WOMANエッセイアワード2026
WOMANエッセイアワード2026
🏷 タイトルが輝いた作品

タイトルは、短い言葉の中で作品の魅力を伝えなければならない、
とても難しい表現です。

そのなかで、
「どんな物語なのだろう」と読み手の心を一瞬で掴み、
思わず続きを読みたくさせた作品をご紹介します。

  

作品一覧

輪郭の出る瞬間

Sumire
自分がちっぽけに感じた。
でもそれは、
輝いてみえた、とかじゃなくて
寂しくなった、とかでもなくて
自分が浮き彫りにされた感じ、
別物だった感じ。

それは例えば、
仲間と好きなことに没頭してる世界。
そこを外から見て、自分の位置を感じる。

二つの世界が並んだ瞬間だった。

伝書鳩の飛ぶ先

ゆり子
「この家、買います」
2回目の内見だった。
心が痛んだ日々を超え、もう揺らがない。
わたしは、””いい娘””をやめた。

砂利敷きの庭は、好きになれなかった。
せっかく買った、お気に入りのヒールが傷つくから。
実家の空気は、いつも冷えていた。
リビングが北側にあったから。
いつだって、窓越しの空は、家の中よりもずっと暖かく見えた。

子供の頃から、わたしは努力家だった。
勉強も、テニスも、ピアノも。
たくさんの賞状と、トロフィーを持ち帰った。
先生には、いつも褒められた。
優秀で、聞き分けがよくて、毎年学級委員を務めた。
ある日、テストで98点をとった。
意気揚々と、家に帰る。
自慢げにならないように、あくまで控えめに。
テストの用紙を母に見せる。
「あなたくらいの年齢の時は、わたしはいつも満点だったわよ。」
点数を一瞥し、母は表情を変えずに言い放つ。
わたしの胸は、ぎゅっと小さくなる。
母の承認は、その他の誰の賞賛よりも、渇望しているものだった。

ある日から、父と母は、会話をしなくなった。
中学生だったわたしは、その重い空気を敏感に感じ取った。
大した反抗期もなく、つとめて明るく振る舞った。勉強も、それまで以上に励んだ。
よくある話だ。
高校の入学式は、母と二人で参加した。
地元では名の知れた母校に入学した娘は、さぞ自慢だっただろう。
親戚中から、お祝いの嵐だった。
それから、わたしは、父と母の伝書鳩を何年続けただろう。
だって、わたしは、””いい娘””だったから。
わたしは、飛び疲れ、息が苦しく、首をもたげていた。

結婚を決めた時、やっと深呼吸ができると思った。
「家を建てるなら、実家の近くにしなさい。土地は買ってあげるから。」
父は、優しい口調でそう言った。
先に家庭を持った妹は、隣の柿畑を買ってもらった。
まるで、当然のことのように。
そして、その事実は、あっという間にご近所中に広まった。
流行なんて、周回遅れでやってくるのに。
噂だけは、風のように吹き荒れる。
生まれ育った田舎なのに、どうしても愛することができなかった。

すぐ手伝いに行けるから。
その言葉を断れず、実家から近い賃貸に住んだ。
やがて季節は巡り、新しい命がやってきた。
娘が生まれた時、嬉しくて、愛しくて、涙が溢れた。
その産声を聞いた時、この小さな命を守ろうと、固く決めた。
ぐらつく頭を持ち上げた日には、思わず歓声をあげた。
歩き出したと思ったら、危なっかしくて、おっかない。
すぐさま、あらゆるところに柵をつけた。
噂には聞いていたイヤイヤ期。
滑り台をやめない娘を、ベンチに座って見守る。ああ、今日も公園から帰れない。
ママ!と初めて呼んでくれた動画は、いまも、スマホのお気に入りに保存してある。
お姫様になるんだと意気込んで、どこにでもフリルたっぷりのワンピースを着て行った。
何もかもが思い通りにならない日々、
決して取り返せない日々。
あっという間の四年間。

娘と暮らす、あたたかい家が欲しい。
毎日、住宅情報サイトをくまなくチェックして、目ぼしい物件を片っ端から見学した。
主要駅から程近い、閑静な住宅街。
かつての城の石垣はそのままに、豊かな緑が広がる公園。
娘の好きなブランコも、砂場もある。
ちいさな脚でも歩いていける小中学校。
地元でも評判のいい高校。
電車に乗れば、どこにだって行ける。
スーパーも、薬局も、病院も、ここならずうっと困ることはない。
鉄骨造の、グレーの外観の2階建て。
その佇まいは落ち着いて、頼もしく見えた。
リビングに差し込む光が、ぬくもりを感じるベージュの壁紙に映る。
娘が、階段を駆け上がり、2階ではしゃぐ声が聞こえる。
営業マンも、慌てて追いかける。
わたしはひとり、未来を思い描く。
ダイニングテーブルは、デザインライトの下。
大きめのソファは、庭がよく見える壁際。
このキッチンで、娘と並んで、パンを焼こう。
娘の部屋には、大好きなピンクのカーテンをつけよう。
何もかも、理想通りだ。
気付いたら、遊び飽きた娘が、リビングに戻ってきた。
「ここに、すむの?」
「そうだよ、引っ越すんだよ」
「やったぁ!」
そのほころんだ笑顔は、わたしの心を満たす。
決めた。
ここで、新しい人生を生きよう。
鳥籠の中の、聞き分けのいいわたしは、羽ばたく準備を始めていた。

「そんな土地、税金は大丈夫か。」
「ここなら、安いし広いぞ。」
「なんで近くに住まないんだ。」
説明する隙も与えず、父はまくしたてる。
「近くにいたら、子育ても手伝えるわよ」
母も加勢したら、もう、四面楚歌だ。
何度も実家に足を運び、言葉を尽くした。
家に帰り、夜、目を閉じると、両親の言葉が反芻する。
真っ暗な寝室で、瞼を閉じても、眠りはやってこない。
わたしは、いい娘じゃなかったのか。

知らず知らず、親の期待に沿ってきた。
親と同じ職業に就いた時。
お祝いだと、母がこぢんまりしたレストランを予約してくれた。
チーズたっぷりのカリッとしたピザに、トマトの酸味がきいたもちもちのパスタ。
どれも美味しく、そこには、確かにあたたかな家族の姿があった。
イタリアンなんて普段食べない父が、珍しく着いてきたのをはっきりと覚えている。
写真に写っていたのは、私よりも嬉しそうな母の顔。
ほろ酔いの赤い頬の父も、どことなく口元が緩んでいる。
灰色の記憶ばかりではなかった。

ベッドの中で、あたたかい娘の体を抱きしめる。
何も見えなくても、その体温はじわりと伝わってくる。
その髪を、丁寧に、優しく梳かす。
わたしは、この子に、空を思うままに飛んで欲しい。
だって、愛しているから。
この子が何を選ぼうとも。
わたしは、もう、娘ではない。
母になったのだ。

新しい家のリビングは、南向きだ。
午後の日差しは優しく、わたしはソファに体を沈める。
白いふかふかのクッションが、心地よい眠気を誘う。
半分未完成の庭は、これからどうしようか。
アオダモの、すっとした立ち姿を眺めながら、考える。
枝に止まった小鳥は、あちこち忙しなく動く。
リビングはあたたかさに包まれている。
ああ、なにもかもが愛おしい。

一年の節目には、きちんと実家に帰る。
毎晩、娘の””今””を捉えたとっておきの写真を、共有アプリにアップロードする。
母の日、父の日、誕生日。
贈り物も、心を込めて選ぶ。
精一杯の、わたしなりの親孝行。
テーブルの上に置いたケータイの、アプリの通知が鳴る。
昨日載せた写真に、じいじとばあばから””いいね””がついていた。
遠い、と文句を言いながらも、両親は度々娘の顔を見にくる。
愛の形は目には見えない。
それぞれの愛し方で、誰もが生きている。
いまは、そう思う。

ダイニングテーブルでは、娘が、お気に入りの水彩画セットを開く。
慎重に、画用紙に筆を滑らせる。
様々な青が重なり合い、空を描く。
この窓から見える、どこまでも続いていく未来を。
枝に止まった鳥は、どこかへ羽ばたいて行った。

イチゴさん

石井 たえ
 間もなく、私の身長を追い越すだろう。あれからもうひと回りなのか、と思わず目線の高さの変わらない娘を見る。
「ママ~、コレ、もう小さくない?」
 ジャンパーを着ているが、明らかに手首がはみ出していて、丈が短くなってきている。
「う~ん、確かに」
 育ち盛りの年齢であれば、洋服というのは大体二年着れれば充分だ。
「やっぱり、小さいよね?」
 娘のお気に入りの白いジャンバーは、隣街のモールで二年前に購入したものである。娘は痩せ型だから何とか着れているが、丈が短いのは仕方がない。
「着れても、今年までだね。また新しいのが必要だねぇ」
「コレ、結構気に入ってたんだけどナァ」
 小学校の卒業式を数日後に控えていて、何となくソワソワと落ち着かない。
 ところで、このエッセイに書きたいことというのは、彼女を出産した時に体験した、あの忘れることのない【ツワリ】についての実体験である。
 二十代後半だった十二年前のことであるのに、記憶があまり色褪せていないのは、やはり実体験に基づいているからだろう。
 いつの間にか春の香りが漂い、ふとどこか寄り道したくなる。自分のお目当てのおやつを買うために今日の昼時にふらり立ち寄ったコンビニで、新商品というシールが貼られ、陳列されていたイチゴのサンドイッチに目がいった。イチゴは半分に綺麗にカットされ、サンドイッチの間にクリームを挟み透明のラッピングでコーティングされいている。その陳列に思わず誘惑に負けそうになるが、これまでフルーツサンドたるものを口にしたことがなく、やはり手を出せなかった。「可愛いイチゴ。春だねぇ」そう呟きながら、私はいつものお気に入りのクロッカンを手にして、コンビニを後にした。
 そして帰宅して私は、ふと、十二年目にして初めてイチゴを見て直ぐにツワリを思い出さなかったことに、少し驚きを覚えた。
 私は去年まで、イチゴを見ると、あの時の辛かったツワリと共に、イチゴが私を救ってくれたことを思い出さずにいられなかった。あの妊娠初期のツワリは、何よりも辛かった。
 分娩時の痛みは、すぐ目の前にゴールが見えるから何とか耐えられる。ある程度限定された時間であると解る。
 ところが、ツワリは違う。特に、吐けないツワリ程、苦しいものはない。よくドラマなどで洗面所にバタバタと走っていき、吐いている様子が映される。私から言わせれば、吐けるツワリはまだその分マシである。何と言っても、吐けずにギリギリのところの気持ち悪さをキープし続ける程、辛いものはない。
 私は、そのツワリの約二か月間、最も辛い船酔いと格闘し続けた。どこへゆくのかもわからず、その船酔いは終わりを知らせてくれない。
 それを唯一救ってくれたのは、イチゴという存在だった。
「一パック、ランチ一食分か、それ以上の値段だよ」
 誰に何と言われようが、私がその時口に入れられる栄養は、ただそれだけなのである。
「そんなこと言ってもしょうがない。イチゴしか身体が受け付けないんだから」
 などと言って、とにかくスーパーにあるイチゴを買い込んで貰っては冷蔵庫にストックした。
 テレビのお笑い番組の音声すら駄目だった。電波も、テレビ画面が眩しいことすら、受け付けない。夫が仕事から帰宅して食べる晩ご飯の匂いや、食べている時の音を聞くことさえ、耳を塞ぎ、タオルで顔や口元を押えた。

 ツワリ後半に差し掛かった頃、私はメモにこんなことを書いていた。
・イチゴ・・〇
・海鮮丼・・〇、チラシ寿司・・×
・かき氷・・〇、アイス・・×
 冷蔵庫や冷凍庫まで行く道のりは、たった数メートルなのに、その移動すら過酷な山を登るようなものだ。
 一度、海鮮丼を注文して、チラシ寿司を買って来られた時があった。海鮮丼が売っていなかったらしい。その時は、涙が出た。ようやく食べ物を入れられそうなのに、その甘いチラシ寿司は、受け付けないのである。この我儘な味覚は、ツワリが落ち着くと、何事もなかったかのようにするりと終わりを告げた。
 私の行き着いた答えである。ツワリとは、山登りや、船酔いより辛いものである。分娩時のあれこれよりも、この妊娠初期の体験は、決して忘れられない。
一方長女は、イチゴを好んで食べるわけでもない。ただ、いつも幼少の話しになると、私はあのツワリについて、語らずにはいられないのである。
人を産み出すというのは、本当に命がけなのだと、身をもって思った日々だった。
 妊娠初期のエコーではイチゴサイズだった娘も、もういつの間にか私を追い越してゆく。
 春の訪れとともに、ふと感謝の気持ちがさわやかに通り過ぎる。
 これから命を育んでいく世の女性、妊婦の方、それを支える家族ひとりひとりに、心から温かいエールを送りたい。

ヨロイ(鎧)を着たおばさん

レイチェル
ある日の事、末息子が『ママ〜大変!隣の車、自転車で傷ついちゃったー』と家に入ってきた。ボンネット側面からバンパーに続く長い傷。損害保険に入っていなかったので18万円の痛い出費だった。当時主人の月給18万円、そう思うと1ヶ月タダ働きに思た主人は落ち込んでいた。専業主婦だった私は、『私が働いて18万稼げば無かった事になるよ!』と提案した。自分の母親が看護師でいつも居なくて寂しい思いをした主人は、私が働く事に反対だったが今回ばかりは、渋々賛成した。3人息子に恵まれ子育てに10年没頭していた私は、世に出ると浦島太郎だった。雇ってもらった会社の事務員としてパートを始めたがFAXがコピー機と一体なのもびっくりしたし、ワードが得意だったのに、メインはエクセルになっていた。そんなこんなの仕事はそつなくこなしたが入社3日で、次男が車に轢かれ早退。その1週間後に長男も車に轢かれ早退。熱は次から次と出て学校から電話で、ついにはお局様を怒らせ2年で辞める事になった。主人は『18万稼いだんだからやめて良かった。』と言ったが10年の間、自分がカゴの鳥だった事に気づいた。おばさん🟰ズケズケしているわけではない。少なからず私は小心もので口数の少ないおばさんである。主人にもズケズケ言えない私は、自分はもっと社会に出たいと思い、介護の資格を取る事にした。もちろん名目は親の介護の為。資格をとった後は、『実際介護の現場を見ないと!』と、病院にパートに行った。精神科の看護助手は危険手当がつくほど壮絶な場所だった。ある看護師が内科を進めてくれた。内科では、1時間で30人のオムツ交換をした。家に帰ると息子が『ママ、うんこ臭い。そんな仕事辞めて!』と言った。でも、いかに綺麗に漏らさず拭き取るか私は天職かと思うくらいに好きだった。寝たきりの患者の検尿を取るのは大変だが、私は一度も失敗した事がなかったので看護師の信頼も厚かった。年数を重ね人の死に立ち合う事も増え、最後のエンゼルセットやお見送りを数えきれないほど経験した。死について考えた時、生まれる現場に携わりたいと思うようになった。そして私は産婦人科病院の相談員として勤務した。しかしそこには、『生』の喜びだけでなく『死』も思った以上に多い事を知った。天職と思った病院は、辛い場所にもなった。そこで目にしたのは、子供達。母が出産で上の子達の行き場に困り、病院に連れてきていた。子供を見てもらえる人がいない、保育園がないなど困っているのは看護師も同じだった。私はすでに55歳になっていたが、保育士の国家試験に挑戦する事に決めた。メルカリで参考書を一万円分と決め購入。あとはYouTubeを見て独学で受験する事にした。高校生の時、保育士か看護師で迷ったが、『女は高卒で充分。』と父に言われ兄や弟の様に進学できなかった。短大や専門学校を出ていなくてもわたしの年代は受験できると知り飛び上がり喜んで挑戦。2度、落ちた。『次で落ちたら、もうやめなさい』と主人は言った。悔しさをバネにしたら合格した。合格発表の日、保育士になった自分を想像していた。しかし、現実は甘くなかった。何件落とされただろう。面接に行き着くのが奇跡に思えるほど、書類選考で落ちた。やっと、面接してもらえると喜びもつかの間。面接で言われた言葉に打ちのめされる。『あなた、自分の歳わかってる?』『膝、腰、悪くない?子供を追いかけられる?』『独学で受かったなら何もできないね。』数件で言われた。そして極めつけの一言を放ったのは、80歳過ぎの女性の園長。『あなたは、資格と言うヨロイ(鎧)を着たおばさん。』この言葉には、衝撃が走った。反論したい気もあったが、その通りだった。カゴの鳥の10年がなかったらー。まだ若かったらー。結局おばさんは、おばさん。『はい、その通りです!失礼しまーす!帰りまーす!』と何か言ってる途中だったが退出してきた。しかし捨てる神いりゃ拾う神あり保育士として今働いているが、『ねぇ、なんで先生だけおばさんなの?』と天使からもどぎつい言葉をいただく。『そう、先生はおばさんと言うヨロイを着ているのだよ。』と教えてあげている。

湯たんぽに抱かれて

FUU
 冷たい夜が、体を沈ませる。腕も腰も鉛のように重く、夜の闇に溶け込むようだ。窓の外は深く静まり返り、街の音も風のざわめきも届かない。ただ、かすかな娘の寝息だけが漂っていた。

 慣れない育児に押しつぶされそうになり、思わず受話器を取る。母に電話をかけ、声をひそめてつぶやいた。
「最近、どうしようもなく疲れちゃって……」

 間もなく、小包が届いた。手編みのニットカバーをそっと撫で、添えられた手紙に目を落とす。
〈子育て大変だろうけど、しっかり休んで。体を大切に、元気でね〉

 柔らかな文字が胸にじんわり染みわたり、湯を注ぐ音が静かな部屋に響く。「これでよしっ」と独り言をつぶやき、カバーをかぶせ、窓辺でうたた寝する娘のそばに腰を下ろす。足を湯たんぽにのせると、温かさが体を包み込み、肩の力がふっと抜けていく。
 そのほんわかしたぬくもりに身を任せながら、大学一年の夏、初めて一人で海外に旅立った日のことを思い出す。

 夕食後、ポットでお湯を沸かす私に、ホストマザーが「何か飲むの?」と話しかけてくる。身振りを交え、拙い英語で必死に説明すると、興味深げに返してくれた。
 Hot! Good! Nice!

 たった三つ、感嘆符つきの単語がわかっただけで、胸が跳ね上がるほどうれしかった。うまくやっていけそうな予感がして、勇気がむくむく湧いてくる。母がくれたプラスチックの湯たんぽを布団に忍ばせるたび、心細さはやわらぎ、ほっと安心できた。母の愛が静かに背中を押してくれた。

 バンクーバーのウォーターフロントでは、夕暮れの光が海面に柔らかく反射し、波が静かに揺れる。ガスタウンの石畳を歩くと、蒸気時計の音が街の息遣いのように耳に響き、街灯の温かな光が心をほどく。週末には賑やかなスタンレーパークを訪れ、シーウォール沿いを歩いた。

 不安はやがて胸の奥でわくわくに変わった。知らない場所でも、自分の足で確かに前に進める実感が生まれたのだ。今、育児の合間に娘の笑顔や風に揺れる木々を見つめると、あのときの胸の高鳴りが蘇り、ふわりと重みがほどける。

 もちろん現実は甘くない。娘がぐずれば、予期せぬ出来事に満ちた日常に引き戻される。オムツを替え、おっぱいをあげ、ラトルであやす。離乳食を作り、少しずつ食べさせれば、また振り出しへ。

 忙しない午後を駆け抜け、もう一度、湯たんぽを用意する。新しくお湯を入れ替え、赤い音符柄のカバーで包む。ほっかほかの湯たんぽをお腹に当て、ゆるやかに夢の中へ。
「ふわー、いい気持ち」

 久しぶりに朝までぐっすり眠れた。窓から差し込む日差しを浴び、うんと伸びをする。鳥のさえずりが聞こえ、空気は清々しい。

 朝食をとったあと、ご機嫌な娘と散歩に出る。ベビーカーを押しながら狭い路地を抜け、近くの公園までのんびり歩く。
「わあ、赤く染まってきれいだな」
 美しい紅葉のトンネルをくぐり、胸いっぱいに清々しい空気を吸い込む。

(今このときは、人生の通過点さ。大の字になってトタン湯たんぽを蹴飛ばして寝ていた幼少期から、スタンレーパークで紅葉狩りした秋のひとときを経て、まだ見ぬ新しい未来へ繋がっていくよ)

 涼しい風が吹き抜け、紅葉が励ますようにひらひら舞い降りる。メープルシロップをかけた焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、鼻をくすぐる。

 子育ては常にハプニングの連続。気が滅入ることも多い。けれども、いつか何にも代えがたい思い出になる。悩んだときは、臆せず周りに助けを求めよう。日々の暮らしの中に小さな喜びを見つけ、前向きに楽しんでいきたい。

 ベビーカーのフードにも、ひとひら、ふたひら。まっ赤な葉をつかんで娘の顔の前にかざす。娘が小さなもみじ手でぎゅっと握って、キャッキャッとはしゃぐ。
「さあ、行くよ」
 喜びに満ちた世界を追い求め、一歩ずつ、ゆっくりでいい。娘と笑い合いながら、ほがらかに探検していこう。

「机の上のミルクティー」

一ノ瀬 結
「イバラのみちを選ぶのですね」

担任は静かに言った。

支援級の面談室。
春なのに、指先だけ冷えていたのを覚えている。

「どうか、亜子さんもお母さんも、パンクしてしまうことのないように」

あれから二年が過ぎた。

長女の亜子は、中学三年の受験生だ。

幼稚園の頃、「ことばの教室」を勧められた日、亜子は私の袖を握って離さなかった。
発達検査の日は、鉛筆を持つ手が震えていた。

小学六年の冬、進路の話し合いの席で、亜子は湯のみの縁をずっと指でなぞっていた。

中学一、二年は支援級に在籍。
それでも亜子は言った。

「全日制高校を受けたい」

それは、亜子が小学校で登校班の班長をしていた頃のことだ。

ある朝、登校中にお腹が痛くなってしまった低学年の男の子がいた。
彼は恥ずかしさと不安で顔を真っ赤にし、立ち尽くしていた。

他の子たちが先を急ぐ中、最後尾を歩いていた亜子だけが、彼の異変に気づいた。

亜子は騒ぎ立てることも、嫌な顔をすることもしなかった。
ただ、彼の隣にそっと寄り添い、「大丈夫だよ」と言うように歩調を合わせた。

そして学校に着くと、周りの目に触れないよう、さりげなく彼を保健室へと導いたのだ。

数日後、その男の子が私の家を訪ねてきてくれた。
玄関先で男の子が差し出したのは、小さな手に握りしめられて少し温かくなった、数粒のキャンディだった。

「亜子姉ちゃん、これ、あげる」

差し出された手のひらを見て、亜子は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつもの優しい笑顔で「ありがとう」と受け取った。

照れくさそうに笑う彼を見て、私は初めてその出来事を知った。
亜子は自分からその話を一切しなかったからだ。

「困っている子がいたから、当たり前のことをしただけだよ」

そう言ってはにかむ娘の横顔に、私は言葉を失った。

誰かの小さな変化に気づき、その自尊心を守りながら、静かに手を差し伸べる。
それは、教科書を暗記したり、難しい計算を解いたりすることよりも、ずっと難しくて尊いことではないだろうか。

そんな彼女が、ある日「全日制高校を受けたい」と口にした。

「子どもが好きだから、保育士になりたいの」

その夢は、決して思いつきなどではなかった。
彼女の持つ「気づく力」と「寄り添う心」が、自然と導き出した答えだったのだ。

職場体験先の幼稚園で

「亜子姉ちゃん大好き」

「帰らないで」

と何人もの子どもに言われた日、帰宅した亜子は、少しだけ胸を張っていた。

その顔を見て、私は決めた。

通常学級で授業と試験を受けさせてほしいと、頭を下げた。

そして三年生から通常学級に戻った。
けれど、そこはやさしい場所ではなかった――。

「亜子ちゃんって、何か違うよね」

その一言を聞いた日の帰り道、亜子はずっと石だけを見て歩いていた。

努力を認められる日もある。
それでも点数は追いつかない。
教室の空気は、どこか遠い。

学校という場所が、彼女にとってどれほど息苦しい場所であるか、想像するだけで胸が締め付けられる。

冷めたミルクティーの気配だけが、机の上で薄くほどけていく夜もある。

けれど、私だけは知っている。
彼女にしかない、特別な輝きがあることを。

私が亜子の「全日制高校に行きたい」という夢に光を見る一方で、夫は常にその先にある現実を見ていた。

「亜子を否定したいわけじゃない。でも、今の環境は多くの人の配慮で成り立っている。社会に出たとき、亜子は一人で生きていけるのか?」

冷蔵庫の低いうなり声だけが響く夜、夫が絞り出すように言ったその言葉は、私にとって刃物のような鋭さがあった。

夫婦でありながら、見ていた景色は全く違っていた。
私は「亜子の可能性」を、夫は「亜子の脆さ」を。

同じ子を想いながらも、私たちは互いに孤独を抱えていたのだと思う。

私たちは時に激しくぶつかり、時に黙り込んだ。

夫は夫なりに、亜子が将来「社会で傷つかないための防波堤」になろうとしていたのだろう。
けれど、私はその防波堤を越えて、亜子が自分の足で海へ向かう姿を見たかった。

そんな夜、私は夫に何かを言い返す代わりに、二つ分のマグカップにお茶を淹れた。

意見は違っても、亜子の未来を案じているのは同じだ。
湯気を立てるミルクティー。

私たちはそれぞれの「願い」を飲み込みながら、沈黙を共有した。

定期テストが近づくと、家の中の空気が薄くなるような感覚があった。

リビングのテーブルには、私が何度もコピーをとったワークの山。
亜子が格闘した消しゴムのカスが、雪のように積もっている。

「どうせ、私には無理なんだ」

絞り出すような、掠れた呟き。
その声は、鉛筆の音よりもずっと鋭く私の胸を抉った。

「あとこれだけ覚えれば大丈夫だから」と励ます言葉も、その時の彼女には届かない。

苛立ちのままに投げられた鉛筆が、壁に当たって乾いた音を立てる。

投げられた鉛筆を黙って拾い上げる時、私の心も一緒に削れていくようだった。

問題集に向かう背中を見ながら、ふと、思ってしまったことがある。

――どうしていつも、この子は同じところでつまずくのだろうか。

もし、この子が――。

そこまで考えて息が止まった。
すぐに後悔した。

そんなことを思う資格が、私にあるだろうか。

この選択が正しかったのかは、まだわからない。

わかるのは、きっと数年後だ。

それでもここまで、もがいて歩いてきた時間を、なかったことにはできなかった。

来年の今頃、笑って高校に通っていますように。

私は新しいミルクティーを淹れ、机の上にそっと置いた。
淹れたてのカップを運ぶ指先は、あの日よりじんわりと温かい。

亜子は、まだ気づかない。

武器を見つけた人魚姫

カレン
 まずは、新卒で入社し、6年勤めた会社への捨て台詞を引用する。
“本日、ラスト出勤日となりました。約6年間、育てていただきありがとうございます。
これまでほとんどの物事に対して、飽きる/やめるを繰り返していたわたしが、小学校の次に続けられたのがここでの労働でした。個人的には感無量です。社会に適合できてヨカッター。(周りのひとにはとてもご迷惑をおかけしていたとおもいます。自覚あります)
今後は、少しの労働を挟んで人生のダウンタイムを取り、おもれー女になる予定です。みなさまの人生に幸せがたくさん溢れますように。ありがとうございました!”
 おもれー以前に、とんでもない女である。これを全社員向けに発信した勇気に、未来のわたしが感服してしまっているのだから。それでも、世界と戦うぞ、そんな決意に満ち溢れた文章を世にだすことであの頃の自分の手を取りたかったのだとわかる。「世の中に面白い仕事なんて1つもないよ」と言われたとき、涙で一瞬ぼやけた視界はすぐにクリアになった。
 わたしは、きつねやたぬきが駆け巡るような田舎で、3きょうだいの末っ子として育った。幼いときから要領がよく、勉強も運動も芸術も満遍なく合格点を叩き出せるこどもだった。極め付けはとびっきりの愛嬌。大人の要求を見越して空気を読み、場をコントロールするのを得意にしていた。
 いつしか両親の期待値は爆上がり。「弁護士に向いている」「国語が得意だから出版社もいいのではないか」「言語力を活かして世界を飛び回れる」などなど、勝手に夢が膨らんでいった。年を重ねて現実が近づくごとに、2人の視線は厳しく冷たいものに変わった。なぜなら、わたしは大学受験で法学部なんて見向きもせず、年々本を読まなくなり、チャンスがあっても留学には行かなかったから。親の夢を叶える装置になりたくない、というのが本音だった。気づくと、“今からでもなれるもの”を強要されるようになった。それは、公務員である。2人はとにかく篤い公務員信者だった。ここまで育ててくれたのに、わたしばかり好き勝手生きていいのだろうか。姉も兄も一般企業へ就職してしまった。これまでわがままをたくさん聞いてもらったし、親を安心させてあげるのもこどもの役目なのかもしれない。そうしてわたしは、「将来は高校教師になる」と声高々に宣言してしまったのだ。大学へ入学して間もない、19歳の出来事だった。
 地元から離れた大学に進んだおかげで、“周りの視線”は気にならなかった。好きなひとと、好きな勉強を好きなだけ。授業をサボった日も、アルバイトでクレームを受けた日も、すべてが青春に色づいていて幸せだった。大人の空気を読まなくていい人生が、こんなに楽しいとは。おもえば、選択権はいつも大人にあった。服を選ぶとき、レストランで料理を頼むとき。どんな小さな瞬間でさえ、わたしは自分を出すことがなかった。母が苦手だと言っていたから、兄が好きそうだから、と、自分の意思を天に差し出すことで相手を喜ばせた気になっていた。悲しいことに、成人するまでわたしは、自分の好きな色さえ答えられない“こども”だった。
 少しづつ自分自身で選ぶ練習をし始めてから、人生は見違えるほど楽しくなった。一方で実家への足取りは重くなり、20歳を境に帰省することをやめた。友人との付き合い方や服装の変化に口をだされるようになったのが原因だ。心の中で何度も呟いた。「ママとパパの思い通りになれなくてごめんなさい」と。カウンセリングを受けるほど不安定だった時期をどうにか乗り越えても、罪悪感は消えてくれなかった。21歳のとき、両親を喜ばせたくて働いていた靴屋さんのアルバイトを辞め、やけになって水商売の世界に足を踏み入れた。その靴屋さんは2人が勤める企業の系列店だったが、店長からのセクハラやお局さんからのパワハラに悩まされていた。悲しませたくなくて、それは打ち明けられなかったけど。アルバイトとはいえ、夜の業界に飛び込むことを親しい友人は止めてくれたし、母親は片道6時間かけて家まで怒鳴り込みにきた。それでも、泣きながら食らいつき、大学を卒業するぎりぎりまで働き続けた。
 華やかで泥臭い世界の入り口に立ち、学んだことがある。1つは、自分の商品価値は何かを冷静に考え続け、武器を持つべきだということ。正直、わたしの顔面偏差値は51くらいだ。鳩胸で肉付きがいいが、背は小さく寸胴。モデル体型の子と同じキャラでは、存在価値を見いだせなかった。さらには体質的にお酒が飲めない。とにかく笑い、場を盛り上げることで「目当てではないが、いたら嬉しい」とおもわれるポジションを狙った。そして、記憶力の良さを活かして、お客様が吸っているタバコの銘柄やお酒を頼む順番、お連れ様の名前などすべてを頭に叩き入れた。また、後ろを向いているときでさえ気の抜けない空間では、キャスト同士の関係性が顕著に滲みでる。積極的にコミュニケーションを取り、癖のあるお客様が来店されたときは自分が最前線に立つことを意識して、信頼を構築していった。
 そしてもう1つ、残酷だけど女性の若さには消費期限があるということ。年齢を言うだけでちやほやされるのは、せいぜい21歳ぐらいまでだ。見た目が華やかであれば時給が高い、そんな“区別”がザラにある業界で嫌というほど目にした光景だった。むしろ、潔くてありがたかった。若さも美しさも武器になる。ただし、使える期間は限られている。それを武器として認識したからには、存分に使うしかない。賢く生きるための立派な戦略であり、差別やルッキズムとは別問題だ。大事なのは、消費期限を迎えるまでに次の武器を見つけ、丹念に磨くこと。学生だろうが主婦だろうが関係ない。世界と戦う武器を磨き、仲間をつくる。自立に必要なのはこれぐらいだろう。
 一般企業への就職を控えるわたしに、母親からは案の定無機質な言葉をぶつけられた。父親には、泣かれてしまった。数年経ったいまでも、思い出すと上を向かずにはいられない。「カレンだけは、公務員になってくれるとおもっていた」「結局ね、世の中で稼いでいるのは銀行マンとか証券会社に勤めているひとなんだよ」。ねえ、ママ、パパ。わがままで気分屋な娘を愛情いっぱいに育ててくれてありがとう。きょうだいにも甘やかされていたから身の回りのこともろくにできず、心配ばかりかけていたよね。そんな娘が最大限安心して、幸せな暮らしを続けられるよう必死に説得してくれていたのだと、30歳になってようやくわかりました。
 今年、わたしはフリーランスとして一歩を踏み出した。組織に所属する働き方は性に合わず、勢いだけで決断した。なりたいものは山ほどあるし、ついでに借金も200万円近くある。両親に従っていたら、いまごろ幸せな暮らしをしていたかもしれない。だけど、あのときクリアになった視界に差し込んだ光を、どうしても手繰り寄せたいのである。だって世の中おもれーことだらけなんだよ。人魚姫は声と引き換えに足を手に入れ、最後は泡になってしまった。でも、恋焦がれた人間界で夢を見られた。さて、わたしはどうだろう。これまで磨いてきた武器が、ともに世界を切り拓いてくれるんじゃないか。そんな淡い期待を抱きながら、これからの日々にわくわくが止まらない。

高田馬場

あたらし るみ
夜遊び三昧の中学生生活。小学生の頃から貧困で食べるものにも困る日々。高校に行くお金がないのはわかっていた。本当は勉強が好きなのに、自分の将来を閉ざしていた。
案の定、高校に入学したのはいいが学費が払えず中退。当時の私には住むところもなく、未成年ながらもたまたま入ったラブホテルの机に置いてあった求人をみて寮付きのスナックで働きはじめた。そして嘘をついては客から裏引きをし生活をしていた。
そんなある日、行きつけのバーのオーナーに呼び出された。そこに待ち構えていたのは裏引きをしていた客と暴力団風の男。当時の私は怖いもの知らずで自分が世界の中心だと思っていた。
しかし、わたしの世界は一瞬にして壊れた。暴力団風の男が私を見るなり怒号をあげた。要するに今まで客からもらった金を返せと。心配そうなバーのマスターを横目に震える私の手にペンを握らせ誓約書を書かせる。
「終わった」17歳ながらも絶望を感じた。
その日から暴力団風の男から毎日連絡が来る。スナックも辞めさせられ、男とのランチに付き合う。
そんなことが1週間ほど続いたある日、男からまともな仕事を探しているのなら百貨店で化粧品販売をしないか、と提案された。どうやら知り合いが百貨店で勤めていて俗にいう美容部員が足りないらしい。美容部員になるには約1ヶ月ほど東京の本社で研修を受ける必要がある。私は現状を打破できるかもしれないという一心で有無を言わず応募した。よくよく考えたら学歴のないわたしが面接に受かるわけがない。そんなことを考えていた時、電話が鳴った。なんと百貨店で大手化粧品会社の美容部員になることができたのだ。
やっと男から解放される。
そしてついに本社研修の日が訪れる。修学旅行以来の東京は何もかも新鮮で、自分がとてつもなく小さい人間に思えた。
大手化粧品会社の研修では基本姿勢、身だしなみや礼儀、化粧品についての知識、お客様へのメイク、今まで勉強してこなかったわたしには学ぶことが楽しくて仕方なかった。学歴も社会経験もないわたしはとにかく頑張った。
すると研修を受け持つ講師が「17歳の若さでこの会社の門をくぐる子は初めてよ。今のまま懸命に頑張りなさい。ひとりじゃないから大丈夫。あなたは誰よりも優秀よ。」と声をかけてくれた。
その瞬間、肩の荷がおりた。大袈裟かもしれないが自分が認められた気がした。
貧乏を言い訳にして楽な方、悪い方に流され続けた日々。ここで変わらなければ。
その何気ない一言がわたしの中の何かを動かした。
研修から戻ったわたしはしばらくひとりで過ごした。これまでの人間関係とは距離を置き、自分が何をしたいのか、どう生きたいのか、ひたすら考えた。
わたしは勉強が好きだったことを思い出した。綺麗事じゃなく本心でひとの役に立ちたいと思った。
1年後、美容部員で貯めたお金で准看護学校に入学した。友達たちはわたしに看護師は無理だと言った。
その結果、無遅刻・無欠席・学年8位にて卒業。3年間病棟勤務を経て退職。現在は美容サロンを経営。
わたしは貧乏だったこともありお金持ちになりたいというハングリー精神が強かった。
昔から何か自分で会社を立ち上がるんだって思ってた。その夢が叶った。
ひとに認められて、自分自身と向き合ったおかげで辿り着けた。
お金がない家庭に生まれたことを恨んだことは一度もない。パチンコで生活費まで使っちゃう親だったけど、いつも愛されていた気がする。生活費を使っちゃう親なんて子どものことを愛してないと思うかもしれない。でもわたしは愛を感じていた。子どもってどんな親であろうと信じたいのかな。
話は逸れたが、わたしにはまだまだやりたいことがある。
貧しい家庭に生まれた子がわたしと同じように
自ら将来を閉ざして欲しくない。
衣食住が揃っているということは当たり前ではない。貧困の負のループから抜け出すにはまず環境の改善。そして教育が必要である。
貧富の差が広がるといわれている日本。全ての子どもたちが安心して暮らせる社会を作りたい。

塗りが足りねえ

平 雪乃
 自分を大切にできないのは、大切にされるに値する自分がどこにもいないからだと思っていた。
 
 二十歳になり、初めて彼氏ができた。正直、私はさほど彼のことは好きではなかったけれど、好いてくれる人がいるという事実そのものが嬉しかった。今まで一度も可愛いと思えなかった自分の顔をかわいいねと何度も褒めてくれ、私の代わりに私という人間の価値を見出してくれていることがとてもありがたかった。もともと何の魅力もない、モテない自分を見つけてくれたこの人に精一杯恩を返そう。私は忠犬のように従順でいることを誓った。
 彼は喧嘩や話し合いを好まなかった。電話中にすり合わせのための長い会話が始まりそうになると「あーまためんどくさくなってきた。もうこうなったらだるいから切るねバイバーイ」とぷつりと電話を切られた。大事なことは直接話したいタイプなのかと思い、彼の家に行った日に「この間の話なんだけど」と言いかけるとすぐさま場の空気の変化を察知し「そういうの言うんだったら今日はもう帰って」と追い返された。在来線に乗って1時間、さらに20分歩いてはるばるやって来た道を泣きながら帰った。
 生ぬるい涙で頬をべとべとにして、話し合いを持ちかけようとした自分を何度も責め続けた。
 その日から大切にされるための努力が始まった。いつもメッセージの返信は明るく、ふんわりと彼を労るように。デート中に街ですれ違った他の女の子を「さっきの人、すごいスタイル良かったよね、あの人もめっちゃ美人」と彼が褒めれば「ねえ、綺麗な人だったよねえ」とニコニコして会話を盛り上げた。行為のときに避妊具をつけたフリをしたときも「も〜、不安になっちゃうから次はちゃんとつけてね?」と頬を膨らませてたしなめるだけにとどめた。
 この人に出会う前の私が全て、努力や愛嬌で塗り潰されていく。職場のお局の新人いびりがひどいことを話したかった。やきもちを焼いて拗ねたかった。私のことをもっと大事にしろと怒り狂いたかった。でもそれは愛される人間がとる態度ではない。面倒臭いままでいたら愛されないのだ。では、この人に愛されなかった私はどこへ行ってしまったのか。
 愛されるための努力を続け、周囲の友人に「もっとあんたのこと大事にしてくれる人が絶対いるから別れなよ」と言われても私は根気よく彼との交際を続け、一年が経とうとしていた。
 ある日、友人にお泊まりに誘われた。「誘われた」と書いたが同棲している彼氏が出張に行ってしまい、人恋しさで参っているからうちに泊まれ、という半強制的な招集だった。お邪魔した友人宅は新築の2LDKマンションで広々としており、室内に洗濯機置き場もないワンルームの我が家とは大違いだった。憧れの同棲生活を絵に描いたような家に私はうっとりとした。
 風呂上がり、友人が冷蔵庫から何かを取り出した。カップアイスクリームのように見えたがよく見るとそれはフェイスパックで、同世代の女子よりやや美容に疎い私も知っているブランドだった。無地黒のパッケージに白い手書き風の文字が入っているのが小洒落ていて、当時はちょっとした贈り物としてよく買っていた。
 「これ、使っていいよ。」
 と、ずいと差し出された容器に一瞬怯んだ。買ったことはあるがそれが何という商品名かすら知らなかった。正直に言うと100グラムで一千円ちょっとするスキンケア用品は自分のために支払うには高すぎる気がして、自分用に買ったことは一度もなかったのだ。己の無知を晒すのは何だか恥ずかしくて知ったふうに「え、いいの?ありがと〜」と礼を言って容器を片手に洗面台へと向かった。一人ドキマギしながら蓋を回す。ミントの匂いが隙間から溢れた。今まで誰かへのプレゼントでしかなかったパックが、今私の手の中にある。本当に、使っていいのだろうか。鏡を見ると、人の顔色を窺うような表情をした自分と目が合う。おずおずと中指ですくいとり、恐る恐るミントグリーンのスクラブを頬に塗った。ペトリ、と肌にくっつく。鼻のすぐそばでひんやりとした香りが漂う。鏡越しに右頬についた緑をじっと見つめた。瞬間、言いようもない安心感がなだれこんできた。なんだ、こんなことをしても良かったのか。反対の頬にも塗る。冷たさが肌に伝わるたび、心が緩んでいくのを感じた。額や顎にも乗せ顔全体に塗り終えると、初めて使ったことが勘付かれないよう小慣れたふうを装って緑一色の顔のまま友人の元へ戻った。私の顔を見るなり彼女は呆れたように言った。
 「塗りが足りねえんだよ。」
 ワシっと躊躇いなくスクラブを掬い上げ、彼女は容赦なくペタペタと私の顔に塗り足していった。塗り重ねるほどにこびりついていたものが剥がれ落ちていく。10分ほどおいて洗い流すと、パックはザラザラした泥水になって排水口へ流れていった。鏡にはツヤツヤの額の上にポツンとひとつ、小さいニキビを浮かべた私が映っていた。
 私たちが別れたのはそれから1ヶ月ほど経った後だった。彼が私にわざと意地悪をしてきたり、他の子を褒めるのがますますつまらなく感じた。私が我慢することが多すぎる気がしてきてなんだか嫌になってきたのだ。別れを切り出したのは私からだった。今までこの人が私の元を離れるのが堪らなく怖かったのに、電話をしているときに、まるで「今日何食べた?」と聞くようにすんなりと「もう別れよう」と言えた。彼は「嘘だよね?え、ほんとに別れるの?え?」と何度も確認してきたが、私はもう自分の発言を取り消したいとは思わなかった。正式に別れを告げるため、彼の地元でもう一度会うことになった。カフェで話をしている間、彼は目を赤くしていたし、私も涙を流してしまった。もし、この人と復縁するとしたら。これまでの彼との思い出が蘇ってきた。私のことを可愛いと言ってくれたこと、私の一言で不機嫌になった彼の顔をうかがったときのこと。彼の家で一緒にご飯を作ったこと、間違えて元カノの名前で呼ばれて泣いたのを「気にしすぎでしょ」と一蹴されたこと。やっぱりもう、全部いらなくなってしまった。
 帰り際は今までなら改札を通った後も振り返って手を振っていたが、私は人混みをすりぬけて真っ直ぐホームへと向かっていく。彼とは学生時代から社会人へ移り変わる多感な時期を共にしてきた。短くとも濃い期間だったな。彼に会いたくて少ない給料をやりくりして新幹線のお金を貯めたりしていた。そういえば、一度も私の元へ会いには来てくれなかったなと思い出して、へへ、と力の抜けた笑いがもれた。馬鹿なのか健気すぎるのか。一周回ってそんな自分が愛おしくなってくる。
 最後に「どうして別れようと思ったの」と聞かれなくて良かった。「友達の家でパックを借りたから」なんて答え、禅問答か怪しい勧誘をうけたとでも思われたにちがいない。でもおかしいと思われても良かったかもしれない。まあ、どっちでもいいか。あのとき剥がれ落ちたのは、肌の汚れだけではなかった。
 私は空いている二人がけの座席を見つけ、窓際の席に座った。新幹線がゆっくりと動き出す。隣には誰もいない。帰るまでゆったり過ごせるなと思いつつ、一人でのびやかなあくびをした。

優しい壺

加藤 寿美枝
 絵画教室の今日のテーマは[壺]。
様々な壺を描いている内に、何故か自分の身体を思い浮かべる羽目になってしまった。
 体内にあるツボの話ではなく身体のライン。
 女性の身体の形は壺を二つ重ねた様子に似ている。細い首が入り口で、肩の丸味に広がり、ウエスト迄の上半身に壺が一つ。そして、ウエストの窪みからヒップの膨らみで、又壺が一つ。

若い頃私は、結構お洒落をして、ベルトやチーフを使い、姿勢の良さをトレードマークに、颯爽と歩いた。
 その頃テレビで流れていた[ボン、キュ、ボン]という、女性の身体のラインを表す言葉に刺激され、望みは高く高級な下着を買ったりした。
 身体を締め付けることに苦痛も感んじず、ヒールの高い靴も先の細い靴も平気だった。
 ある日、街で一面が鏡張りのビルに映る人がいた。(あら随分と膝を曲げ、前屈みに歩いてる人がいるわ)。そう思った途端に、ギョッとして立ち止まった。周りには誰もいない。(これ私⁉︎)。ビックリしてその場を走り抜け、ビルの隙間に入り、意識して姿勢を正してみた。
 いつの間にか私の身体は、理想の瓢箪型から寸胴型に近く、颯爽としていたはずの歩き方さえ、猫背気味ではないか。仕事を途中にしてすぐに帰りたかった。
 それからでも随分頑張ってきたつもりだが、一番先に変わったのはピンヒールのピンを低めのヒールにし、高級下着も段々疎遠になった。
 シルエットが綺麗な洋服を着る時や、此処ぞという時のお出掛けには、気合いを入れ身につけたが、長時間は保たなかった。
 普段身につける物のサイズが、段々大きくなり、下着類もカラフルな物から肌色系になり、今ではとうとうブラ付きのタンクトップにさえなっている。
 歳を重ね、お洒落が二の次となった今、身につける物は楽であることが、一番大切な選択肢となってしまった。
(ボン、キュ、ボン)何とも魅力的な響き。でも私は(ボン、ボン、ボン)とくる。情け容赦無い酷い言い方。

改めて[壺]のデッサンをしてみる。首は細めにして、胴は思い切り膨らませて、ふくよかな丸型の壺にする。
 これも又美しい。柔らかくて包容力があり、どんな物を入れても受け入れる、優しい壺。
 若さ故の角張りも削られ、穏やかな性格になった今の私そのものではないかしら〜ネ。

大きな黒い眼の赤ちゃん

さとうともえ
42歳の超高齢出産で、息子が産まれた。しかも海外で、シングルマザーとしての出産だった。
高齢だから、障害をもつ子が産まれるリスクが高いと医者に言われていた。例えばダウン症など、染色体異常で先天的な障害をもつ赤ちゃんが生まれる可能性があるという。長く生きられないような重篤なものであれば、妊娠3ヶ月以内なら合法的に堕胎する権利があるからということで、胎児に先天的な異常がないか確認する、妊娠前検査を勧められた。お腹に注射を打って羊水を抽出し、遺伝子検査をするものだ。

検査は、ある程度胎児が大きくなってからの妊娠15週以降にする必要がある。そして、重篤な障害を持つことが分かって堕胎する場合のリミットも考えて、20週前に受けることも推奨される。予約をとって私がその検査を受けたのは、16週目だったろうか。それまで定期的に受けていたエコー検査では、最初のエコーで見た時にメダカみたいだった胎児は、見かけはすくすくと問題なく育っていた。しかしどんな異常が隠れているかわからない。

羊水検査の結果は、胎児の細胞を培養する必要があるため、最低2週間かかると言われた。私は、子供は欲しかった。ただもし、染色体や遺伝子異常で先が短い子供であることが判明したら、障害を持って生まれる子供もかわいそうだから、産むのは断念するつもりだった。しかし、ダウン症の子供だったらどうするか。ダウン症は生きられない病気ではない。産まない選択肢もあるとは言われたが、相談した妹から、その子の生きる権利を奪うのかと、泣いて怒られた。

2週間がたって、病院から電話があった。ちょっと気になるところがあるから、もう少し時間をかけて検査したい、そしてその結果は、10日後くらいになるという。気になるところって何なのか聞こうと思ったが、聞いたところで理解できたかどうかはわからない。聞いても聞かなくても、その後の気持ちはかわらないだろう。検査をしてから2週間は、毎日が不安でグレーな日々だったが、今度は、ダウン症の子供だったらどうするかが頭から離れず、真っ暗な日々を送った。友人に泣きながら相談したら、ダウン症の子供は本当に気持ちが優しくて、いい子ばかりだ。困難もあるかもしれないけれど、心配しなくてもしっかり生きていけると、慰められた。

私はなぜ海外で、シングルマザーの道を選んだのか。
子供のころから、図書館で借りる本と言えばいつも海外の小説だった。特に赤毛のアンが大好きで、シリーズを全部何度も読み、いつか海外に住みたいとずっと思っていた。海外の小説ばかり読んでいたから、海外生活にも違和感がなかった。だから中学と高校では英語を一生懸命勉強して、大学は外国語大学に入学した。

大学を卒業して、「いつか海外に住む」という夢を抱きながら語学が生かせる仕事を探したが、50年近くも前の日本では、今ほどのオプションはなかった。それに私は、地方都市から関西の大学に行って一人暮らしをしていた。「親元を離れた一人暮らしの独身女性」というのは、当時偏見があって大きなハンディで、大企業の就職は不可能だった。また仮にそういう企業に勤められたとしても、女性を海外に駐在員として派遣する企業などなかったし、駐在だけでなく女性の海外出張も稀だった。

私のように、単なる留学ではなく海外に住みたかったら、どうすれば良いのか。道は3つあった。
一つは、商社マンと結婚して、駐妻として海外に住むこと。
もう一つは、外国人と結婚して、その人の国に住むこと。
三つめは、自分で海外に行って、現地で仕事を探すこと。
そして私は、容姿と性格から判断して、三つ目の道を選んだ。

結婚しないと決めて生きてきたわけではなかったが、結婚には、そもそも男性には、あまり縁がなかった。それに私は独立心がとても強いので、誰かを頼って誰かに養ってもらったり、誰かに合わせて生活したりするのは、つらいだろうと薄々感じていた。

そして私は働いていた仕事を辞めて海外に飛び出し、仕事も得て、結局人生の約半分の33年間、子供の頃の夢を果たして海外に住んだ。住んだのは合計5ヵ国。時にはスーツケースだけで、時には家財道具をコンテナに詰めて、ジプシーのように引っ越した。最初の10年はひとりだけで、そして息子が産まれた23年前からは、子供の手を引いての移動だ。どの国でも日本企業に現地採用として勤め、その現地法人会社では日本人だからということで管理職もさせてもらったので、そこそこの収入もあって、生活には困らなかった。

羊水検査の最終結果がでるまでの暗黒の10日が過ぎて、また病院から電話があった。
「遺伝子検査の結果、異常がないことが判明しました」と言われた時、嬉しくて安心して、その場にへたへた座ってしまった。
電話をしてくれた看護婦さんは、「男の子ですよ」と、良かったですねといわんばかりの口調で言ってくれた。遺伝子検査をすると、男か女かもわかるので、希望すれば教えてくれることになっていたのだ。

そしてそこから4ヵ月、お腹の子供は日に日に大きくなり、お腹を蹴るようにもなってきた。つわりは全くなかったが、予定日が近づいてくると胸の上の方まで足が来ている感じで息苦しく、寝苦しい夜は、起きて家の中を歩き回った。
産前の産休はとらず、出産前日まで働いた。予定日よりも10日程早く、破水したような気がしたので医者に行ったら、すぐ入院しろと言う。そう言われてもベビーベッドもまだ買っておらず準備が出来ていない。慌てて自分で車を運転して、出生後に取り敢えず必要なものを買いに行き、運転しながら携帯電話で上司に、明日出産しますと伝えた。

高齢出産だから帝王切開にしろと医者に言われていたが、「出産」という一大イベントを経験したくて、あえて自然分娩をお願いしていた。入院した夜に陣痛促進剤を打たれたが、気持ちが悪くなって吐いてしまい、結局、案の定難産だった。早く済ませたかった医者には迷惑をかけたと思う。あまりに難産なので、途中で帝王切開に切り替える必要があると、分娩台から手術台に5人がかりで移されたとたん、麻酔師の予約が出来ていなかったことに気づき、また分娩台に戻されて、えいやっとお腹を押され、やっとの思いで子供が生まれた。

妊婦さんは皆が大事にしてくれるが、子供がお腹から出た瞬間に、その場の皆が一斉に赤ちゃんを抱えて大急ぎで隣の部屋に連れて行き、私は一人残された。そして数秒後だったのか数分後だったのか、へとへとになっていた私のところに、看護婦さんが生まれたばかりの赤ちゃんを抱えて、見せに来てくれた。
玉のような男の子だ。生まれたばかりの赤ちゃんは目をつぶっているものだと思っていたが、私をみつめる、大きな、映画のETのような黒い眼は、今でも忘れない。あの瞬間が、私の人生が変わった瞬間で、その人生はまだまだ続いている。

『しなやかな竹刀と、わが家のキムタク』

やよい
 忘れ物が多い子だった。
 保護者宛のプリントは出てこない。提出期限が過ぎてからようやく現れるのはまだいいほうだ。ある日ランドセルの底からカチカチになったパンが出てきたときは、言葉を失った。声をかければ、ぼんやりとした返事。毎日毎日、怒ってばかりいた。
 こんな状態で将来やっていけるのだろうか——と私は心配していた。
 今考えると、それは心配という名の焦りだったのかもしれない。「立派な子どもに育てなければ」という、強迫観念に近い何かが、いつも私の胸の奥にあった。
 そんなある日、娘が言い出した。
「剣道を習いたい。」
 家でゲームをしてごろごろしている娘と、剣道。どう考えても結びつかなかった。でも娘は本気だった。気づけば道場の門をくぐっていた。
 剣道の世界は独特だ。礼儀と伝統を重んじ、隙あらば怒られる。道場に入るときは大きな声で挨拶をしなければならない。声が小さければやり直し。あのマイペースな娘が、果たして大丈夫だろうか。
 案の定、怒られていた。
 でも、めげていなかった。
 稽古が終わって帰ってくる娘の腕には、よくアザができていた。こども同士だ。どうしても防具で守られていない部分に竹刀が当たるのだ。最初のうちは思わず「大丈夫?」と声をかけた。娘は自分のアザをちらりと見て、「あ、これ?」と言っただけだった。痛くないわけがない。でも娘にとって、それはもう報告するほどのことでもないようだった。
 冬の道場は底冷えがする。換気のために窓も扉も開け放たれたまま、素足の裏に床の冷たさがダイレクトに伝わってくる。それでも子どもたちは防具をつけて稽古をしていると暑いのだという。娘もじきに「寒い」と言わなくなった。ただ黙って、竹刀を振り続けていた。
——あれ。この子、こういう子だったっけ?
 家にいるときの娘しか知らなかった私は、少しずつ戸惑い始めていた。他の保護者から「しっかりしてますね。立派ですね。」と言われることも増えた。幼い子は幼稚園の子もおり、竹刀をおもちゃのように振り回したり、先生に怒られて泣いたり拗ねてしまう子もいる。そんな中、娘は先生に怒られても文句も言わず黙々と稽古に励んでいる。へえ、そうなのか。家ではあんなにふにゃふにゃしているのに。
 ある日の稽古のことだった。
「今日は自分で面をつけなさい。」
 先生の声が道場に響く。不慣れな手つきで頭の防具である面をつけようとする娘。紐の締め付けが弱かったのか、やはり外れた。私は焦っていた。「先生に言われた通り、家で練習させればよかった」「私の教え方が悪かったのか」。後ろに下がって直しなさい。先生の声が道場に響く。先生の指示を受ける娘の背中に、私は自分の失敗を重ねていた。
 私は慌てて娘のそばに駆け寄った。正座している娘の背後から、面の紐を結び直そうと手を伸ばした。慣れない面の紐だ。私が直さないと、そう思い紐をたぐり寄せようとしたその時——。
「パシッ」
 娘の手が私の手をはねのけたのだ。その手は迷いがなく力強かった。それは私の思考を止めた。時間が止まった感覚だった。払いのけられた手を、もう一方の手で無意識に握っていた。 はねのけられた手はジワジワと熱い。娘は私には一瞥もせずに、無言で紐を結びなおしていた。
「…ああ、そうか。」
  拒絶、とは少し違う。責められているわけでもない。ただ——必要とされていなかった。この場所では、私の手は要らなかったのだ。
 いつからだろう。「できない子」だと思い込んでいたのは。忘れ物をするたび、ぼんやりしているたびに、私がやってあげた。声をかけ、手を出し、先回りした。それが愛情だと疑わなかった。でも本当は、この子が自分でやろうとする前に、いつも私の手が割り込んでいたのではないだろうか。
 娘はそのまま、片足をすっと上げて立ち上がった。防具の重さをものともせず、先生の声に向かって戻っていく。最後まで振り返らなかった。
 何もできないと思っていたのは、私だった。
 思い込みたかったのかもしれない。——この子はまだ私が必要なのだ、と。
 私の支えがなければ歩けないと思っていたのは、私の方だったのだ。 彼女は、もうとっくに、私の知らない強さを手に入れていた。
「パシッ」
 竹刀と竹刀がぶつかる音が、広い道場に響き渡る。
 遠ざかっていく娘の後ろ姿は、背筋が伸びていた。家でゴロゴロしているあの娘とは別人のような、一人の剣士がそこにいた。転んで私が手を差し出すまで泣き続けていた、あの小さな女の子は、もうどこにもいなかった。
 かっこよかった。どうしようもなく、かっこよかった。

 数日後のことだ。
 今日も娘はリビングでゲームをしながらだらだらと過ごしている。私は娘に声をかける。
「ねえ。今度の参観の手紙は、まだもらってないの?」
「あ~。もらった気がする~。」
 相変わらず、気の抜けた返事だ。私が床に転がっているランドセルをひっくり返すと、底から見事にくしゃくしゃになった保護者宛の手紙が出てきた。手のひらで伸ばしても、しわはもどりそうにない。
 またか。大きなため息が、こぼれそうになった。でも——道場での娘のあの後ろ姿が、よみがえった。小言を言いそうになる言葉を、グッとのみ込んだ。
「今度からはお母さんへの手紙。忘れないように気を付けてね。」
 機嫌をうかがうように私を見つめていた娘の顔が一瞬でほころんだ。
「そういえばね、今日学校でキムタクが出たんだよ。めっちゃおいしかった〜。」
「キムタク!?……給食の話?」
 娘曰く、キムチとたくあんを混ぜたおかずらしい。思わず笑ってしまった。
「じゃあ今日の夕飯はそのキムタクにしようか。」
「やったー!ありがとう、お母さん。」
 喜んで自室に戻る娘の背中を見ながら、気づいた。娘が自分から話しかけてきたのはいつぶりだろう。あんなに嬉しそうな顔を見たのは。
 私が先回りしたり、必要以上にやいやい言うのをやめたら、家の空気が変わった。ピリピリしていた娘が、穏やかになった。子どもらしい表情が戻ってきた。もう6年生なのに、と思いかけて——いや、まだ6年生だ、と思い直した。
 きっと本来の姿に、戻ったのだ。
 私が「早く大人に」と急かしていたのかもしれない。怒られないようにと、息を潜めていたのかもしれない。賢い子だから。

 買ったばかりの竹刀は、乾燥していてすぐに割れてしまう。だからたっぷりと油を染み込ませる必要がある。油を吸った竹刀は、しっとりとして艶が出る。すると、どんな打突にも折れない、しなやかな強さを宿す。
 「立派に」と急かして、乾かしていたのは——娘の心だったのかもしれない。
 でも娘は、自ら道場の門を叩いて、自立という油を、じっくり染み込ませていた。
今、食卓で「キムタクがおいしい」と笑う娘は、もう簡単には折れないだろう。
こどもを導くのが親の役目だと思っていた。でも本当は、私がこの子に導かれていたのだ。
あの一言が——「剣道、習いたい」というあの一言が、私の人生を変えた。

2250日

スガイキユカ
「毎日が苦しい。幸せなのに、苦しい」

まぶしい光が差し込む寝室。朝起きた瞬間、どんなに空が笑おうと、正と負の感情が頭を駆け巡るようになったのには理由がある。そう。わたしはある日を境に、「脚本家になる」という夢ができてしまった。それも、初めての子育て真っ最中のタイミングで。

6年前。わたしは産休に入り、人生で初めて長時間の“ひとり時間”を過ごすことになった。周りはみんな仕事や予定があって忙しい。夫も仕事で帰りが遅く、急に話し相手がいなくなったわたしは、無人島に取り残されたような孤独を感じていた。

そんななか、近所のDVDレンタルショップを通り過ぎたとき、ふと思い出す。友人らとの会話で、よく話題になるドラマや映画の話。わたしはその話題になると、決まって聞き手側にまわる。実は名作中の名作も、ほとんど観たことがないのだ。

自分の知らない話で場が盛り上がる時間は、苦痛で仕方ない。そんなトラウマを思い出す自分の顔がお店の窓に映る。眉尻が下がった情けない表情。

「えぇい! 友達が何回も観たとか、泣いたとか言ってた作品、いっちょ観てみるか!?!?」

気づけばレンタルショップのレジで会員登録をしていた。

そこからは早い。子どもが生まれるまで通い詰め、作品を借りては返すを繰り返した。誰とも話すことのできない1日。ドラマや映画の登場人物たちを観ていれば、人と繋がったような気がする。いつの間にか、フィクションの世界にも大切な人が増えていくようになった。

そして、4ヶ月が経過した。子どもが産まれ、深夜3時に授乳をしながら、Amazonでおむつをポチっていたときだった。

「……ん? なんだこれ?」

パーソナライズ化されたおすすめ欄には、なぜか『3年でプロになれる脚本術』というタイトルの本。

「脚本? ……3年でプロになれる、とは?」

詳細を見ると、産休中に観ていたドラマ『アットホーム・ダッド』や『結婚できない男』などを手掛けた人気脚本家・尾崎将也さんの本だとわかる。それまであまり考えたことがなかった。このフィクションの世界をゼロから考え、紡ぐ職業「脚本家」があることを。

今まで映像作品を俳優さん中心にしか観ていなかったわたしに、衝撃が走る。そうだ。孤独なわたしを支えてくれていたのは、登場人物だけではない。その裏で作品を支える大勢の人たち。この方たちが、ドラマや映画というフィクション……つまり優しい嘘の世界を信じて、築きあげてくれるおかげで、わたしのような人たちが救われているのだ。

なかでも脚本家は作品をいちから作り上げるキーパーソン。この人たちがいなかったら、作品の世界に足を踏み入れることすらできない。

すぐさま、ついさっき観ていた作品のエンドロールを確認する。すると、流れてくる「脚本家」という力強いクレジット。それはあまりにも神々しく見えた。

「わたしも脚本を書いて……優しい嘘の世界で、誰かに寄り添いたい」

しかし、これまでは畑違いな仕事をしていた。いまから脚本家なんて……茶畑で米をつくり出そうとするようなものだ。もちろん、脚本の書き方なんてまったくわからない。そもそも、自分は夢を持つ番ではないのでは。子どもを産む前に、出逢えなかった夢。その時点で……。

真っ暗な言葉に押し潰されそうになったとき、抱えていた子どもの顔を見て、驚いた。

口を開けながら、笑っているようにスヤスヤ寝ていたのだ。まるで「せっかくママに夢を運んできてあげたのに、なーに悩んでんだ☆」と、言っているみたいに。

思えば、産休を取らずにこのまま働き続けていたら。わたしはドラマや映画を観ようという思考にならなかった。昔から「夢がある」という人たちに憧れていたけれど、自分は無縁だし、夢なんて一生見つからないと諦めていた。夢なんて。

……そうだ。きっとこの夢は、わたしが見つけたものではない。子どもからの贈り物だ。ママがまだ知らない、すてきな世界に気づかせてあげるための贈り物なんだ。

その日を皮切りに、自分の生活が家族と……脚本中心になった。

まずは『3年でプロになれる脚本術』を片っ端から読む。脚本の書き方を学ぶために、オンラインでシナリオスクールに通う。子どもを寝かしつけながら受講し、すぐにシナリオコンクールにも応募し始める。

どうすれば脚本家になれるのか。情報も少なく、SNSで仲間集めをした。顔も本名も年齢も知らない7人の脚本家志望が集まり、LINEで情報交換や作品の意見交換も始めた。

みんなドラマや映画を愛していて、本気で脚本家になりたい人たちばかり。それぞれの脚本へのアドバイスも的確だ。そんな7人を、わたしはこっそり「神セブン」と呼んでいた。

しかし、現実はうまくいかない。子どもが寝ている時間、授乳の時間。時間の欠片をかき集めては、一文字でも多くの文章を書くが、コンクールに何回出しても一次にも通らない。追い討ちをかけるかのように、SNSで「子どもを育てながら、脚本家になるのはむずかしい」といった趣旨の投稿が流れてくる。

みんな、本気だ。朝から晩まで死に物狂いで書いている。一方のわたしは隙間に書くことで精一杯。どうもがいても埋められない差に目を向けて、だんだん脚本が書けなくなった。そんななか、ある知らせが届く。応募していたあるラジオドラマの最終審査のひとつ手前に残り、プロ脚本家に自分の作品をラジオ講評していただくことになった。

講評当日。子どもをあやしながら、そっとラジオに耳を澄ませる。
プロ脚本家のあたたかい声で読み上げられる、自分の名前、自分がつくった世界。

……涙が出た。

作中のキャラクターが、イキイキと描かれていて、セリフが秀逸だと言っていただけた。「夢を諦めないで」と言わんばかりの奇跡のようなタイミング。再びわたしは、パソコンへと向かうようになった。

それから6年後。わたしは、YouTube映像作品で脚本家デビューをすることができた。

いまは憧れだったプロの現場に入り込むことができ、ドラマの企画書を出したり、引き続きコンクールに応募したりする日々を過ごしている。ただ、まだ目標にしている地上波作品での脚本家デビューはできていない。その現実が、苦しい。思うような自分になれていないのが、悔しい。

子どもは6さいになった。子どもの年齢と夢に向き合ってきた時間は、ほぼイコール。

「ぼくのママは、きゃくほんかになって、ドラマをつくりたいんだって」

先生から、子どもが保育園でキラキラした目をしながらそう言っていたと聞き、小っ恥ずかしくも、いつの間にきゃくほんかを覚えたのかと、成長に驚いた。わたしも負けられない。

あと何年かけて、夢が叶うのか、正直わからない。子どものために、週5フルタイムの仕事だって、簡単にはやめられない。

それでもわたしは、優しい嘘の世界を考える時間が、心底幸せだ。
そのおかげで、ここにくるまでの約6年2ヶ月。2250日。
「3年でプロになれた」とは言えなかったが、毎日書くことができた。

だからまた。どんなに仕事や育児で疲れていても、理想とはかけ離れた自分の姿が苦しくても、パソコンを開く。

まだ見ぬ誰かのために。
ママは今日も、優しい嘘の世界に向き合っていく。

妊婦はペンギンが羨ましい

初夏のアリス
結婚からほぼ1年で、妊娠。
たいていの人には「トントン拍子」「幸せ続き」と評され、そのたびに私の心は少しずつざらつく。
ポジティブな言葉にあふれた会話の中で、飲み込まざるを得ない感情がある。人生が変わることへの不安と葛藤。自分の管理下で一つの命を守り切れるかというプレッシャー。幸福という花が大きくなるほど、花を支える茎の劣化には誰も気づかなくなる。
いわゆるマタニティブルー。わたしがそれを実感したのは、産婦人科の初回健診だった。

土曜日の朝、妊娠検査薬を使うと陽性が出た。生理が1週間遅れ微熱があったため、もしかしてと思ってはいたが、ビンゴだ。自然とガッツポーズが出た。
夫と「子どもが欲しいね」と話してから半年。夢にまで見た瞬間だった。
夫に電話をかけようとして、はたと踏みとどまった。買い物に出かけた夫は、昼前には帰宅する。今のうちに産婦人科に行って、本当に妊娠しているのか確認してから報告するほうが良いのではないか。ぬか喜びさせるのは避けたい。
チャットツールを開き、「熱っぽいから、病院に行ってくるね」と夫に送った。嘘は言っていない。

駅近くの産婦人科は、つんとした薬剤の匂いと、オルゴールのBGMで満たされていた。
「初診ですね。今日はどうされましたか」
受付の女性スタッフが尋ねる。マスクの上から無表情な目でじっと見られ、何となく居心地が悪かった。
「妊娠検査薬を使ったら、陽性が出まして」
 おずおずと答えた。スタッフは機械的にうなずき、手元で何かを記入した。
「妊娠陽性と。出産希望ですか?」
「ええと、はい」
「では問診票を書いてお待ちください。尿検査も」
 バインダーと紙コップを差し出し、スタッフはそっけなく後ろを向いた。拍子抜けした気分だった。おめでとうくらい、言ってくれても良いのではないか。

 白い長イスには先客がいた。ゆったりしたワンピースの上からでもお腹のふくらみが目立っている。わたしは、長イスのもう一方の端に腰を下ろし、小さなショルダーバッグを膝に乗せた。
 問診票に書きこみながら、考えた。
 受付のスタッフに、「出産希望ですか」と尋ねられた。一瞬抱いた感想は「何を当たり前のことを」だった。妊娠の先には出産があって、出産の先には子育てがある。決まりきったステップだと思っていた。ついさっきまで。
くちびるを噛む。それ以外のルートがあるのだ。予定外の妊娠で、堕胎を希望する人。妊娠という事実でパニックになって、先の決断をする余裕もない人。産婦人科の初診受付では、患者がどんな状況に置かれているか分からない。当然「妊娠ですか、おめでとうございます」などと軽々しく言うのはご法度。浮かれていた自分が恥ずかしくなった。
「出産希望ですか」は、簡潔でありながら、心理をフラットに聴取できる。改めて考えると非の打ち所がない質問だ。
問診票を書き終えると、次は尿検査だ。紙コップを持ち、通路の奥のトイレに入った。

「5週目ですね。ほら、胎嚢があるでしょう」
内診の違和感がまだ残る。医者はエコー画像を拡大し、豆粒のような黒い影を指差した。胎嚢とは何かが分からないわたしは、曖昧にうなずくしかなかった。
思わず下腹部をなでる。ここに命があるのだ。一個の生命体が自分の中にいるというのがまだ信じられない。早く夫に伝えたい。どんな反応をするだろう。
「では、再来週また来てください。その頃には心拍が確認できるかと」
「心拍? 今はまだ、生きているか分からないということでしょうか」
 すっと肝が冷えた。妊娠していても、胎内で赤子が無事に育っているとは限らない。
「うーん、何というか……まだ心臓が小さすぎて、観測できないというのが近いですね。今、赤ちゃんは内臓を作り始めた直後だから」
「そういうものですか」
 モノクロのまだら模様に浮かぶ、黒い豆粒を眺める。小人がかなづちやドライバーを振り回しながら、心臓をこしらえている様子を想像した。
 
さて、妊娠したと分かった今、考えることは多い。夫にまず電話するとして、実家や義実家にはいつ言うべきか。職場に伝えるタイミングも、慎重にはからなければならない。
今週末に部署の飲み会があるが、どう振舞えばよいだろう。妊娠中のアルコールは禁忌だ。酒飲みのわたしがウーロン茶ばかり飲んでいれば、勘のいい人は気づくかもしれない。ゴシップの好きなお局がいる職場だから、噂はすぐに回る。根掘り葉掘り聞かれても煩わしいし、いっそ欠席してしまおうか。
おまけに、来月は友人と登山の約束をしている。とても楽しみだったが、身重の体で決行するのは悪手だ。万一のことがあれば、友人に迷惑をかけてしまう。
日課のランニングは、やめたほうがいいだろうか。昨日おろしたばかりのハイヒールも諦めるべきか。食べてはいけないものもあった気がする。もし悪阻が始まったら、仕事に穴をあけてしまうのではないか。ただでさえ、妊婦検診のために何度も休むのに。
そんな生活が、10ヶ月も続く……?
わたしは文字通り頭を抱えた。ただよう薬剤の匂いが、急に不快に感じられる。
子どもはずっと欲しかったし、妊娠したことは何より嬉しい。ただ、自分に起こる変化についてあまり深く考えていなかったのだ。出産の身体的負荷があまりにも母親に偏りすぎている。人間もペンギンのように、女性が卵を産み男性が温めて孵化させるよう進化していたら良かったのに。
「お支払いはどうされますか」
 無表情な受付スタッフの言葉で現実に引き戻された。診療明細をちらりと見る。14,000円なり。妊娠関連の受診費用は保険対象外だ。
クレジットカードでと答えながら、もう一度頭を抱えたい気分だった。

 お大事にという声を背に自動ドアをくぐる。生ぬるく湿った風が頬をなでた。
ベビーカーを押す女性が通り過ぎた。大きなトートバッグ、無造作に後ろでまとめた髪、スニーカー。寝転んだ赤ちゃんと一瞬目が合った。何歳なのか何か月なのかちっとも分からないが、ふにゃりとゆるんだ口元が可愛い。
わたしも一年後くらいには、あんな風にベビーカーを押して歩くのだろうか。我が子もいつか、あんな風に道行く人を眺めて笑うのだろうか。
昼前の大通りには、ベビーカーがたくさん行きかっていた。見えるだけでも5台、10台、もっと。そこに乗ったすべての赤ちゃんが、ついこの間までエコーの黒い豆粒だったのだから、物凄いことだ。

スマホを取り出した。着信履歴のいちばん上、夫の名前をタップする。呼び出し音は一度だけ鳴った。連絡が来るのを待ち構えていたのか。
「もしもし、病院終わったよ」
「熱、大丈夫?」
夫の心配そうな顔がありありと浮かんだ。この人が父になり、わたしは母になる。親になるまでの道は果てしなく長く、知らないことばかりに思える。
「うん、熱は何ともなくて」
「良かった。お粥作ってあるよ」
低い声が心地よい。背中を押された気がして、わたしは一息に言った。
「妊娠してたよ。5週目」

あひがとうございました

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人生が変わった瞬間と言う程の革命的な出来事なのか自信がありませんが、大きなポイントだったんだなぁと思った出来事、お話があります。
私はとにかく平均的な人生を送って居ると常々思っており、進学、結婚、出産…とまさに平均値のど真ん中を突き進んでいるつもりで居ました。順調に進むと思って居た人生のレールは妊娠の段階で大きく躓き、第一子妊娠まで長い時間がかかりました。躓いていた時は人生が思い通りに進んでいかないもどかしさ、挫折感ばかりを感じていました。とにかく真っ暗闇な世界に居たイメージです。
待ち望んだ第一子誕生からは育休中に2人目を妊娠し、子育てしながらの出産に向けて忙しい毎日を送りました。大変だなと思う事の方が多く、育児を楽しめていたとは言えなかったと思います。第二子誕生後、夫の海外転勤があり、1年後には一緒に暮らせるよう海外生活の準備も進めつつ毎日慌ただしく暮らしていました。まもなく夫と合流出来そうなタイミングで、第一子の発育に疑問を持つようになりました。嫌な予感は当たるもので第一子は自閉症と言うスペシャルニーズを持ち合わせていました。そんな子供達と一緒に夫の待つ海外の地へいざ出発です。右も左も上も下も重い軽いも全て、とにかく何もかもが未知の世界で子供達の生活、教育、日本にいた頃よりも訳の分からないスピードで過ぎていく毎日でした。第一子のスペシャルニーズについては、受け入れていたと言うよりは水面に第一子を浮かべて自分はその水の中から様子を伺って居る様な、違和感のある自分がいました。受け入れる事だと分かっていてもゆっくり落ち着いて考える事すらしていなかった気がします。そんな毎日でしたが、海外で同じ様にスペシャルニーズの子供を育てる日本人のお母さん方とお会いする機会がありました。私は聞きたいことがあるのか、困っている事があるのかすら頭の中を整理できずにとりあえずその場に行ってみました。そこに居たお母さん方はとても逞しく、圧倒された事を覚えています。海外生活に慣れているのはもちろん、子供たちのフォローの事、将来の事、私が知るべき事をすでに知識として身につけている方々でした。私は悩みや不安を聞かれたものの、的を得ない事をのらりくらりと話してやり過ごした記憶があります。そんな中、1人のお母さんとのお話の中でサラッと言われた事があります。私は、その言葉を聞いて第一子を水の中からではなく、地に足をつけて向き合える様になったと思っています。その方にとっては世間話の様な当たり前の事であっても私にはとにかく衝撃的でした。私の頭の中にスッと浸透していったのです。
人生が変わった瞬間、私の凝り固まった固定観念が変わった言葉を聞いた時です。「あなたは自分の出来ることをやってあげてるじゃない。他にどんな事が出来るの?プロじゃない私たちがしてあげる事なんて限られてるんだから今してあげている事を大事にしたら?」サラッと自分の子供にイチゴをあげながら話してくれたその言葉が忘れられません。自分を卑下する様に話していた私に喝を入れてくれたのか、ピシッと背筋が伸びた言葉でした。自信を持って、とにかく向き合っていくこと。スペシャルニーズがあろうがなかろうが、相手が子供だろうが大人だろうが何であろうとも、逃げずに向き合うんだと思い直しました。
私の人生が変わった瞬間は、「待ち望んだ第一子に自閉症があると言う事が分かり、育てていく中である人からの言葉を聞いた時」です。
人の話を聞いて自分の考え方、生き方、物事の捉え方が変わったのは初めての出来事でした。人生を送る上でとても大切な要素です。人生が変わると言う事は、その都度自分という人間のアップデートをし続けていく事なのかなと思います。物理的な変化ではなく、1人の人間として変わっていける事を楽しんで、毎日を送れています。子育てに追われる中で発狂する事も心底自分が嫌になる事もある毎日です。自閉症児のこだわりや思考を理解できない事に嫌気がさす事もあります。そんな中でも自分を理解して、認めて、どんな出来事にも向き合う事を楽しんでいきたいと思います。
人生は、やっぱり楽しみたい。そう思える様になれて本当に良かったです。
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