立てていないような感覚だった。「本当は、もっとやれるのに」「でも今はできない」その二つの気持ちが、ずっと心の中でぶつかっていた。同期が軽やかに成果を出していく姿を見て、素直に喜べない自分が嫌だった。「おめでとう」と言いながら、心の奥では焦っている自分がいた。焦りと、悔しさと、ほんの少しの諦め。それが混ざり合ったような感情を、誰にも言えずに抱えていた。時には、「私はここにいていいのだろうか」と思うことさえあった。
そんなある日、先輩にぽつりと悩みをこぼした。「なかなか思うように仕事ができなくて、皆さんにも迷惑をかけてばかりで」すると彼女は、少し笑ってこう言った。「できてないんじゃなくて、やり方が違うだけだよ」「今の条件で、ちゃんと前に進んでる」「それって、簡単なことじゃない」その言葉は、思っていたよりもずっと深く、私の中に残った。それまで私は、結果を出す場所はどこか冷たいものだと思っていた。でも本当は違った。誰かを切り離すのではなく、その人が続けていける形を一緒に探す。そうやって、隣に立ち続けてくれる人がいる。そのことに、私は救われた。
妊娠が分かったあの日、私は自分のキャリアが中断されたのだと思った。けれど今は違う。あれは中断ではなかった。「仕事をすること」「成長すること」「支え合うこと」その意味を、最初から考え直すための始まりだったのだ。あのとき何の迷いもなく、思い描いた通りに進んでいたら、私は「働ける人が働けばいい」と思っていたかもしれない。でも、自分が不安の中にいたからこそ、見えるようになったものがある。事情を抱えながら働く人の気持ち。誰もがそれぞれ大切なものを抱えているという事実。そして、それを尊重し合うことが、強い組織や社会をつくるのだということ。
そして、もう一つ気づいたことがある。女性は、何かを得るとき、同時に何かを諦めているように感じてしまう。「キャリアを取るか」「家庭を取るか」そんな問いを、どこかで突きつけられる。でも本当は違うのかもしれない。どちらかを失っているのではなく、ただ違う形で積み上げているだけなのだ。女性として生きるということは、ときに選択を迫られることでもある。祝福されるはずの出来事に戸惑ったあの日の違和感は、その現実を突きつけるものだった。けれど同時に、自分の人生をどう生きるかを考えるきっかけでもあった。もし今、同じように立ち止まっている人がいるなら、伝えたい。予定通りに進めなかったことを、「失敗」だと思わないでほしい。その出来事は、あなたの人生を止めるものではなく、あなたにしか持てない視点を与えるものだから。女性であることは、ハンデではない。ただ、少しだけ考えることが多いだけだ。そしてその分だけ、誰かに寄り添える強さを持てる。あのときの私は、「遅れてしまった」と思っていた。でも今は違う。私は、少し違う道から、ちゃんと前に進んでいたのだと。
先日、小学校に上がった娘と手をつないで歩いていると「将来はママみたいに、お仕事する人になりたい」と言われた。「そうなの?」と聞き返すと、娘は「うん、わたしもスーツ着て、いっぱいお仕事したい」と言った。あのとき、迷いながら選んだこの道。それでも、この手のぬくもりを感じながら、自分の選んだ道を正解にできるように、これからも真っ直ぐ人生を生きていきたい。
失った先で、もう一度出会えたもの
15歳の冬、私は骨肉腫と診断された。
それまで健康だけが取り柄だった私にとって、「癌」という言葉は遠い世界のものだった。
「バスケは続けられますか?」
診察室でそう尋ねた私に、医師は静かに首を振った。
その瞬間、初めて涙があふれた。
大好きだったバスケットボールが、私の人生から消えた。
手術、抗がん剤、放射線治療。
気づけば、歩くことも、走ることも、跳ぶこともできなくなっていた。
ベッドの上で、天井を見つめる時間が増えた。
何もしていないのに時間だけが過ぎていく。
友達は学校へ行き、部活をして、当たり前の日常を過ごしているのに、
自分だけが取り残されているような感覚だった。
生きたいのに、もう終わりにしたいと思ってしまう日々。
それでも時間は止まらず、私は生きるしかなかった。
一年三か月後、私は一つ下の学年で高校に入学した。
装具をつけた足、ウィッグの下の頭。
何もかもが以前とは違っていた。
そんな私に、バスケ部の仲間が声をかけてくれた。
「マネージャーやらない?」
最初は断った。
コートに立てない現実を突きつけられるのが怖かったからだ。
それでも何度も誘ってくれたその優しさに背中を押され、私は体育館のドアを開けた。
ボールの音、バッシュの音。
懐かしい空間に立ったとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。
走れなくても、ここにいていいんだ、と。
けれど、コートの外から見る景色はやはり遠かった。
バスケが好きな気持ちは消えないのに、自分はもうプレーできない。
そんなある日、先生が言った。
「車いすバスケットボールって知ってるか?」
その言葉に導かれるように、私は地元のチームの練習に足を運んだ。
体育館に響くのは、ボールの音と、車いす同士がぶつかる金属音。
今までとは違う景色に、少し戸惑いながらコートに入った。
最初は、何もできなかった。
シュートは届かず、思うように動けない。
腕だけで体を支え、車いすを操作することの難しさに何度も心が折れそうになった。
それでも、ある日。
少し助走をつけて放ったボールが、ふわりとリングを通った。
その瞬間、胸の奥にしまい込んでいた感情があふれ出した。
――バスケが、好きだ。
失ったと思っていたものが、形を変えて目の前に戻ってきた瞬間だった。
それから私は、夢中で練習した。
手のひらにできた豆がつぶれても、
思うようにプレーできず悔しくて涙が出ても、
それでもコートに立つことをやめなかった。
そして競技を始めて3年後、私は日本代表のユニフォームを着ていた。
あのとき遠くに感じていたコートの中に、
今、自分が立っている。
日の丸を背負いプレーしている現実が、信じられなかった。
止まっていた時間が、再び動き出した。
あのとき、「車いすバスケットボール」という言葉に出会わなければ、
私はきっと、自分の人生を諦めたままだったと思う。
失ったものは確かに大きい。
それでも、その後も何度も困難に直面しながら、
あの出会いがあったからこそ、私はそのたびに前を向くことができた。
そして今、私は母になった。
あの日、もう終わったと思った人生は、
誰かの未来を守るために、続いていたのだと思う。
人は、どんな状況からでも、もう一度人生を動かすことができる。
だから私は今日も、自分の人生を、自分の力で進めていく。
あの日、もう一度バスケットボールに出会えた、あの瞬間のように。
杖を手放した日
四十歳のとき、私は右大腿骨を骨折した。それまで当たり前にできていた「歩く」という行為が、突然できなくなった。車椅子生活が始まり、自分の足で移動できない日々に、不安と不自由さを痛感した。やがてリハビリが始まり、私は車椅子から杖へと移った。一歩踏み出すたびに、足に意識を集中させる。転ばないように、慎重に、ゆっくりと。
ただ歩くだけのことが、こんなにも難しいのかと思った。それでも少しずつ歩けるようになり、日常が戻ってきたように感じた。
けれど同時に、私は杖がないと不安になっていた。杖があれば安心できる。杖がなければ、転んでしまう気がする。本当はもう歩けるのに、心がそれを許さなかった。
ある日、思い切って杖を持たずに歩いてみた。
怖かった。けれど、一歩踏み出してみると、意外にも身体は覚えていた。数歩進んでも、倒れなかった。その瞬間、ふっと視界が広がった気がした。「杖がなくても歩ける」そう実感したとき、見える景色が変わった。
それは、身体のことだけではなかった。
私はこれまで、ずっと他人を優先して生きてきた。相手にどう思われるかを気にして、自分の気持ちは後回しにする。頼まれれば断れず、期待に応えようと無理をする。そうしていれば、うまくやっていけると思っていた。
でも、本当は違った。
私は「他人軸」という杖に、寄りかかっていただけだったのだと思う。誰かに合わせることで、自分を保っていた。嫌われないようにすることで、安心していた。けれどそれは、自分で立つことから逃げていただけだったのかもしれない。
そんなとき、私はカウンセリングを受けた。
そこで言われたのは、「その杖は、いつか手放してもいいものですよ」という言葉だった。
最初は意味がわからなかった。けれど、骨折して杖を手放したときの感覚と重なった。あのときも私は、「杖がないと歩けない」と思い込んでいた。でも実際は、もう歩けていた。心も同じなのかもしれないと思った。
それから私は、自分に対する向き合い方を変えていった。
まず、自分に「ありがとう」と言うことから始めた。
起きられたこと。
仕事に行けたこと。
今日一日を過ごせたこと。
当たり前だと思っていたことに、ひとつずつ目を向けていく。できなかったことではなく、できたことに目を向ける。それを繰り返していくうちに、自分にバツをつけることが減っていった。少しずつ、「これでいい」と思えるようになっていった。そしてある日、気づいた。私はもう、「他人軸」という杖に頼らなくても立てているのではないか、と。怖さはあった。けれど、あのときと同じように、一歩踏み出してみた。
自分の気持ちを優先してみる。
無理なことは無理だと言ってみる。
すると、不思議と大きく崩れることはなかった。
それどころか、心は前よりも軽くなっていた。誰かに寄りかからなくても、自分で立っていられる。そう思えたとき、また少し世界が広がった。
杖は、支えになる。
でもそれは、ずっと持ち続けるものではないのかもしれない。必要なときに使い、そして手放していくもの。あの日、私は身体の杖を手放した。そしてその後、心の杖も手放した。
自分の足で立ち、自分の意思で歩いていく。
それは怖さもあるけれど、確かな自由でもある。
あのとき見えた景色は、今でも忘れられない。
私はこれからも、自分の足で歩いていく。
今を生きる
2013年7月13日19歳、大学2回生の時、生死に関わる交通事故に遭った。頸椎を損傷し呼吸障害、四肢麻痺、自発呼吸は無く自律神経も麻痺しており、首から下は全く動かすことができず感覚も無い。生きているのが珍しいと言われたが交通事故によるダメージは心身共に大きく、バドミントンに没頭していた彼女の思い描いていたであろう生活は大きく変わった。9カ月の入院を経て、自宅での生活を始めたが、直面することは初めてのことばかりで、先の見えないスタートとなった。自宅ではベッド上で過ごし、外出は車椅子で移動をし、自発呼吸がないので、人工呼吸器を使用しての生活をしている。
立ちはだかる現実に目を向けながら、前に進んで行きたい。突破口はあるはずだと思い13年の月日を彼女と共に歩んでいる。
最初に取り組んだのが、大学への復学だった。事故当初は、大学へ戻ることは難しいだろうと思っていたが、主治医の「大学へ戻りましょう。」という言葉と、熱心に「復学しましょう。」と関わってくださった基礎ゼミの先生の後押しもあり、復学という目標を持った。目標を持っても一方通行では成立しない。まず、受け入れてもらえるかが大きな問題だったが、学校側が彼女の「卒業したい」という意思を確認され、大学の手厚いサポート体制のもと少しずつ復学に向けて前に進んでいった。授業の受け方、サポートの方法、介助者についてなど、復学すると決めてから5ヶ月しか無かったので慌しい日々が過ぎていった。
私たちにとって一番大きな問題は、通学方法だった。大学が遠方だったので1人暮らしをしていたが、事故に遭うまでの生活に戻ることは不可能で、片道3時間公共交通を使って通学することにした。1週間に2日、1日2コマ授業を受けることからのスタートだった。通学の道のりは、簡単なものではなかった。公共交通を利用して車椅子での外出も、覚悟はしていたものの心身に与える影響は大きく、道中、彼女は「帰りたい。」「辞めたい。」と、何度涙を流したことだろう。その都度私は、「決して無駄にはならんよ。」と声をかけたが、正直、この選択が正しいのか不安で押しつぶされそうになることもあった。私自身も、介助者として全くの初心者だったので、今振り返ると、この通学は私たちにとって現在の生活の大きな糧となっていることは間違いない。
通学にも慣れてきた頃、駅のホームで彼女が言った。「単位数としんどさと割に合わん。」「学校の近くに住もうか。」彼女の前向きな言葉を受け止め、2年目からは、自宅と大学近くのマンションとの二重生活を始めた。自宅から大学まで車で週に2往復し、マンションでもヘルパーさんに手伝ってもらいながら生活した。新しい一歩を踏み出すには、かなりのエネルギーが必要になるが、そのエネルギーは、大学卒業という大きな目標の達成に繋がった。勿論、とてつもない彼女の努力と、多くの人の協力があってこそだが、復学して3年で卒業証書を手にすることができた。この3年の大学生活は、卒業の喜びと共に私たち親子にとってどんな事でも乗り越えられそうな経験となった。
大学を卒業し、次に取り組んだのが就職活動だった。障害を持っての就労がどれだけ大変か計り知れないが、病院に入院中に、理学療法士の先生からパソコンを口で操作する口マウスがあることを教えてもらい、大学のレポートやテスト、卒業論文なども全てクリアし、パソコンは使いこなしていたので、彼女ができることを最大限に発揮し仕事に繋がればと就労プロジェクトを進めた。
いろんな情報にアンテナを張っている中、県が主催する在宅ワークセミナーの記事を見つけ研修に参加した。研修では、在宅ワークの基礎知識理解、体験談、またスタートアップセミナーでは在宅トレーニングを受けた。在宅ワーカーと発注企業向けのマッチング交流会にも名刺を作って参加し自分をアピールする企業との面接も実施された。このような研修に参加していくことで仕事をすることへの距離が縮まっていったような気がしたが、パソコンのスキルも要求される為、在宅ワークもなかなか難しいと感じていた。そんな時、彼女に共感してくださる自宅近くの一社と契約する事ができたが、時期を同じくして、市役所の障害者雇用の求人があるので受けてみてはどうかという連絡をいただき挑戦してみることになった。採用試験なのでかなりハードルの高い試験になる。試験科目は、高校卒業程度の5教科と小論文と面接という事で、公務員の一般教養の問題集を購入し、大学の時に実行していた勉強方法で勉強した。短期間で頑張ったものの不合格の連絡を受けたが、「重度の障害者の雇用は今までないので、トライアルという形で仕事をしませんか。」というチャンスを頂いた。彼女にとってとてもありがたいお話で、チャレンジする事にした。仕事に行くとなるといろいろクリアしなくてはいけない問題があったが職員の方と話し合い、勤務中の介助も配置していただけるという体制で、市役所で勤務できる事となった。実際、なかなか介助者は見つからず、今現在も私が彼女と一緒に会計年度職員として勤務をさせていただいている。市役所での勤務を始めてから今年で8年目になる。できることは限られているが、社会に貢献できていることが何よりも嬉しい。
あの日から彼女が思い描いていたであろう人生は変わったかもしれないが、時折落ち込みながらも今を生きることに向きあっている。障害があるからできないのではなく、些細なことも突破口を見つけ前に進んでいく彼女と共に、私はできる限り歩んで行きたい。そして、これからもケーキを食べよう。
鳥かごから飛び発つ
『今後の生き方を決めることができた1週間でもあった。「26歳おめでとう」というより「26歳がんばろう」って感じ。アラサーなんだから自分のしたいこと、自由にやって生きたい。いつまでも若いわけじゃない。将来のために。頑張る。』
ーーこのときの私は「頑張る=幸せを掴みに行くこと」だと思っていた。けれど、本当の自由は「手放すこと」からだった。
当時、同棲していた彼氏から「お前が俺のこと好きだから、俺もお前が好き。」「俺がいないとお前は生きていけない。」「俺が教えてやらねえとな。」なんて言われていたっけ。職場の飲み会に行けば「男はいないのか、写真必ず送って」と言ってくるし、妹とごはんに行けば、「楽しそうだな」と嫌そうな顔で突き放してくる。
昔の私は、こんなことをされても「なにくそっ!」とは思わなかった。むしろ、「私のせいで機嫌を損ねてしまった……」と落ち込んでいた。彼を不快にさせたくなくて、段々と自分の予定を入れなくなっていった。休日はほとんど彼と一緒。そうすれば彼は機嫌よく、ひとりでスマホゲームや読書を楽しむ。二人でいれば、それで気が済むらしい。私には構ってくれないけれど。私は、見えない鳥かごの中にいた。
これでいい……いや、それしか私が平穏に過ごす術はないと思っていたし、結局私の人生なんてこんなものだろうと諦めていた。
ずっとこの生活が続くと思っていたのに、彼との生活から抜け出したい私に気付く出来事が起きた。冒頭の日記からさかのぼること1ヶ月。職場の飲み会でのこと。
家から歩いて10分もかからない居酒屋で飲み会が開かれ、なかなか行かない楽しい場に私は羽を広げてお酒を飲んで笑顔でパート仲間と話に花を咲かせていた。あっという間に時間は過ぎ、いつの間にか3時間が経とうとしていた。頭の片隅で「20時半に終わるって言ったし帰った方が良いかな……でも、お店の人が延長OKって言ってるし、みんなまだ帰らないっぽい……まだ飲みたい……」と葛藤が始まる。
20時32分。
彼からのLINE。
電話のイラストが描かれたスタンプだけが送られてきた。
すぐに電話をかけた。
恐怖と緊張で、体も心もこわばる。
「歩いて迎えに来た」と彼は言っていた。その声色は「もう20時半を過ぎているのに、なぜ店の外にいないんだ」と私に伝えたがっていた。私の身体が不安に耐えきれず、パート仲間に「帰ります!」と伝えてすぐ、慌てて店を出た。けれど、彼の姿はない。
辺りを探してみたけれど、いない。もしかして20時半ぴったりに出なかったから怒って帰ったのかと怖くなり、走って家に帰った。けれど家の明かりは真っ暗。ここにもいない。どうにかしなきゃという強迫観念のようなものに突き動かされて、数えきれないほど電話をかけた。なのに、全然出てくれない。
……もう、無理だわ。
楽しく飲んでただけじゃん。それも久しぶりの飲み会。いいじゃない、私が遊びに行っても。なんで私は彼の機嫌に左右されて生きていかないといけないの?
思えば、いろんな人から「なんで別れないの?」と何度も聞かれていた。「束縛してくるけど、家事はやってくれるから〜」と言っていた。それはただただ正当化したかっただけ。彼との生活は間違っていない、私の選んだ道は正しいんだと言いたかっただけ。
でも、もういい。
彼も間違っている、私も間違っている。
これじゃ、誰も幸せになんかなれっこない。
ーーとある言葉を思い出した。
「女の25歳から35歳はね、人生が決まる大切な時期なんだよ」
一緒に飲んでいたパート仲間の一人、一回り以上歳が離れている主婦の方からのひとこと。
変えよう、私の人生。
決めよう、これからの生き方を。
これまでの暮らしを捨てる覚悟をした私は、冒頭の日記を書いたのだった。
それから周りの助けも借り、半年後に彼と別れた。綺麗な1LDKのアパートから築30年ほどの1Kに引っ越し、一人暮らしを始めた。
一人暮らしを続けるにはある程度の収入も欲しかった。時給をアップしてもらえるかもしれないとフォークリフトの講習を受けたものの、当時のパート先では叶わず。けれど、たまたま見つけた高時給の求人に応募し、無事にパートとして採用された。しかもその後、正社員になれた。
その上、この職場では今の旦那との出会いもあった。付き合っている頃から、「飲み行ってきな!すごい楽しそうやもんね!今度、話聴かせて!」と快く外へ送り出してくれる。心からやりたいことを全力で楽しむ姿を見てくれるのが嬉しいし、心地が良い。旦那との暮らしは、自由で穏やか。私が欲しい幸せそのものだ。
あの日記を書いてから4年以上もの月日が経ち、ちょうど30歳。あの頃から仕事も住む場所もパートナーもすべて変わった。その決断をしたのは、まぎれもなくすべて私。誰かに決定権を委ねずに、自立して生きている。その出発点は、これから足掻いてもがいて生きていこうと腹を括った26歳の誕生日ーーではなく、「もう、このままじゃ嫌だ」と気付いてしまった、あの瞬間だったのだと思う。
本当の自由、そして幸せは、掴みに行くものじゃない。幸せになるんだと覚悟を決めて、自分に合わないものを手放していく。待っていては、人任せでは、私に合う幸せは訪れない。日記に書いたあの日から、「幸せになる」と腹を括って生きた私に感謝するとともに、抱きしめてやりたい。「ありがとう、頑張ったね。あなたのおかげで私は幸せだよ。」と。
谷あり谷ありの先で見つけた生きる意味
私が生きる意味を真剣に考え始めたのは、30代後半で難病を告知されたときだった。それまでは、勉強、仕事、結婚、介護など、ただなんとなく目の前にあることをこなしてきた。
しかし、難病が悪化するにつれて生きる意味を見つけるどころか、曖昧でネガティブなものになっていった。完治しないのに治療をするのか?明日命の火が消えるかもしれないのに希望が持てるのか?そもそも私はなんのために生きるのか?
それから何年か経ち、学び直しのため再び大学に入り直した時に、ジャン=ポール・サルトルの著作、『実存主義とは何か』に触れる機会があった。サルトルによれば、生きる意味は自分の行動や選択によって作り出すことになる。当時はそれが真実だと思ったが、一向に生きる意味を作り出している実感はなかった。そこにあるのは抽象的な何かであり、知りたいのはもっと具体的な生きる意味だった。
しばらくして、私はヴィクトール・E・フランクルの著作、『夜と霧』に出会った。著作の中でフランクルは「生きる意味は状況の中にあり発見・応答すること」と主張する。なるほど、具体的な生きる意味は、人生からの問いかけに応えれば見えてくるものだったのだ。
◾️人生が変わるきっかけ
今から約17年前、私は30代後半で医師から唐突に難病を告知された。血液の難病だった。今思うと、これが私の人生が変わるきっかけになったのだ。
難病と診断された当初は、緊急性がないという理由で経過観察が続いた。当時は難病に関する情報が少なかったため、ただちに命にかかわることはないとはいえ不安が募っていった。ただひとつ分かっていたのは、治る見込みはないということだけだった。
その後、徐々に病状が悪化し、治療が始まってからは生活が一変した。薬の副作用で心身ともに衰弱し、鬱になりかけたりもした。だれかれ構わず当たり散らし、主治医にさえ食ってかかった。「薬が効かない、もう飲みたくない」と。あのときの私は、生きているのか、ただ時間をやり過ごしているだけなのかも分からなかった。何事もネガティブに考え、生きる意味はむしろ死へ向かっているようだった。
◾️人生が変わった瞬間
私の人生が変わった瞬間は、治療が少し落ち着いた40代に、学び直しのために再び大学生になった時だ。
なぜ学び直しだったのか。
ひとつは、「やりたいことは今やらなければ」という焦燥感にも似た気持ちがあったからだ。難病に罹患して今すぐ命を落とすことはなさそうだが、長生きもできないかもしれないと思ったのだ。
二つめに、長年の後悔を晴らすためだ。私は高校卒業後に大学に進学したが、のらりくらりと学んで学生生活を終えた。そのことをずっと後悔してきた。社会人となり、仕事に慣れてきた頃から学び直しをしたいと考えるようになった。しかし、それは漠然として薄く長く続き実現しないままだった。
そして三つめは、心のよりどころが欲しかったからだ。難病は治療法が確立しておらず、完治は難しい病だ。大量の薬を使い、副作用に悩まされながら日々を生きている。また、見た目からは病気が分かりづらいこともあって、人からは理解されにくい。そんな生活に嫌気がさし、生きる気力を失いかけていた。せめて心のよりどころがあったなら。求めてたどり着いたのが大学での学び直しだったのだ。
■「谷あり谷あり」の大学での学び直し
大学での学び直しは苦労の連続だった。大学は、体の負担を考慮して通信制大学に進学したが、試験は大学に赴いて受験する必要があったし、一部の単位は通学で取得しなければならなかった。なにより辛かったのは、在学中に難病の治療や外科的な手術で何度も入院しなければならないことだった。その度に勉強や研究が止まってしまい、なかなか進まなかったのだ。「人生山あり谷あり」なんて嘘だと思った。ひたすら「谷あり谷あり」だったからだ。
特に苦労したのが卒業論文だった。結局、卒論に5年近く費やし、大学での在籍期間は11年になった。一時は自主退学も頭をよぎったが、最後は昭和の根性論で乗り切ったのだと思う。無事に卒業することができたのだ。
■学び直しを終えて得たもの
二度目の大学卒業後は、私のこれまでの考え方が変化したことを感じた。
まずは、自己肯定感が向上したことだ。難病があっても年を重ねていっても、まだできることはあるのだ。長年もやもやと頭の中に居座り続けた後悔が晴らせたことで、達成感と自信を得た。「やればできる」ことがわかったのだ。
二つめに、固定観念から離脱して生きづらさが緩和したことだ。もともと「こうあるべき」という固定観念にとらわれがちだった。自分で思考や行動の幅を制限し、生きづらさを感じていたのだ。これには大学で人類学を専門に研究したことが一助となった。
三つめに、――これが最大の収穫であったが――生きる意味を見つけたことだ。心のよりどころとして始めた学び直しは、気がつけば、それが私にとっての生きる意味そのものになっていたのだ。
生きる意味は、私は自ら作り出すことはできなかったが、「成し遂げたいことはなにか」「大切なこと(人)はなにか」と問われたら、応えることができたということだ。そしてそれは必ずしも高尚なものでなくてもよかった。大学での学び直しが「問いへの応答=生きる意味」になるということを、身をもって体験したのだった。
■おわりに
正直に言うと、11年の学生生活は長すぎた。学費もたくさん納めたし、治療と学業との両立が難しく挫折しかけたこともあった。周囲の人から「まだ卒業できないのか」と揶揄されることもあった。
しかし、卒業してから約2年が経ち、いま学生生活を振り返ってみると、「谷あり谷あり」ではあったもののあれほど情熱的に生きた時間はほかにはなかった。結局、それが当時の私の生きる意味だったのだ。
現在はまた新たな大学で新たな学びを始め、今の私の生きる意味になっている。もし、生きる意味を見つけられず迷っている人がいたら、どうしてもやりたいことや大切にしたいことなどを考えてみてほしい。その問いに応えたとき、あなた自身の生きる意味が、きっと姿を現すはずだ。
女たちの変遷
ふたりの妹はまだ中学生と高校生だった。
父と母は離婚後も同居を続けたが、その約二年後、私たち家族は正式に解散した。
皮肉にも私が当時付き合っていた彼氏と別れて実家に帰ったことがきっかけだった。
私は小さい頃から良い子だった。良い子だったし、頑張り屋さんだった。
二十三歳になった私はあの頃よりももっと頑張り屋さんで、もっとしっかり者になった。と、両親が判断した。
妹たちはふたりとも高校生になっていた。
市から振り込まれる手当と、私の給料だけでふたりを生かす。あの頃の日々はあまりにも多忙でほとんど覚えていない。
覚えていないけれど、ひとつだけ忘れられないことがある。
妹は県内でもトップクラスの頭の良い高校に通っていた。とても賢かった。
そんな妹が高一の秋、週末に髪を切りに行きたいと私に頼んだ。
金曜日、私は朝五時に起きる。妹たちの弁当を作って会社に出勤する。仕事が終わったら十九時から知り合いの飲食店で働く。二十三時に退勤したあとは夜中から派遣のバイトに向かう。
帰ったらもう朝になっている。
その日もいつもと変わらない私の週末だった。
手取りで貰った分の給料をまとめ、封筒のまま妹の机に置いた。
私が畳に置かれた薄っぺらい座椅子の上に座ると眠た目をこすりながら妹が起きてきた。
「お姉ちゃん、ありがとう。お金ごめんね。」
涙はもっとじんわりと出てくるものだと思っていた。小さい頃にブランコから落ちて何かで強くみぞおちを打ったときのような、息がしづらくて体の中でいきなり何かが膨れ上がったみたいだった。
「起きてたんだね、お風呂入ってくる。」
後ろに立ってるであろう妹のことを振り返ることが出来ないまま、そう返すことが精一杯だった。
そしてお風呂の中で、私はいっぱいに泣いた。本当にたくさん泣いた。身体の中で膨張した何かは、もう絶対に出てこないことを誓ったように今でも私の中に根強く残っている。
どうして高校一年生の女の子が美容室に行くことを謝らないといけないのか。まったく訳が分からなかった。考えれば考えるほど意味が分からなかった。分からなかったけれど、妹はごめんねと言った。
妹は賢かった。賢かったし、良い子だった。良い子で頑張り屋さんだった。私は、最低な大人になったと思った。
私があまりにも辛そうで、可哀想で、妹は自分が子どもであることを恨んでいたのかもしれない。もしかしたら、生まれたこと、その命すら否定する日があったかもしれない。妹は子どもとしてそこに居られていたか。
私はその日、シャワーから出るたくさんの水に洗われて脱皮した。今の生活を誰よりも楽しもうと決めた。
遠足では気合を入れたキャラ弁を作ってSNSにアップした。運動会は自分の友人たちも連れて参加し、誰よりも叫んで応援した。
そして、自分の生活も捨てなかった。習い事で手話を始めたし、社会人のバレーボールチームにも入った。人は選んだが友達との誘いは断らず、たくさん遊んだ。
あれから約十年。妹も私も結婚して家族を持った。私の入籍を知らせた後、妹から手紙が届いた。
食事のときに肘をつくな、いただきますとごちそうさまをサボるな、などと言われうるさかったと書いてあった。大いに自覚がある。
そして最後に「もう誰かのために生きなくていいから自分のために自分の人生を生きてください」と、文章が締めくくられていた。
彼女は賢い。賢くて強い。でも強い人は脆い。脆くて危うい。私たちは似ている。同じ血を分け合っている家族であり、あの時を生き抜いた仲間だ。
㊗️マルいち25
少し歩いて左へ曲がると街路樹が続く一本道
2人の子供達が待つ我が家までは10分ほど
いつもの見慣れた道のはずだった
なのに街路樹も信号も車もすれ違う人さえも
だんだん歪んで見えてくる
ーごめん。ごめん。ほんまにごめんー
突き上げてくる想いは
ぬぐってもぬぐっても溢れてくる
耐えきれず私は声をあげて泣いた
楽しいクリスマスを目前に
33歳の私は最も避けたかった決断をした
そしてそれは心の奥底に封印していた数々の痛みを蘇らせることになる
私は2度親の離婚を経験した
最初は8歳の時当時5歳の弟と1歳の妹と共に
母と母方の祖父母と暮らすことになった
ところがすぐに母は失踪した
残された私達は祖父母の養子となり名字が変わった
ー何で名前が変わったん?ー
ー何で参観に誰もこんの?ー
容赦ない数々の言葉に深く傷ついた
ー育ててやっているーそれが祖母の口癖だった
集金袋を渡す時いつも不機嫌になる
体裁を気にする祖母にとって私は自慢の子でいなければならなかった
失踪して1年が過ぎた頃、母は帰ってきた
スナック勤めを始めた母の濃い化粧とお酒とタバコの匂い、何故かとても不潔に思えた
けれどそばで眠れることが嬉しかった
ー母を絶対に幸せにして下さいー
私はそう返事をした
予想外だったのは再婚した母と一緒に住めない事だった 私は10歳になっていた
日々、祖母から母や新しい父の悪口を聞かされいつしか私の中で母親ではなくあの人になっていった
私が22歳の時あの人は2度目の離婚をした
弱いあの人は心を病み、アルコールに依存した
そんなあの人を見捨てられなかった
心のどこかで願っていた母との同居はさながら地獄の日々になった
そこには幼い頃よりはるかに傷だらけの私がいた
どのくらい立ち止まっていたのか、どうやって家に帰ったか全く記憶がない
ーただいま‼️遅なってごめん
5歳と3歳の子供達はいつもと変わらない
ー大事な話があるきん、ここに座ってー
正座する私の前に正座する子供達
ー大きくなったら話すけどお父ちゃんはかえってこんきん。今日から名前が変わるきん。これからは林!今度の名前は木2つやからすぐ描けるようになるで!今日からお母ちゃんと3人運命共同体やから助け合って生きていこ。よろしくお願いしますー私は2人に頭を下げて強く抱きしめた
この時私は3人で絶対に幸せになると決めた
“笑顔の絶えない明るい母子家庭””をスローガンに
元旦の朝、私は3人の名前を刻んだ真新しい表札を掲げた。そして私は私に幾つかの約束をした
①ありのままの自分でいること
②とにかく何でも笑いに変えること
③子供達の前で父親の悪口を言わないこと
④学校の行事や、習い事の試合には必ず行くこと
⑤たくさんの友達が来る家にすること
⑥何があっても自分の手で育てあげること
ある時私は仏壇の引き出しから蝋燭を取り出した
ー昔はな〜こうやって生活してたんやで。まるで原始人みたいやなぁ〜笑ー
この日、電気が止まった
ーほら、熱いきんこぼさんようにな、わろたらいかん!こぼれるでぇ〜笑ー
お鍋に入ったお湯を浴槽に溜める
この日、ガスが止まった
築40年以上の借家は小さな地震でも大惨事になる
ガシャーン‼️古い木枠の窓のガラスがずり落ちる
やがて次々と落ちて段ボールに変わる
そして、追い打ちをかけるようにやってくる台風
ー押さえとけ‼️そこや、持っとけよ‼️ー
叩きつける横殴りの雨と風は容赦なくガムテープの粘着力を無力化し、ダンボールを吹き飛ばす
家の中なのにびしょびしょになるうちに笑いが止まらなくなった
ある日、私はさつまいもを蒸した
ー戦時中はな、みんなこれを食べてたんやてー
神妙な面持ちで話す私を見てうなづく子供達
この日、お米が無くなった
たくさんつらく淋しい思いをさせた
でも、とにかくいっぱい笑った
満身創痍のさながら仁王立ちの弁慶のような私を
救ってくれたのは紛れもなく子供達だった
たくさんの珠玉のエピソードは共に生き抜いた誇るべき3人の歴史だ
だから私達は3人で生きていくと決めたあの日を
決して忘れない
無いものを嘆いたり、人のせいにしたりせず
あるものに感謝して活かす
大切なことは決断の後の在り方だ
失敗なんて山ほどある
けれど、その一つ一つが今、生きてゆく糧になっている
幼かった子供達も今はそれぞれ家族を持ち、人生を歩んでいる
今年でシングルマザー歴25年
世間でいうバツイチではない
マルイチなのだ‼️私は今幸せで、さらに
幸せになると決めている
一人暮らしの部屋に揺れるあたたかな光
今日あたり桜も満開になるだろう
レースのカーテンの向こうから
私を呼ぶ声がする
その声はどんどん近づいてくる
私はドアを開け
差し出された小さな手をそっと握りしめた
背中
彼女は、私を今の職場に障害者雇用で採用してくれた人だ。
障害者雇用という形で私が働くようになったのは、8年前に脳出血で倒れ、私はその後遺症で今も右側の感覚がなく、右半身麻痺となったためだ。病気をする前の私は仕事人間で、脂が乗った魚みたいにノリノリで働きまくっていた。あの頃は正直、家庭より、子どもより、仕事が好きで、毎日が充実していた。ところが一瞬でなにも出来ない身体になってしまったのだ。立つ事も体の向きを変える事もできない。「右手も右足も無いよ、どこ?」ヨダレを垂らし、おしっこ袋をぶら下げ、オムツをして、ゆっくりへんてこに喋る。言葉が口までやって来ない。思いを伝えようとしても言葉はどこかへ戻って行ってしまう。だから私は心の中だけで口に出せない思いをを何度も何度も反芻していた。「私だけ、どうしてこんな事になるわけ?何か悪い事をした?仕事ばっかりしていたからバチが当たったの?これっじゃ家族のお荷物じゃん!もう生きていたって治らないんでしょ、生きてる意味なんてないよ!」などなど、やりきれない思いばかりが、頭の中をぐるんぐるん駆け巡っていた。脳がまた破裂してしまいそうに。そんな夜を幾度も幾度も繰り返した。5ヶ月の入院、そして退院してからもそりゃあ色々な事があった。でも素晴らしい医療の人々、そして温かい家族と友人達の支えがあったお陰で、今は、こうして新しく強く生まれ変わることが出来ている(表向きは)。
あれからもう8年。今の私は、自分の足で歩き、言葉もスムーズに出るし、右手で箸を使ってご飯を食べている。料理も車の運転もできる。仕事だって、前の職場への復帰は出来なかったが、新しい場所で事務補助員として毎日元気に働いている。
その職場の面接で初めて彼女と会った時、私の身体と心を気遣う細やかな配慮、全ての対応が完璧で、まだ若いのに素晴らしいな、と関心したのを覚えている。日々の仕事も、全ての案件をしなやかにこなすパーフェクトウーマン。バリバリ働くその姿は美しく眩しかった。眩しくて眩しくて、(病気さえしなければ自分だってそうだったのにな)と、実は心の奥底で私は、悔しがり羨んでいた。誰もが羨むパーフェクトウーマン。ところが、そんな彼女が、エレベーターや給湯室で私と二人っきりになると、なぜか色々個人的な事を質問してきた。「病気になる前は何時くらいまで仕事をしていたんですか?」「残業の時、子どもはどうしていたんですか?」「子どもより仕事の方が好きだったりしましたか?」「帰ってから、ご飯は作れましたか?」「どうやって子どもとの時間を作っていたんですか?」だいたい、いつもそんなような事を聞かれた。「味噌汁だけはなるべく作るようにしていたかな」「子ども達とは車の中で、よく話をしていたよ」「残業で遅くなる時は、ちょっといいお菓子をお土産にしたり」私は質問に答えるたびに、輝かしい過去のバリバリ働いていた頃を思い出して、武勇伝みたいに自分の子育てを語った。彼女には現在、小学生の娘さんがいる。パパは単身赴任。おばあちゃんに手伝ってもらい、なんとか子育てと仕事の両立をしているのだという。私も似たような境遇であったため、「私もそうだったよ」と共感したり。「大変だったけど、今思うとあっという間だったな、ママ!ママ!って甘えてくれる今を大切にしてね」こんな事を私は調子に乗って次々話した。(それにしても、人から仕事や子育てについて質問されたり、アドバイスを求められたり、それは何て心地よいものなんだろう)思えば、そうゆう事なんてしばらくなかった。動かしにくい身体となってからは、病気の事を聞かれる事ばかりだ。ついこの前までは、ハツラツと働き、子育てをしていたのに、急に、皆に助けてもらう人、子どもにまで助けてもらう人になった。(あー。もう助ける側ではなく、助けてもらう側になってしまったんだな)と悔しかった。助けてもらう時、それは、ありがたいけれどなんか惨めで、すっかり自信を失った私は、人を羨み妬み、いつも小さく萎んでいたのだ。そんな私が頼られた。事もあろうに、あのパーフェクトウーマンに頼られたのだ。仕事の事ではなかったけれど、真剣な眼差しで「すごいなぁ、そうなんですね、そうやって仕事も子育ても頑張ってきたんですね」なんて言われた時には舞い上ってしまうほど!どんなに嬉しかった事か。
私たちは2年間一緒に働いた。そしてパーフェクトウーマンはこの春、異動となった。お別れ会の日、彼女は笑いながら涙を流し、こんな事を言った。「仕事が忙しくなると、いつも子どもが可哀想で、母親にも負担をかけて、こんな働き方ではいけない!と思う。だけど、やらなきゃならない仕事が山積みで。こんなにいっぱいいっぱいで、あと何年この状況は続くんだろうと思うと、ほんとにきつかった。そんな時、子どもは頑張っているママの背中をちゃんと見ているよ、シャキッとした背中を見て育った子は、ちゃんと同じようになるから大丈夫。強い子に育つから安心して。と言われて、凄く救われました。」と。パーフェクトウーマンなのに泣きながら、そう言った。そんな素振りは誰にも見せなかったのに、弱音を吐いて笑いながら泣いていた。あの時、私は何も言えなかったけど、救われたのは私の方だ。あなたと出会えてやっと自分の子育てを肯定出来たのだから。
パーフェクトウーマン様
「毎日あなたの働きぶりを見ていると、私は昔の自分を見ているようで、胸がキュンとしました。懐かしいような切ないような。お子さんの学校からインフルエンザの電話が来た時の事、皆に、すみませんすみませんと言いながら、早退をしたあなたの姿が、今も目に焼き付いています。私も全く一緒だったから。忙しい時に限って体調を崩す子ども。そんな時私は、子どもを安ずるより、仕事の心配をしていた。そして熱のある娘に「お母さん忙しいのにごめんね」と言われたのだ。そんな自分をずっとずっと懺悔していた。あなたと同じ、こんな働き方では子どもがちゃんと育たないと思っていた。でもね、ちゃんと育ったよ。子ども達は、私の機嫌がいい時も悪い時も、元気に頑張っている時も人知れず泣いている時も、よーく見ていた。きっと彼らなりに背中から学んでくれていたのだと思う。今、大人になった彼らは実に逞しいよ。だから大丈夫。パーフェクトじゃなくていい、心の中の葛藤を繰り返しながら、ありのままの頑張るママの姿を見せてあげてね。」
これが、私の人生に光を与えてくれた彼女に言いたかった贈る言葉だ。
それにしてもカッコつけて言ったけど私の背中なんて、子ども達は何を見ていたのだろうか。確かな証言は1つだけある。それはいつも今でも「お母さんの味噌汁は美味しいよ」と言ってくれている事。きっとそれが証だろう。
エッセイに救われる瞬間。
その一つは、
一人ではどうしようもない壁にぶつかった時、
同じように悩み、苦しみ、
それでも前へ進もうとした誰かに出会えた瞬間です。
苦しみの中でも歩みを止めず、
自分なりの答えを見つけてきた女性たち。
その姿は、
私たちに「もう少しだけ前へ進んでみよう」と
勇気を与えてくれます。
今のあなたにも力を届けてくれる作品をご紹介します。