作品一覧
- 「親不孝」という名の救い ─ 私が父の送迎をボイコットした日 / 小西 なつき
- 13時間を生きる / まつした
- Clear eye / 沙華やや子(しゃかややこ)
- 最期のお花見 / ピンヒールを履いた雌犬
- 30歳で出会えた、音と愛が溢れる場所で生きていく / Lil’Mii
- 私の人生が変わった瞬間 / いくぽん
- 四方正面のはずれで / 見習いの花
- 私、生きてる? / 相良 郁
- 百四十万の、ずいぶん安い人生 / 那苑葉
- 私の人生が変わった瞬間 / もちこ
- 「薄い水色の静けさの中で、灯った光」 / 夜星 空
- 私の人生が変わった瞬間 / NUK. (ヌーク)
- 春を、忘るな。 / 墨丸
- こつぶ / たなべあべの
- 反出生主義と体外受精と人間の幼体と私 / 楠本ナナキ
- 科学者の卵 / Riko Kimura
- 皺が気に入ってきた / 小林明
- 好きのその先 / saji
- Hope / 愛香
- 静かな帳尻 / 沙羅 みち
- 不機嫌でいるには、短すぎる / mikari
- 「はじめまして」とあなたに言えた日 / ミザ
- 地球はまんまる / 田中ミキ
- 桜は徒花か / 新谷 志津乃
- 気づいた時には / MISATO
- 運命に流されず / 幸雪すず
- 「可愛い」アレルギーを乗り越えて / 朝顔
- ナイチンゲールと柱時計 / 西城町子
- あなたと生きる新たな人生について / あまなつ
- ひらめきのふりをして / 柚咲ゆず
- おばあちゃんとどら焼き / はまさき あみ
- 天からの光 / 岬とうこ
- 子育て卒業 / 大野成子
- 一粒の涙 / sachi
「親不孝」という名の救い ─ 私が父の送迎をボイコットした日
対する母、そして私たち三姉妹は、この野生動物に果敢に立ち向かう「飼育員」のようなものだった。私たちは互いを尊重し、気遣うために「言葉」という尊いツールを使い、どうにか調和を保ってきた。四人で回していた交換日記は、私たちの絆の象徴だ。そこには、野生動物には決して理解できない「言葉の聖域」が存在していた。
しかし、人も動物も老いからは逃れられない。父が白内障の手術を受けることになった。視界が曇っているのは老化のせいだけではなく、いよいよ人生のレンズそのものまで曇ってきたらしい。そんな父が、運転のできない母を「役立たず」と罵った。母はその言葉に罪悪感を抱き、「自分が役立たずだから、代わりに送迎をお願いしたい」と、泣きそうな声で私に電話をしてきた。
その瞬間、手がわなわなと震え、意志とは無関係に涙が溢れ出した。39年間、表面張力で耐えてきたコップの水が、ダムの決壊のような勢いで決壊したのだ。
「もう、この動物を飼いならすのは無理だ」心がそう叫んでいた。
耐えきれず、私は二人の姉に「緊急事態宣言」のSOSを出した。だが、三姉妹というのも時に厄介なものである。あの動物をどう扱うべきかという相談に対し、意見は真っ二つに割れた。
長女は、野生動物テルオに対しても「話せばわかる人間だ」という淡い幻想を抱いているようだった。39年という歳月を共にして、彼と対等な対話が成立した試しなど一度もないというのに、彼女はまだ彼を「保護」しようと懸命だった。
一方の次女は違った。「それはひどい。怒るのは当然だよ」と、私の隣で一緒に槍を構えてくれたのである。
私は二人の間で、アイデンティティが迷子になった。普段、心理セラピストとしてクライアントの心は解きほぐせても、グループラインの中に渦巻く姉たちの意見一つ解きほぐせない。情けなくて、腹立たしくて、私の視界は白内障の父よりも真っ暗になった。
がんじがらめになり、動けなくなっている私に、次女がそっと何も見なくて済むようにアイマスクを差し出してくれた。
「親だからって、何でもやらなくていい。あんたは行かなくていい」
その短いメッセージが、私の元に届いた。
「親を愛し、敬い、尽くすこと」「親孝行は当たり前」。野生動物である父は、どこで覚えてきたのか、そんな道徳的なセリフをよく口にしていた。そんな「一つ覚え」の幻想が正解だと信じ込もうとしていた私の世界が、音を立てて崩れた。いや、私が自ら壊したのだ。
瓦礫の先に現れたのは、「私は、私を一番に大切にしていい」という、あまりにも当たり前で、あまりにも新しい選択肢だった。
長女は、父という猛獣に「反省文」を書かせ、平和な家族ごっこを再開させようと事務手続きに奔走していた。だが、私の心はもう、そんな事務的な手続きで修復できるレベルを超えていた。次女の「行かなくていい」という一言は、どんなセラピーの理論よりも深く、私の魂を癒やした。
結局、父は変わらない。野生のまま生きてきてしまったのだから、今さら人間に進化することなどないだろう。これからも長女と意見が食い違うこともあるはずだ。
けれど、本音をさらけ出したことで、私は次女というかけがえのない「戦友」を手に入れた。
「なんて困った生き物が家族にいるのだろう」と、何度神様に嘆いたか分からない。
けれど、父は変わらなくていい。それが彼の生態系なのだから。
その代わり、私は変わる。仲良しの家族という幻想を卒業し、「自分を生きる」と決意した。人生はいつだって、自分の選択一つで、その瞬間から変えられるのだ。
13時間を生きる
私が仕事を長く休むのは、これで3回目である。職場にものすごく迷惑を掛けている。職場はいつも親切で、結構長く休ませてくれるし復帰の際は手厚くサポートしてくれる。だから3回目ともなると、なんてダメな人間なんだ自分は、と強く思う。社会の役に立っていない。存在意義がない。
存在意義がない、という考えはかなり良くなくて、あっという間に心が死に向かう。あなたがいるだけでいい、と言ってくれる人はいるけれど、そんなことはないと思う。役立たずに存在意義はない。私に存在意義はない。
あなたの心が喜ぶことをしたらいい、とアドバイスをされたので、私の心が喜ぶことって何だろうと考えた。本を読むこと、甘いみかんを食べること、犬の匂い、犬の散歩、クン活にいそしむ犬の後頭部とお尻、犬がオシッコをするときのポーズ、犬がウンチをする時のポーズ。そうだ、私には犬がいる。
犬は、私がトイレに行って戻っただけでも大歓迎してくれる。こんなにも無垢で愛おしい存在と暮らしているというのに、私は自分の死を考えるのである。自分の死について考えている途中で、犬がいることを思い出して、いかに無責任な考えであるかに気がつく。これを何度も繰り返した。
月に1回、リンパマッサージを受けに池袋のサロンに通っている。いつも担当してくれるスタッフは40代半ばの女性で、32歳の私よりもずっと元気で、私は毎回、その人からパワーをもらっている。サロンのスタッフは若くして退社する人が多い。だからその人はおそらく業界では高齢で、いつ退職してもおかしくないのだが、私はその人が大好きなので、ふた月前に「ずっとお店にいてください」と言った。そして、おととい私は、朝10時の予約を当日キャンセルしてしまった。キャンセル料3000円は、キャンセルしない理由にならなかった。
もう長い間、私は眠い。薬が処方され、症状に名前が付く前から、私は眠かった。中学生のときは、部活に備えて授業のほとんどを寝ていたし、高校生のときは通学時間が長かったので更にひどくなった。大学生のときは、なるべく1限に講義を入れないようにしていた。出席数が足りなくなることは火を見るより明らかだった。必修の講義が1限に入ってしまったときは出席するようにしたけれど、だめなときは友人に代返を頼んだ。その友人とは在学中になんとなく疎遠になり、今はもう連絡をとっていない。
眠いと上手く呼吸ができない。上手く呼吸ができないから眠い可能性もある。長く眠ると、起きている間の体調が良い。長く、というのは、大体11時間である。布団に入った時間から、起床できるようになるまでの時間が11時間。布団に入ってから眠るまでの時間は分からない。薬を飲んでいるのに全然寝付けないときもある。
起きていられる時間の長さよりも、起きている間の体調が良いことを優先することに決めたのが、ひと月前である。1日のうち、起きていられる時間は13時間になった。この諦めのような決心をしたときに、私の人生は少し変わった。具体的には、ひとまず13時間で生きることに専念する生活になった。
できるだけ犬に時間を使いたいので、自分の中で不要だと思う習慣を減らすことにした。そのひとつがスキンケアである。SNSを見ないことよりも先にスキンケアを削るのは自分でもいかがなものかと思ったが、始めてみると、身だしなみへのハードルは心の負担になっていることに気がついた。だから肌断食を始めたということにした。肌断食の経過は、良くも悪くもない。Tゾーンはそれなりにごわごわしているが、他の部分については特に困ったことは起きていない。ごわごわは相当近づかれなければ分からない程度なので、問題がない。スキンケアをしていたときは、顔に何かが触れることをできるだけ避けていたが、肌断食を始めてから気にしなくなった。インターネットで見た肌断食のメソッドに従えば肌への刺激は変わらず避けるべきであったが、ウンチをした後の犬の尻が頬に押し付けられていても、全く気にならなくなった。衛生観念が下がっただけかもしれない。
次に、選択する回数を減らすことにした。今日何を着るか、朝何を食べるか。服は同じものを3セットでローテーションすることにした。服は、臭くなければいい。朝ごはんはバナナとみかんとプロテインに固定した。歯磨きをして顔を洗ったら、犬と散歩に行く。犬の気の向くまま、犬が歩く方に私も歩く。
予定を入れるのは怖い。予定は私を緊張させる。起きていられる時間帯であれば問題なく実行できることは分かっている。だが予定を入れたときから予定日の前日に眠りにつくまで、私はずっと恐怖に襲われ続ける。それは初めはうっすらとしたものだが、当日が近づくに従って強くなる。前日夜のナイーブさといったら自分でも呆れるほどである。おとといのエステの前日は、驚くほど寝付けなかった。だからなるべく予定を入れないことにしている。エステは頑張って続けたい。エステを頑張るという贅沢すぎる目標は、あのスタッフに会いたいから掲げている。好きな人に会う予定でも億劫になるのはよくあることだとSNSで見た。
犬に散歩してもらっているとき、時々会う犬がいる。左の後ろ脚がない白い犬である。耳の先だけ柔らかい茶色をしている。昨日、小さな公園でその白い犬が日向ぼっこをしていた。駅近くにあった花屋の移転先が分からないと白い犬の飼い主が言うので、花屋の移転先に案内した。私はその花屋が移転前に店先に貼り出していたお知らせを見て、移転先を把握した。自分はその花屋に一度も入ったことがないのに、白い犬とその飼い主を案内した。
移転先まで調べ上げているのに入店しないなんておかしい、と昨日思ったので、今日初めて入店した。店主は、花瓶は出会いであること、花は月曜日と金曜日の午後3時頃が1番新鮮であること、店長のゴールデンレトリバーは4歳であること、この店ではツケ払いができることを教えてくれた。
花を買うというのは、可処分所得に相当な余裕がある人にしか許されない行為だと思っていたが、働いていなくても、1日が13時間しかなくても、社会の役に立っていなくても、買いたければ買っていいらしい。
私は花を買った。
Clear eye
しかし、息子の笑顔が一番だった。
生まれた時、皆赤ちゃんだった。
私は悪い事をした。薬に暴力。
そして、息子のあの瞳に私は気づきを貰い、ここまで更生した。
今は物書きになりたく、日々小説やポエムに情熱を傾けている。
私が笑われても信じてやまないもの。それは、全ての人の心の中にある愛。
最期のお花見
その桜をお渡ししたとき、娘さんは少し驚いたように目を見開き、すぐに柔らかい笑顔になった。「母、桜が好きだったんです」と静かに教えてくれた。その瞬間、胸の奥で何かがほどけるような感覚があった。私はただ、花さんの部屋に春を連れていきたいと思っただけだったのに、その選択が偶然ではなく、どこかで導かれていたように思えた。
そして今日、娘さんから「祭壇にも桜を特別に入れてもらいました」と連絡をいただいた。白い菊の中に淡い桜色がひとつ混じるだけで、きっと空気はやわらぎ、花さんらしい明るさが戻ったのだろう。桜は散りゆく花だと言われるけれど、その儚さの中にある確かな美しさは、花さんの生き方そのもののようにも思えた。
その知らせを受け取ったとき、胸の奥に静かに「ありがとう」という言葉が浮かんだ。桜を選んだ自分の直感にも、花さんにも、そしてそれを受け取ってくれたご家族にも向けた、小さな感謝の気持ちだった。
今年の桜を見られなかった花さんに、ほんの少しでも春を届けられたのなら、それだけで十分だ。あの日の選択を、今はそっと誇りたい。
30歳で出会えた、音と愛が溢れる場所で生きていく
新しい土地に引っ越して約1ヶ月が経った頃、また「音」を求めている自分がいることに気づいた。20代の頃は音好きがきっかけでmusic barで働き、DJもさせてもらっていた。日に日に増えるレコードに心躍る毎日だったが、さまざまな理由が重なり、音のある場所から離れなくてはならなくなった。「もう二度と音楽に携われない」と絶望する中で、泣く泣くレコードや機材を手放し、「沢山使われて幸せになるんだよ」と、『我が子たち』を見送ったのだった。
それから2年後、30歳になる少し前に新たな一人暮らしがスタートした。引っ越しを経て心機一転、自分の人生を楽しむことにしたのだ。思いっきり音を楽しみ、沢山の曲や人に出会いたい。そのためには、まずその「場所」を見つけなければならなかった。とは言っても、知り合いがほとんどいない土地で、情報を集めるのは困難だった。そこで、今時だなとは思いつつも、SNSで調べることにした。すると、キーワードを入れる前から気になるアカウントが1つ、目に留まった。
「ん?おすすめのアカウント……?それもmusic barだ」
プロフィール画像には「Music Cafe & Bar」と表記されており、続けて店名が載っていた。アカウントを覗くと、まだあまり投稿がされていないようだった。唯一投稿されていた内容を読むと、どうやら最近オープンしたらしい。「そうか、つい最近できたばかりだから情報がないのか。気になるけど、お店の雰囲気もかかってる曲のジャンルも分からないし、どうしようかな」そう最初に思ってしまい、すぐには行かず、とりあえずアカウントをフォローだけしてみることにした。まさかこのきっかけが、私の人生に大きな影響と生き甲斐を与えるなんて、この時はまだ知る由もなかった。
その数日後、意を決してお店に向かうことにした。悩んではいるものの、結局行ってみたいから悩むのだ、と思い至ったのが理由である。オープン時間は21時。平日、仕事を終えて身支度を整え、いざ街へと向かった。何度か歩いた通りに面するビルの3階。しかし、看板は見当たらず、本当にここで合っているのか不安になりつつも、エレベーターへと乗り込む。エレベーターの扉が閉まるのも、上がっていくスピードも緩やかで、相当古いビルであることを思い知らされた。3階につくなり、辺りを見渡す。あった。突き当たりの店。そこにはSNSのプロフィール画像と全く同じデザインの看板が見えた。一歩、また一歩、ゆっくり、息を潜めながら進んでいく。何も悪いことはしていないのに、緊張は増していくばかり。ドアノブに手をかけ、ギイィっと音を立てて扉が開く。薄暗い店内。どうやら、入ってすぐの角を曲がらなければ、店内の様子はわからないらしい。曲がった瞬間、客席側に立つ長髪をまとめた髭の男性とバッチリ目が合った。年は40代くらいだろうか。手元にはビールとダンボール。それを見た瞬間、「まだ準備中だ」と脳内がサイレンを鳴らした。
「あ、すみません、まだオープン前ですか?」
焦って話しかける私にその男性は、
「いや、オープンはしてるんで大丈夫ですよ」
と、お互い少し緊張と焦りのようなものを言葉に染み込ませながら話し続ける。そこで、男性が恐る恐る私に問いかけた。
「あの、店、合ってますか?」
その言葉を耳にし、どういう意味か理解できず、パニック状態が加速する。しかし、何かを考える前に、私は咄嗟に口を開いていた。
「合ってます! 音楽が聴きたくて来ました!」
緊張からか、少し張った声に、次第に笑い声が重なり合う。どうやら、私が全身白っぽい服装で、そんな女性が1人でオープン時間に合わせて飲みに来るなんて、信じられなかったようだ。現に、そんな女が私なのだが。
カウンターに案内され、暗い照明の中、お香が漂う店内を進み、ゆっくりと椅子に腰かけた。どうやら、この男性が店のオーナーらしい。最初の会話とは打って変わって、太く安心感のある声も心地いい。初対面とは思えないほど話は弾み、お酒も進んで、笑いが絶えない夜になった。時間があっという間に過ぎ、楽しく感じられたのは、オーナーのトークスキルがズバ抜けているからだと、この時思った。こんなに話題が絶えず、そしてかかっている曲も知らないけどカッコよく、そんな心が高揚感に包まれる中で、初めて来る場所に対して「もっとずっといたい」と思ったのは、自分でも驚きだった。心が求めていた音楽。私がその店の常連になるまでに、そう長くの時間はかからなかった。
人間、どうしても次から次に願望は溢れ出るもので、最初は音を楽しめたらいいと思っていたのに、次第にそれだけでは足りなくなってしまった。「そのmusic barで働きたい」という思いが込み上げたのだ。ただ、「私にできるのか?」「30歳らしく他の働き方があるのでは?」と考えると、なかなか一歩踏み出せなかった。何をするにも頭の中はそのことばかりだったが、家で音楽を聴きながら食器を洗っている時、身体を揺らさずにはいられなかった自分が答えだと気づいた。オーナーの人柄、そして音楽が好きという気持ち、そのお店で働きたい理由は揃っていた。
音を求めていた自分が、音以外の魅力にも引き寄せられ、心の底にしまっていた「これだ!」という感覚を呼び覚ました。音楽やカルチャーへの愛。そして真っ直ぐで、少し不器用で、でも真剣に向き合ってくれる人の側で自分自身も働きたいと、そう強く思ったのだ。
絶対に今日行ったら働きたいと伝える、と決意し、いざ店の扉を開いた。いつものようにカウンター越しに迎えてくれるオーナー。挨拶する声、グラスを持つ手、全てが緊張で震える。もし、働くことを断られたら? 正直、その後のことは考えていなかった。なぜなら、断られたとしても、尊く大切な存在であることに変わりは無いからだ。酔いが回る前に、意を決して口を開いた。
「バイトって、今募集してますか?」
緊張で、後半になるにつれて声量が小さくなる。オーナーは予想外の質問だったからか、一瞬だけ沈黙が流れた。
「出勤はタイミングでって感じでも良ければ、募集はしてるよ」
その言葉に一気に安堵が押し寄せ、肩の力が徐々に抜けていった。音楽が好きなこと、元々music barで働いていたこともポイントとなり、無事にスタッフの仲間入りを果たしたのだった。
結局のところ、私が求めていたのは音楽だけではなかったようだ。音楽に対する情熱。人との輪。自分が安心できる場所。尊敬できる存在。そういったモノ全てが、私の人生を大きく変えてくれた。自身を取り巻く環境に苦しみ、一度は手放した音楽に、私はまた救われている。音と音を繋ぐのがDJなら、music barで働く私は、音と人、人と人を繋ぎたい。30歳の正解なんて分からないままだが、この先も変わることなく、私は進んでいく。心の底から愛せる場所、存在に出会うことができたのだから。
私の人生が変わった瞬間
B型作業所で作った作品をインスタグラムに掲載しています。友達がかわいい絵だねとか元気が出る絵だね、とか、コメントをくれてとても嬉しかったです。わたしの両親もわたしが毎日楽しく仕事に行く様子を見て、安心したようです。わたしのことを見て「郁ちゃん、なんか明るくなったね。」とか「楽しく毎日を送っているんだね」とか私が良い方向へ進んでいくことをとても喜んでくれていてとても嬉しいです。B型作業所「でじるみ」では、コンペに挑戦する環境を作ってくれています。わたしは「統合失調症感情障害」という病気を抱えていましたが、自分の心が安定してくるのを自分自身でも感じています。
頭の中がまとまってきて、これは本当のことか、これは嘘なのかとか、そういうことも現実的に考えられるスキルを身につけることも出来るようになりました。
何故わたしがB型作業所に通っているかと言うと、どこの職場に行っても、仕事がなかなか成立せずに、人間関係も作ることも苦手でした。ここのB型事業所に来るまでは、別のB型(作業所)に通っていました。そこでも書道の活動をしていて、筆文字のいくぽんフォント(1万50文字)を作成したり、絵の活動を始めるキッカケになる仕事をしていました。「でじるみ」が岡山県倉敷市に出来たときに、前の職場の所長さんが「郁枝さんが、やりたいことを出来る作業所が近くに出来たから、見学に行ってみてもいいかも」とコメントをくれて、見学に行きました。「わたしは2日で辞めるんじゃないか」と思っていましたが、「でじるみ」は組織がしっかりしていて、辞めさせないイベントがあったり・・・気づいたら8か月を越える日が過ぎていきました。
わたしは自分では意識はありませんでしたが、小さいころからの自分を見直していると、「絵を描くこと」「文字を書くこと」「写真を撮ること」「お話を作ること」など、好きなことがいっぱいあったことに気が付きました。
前の職場では、私がお話をすることが好きなことを知ってくれていて、「リカバリーストーリー」と言って、精神疾患や生きづらさを経験した当事者が、発病から回復(自分らしい生き方の再構築)までの過程を自身の言葉やアート(絵本、音楽、漫画など)で語る体験談です。所長と一緒にパワーポイントを使って、自分の経験を発表しました。多い時は200人の方に参加してもらい、楽しく自分の話しを話しました。
わたしの人生が変わっていくのは「常」だと感じています。毎日が気づきの連続で、毎日が、ハッピーに過ごせている今の自分が大好きです。
わたしは2017年に精神科病院に入院しました。保護室といって隔離された生活で毎日辛い毎日を送っていました。時計とトイレと食べるものしかない部屋で、気もちが暗くなりそうだったけど、時計の秒針に合わせて「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」と、何回も何回も無理やり言いました。自分が健康になるために出された食事は感謝をして全部食べました。本当は嫌だったけど、素手でトイレを掃除。「トイレの神様」の歌を歌いながら、綺麗にしました。部屋にもゴミが溜まっていてその時はティッシュを濡らして、床を綺麗に掃除しました。入院中は78キロあった体重が53キロまで減量することが出来ました。
退院してホッとした気もちから現在また73キロまで増加しましたが、「人は見た目だけでは勝負できない」ことも知りました。人のために何かをするという喜びを気付くことが出来ました。今まで料理や洗濯や掃除をそれまで経験することが出来ませんでしたが、その後に続く、生活訓練事業所の体験で、自立した生活を送るキッカケ
出来るようになりました。
わたしは、色々な嫌な体験もしましたが、病気になったからこそ気付く、健康のありがたさが分かるようになりました。何事も挑戦するには健康でないとチャレンジが出来ないので、当たり前と思われていることもバカにせず、着々とこなしていくことの大切さも学びました。
もしかして自分って恵まれた毎日を送ることが出来ていたのだなと気付くことも出来ました。私が明るく健康になることが家族の笑顔や幸せに繋がることも出来たようで、家族のニコニコの笑顔が嬉しくてついつい、料理をたくさん振舞っています。お父さんはそれが嬉しかったのが作った料理を、全部平らげて食べてくれます。
そんな父の姿を見ると、また頑張って料理の腕をあげようかって思えます。
母とはクイズ番組を一緒に見て、正解はこれだとか、この漢字はこう読むとか、色々言いながら楽しんでいます。そんな、日常がまたわたしの力になり、生きる力になります。犬のまると散歩する中で、近所にある花から、元気をもらっています。頑張って根を張って、生きている姿がたまらなく愛しいです。散歩道で見つけたお花に勇気をもらいました。
わたしがずっと求めていた自分の姿って、有名になることでも何者かになるものでもなく、家族がみんなを思い合い、心を一つに支え合う、仲良しな家族だったことに気が付きました。それは私だけの思いだけではなくて、家族みんなの願いだったことにも気付くことも気付きました。わたしの色を良い風に捉えてくれて、大事にしてくれる家族の存在がとてもしあわせだなって思えるようになりました。これからも毎日がいっぱいステキな気もちで過ごせるように、家族を大事に思う気もちを大切にしながら生きていきたいです。
四方正面のはずれで
しかし最近になって、花たちも“利き顔”を持つようになった。人に見せたい向き、最も美しい角度。 SNSの台頭によって形づくられた近年の情報社会では、人間の格好の悪い部分は隠蔽され、整えられた一面だけが世界へと発信される。そのコントロールされた情報に感化された人々は、消費の対象を変えていった。高価で美しい物、洗練された物、そして美しい人間。それと同時に、他人との競争心が植え付けられ、その結果、人は一人ひとり孤立していく。それなのに、他人に向けた批判も、非難も、嫉妬も、ばらばらの個人から発せられたはずなのに、不思議と一つの声になって各人に降り注いでいく。どうやら人は、常に誰かの視線の中で評価され続けているらしい。
幼い頃、私は姉と生け花教室に通っていた。毎週、新聞紙に包まれた花と対峙しながら、一つのストーリーを考えた。デザインを考えるのが好きで、構成もうまくこなせる姉と比べて、私はまるで白い紙に下書きのない絵を描くように花を生けた。ざらざらして手触りの悪い茎。簡単に皮膚を切り裂く棘。茎を切ると、なんとも言えない香りと液体が溢れ出る。私の作品は、きっと生け花らしくはなかった。それでも花器の中の花たちは、私の素の感性を押し付けられても、変わらず美しく色づいていた。私は生け花が好きだった。
ある日、「母の日のカーネーション」をテーマに自由花を生ける課題が出された。花材はスプレーカーネーション、ニュウサイラン、丹丁アリアム。カーネーションのピンクを真ん中に据え、緑でその周囲を囲った。しかし姉は、カーネーションはむしろ低く生け、ニュウサイランを主軸に色を足していき、四方正面に仕上げた。すべての花材が主役になれていた。家に帰ってからも、テーブルに置かれたその作品を眺めて感嘆した。その日以降、私は妙に‘四方正面’の作品を作ることにこだわるようになった。コオリ柳の茶色がどうしても気に入らず、その扱いにくい枝を取り払うのは痛かった。こでまりは緑色を減らそうとして小さく切りすぎてしまい、作品はこじんまりしてしまった。くすみ色を中心に生け、色のつく花を四方に散らした。どこから見ても花が見えるように工夫した。しかし、まとまりを失った花たちは、不思議と色褪せて見えた。結局一度も四方正面の作品を作ることなく、生け花を辞めた。特別な感情はなにもなかった。
大学生になって、私はSNSに多くの時間を使うようになった。今流行りの服やメイク、写真映えするカフェや風景。トレンドを追うたび、素性の知れない他者と同一化しようとする自分がいた。周囲の人との付き合い方も変わり、「週末なにしていたの?」なんて会話は消えた。でも「あのカフェ美味しそうだった!」という会話は増えた。SNSは会話を消し、同時に会話を生んだ。しかしこの変化は決して会話の域にとどまらなかった。人生を彩り、同時に人生を左右する存在へと変わっていた。誰が決めたわけでもない基準から外れる者は、時に新たな基準となり、そうでなければ袋叩きにされる。この一か八かの世界で、敗者は簡単に弾かれた。ネットには批判が絶えなかった。どこを向いても正面であった。
中心にバラを生ける。その周囲に、花を取り払った背丈の高いこでまりと、枝を残したままの凶暴なコオリ柳を生けた。背を低くしたバラの残った茎も生ける。棘が今にも刺さりそうだ。いつのまにかバラの花びらは黒ずんでいた。傷を負ったバラは、どこから見ても逃げ場がなかった。それを『四面楚歌』と名付けた。そのとき初めて、私は四方正面を生けた。想像の中で生けた私の作品は、やがて崩れていく。バラは色褪せて、水盤の水に浮かんだ。時に剣山に突き刺さる。水を得た枝や茎は、上へ、横へと伸びていき、ときに私に向かい花を咲かせた。もうバラは見えなかった。
昨年の冬、私は生け花教室を訪れた。昔と変わらず、公民館の一室で教室はひっそりと続いていた。その日の花材はバラ、ミツマタ、ヒバ。四方正面のことなどすっかり忘れ、久しぶりの生け花にわくわくしながら作品を仕上げた。先生に指導をもらうタイミングで、ふと『四面楚歌』を思い出し、四方正面の作品を作りたいとそのアイディアを話してみた。先生は、驚いたような、どこか悲しそうな表情をした。「生け花はね、花材が来るその瞬間まで、アイディアなんてないのよ。あなたの考えは素敵。でもね、花を手段に使っちゃいけない。一輪一輪の花が主役なのよ。」
その言葉にハッとした。私は、バラの華やかさにしか気づけないまま、花を勝手に評価していた。
花の美しさは、必ずしも華やかさではない。松の緑や竹のしなやかさ、寒さの中で咲く梅の姿。私はようやく、その静かな美しさに気づいた。
SNSに飛び交う情報には、客観と主観が入り混じっている。そして他の媒体と比べて、多くの主観が集まる。レストラン一つとっても、各人の感想やエピソードが、そのまま店の評価につながる。味の感想だけでなく、店員の愛想がどうだったとか、家具の配置がよかったとか、写真を撮ってくれただとか。もちろん値段にも。ただそれは「評価」ではなく、ただの「体験」にすぎないのだと、私は気づき始めていた。基準の異なるレビューは、採点基準の違うテストを競い合っているようなものだ。その店で何を体験したいのか。他人の「最高」や「最悪」に流され、失敗を恐れていた。いつのまにか私は、意気地なしだった。
私は決してSNSの批判家ではない。むしろ肯定的に捉えている。便利な情報屋だから。本来なら自分で疑問を持ち、調べるべきことまで教えてくれる。だからこそ、過程を大切にするために使うことにした。SNSの誰かの写真は、自分の目指す姿ではない。誰かの言葉は、自分の意見の正解にはならない。そのボーダーレスな世界で、しっかりと自分を周囲から確立させ、自分の感覚を正解として選べるようになった。
三月、大学卒業を控えた私は最後の生け花教室に向かう。
少ししなった新聞紙を開く。細長く、つぼみの多い桜。濃い紫色のストック。ひょろりと細いゴットー。どんな考えも浮かばず、鉄黒色の花器を見つめる。一輪一輪を観察して、葉の向きやつぼみの向きを見ながら生けていく。桜はそのままの高さで真ん中に据える。花は天井に向かって咲いている。ストックたちは短く切り、ほとんど水平に剣山に挿す。その紫色は花器に埋もれる。ゴットーは中心寄りで少し斜めに。それぞれの向きのままに、自然に生ける。花と花のあいだに、静かな余白が残る。完璧ではないのに、私には居心地がいい。先生は、静かに頷いた。
花だって、まとまりたいわけじゃない。
それぞれの向きのまま、咲いている。
私もまた、一輪として、ここに立っている。
私、生きてる?
19歳の私は、その募集要項の見出しに目を疑った。
劇団員募集ではなく、30代女性、という文字に。
当時、私の概念には、30代女性というと、結婚、出産、育児のこの単語しか頭に浮かばなかった。
30代で、劇団員に応募する女性って、いるの?
その疑問から私の中で、『自立するとはなんぞや』という課題が根を張っていったのは過言ではない。
小さなアトリエ劇場は、土足は厳禁で必ず照明を明るく見せる為に場内をぐるりと黒幕が張り巡らされている。
19歳の私は、そろりそろりと、下靴を脱ぎ、これまた黒いシャツを着た若い劇団員から手渡されたナイロン袋に下靴を入れ、案内された座布団の敷いた座席に腰を下ろす。
場内は静まり、誰かの語りから、劇が始まる。
一人の女性が、小さな舞台の真ん中に立ち、額から汗を流しながらセリフを独白する。
その、強い瞳。
その、漲る力が、私に鼓動として伝わり、いつの間にか、泣いていた。
後にも先にも、あれほどに生き生きとした女性を見たのは、ない。
あれから、30年の時が流れ、私は、あの時の女性よりも歳を重ねた。
結婚も、出産も育児も経験なく生きてきた。
それでも、あの女性を時々思い出す。
そして問う、私、生きてる?と。
百四十万の、ずいぶん安い人生
私は、かつて醜かった。
一重で、ひどい癖毛で、沖縄にいながら日に焼けない肌をしていた。瓶底のような眼鏡をかけ、教室の隅で本ばかり読んでいた。本州生まれであることを理由に、名字に「さん」をつけて呼ばれ、それは敬意ではなく、明らかな嘲笑であった。
容姿の不出来と、妙に勉強熱心であることと、実家が多少裕福であったこと。それらが混ざり合い、私は半ばいじめのような扱いを受けていた。
しかし、髪をまっすぐにし、東京の大学に進学した途端、私は「美女」と呼ばれるようになった。学科の違う人間からも、噂でその名を聞いたことがある。
私は、ただ場所を変えただけであった。
それだけのことで、人間の価値は簡単に反転するらしい。
メイド喫茶のアルバイトに受かった。倍率は九倍であったという。「椎名林檎に似た可愛い子がいる」と、どこかで言われていたらしい。身長は百六十五、体重は四十二。沖縄では当たり前とされていたぱっちりとした二重瞼を持たない私の目が、初めて肯定された瞬間であった。
私は、そのとき、少しも嬉しくなかった。
ただ、世界というものが、いかにいい加減な基準で人間を裁いているかを知り、軽い眩暈を覚えた。
実際に、私はよく眩暈を起こすようになった。自律神経の調子が悪かったのだろう。食器を割るからという理由で、職を失った。
それから私は、いくつかの職場を転々とした。動作が遅いとよく言われた。私には、それを改善する能力がなかった。男に好意を持たれ、それがいつの間にか執着に変わることもあった。
私はその頃から、自分というものを、うすうす理解していた。
私は、中身のない人間である。
能もなく、ただ見た目だけで評価されている空虚な存在である。
就職活動もうまくいかなかった。顔で採る企業もあると聞くが、私はそこまでの顔ではない。それでもなぜか、私は見た目を評価される場所にばかりいた。
どこにも属さない、半端な存在であった。
年齢とともに、私は少しずつ太った。かつて肯定されたはずの一重が、再び私の劣等感の中心に戻ってきた。
去年の秋、私は自分の目を変えた。
医者を選び抜き、自然な平行の奥二重に整えた。
それ以来、私は美しいと言われるようになった。
しかし、妙なことに、人は私の目を褒めなかった。鼻筋や唇、あるいはほくろの位置を褒めるのである。肝心の目について言及されたことは、一度もない。
私は、毎日鏡を見た。
腫れが引くまで、何度も何度も確認した。自然になるまで、まだか、まだかと待ち続けた。
やがて、私は一つの線を手に入れた。
目の上に走る、細い皺である。
私はそれを、飽きることなく眺めた。角度を変え、その影を確かめる。その一本の線に、私は奇妙な恍惚を覚えた。
この価値は、私にしかわからない。
そう思ったとき、私は少し、悪魔的であった。
手術は、痛くなかった。麻酔を追加し、音と感触だけを頼りに、自分の顔が作り替えられていくのを待っていた。肉の焼ける匂いを嗅ぎながら、私は過去を葬った。
それほど大げさな痛みではなかった。
努力と呼ぶには、あまりにも軽い。
私の中に溜まっていた鬱屈に比べれば、あの程度のことは、取るに足らない。
私は過去を捨て、新しい顔を手に入れた。
鏡を見る回数は減った。自分を確認する必要がなくなったからである。
だがその代わりに、私は自分の顔に金額をつけることを覚えた。
糸で引き上げ、注射で形を整え、削るようにして輪郭を作った。
現在の借金は百四十万である。
私はそれを、踏み倒すつもりはない。
これは、私の人生の値段である。
思っていたよりも、ずいぶん安い。
私の人生が変わった瞬間
うちの団地から角を曲がると、古い二階建てのアパートがある。外壁はところどころ剥がれ、通りの子どもたちは「ボロアパート」と呼んでいた。近所でも「あそこはちょっと怖い」と言われ、私もなんとなくその言葉に乗っていた。夕方に前を通るときは、足が少し速くなった。誰が住み、どんな暮らしをしているのか、知ろうともしなかった。知らなb」
いほうがいい、と勝手に決めていたのである。
ある日、同じスーパーで働く同僚が、仕事帰りにそのアパートへ入っていくのを見た。片手に小さな段ボール箱を持っている。一階の階段下にそれを置くと、そのまま帰っていった。不思議に思ってあとで近くまで行くと、箱の中にはラップに包まれたおにぎりが入っていた。表には油性ペンで「梅」「昆布」とある。底にはきれいに折ったキッチンペーパーが敷かれていた。作った人の手つきが、そのまま残っているようだった。
それから二度三度、同じ光景を見た。私はだんだん、その箱のことが気になってしかたなくなった。あのアパートを「怖い」と言いながら、私は何を怖がっていたのだろう。貧しさだろうか。知らない人だろうか。それとも、自分のすぐ近くにある現実を見てしまうことだろうか。
数日後、私は家でおにぎりを握った。梅と昆布を二つずつ。冷蔵庫にあった卵で、薄い卵焼きも焼いた。スーパーでもらった小さな段ボール箱に保冷剤を入れ、底にキッチンペーパーを敷き、日付も書いた。いざ持っていくとなると、急に気恥ずかしくなった。お節介かもしれない。余計なことかもしれない。そんな迷いを抱えたまま、私はアパートの角を曲がった。
箱を階段下に置き、すぐ立ち去ろうとしたときだった。上から小さな足音がぱたぱたと降りてきた。髪を一つに結んだ女の子だった。小学校の低学年くらいに見えた。女の子は箱を見つけ、次に私の顔を見た。私はとっさに何も言えなかった。するとその子は、声も出さずに、私に向かってぺこりと頭を下げた。
私は息をのんだ。ありがとうと言われたわけではない。ただ小さく頭を下げただけなのに、胸の奥がゆるんだ。あの子は受け取る側なのに、少しも卑屈ではなかった。私もまた、何かをしてあげた人間の顔ではいられなかった。ただ、同じ町にいる一人の大人として、そこに立っているだけだった。
そのとき、ふいに父のことを思い出した。私が小学生のころ、両親は離婚し、父は町はずれの古い共同住宅に移った。部屋は薄暗く、流しの横には買い置きのうどんが並んでいた。 月に何度か、母は私を連れて父の部屋へ行った。薄い卵焼きと煮干しだけの、細長い弁当を置いて、長居せずに帰った。父は決まって「すまんな」と言った。私はその言葉が嫌いだった。母に謝る父を見ると、子ども心にみじめで、いたたまれなかった。母の弁当が、そのみじめさに印を押すようにさえ見えた。
けれど帰り道、母はいつも空を見上げた。そして「あそこ、今日の雲は魚の形みたいね」と笑った。父の悪口は一度も言わなかった。私は長いあいだ、母のあの振る舞いの意味がわからなかった。
あの女の子に頭を下げられたとき、初めてわかったのである。母は父をかわいそうな人として助けていたのではなかった。父が父のままでいられるように、黙って支えていたのだ。必要なものは届ける。でも、相手の顔はつぶさない。そのための短い滞在であり、帰り道の空の話だったのだろう。
父が亡くなったのは、もうだいぶ前のことである。葬儀のあと、私は父の部屋を片づけた。押し入れの奥から、古びたアルミの弁当箱が出てきた。細長い、あの弁当箱だった。ふたの角はへこみ、古くなっていたが、見まちがえようがなかった。中は空だった。ただ、底にうっすらと染みが残っていた。
父はあの弁当箱を捨てていなかったのだ。
私はその場でしばらく動けなかった。子どもの私は、あれをみじめさの印だと思っていた。けれど父にとっては、そうではなかったのかもしれない。父は「すまんな」と言いながらも、ちゃんと受け取っていたのだ。母の気づかいも、食べ物も、言わなかった思いも、あの細長い弁当箱ごと。
そのとき私は、ようやく両親のあいだに残っていた細い道を見た気がした。夫婦ではいられなくなっても、憎み合うだけでは終わらなかったものがある。母はそれを黙って差し出し、父は不器用に受け取っていたのだ。私は子どもだったから、その往復の意味が見えていなかった。
あの女の子のぺこりで、私は長いあいだわからなかった母の思いを、ようやく受け取り直したのだと思う。そう思った瞬間、視界がにじんだ。アパートの前で泣くのはおかしいと思って顔をそむけたが、一度ゆるんだものは戻らなかった。
それ以来、私はアパートの前を急いで通らなくなった。前と同じ建物なのに、見えるものが変わった。ベランダの洗濯物、夕方につく明かり、帰ってくる足音。箱は今も、無理のないときだけ置く。毎週きちんとできるわけではない。何も持っていけない週もある。それでも、できるときに、できる分だけ続けている。ときどき箱の底に「助かりました」と小さなメモが入っていることがある。丸い笑顔の絵だけの日もある。私は誰が書いたかを考えない。ただ、届いたのだなと思うだけで十分だからである。
今日も台所で梅干しを刻む。ごはんを握り、日付を書く。箱を胸に抱えて家を出る。アパートの角を曲がる前に、ふと空を見ることがある。雲は魚の形には見えない日も多い。それでも、母もきっとこんなふうに空を見上げていたのだろうと思う。父の部屋に残っていた弁当箱の重さと、あの日の小さなぺこりは、今も私の中でつながっている。あれが、私の人生が変わった瞬間だったのだと思う。
「薄い水色の静けさの中で、灯った光」
色も温度もなく、ただ静かに積もっているような冷たさ。
その冷たさがどこから来たのかは分からない。
ただ、そこにあることだけは確かだった。
気づけば、私は長いあいだ、自分の気持ちを後回しにしていた。
誰かの期待に応えようとして、立ち止まることさえ忘れていた。
その積み重ねが、胸の奥の冷たさになっていたのだと思う。
あるとき、胸の奥のさらに奥、言葉にできない場所がゆっくりとほどけ始めた。
ほどけるというより、固まっていた何かが静かに緩んでいくような動きだった。
その緩んだ部分が涙になって外へ流れ出す。
涙は驚くほど冷たくて、身体の奥に沈んでいた冷たさがそのまま形になって出ていくようだった。
涙がひとしずつ流れるたびに、胸の奥に空白のような静けさが生まれた。
冷たくも温かくもない、ただ時間が止まったような静けさ。
薄い水色で、透明に近い。
音も動きもなく、世界が息を潜めたような静寂さがあった。
その静けさの中心に、小さな光がそっと灯った。
黄色とオレンジのあいだの、やわらかい色。
炎のように揺れるのではなく、丸い形のまま、じっとそこにある光だった。
光は小さいのに、不思議と消えそうには見えなかった。
光は、外側へ向かってゆっくり広がり始めた。
輪郭がはっきりしないまま、蜃気楼のように揺らぎながら、胸の奥のほうへ静かに伸びていく。
広がるにつれて、光の色は少しずつ濃くなっていった。
薄い水色の静けさの中で、光だけが深まっていく。
光が奥へ伸びるたびに、胸の奥の空間がふわっとひらいていくのを感じた。
前へではなく、左右でもなく、ただ奥のほうへ向かって広がる。
力を入れて吸う必要はなく、空気が勝手に流れ込んでくる。
呼吸というより、胸の奥の空間が静かに満ちていくような動きだった。
涙が冷たさを連れていき、薄い水色の静けさが生まれ、その静けさの奥で光が濃くなりながら広がっていく。
胸の奥がひらき、呼吸が自然に流れ込む。
その一連の動きは、私の内側が静かに生き返っていくような、深い場所の変化だった。
あの光は、私が私に戻るための、最初の合図だったのだと思う。
冷たさの中で固まっていた時間が、静かにほどけていく。
その変化に名前はない。
けれど、胸の奥でそっと灯ったその光が、私をもう一度、前へと送り出してくれた。
私の人生が変わった瞬間
ほんの数日前のあの出会いもその一つ。去年の秋から気になっていたギャラリーを紹介してくれたのは、3年ごしにやっと話が出来た人。年に一度のイベントの3回目に言葉少なに作品を褒めてくれた人。気がつくと展示先を紹介してくれていた。そんな人が勧めてくれているのなら行ってみようと、春が来るのを待っていた。
作家の思いを作家以上に理解している人とは、いくら話しても話し足りない。聞いた話に意味があり、滋味ある話は栄養になる。そのギャラリーは、納得のいく展示になるようにと、じっくりと腰を据えた鍛錬ある運営と、人生観に基づいた展示物を精選している空間だった。何よりもオーナー夫妻御自身がそのギャラリーをいかに大事にしているか、物を創る世界を慈しみ、人の心をいかに大切にしているかが伝わってくる。あれこれと新しいことにチャレンジし、結果として方向が定まっていく私のやり方とは違っていて、その違いが貴重だったりもする。迷ってはいなかったけど、恐る恐る一歩を踏み出している私をも、包括してくれる喋りの楽しさ、心地よさ。時々転んでは立ち上がり、沼っては這い上がっている私にとって、慎重で繊細なアプローチの仕方は、隣にいてほしい存在だ。これが今の私の最新の《瞬間》だ。
「木の命を大切にした形を生み出そうとしている」とその作家の思いを伝えようと努めている。私の作品をも大切に扱い、キャンバス裏にジェッソを塗ったばらつきや、隠し味的な蛍光剤にも気づくほど作品を見てくれる。作品から何かを感じとろうという人には、作品の方から語りかけていくものだと気づく瞬間。興が乗り、手が勝手に描いたその線を、面白いと目を輝かせて見ていたその瞬間を何に例えよう。またお話に来てくださいと言われ、相手にとっても意味ある時間を共に過ごせたと分かったその時。
そんないい瞬間ばかりではなかったけれど、振り返るとそれをも糧にしていっている私の人生。
「それは違う。黙っているだけじゃ何も変わらない。じゃあ、どうすればいい?」
「どうすれば救える?救われる?」
「どうしてそんな嫌がらせをするんだろう」思い悩んでいる時に、ある人の言葉にはっとする。
「私は今、そんなことを考えている時間が勿体ない」雑なような、日常のような、マイナスのようなその言葉。でも実はとんでもなくプラスの前向きな思考だった。それは、ハイデガーの《死だけは誰も代われない》の延長線上の深い意味を持つ。
人間関係を円滑に行うために、人は空気を読み忖度する。それは一つの協調性かもしれないし社会性かもしれない。でもそれを続けていると、自分の気持ちが小さく縮こまってしまっている。周りとはぶつからない、いい人扱いされるかもしれないけれど、本当の自分じゃなくなっている。ハイデガーはそれを《本来性》といっている。そして同調は人を無責任にしているとも。
対話も大切だから、おしゃべりを続けるためには、空気を読むことも大切なんだろうけれど・・・私はかつて、「空気読めよ」の言葉にヒヤッとした覚えがある。それは空気を読まない発言をする人を否定しているとしか思えない表現だったし、そう言われると誰も次の一言を言えなくなってしまう。暗い空気のシャットダウン。実はハイデガーは後に非難された一因に、対話のなさ、一人考え込むことをよしとしてしまうと、間違った方向に辿り着く可能性があると指摘されている。
否定しないように、否定されないように、相手の思いを探りつつ、自分の考えだって探りつつ、会話のキャッチボールを続けよう。相手に合わせ過ぎると、本当の自分が隠れたままで、時は過ぎ去る。自分は人とは交換不可能な存在だから、誰も私の代わりに死ぬことも出来ないし、生きることも出来ない。
きっとオーナー夫妻の生き方が心に残っているのは、その《決意性》に触れたからだと気づく瞬間。
これまでに、こうした瞬間がいくつあったことだろう。
この《瞬間》から次が始まる。
春を、忘るな。
私は教師である。しかし、人前で話すのが苦手だ。授業はともかく、学校を異動する際の挨拶などはいつも難儀する。周囲の先生達を見ていると、「すん」に近いほど「しん」とした生徒の静寂を波立たせるような良い話を事もなげに紡ぐ。私は密かにそれを「教員の血」がなせる技と呼んでいる。私にはそれができなかった。自分が言うとどこか白々しく感じてしまうのだ。だから私は、生徒に約束するという形でしか思いを伝えられなかった。
言葉にすることで、生徒達が少しでも何かを感じてくれればいい。そして、それは自分自身への励ましにもなると思っていた。
大学卒業後着任した特別支援学校を去る朝、最初の離任式で私は誓った。
「どんな時も、最後まで頑張る先生になります」
一人で生きていけるように、日々の授業が組まれていた生徒達への、それは小さなエールでもあった。
次の商業高校での離任式では未来への約束を胸に刻んだ。
「昨日できなかったことが今日はできた――そう感じてもらえるよう、生徒を支え続ける。」
さらに前任校では、泣きながらこう告げた。 「もし二つの道があったら、私は自分を向上させるために、難しい方を選びたい」
あの時は、困難な道を選ぶことが正しいと信じていた。担当する国語を苦手とする生徒が多い学年に配属されると、授業や補習、テストに全力で向き合った。受験を乗り越える生徒を見守り、自らの道を切り開く十代の姿が私自身を鼓舞し、次の春へと私を導いていった。生徒のために頑張ること。それが自分のやりがいだと思っていた。しかし、それはいつしか、自分を縛る鎖となった。「やらなければ」という思いと「もう無理だ」という心の声との境界がわからなくなっていた。険しい道を選ぶことが生徒のためではなく、「約束を守らねばならない自分」のためになっていたのかもしれない。
数年後、現在の学校で学年主任を打診された。その頃には、「努力」という名の鎧が重すぎて、息をするのが辛くなっていた。体調が優れず断りたかったが、つい「難しい方」を選んでしまった。
程なく訪れたコロナ禍の混乱の中、更年期の症状も重なり追い詰められていく。生徒が登校しない教室で、蛍光灯の硬い光が私の中の「まだできる」と「もうできない」のあわいに突き刺さる。同僚が教師として未知の状況の中をたくましく分け入りながら進み、ICT授業を繰り広げる中、私は日々学校に行くだけで精一杯だった。そして不調が重なり、学校を休みがちになる。休めば休むほど、学年主任としての自分の無力さに内蔵が裏返るような絶望感をおぼえる。ただでさえ大変な状況の中で、人の支えになるどころか足手まといになっている。そのすべてが、私の毛穴の一つ一つから「お前はだめな人間だ」という囁きを吹き込む。校長はあくまで、学年主任として残れるような方向で配慮を重ねてくれたが、私は私を見限った。
それが、52歳の夏だった。
休職後、私は一日中、ほとんど動かなくなった。目覚めると、まず自分のふがいなさにひとしきり泣く。そのあと布団から出て夫が作ってくれた朝ご飯をひとくち飲み込んだ瞬間、また、涙が出てくる。そのままリビングに横になる。南向きの窓から光が徐々に差し込み、私の体を照らす。それを私は牢獄の中の囚人のように恥ずかしく思った。みんな今頃、一生懸命働いている。生徒はどうしているだろう。いや、私にはそんなこと考える資格もない。夜がくる。
そんな日々を二年過ごした。
復職せず退職しようかと迷っていたある日の午後、立て続けに携帯が震えた。前任校の女子生徒と、現在の学校の最初の教え子からの電話だった。
現在の学校の教え子は、「私たちのクラスは英語コースだったけれど、先生のおかげで苦手な国語もがんばることができました。」言葉が柔らかく響く。「でも、先生はいつも一生懸命だから潰れてしまわないか心配でした。これからは少し楽な方向を選ばれてもいいと思います」
高校生の頃のままのはっきりとした、けれど大人の女性らしい温かな物言いに、私は声もなく何度も何度も頷いた。
偶然にも、その電話を切ってからほどなく、
前任校の生徒からの着信があった。彼女は、ひとしきり私の状況を気遣った後、こんなことを言ってくれた。
「先生、離任式の言葉、覚えていますか」
少しの沈黙の後、彼女は続けた。
「今の世の中は、なんでもわかりやすい方が認められやすいけれど、難しいことに取り組んでこそ、初めて分かることもあるって。だから私も、難しい方を選ぼうと思いました」
声が震えていた。さらに静かに付け加えた。 「授業で、菅原道真の『東風吹かば』を読みましたよね。あの話、好きでした。『あるじ無くとも春を忘るな』――覚えていらっしゃいますか」
あの教室の空気が、一瞬で戻ってきた。
黒板の前に立つ自分。
窓の外の、まだ硬い梅のつぼみ。
ノートにうつむく生徒たち。
言葉を返そうとして、声が出なかった。
私は、忘れていなかった。
ただ、見えなくなっていただけだった。
約束は、私を縛るためのものではなかった。私を導く道しるべだった。
あのとき伝えたかったのは、ひとりで険しい道を行くことではない。
誰かとともに歩み、支え合いながら、少しずつ前に進むことだったのだ。
そのことを、教え子が思い出させてくれた。
今、私は再び教壇に立っている。
以前のように、教師らしい良い話をしようとは思わない。
うまく話せなくてもいい。ただ、目の前の生徒と同じ場所に立ち、同じ方を見ていたいと思う。
春に結んだ約束は、消えてはいなかった。
形を変えて、ここにある。
春を、忘るな。
こつぶ
生きるとは、歳を取るとはそういうことなのだと、刷り込まれる。特に女という生き物は、夢を見続けてはいけないものなのだと、いつの間にか思わされていた。幼稚園の頃には、もう何かを諦めていたのかもしれない。仲良く手をつなぐ小さな手と手は、いつしか何本にも分かれた道へと歩みを進め、それぞれ手を振りながら離れていく。
母親になって思う。それは幻想だったのだと。思い込まされた記憶に、吐き気がするほどの嫌悪感が湧いてくる。
「三日にライブに行ってくるね」
夫にそう言うと、わかったと返事が返ってきた。中学生の頃から大好きなバンドのライブ。きっとこんな話を母親が聞いたら、こう言うだろう。
「まだ、そんなことにかまけているの?」
子どもを放っておいて、そんな場所に行くなんて。まるで耳元で言われているように、幻聴のように聞こえてくる声に一抹の不安と罪悪感がこびりつく。いくら磨いても取れない錆。女とは、結婚したら、子どもを生んだら、自由になってはいけない。そんな呪いのような縛りが、鎖のように絡みついていた。
「いってらっしゃい」
ライブ当日、夕飯を用意し、靴をはく私に、子どもは玄関で手を振った。我が家では当たり前の光景のはずなのに、行かないでと言っているもう一人の子どもの残像が重なる。
「お腹が空いたら、ご飯食べていいからね」
「わかった!」
無邪気に返事をする子どもに、行ってきますと伝え、扉に鍵をかける。
ここからライブ会場まで三十分。はやる心を押さえながら早足で歩く。昔より何もかもが重いはずなのに、少女に戻った時のように足取りは軽い。
入り口には人が溢れていた。みんな同じバンドのファン。考えるだけで血が滾る。好きなものは変えられない。母親になったとしても。
「子どもを置いてまで、いい加減にしたら?」
容赦なく母の言葉が降り注ぐ。子どものそばには常に母親がいなければならない。それが当然だというように。
母は、よく若い時にやりたかったことを語った。じゃあ今からすればよいのに。よくそう思ったものだった。
「今からやってみたら?」
「いや、もう無理だよ」
その言葉を聞くたびに、私を苛つかせた。口には出すのに、行動しようとしない母親。したいことがあるなら、してしまえよ。そうやって、過去を回想し満足している母親は、結婚や子どものせいにして、どれほどのことを諦めて生きてきたのだろう。まるで、母という役割に縋りつき、心の奥に押し込んだ自身の少女の存在に許しを乞うかのように。何度も繰り返される懺悔は、子どもの私には荷が重すぎた。
チケットに書かれた座席を探し出し、椅子に腰を掛ける。ライブ前の薄暗いステージが遠くに見えた。ざわざわとした雑音が耳に入り、自然と胸が高鳴る。
時計を見ると、開始まであと一分となっていた。誰からも連絡が入っていないことを確認すると、ためらいながらスマートフォンの電源を切った。
かかっている音楽の音が少しずつ大きくなっていく。同時に今から始まるのだという高揚感が胸を支配していた。ぱっとライトが灯った。ライブが始まったのだ。馴染みのあるイントロがギターの音とともにホールに響き渡る。その瞬間、私は何もかも忘れて少女になっていた。無限の可能性を孕み、全てがきらきらとしていたあの頃に連れて行ってくれるようだった。生きている、という実感がどくどくと湧いてくる。メロディに合わせて飛び跳ね、サビで拳をあげる。汗がじっとりと纏わりつき、息が上がる。二曲目はバラードだった。目を瞑ると、なぜか子どもの顔が瞼の裏に浮かんだ。
母という役割は、一人の女性の人生を狂わせるのかもしれない。大好きなバンドのライブに来ているのに、今、こんなことを考えて何になるのか。雑念を振り払うように、音楽に合わせて頭を振った。
拍手とアンコールが鳴り響く。開始から二時間は経過しているだろう。その間、何も起きていなければいいのだけれど。
再び登場したメンバーに、ホールは熱狂に包まれた。日々の暮らしで経験しえない現実が、煙幕のように立ち上る。湿った空気を吸うと、なぜか悲しくなった。こんなことをしていてよいのだろうか。今この瞬間、もっと他にやるべきことがあったのではないか。後悔にも似た気持ちが広がる。母である限り、個の私は消えていくのではないかと思った。
会場を出た私は、汗ばんだ首元をタオルで拭った。粘つく汗に、あの頃とは違うのだという現実を突きつけられる。ライブ中も、子どものことを考えない時間はなかった。何も起きていないだろうか。ちゃんとご飯を食べているだろうか。心配が数珠つなぎに湧いてくるのは、刷り込まれたそれなのか。帰りは夫が迎えに来てくれることになっている。電源を切っていたスマートフォンを起動する。通知がないことを確認すると、ひとまずホッとした。番号をタップし、電話をかける。
「今ね、ライブが終わった」
「じゃあ、迎えに行く。コンビニで待ってて」
プッと切れた通話に、子どもが無事に留守番していたことがわかった。
会場近くのコンビニまでゆっくりと歩いたが、あっという間に到着してしまった。夫が来るまでは、もう少し時間がかかるだろう。お腹が空いた気がして、店内に入り、おにぎりを買った。駐車場で齧るおにぎりの味は美味しかった。久しぶりに叶った一人だけの外出に、興奮するかのように、いくつもの米粒がすぐに胃の中へと消えていった。店から漏れ出る煌々とした灯りが、すっかり暗くなった駐車場を照らす。
しばらくして、夫が運転する車が国道から入って来た。手を挙げて合図をし、乗り込む。てっきり子どもも一緒に乗っているかと思ったが、後部座席には誰の姿もなかった。
「一緒じゃないの?」
「留守番するって」
「そう」
窓の外を見ると、ライブ帰りの人の流れが駅へと向かっているのが見えた。横並びに三人で歩く同年代らしき女性の表情が目に入った。みんな笑顔だった。あの頃の自分のように。心の中の時間が巻き戻る。ライブ中に、さらさらとした汗をかきながら飛び跳ねていた十代。いつの間にか瞳が潤んで、車の窓から見える景色が歪んで見えた。夫に気づかれないように、横を向き、唇をぎゅっと締める。
ポツリポツリと、フロントガラスに無数の雨粒が降ってきた。車に乗った後でよかった。そう思いながらも、徐々にザーザーと強まる雨が、目前に得体のしれない幕を下ろしているようだった。滝のように一つになった流れは、ワイパーで避けられ、また流れるのを繰り返している。
あれから三十年。娘が大人になったら、こんな気持ちにならないようにしよう。そう思った途端、頭上に雷が落ちた気がした。
母親を縛っていたのは、私だったんだ。
娘に電話をしようと手に持っていたスマートフォンを、バッグに仕舞う。
母親らしさなんて、未だにわからない。けれど、お互い自由に生きようじゃないかと、心の中で呟いた。
反出生主義と体外受精と人間の幼体と私
「だった」というのは、出産前の話だ。
過去、私は本当に、心の底から子供という存在が苦手であった。
苦手、というよりも憎しみに近い気持ちすら持っていた。
街中で騒ぐ子供、食べ散らかす子供、甲高い泣き声、それらの全てがアレルギー反応よろしく辛いものだった。
反出生主義の主張によくある「こんな世の中に生まれてくることが可哀想!」的な思想ではない。
純粋に子供が苦手だからこれ以上増えないで欲しい、という人類の未来もむしろ自分の未来すらも考えていない超絶エゴイズムの塊のような思想を持っていた。
いや、今思うと子供というよりも「子供を育てている親」に対して敵対心を持っていたのかもしれない。
躾ができていない、親バカが過ぎる、他人は貴女の子供をそんなに可愛いと思っていない…そんなことばかりを考えて過ごしていた。
友人や芸能人に子供が生まれると、暗澹たる気持ちにもなっていた。
今になって考えると、これは周りの友人がどんどん出産をしていって、自分と遊んでくれなくなるのが嫌だ、友人に自分より大切な存在ができてしまうのが怖い、という気持ちからきていたのは間違いない。
そしてその余波で何の関わりも関係もない芸能人にまで牙を剥いていた。
まさに幼子が親を新しく生まれてくる妹や弟に向けている感覚だ。
ーーそんな自分がまさか不妊治療をすることになるとは。
きっかけは、夫の中年クライシス。
子供に関しては結婚当初からお互いにあまり欲しくないね、という気持ちであり、うるさい子供に遭遇すると2人で眉を顰めていた。
それなのに、夫は「このままだと自分の人生が暇になってしまう」との理由で子供が欲しいと言い出したのだ。
私は趣味もやりたいことも勉強したいことも行きたいところもとにかく膨大にあるので、暇という感覚がわからない。
けれど、ここで子供を作ることを頑なに拒否して離婚を突きつけられても困るな…と思ったので、妊活(この言葉は今でも苦手)を開始。
そんな理由で…と呆れられるのは承知だが、子供が欲しい理由なんて全て親のエゴであるため、そんなことを言われても私は動じない。
しかしどうやら自分は不妊症を患っているらしく、体外受精まで行った。
この体外受精とやらがとても新鮮な経験だった。
私はSFが大好きで科学と医学を大信頼しているので、先進医療で人間をつくり出せる、という体験がワクワクした。
体外受精なんてしたくない!という人も多いと思うが、私は錬金術でホムンクルスを作り出すみたいだな、SF世界の繁殖方法だ!と一人静かに興奮していたのである。
めちゃくちゃにカッコいい妊娠方法だと私は思っている。
実際、なかなか妊娠しない間は子持ちの友達と会うのも嫌、子供嫌いがさらに加速、妊婦さんすら視界に入れたくない!と拗らせまくっていたので(これから子供を産もうという人間なのに子供嫌いとは…とも思うが、これは一言で言うと妬み嫉みってやつ)、焦りもあったが有難いことに現代の医療のおかげで子供を産むことができた。
さて、出産してそれからの生活は凄まじいものだった。
まず、脳みそが完璧に作り変えられた。
あんなに「出産をした女性は脳みそが作り変えられていて怖い」とずっと言っていた自分が。
街を歩いていて赤子がいると思わず見てしまい、あろうことか可愛い、愛おしい、幸せになってね、と思ってしまう始末。
もちろん、自分の子供ももう狂おしいほど可愛い。
世の中にこんなに尊い生命が存在しているんだ、と驚愕するくらい可愛い。
母性を腐していた自分はどこへやら?というレベルで甲斐甲斐しく離乳食を作ったりしている。
夫も夫で、はじめてのおつかいを見て泣いたり、子供が出演するCMを見て涙を流したりしている。嘘だろ。
けれど、それほどまでに子供の誕生という人生の大イベントは人を変えてしまうのだ。
ホルモンバランスに支配されているだけ、胎盤を通じて自分を可愛がるように!と子供から脳に指令が行っているだけかもしれない。
それでもいい。こんなに可愛くて、尊くて、大切な我が子に出会えたのだから。
街中を歩いていて子供に対する苦手意識がなくなったと同時に、子供が犠牲になるニュースを見ると辛いな、と思うようになってしまった。
生きづらいのか生きやすいのかわからなくなった。
まあでもきっと、大切なものが増えるということはその分心配事や辛いことも増えるということだ。
人生っていうのはなかなかに手強いレベルデザインになっている。
それでも、私は祈らずにはいられない。
これからの未来、この子に大きな幸せと喜びがたくさん溢れますように。
科学者の卵
島にいる時間をなるべく長くしようと、大学の授業は途中までオンラインで受けさせてもらった。試験と留学準備のために数ヶ月東京で暮らしたのちに、ニュージーランド北島に渡った。父島に行く時も船の出航を手を振って見送ってくれた母が、今回も空港まで来てくれた。初めて実家を長期間離れる実感はまだ湧いていないが、何かとんでもないことをしようとしてるのではないかという危機感が本能をかすめた。
渡航後、来たからには何か爪痕を残したいと思ってインターンシップへの応募をした。頭の中にあったのは、あの時見たおがまるだった。ニュージーランドも島国であることから、人やものを送り届ける海運に関わる仕事をしたいと思った。出会ったばかりの友人が大学のキャリアセンターを探すのを手伝ってくれ登録を済ませたものの、私のことを雇いたい海運会社はなかった。数週間待って、一件だけオファーが届いた。端っこの方に一応書いておいたウミガメ保全の経歴に興味を持ってくれた、地域の海洋研究所からのオファーだった。
「リコの小さいホーム」とドアには書いてあった。研究所でのインターンシップを受諾し、インターン生ながら専用のオフィスまで用意してもらえた。海外の人特有の丸っこいアルファベットで示された私のオフィスは、前にいた研究者が使っていた生物図鑑とか海鳥に関する論文だとかが並んでいた。仕事はサンプルを洗ったり貝を瓶に詰めたりと雑用が多かったが、空いた時間にはオフィスで図鑑とか論文を読むようになった。読むと言っても内容は全く分からないから、重装に製本された博士論文を触ったりパラパラめくったりして、会ったこともない研究者がこの論文を完成させるまでにどんな時間と労力が費やされたんだろうと考えたりした。その頃には研究所内で顔見知りもできてきていた。特に懐いていたのはイギリス人のケイティーと、メキシコ人のオーランドだった。二人とも若手研究者で、二人のオフィスを訪れてはデータ解析の様子を見させてもらったり、なんで今の仕事に就きたいと思ったのか話を聞いたりする日もあった。ケイティーがプログラミングソフトを使ってサンゴの分布図を地図上で動かして見せてくれた時、そのかっこよさに見惚れてなんて言ったらいいか分からなかった。その研究を元にして彼女が筆頭著者として書いた論文を見て、自分の分析や考察を世界に発表する仕事に私も就きたいと思った。また、彼女の論文は私が思い描いていた堅い「論文」とは違って、ピンクや水色でグラフが描かれた魅力的なものだった。研究の世界、論文執筆の世界が、「おじさんたちがやってるお堅い仕事」から一気に「自分と自分のスキルで自分をプロデュースしていくかっこいいお姉さんの仕事」に変わった瞬間だった。
オーランドのオフィスのドアには「いつでも入ってね」と書かれていて、その文字の癖から私のオフィスを「ホーム」にしてくれたのは彼だったのかもしれないと思った。ケイティーとの交流から感じたことについて話したら、研究をしたいという動機のさらに根底に、論文発表や新発見を通じてどんなことに貢献したいのか軸が通っていることが大事なんだと教えてくれた。そして学問の世界には、ただ忙殺されているだけでない、次世代の科学者との対話を楽しむような学者が数多くいることを教えてもらった。ケイティーやオーランドとの交流経験から、そうでないはずがないと思った。
住んでいた学生宿舎では、定期的に映画を観る会があった。海外の学生特有のお酒を飲む文化を怖いと思っていたので積極的に参加してこなかったが、共用の洗濯室にいるところをドイツ人の友人が誘ってくれた。日本の映画を観るからおいでよ、ということでそれならと参加したところ、参加者は彼の友達数人のみでリラックスした鑑賞会だった。この日は七人の侍を観た。彼が少し前に大学の図書館でこの映画を見かけて、ずっと観たいと思っていたのだそうだ。なるほど、日常から楽しみを見つけ出すのが上手いと思った。私にとって図書館は本があるところで、映画のコーナーなんて目を配ってもいなかったから。映画鑑賞会はその後もたびたび開かれ、メンバーは都度変わったがドイツ人のその友人は大体いつも参加していた。そのうち隣に座ることが多くなって、恋愛関係に発展した。映画鑑賞以外で初めて遊んだのは、バターチキンカレーを食べにいく時だった。二人のデートだったはずが宿舎のメンバーがベンチの周りに集まってきて、最後には十人くらいとおしゃべりしながらカレーを食べた。
それから五年経った今、私はヨーロッパを拠点に研究者をしている。あの頃のケイティーやオーランドにはまだ及ばないけど、私にとっての次世代の指導を任されたりもしている。魔法のように見えたケイティーのプログラミングだったけど、気づいたら当たり前にコードを書いてエラーを直してる自分がここにいる。自分の研究の軸を持って日本で論文を書き上げた後、数千キロの遠距離を経た彼を追ってイギリスへ進学し、その後オランダでの今のポジションを得た。一人前の研究者になったら、彼を連れて日本へ帰ろうと思っている。休みの日には、彼と一緒にあの定期船に乗って父島へ行きたい。
皺が気に入ってきた
27歳、やっている仕事、家族の様子、容姿、読んでいる本、どれも背伸びしてなくて、今のわたしにとって簡単すぎるようなこともない。あらゆることにおいてもちろん伸び代はあると思うけど、一旦全部を受け入れられているし、楽観的。これは27歳の今日地点がそうなのであって、またどれかがズレてくるだろうけど、人生で初めて、自分自身についてと、その自分の年齢にすごくしっくりきていると素直に言える。25歳の頃は、やっている仕事について世界が意外と窮屈だなと思っていた(もっと難しいことがやりたいと思っていた)し、家族はどちらかというと当時のわたしにとって背伸びして向き合わないといけないテーマだったし、容姿については短期的にもっと美しくなれる余地があると思っていた。
周囲からのイメージについては、数年前は年齢に対してライフイベントが進みすぎているといよく言われていたけど、最近は同級生の結婚出産もよく聞く。仕事をしていると、組織の中ではその年齢には見合わない役割をしていると言われるけど、最近は忙しさで色々と余裕がないことが周囲にちゃんと伝わっているであろうことに自分が安心している。人生のスピード感が早いことじゃなく、良いことも大変なことも抱えていることを、イメージではなく状況そのものとして共有できるようになった気がする。
あと、「こういう時はこう振る舞う」というコミュニケーションの型をいくつか獲得できていることも重要。これはかなりデカイ。人にものを頼む時や断りたい時に選ぶ言葉、嫌味なく聞き返す方法とか、網羅はできてないけどある程度のバリエーションはある気がする。いまだに初対面の懇親会というシチュエーションに持参できるものはないけど、27歳のわたしがそういう状況でさえぺらぺら喋っていたら客観的に見て超人めいていて怖いと思うので、今時点ではこれでOKしっくりくる。
22時を過ぎて寝たり、ちょっと多めにお酒を飲むと翌日顔に出る。数年前までは、翌朝の気分は美しくないという意味で最悪だったけど、最近は疲れが顔に刻まれている感じがあんまり嫌いじゃない。これは美しさへのこだわりがなくなったというわけではなく、関心が変わったみたいな感じかな。もちろんメイクで隠せることはやろうと思うのでそういう努力はするのだけど、顔という土台そのものがちゃんと毎日更新されていることに謎に感心したりした。さすがにハタチの頃に比べると肌艶は…ということを思う時はあるが、前よりも「いい顔」をしていると思う。かわいいおばさんに向けて、成熟。
27年間の人生につきまとってきた大きな問いは「その賢さはだれのために」というものだと思う。学生の頃に「研ぎ澄まされた知性は優しさである」というふうに思い始め、気づけばクレドになっている。ただの優しさで何かを犠牲にするのはおかしいし、他者がわかる形にしないのは孤独な思考であってコミュニケーションじゃない。他には「二項対立じゃなく1番イケてるバランス感を追いかけたい」とかもそうかな。広さと深さは両立したいし、どっちの味方なのか敵なのかはっきりせず曖昧でいていいこととか。最近はAIの進化がすごいので「でも自分でやりたいもん」の気持ちを忘れないように注意している。AIができないことを人がやるべきって話がよくあるけど、AIができても自分でやりたいことってあると思う。あーあと、難しい仕事と重要な仕事は違うんだ、みたいなことを自分で気づけるようにもなった。もっと前は、その2つは同じだと思っていた。キャパを広げるっていうのは、こなす仕事が増えるからで、こなす仕事が増えるのは、ちゃんと2つを分けて考えられるようになったからというふうに整理してみたい。重要な仕事は難しい、あるいは難しい仕事は重要であると思い込んでしまうと、力が抜けなくなるから。
まあそんなかんじ。27歳でこれなので、35歳とか楽しみで仕方がない。なぜかわたしの「ママ」のイメージは35歳で包まれている。つまりわたしが11歳頃の当時のママ。かわいい人である。ふと、ママがこの文章を読んだらどんな反応をするだろうかと思った。多分いつも通り「めいかはは色んなことを考えていてすごいねえ。お母さんはそんなの考えたことないよ〜」と言うだろう。こんな感じなので、ママがたまーに鋭いことを言ったときをわたしは鮮明に覚えている。「めいかって笑顔がかわいいから、話してる時に急に真顔に戻るとちょっと怖いよね。」とかそーゆうの。そーゆうの、わたしははっきりといくつか覚えてる。
まあでもママのことを考えると、まだあの軽やかさをわたしは獲得できていない。かわいいおばさんになるのは簡単ではない。
好きのその先
友達に話せば、「もう忘れなよ」と言われた。慰めも忠告も、どちらも私の心を曇らせた。
最後の景色を胸の奥にしまったまま、鍵をかけて、18年。今、ようやく取り出している。
きっかけは、友達の紹介。
19歳の年明けのことだった。お互いにただ、恋とその先に興味があった。それが始まりだった。
顔も知らないまま、やりとりがはじまった。相手のテンポの早さについていくのに、初めは必死だった。電話ごしに聞こえる彼の声には、ヤンチャさが滲んでいた。
彼に誘導されるようにして付き合いはじめるまで、あまり時間はかからなかった。
やり取りが途切れず、気づけば、ずっと一緒にいるみたいな錯覚に陥っていた。
わたしは彼とのつながりにのめり込んでいった。それを、恋だと思っていた。
初めて会った日のことを、よく覚えている。彼が私の住む街まで車で迎えに来てくれた。運転席には、電話のイメージどおりの『今どきの男の子』がいた。
だけど、耳には拡張ピアス。
思わず、身構えた。
車内にはB系のヒップホップが流れていた。耳慣れない重低音が落ち着かない。だけど、なんでもない顔をして乗り込む。
その中でたったひとつだけ、心地よく感じる曲があった。ピアノに乗せて流れる、きれいすぎるくらいのメロディ。やさしく聞こえるのに、ベースは重く響いていた。
私は、間を埋めるように「これ、好きかも」と、つぶやいた。それ以来、彼が迎えに来るたび、最初にその曲が流れるようになった。
期待しないなんて、むりだった。彼に嫌われたくなくて、服と化粧品を次々に新調した。
私は彼に恋をして、高校時代の恋人とは経験しなかった、その先を予感させるキスを知った。
気づけば春休みが近づいていた。ある夜、電話で彼が「箱根にでも行く?」と誘ってきた。
映画にでも誘うような、軽さだっだ。
どうしても考えてしまう。でも、大したことじゃないふりをした。彼の隣にいるために。
この旅行が、何を意味するのか、その話題に触れることはなかった。ただ、彼にとって特別な存在になれたらいい。それさえあれば、大丈夫だと信じていた。
これから起こることについて、調べようと思ったこともある。けれど、恥ずかしさが勝って、結局ほとんど何も知らないままだった。
旅館は、昭和を感じさせる古びた建物だった。くたびれた絨毯、軋む廊下。彼に続いて記帳する手が震える。
着いてすぐ案内されたのは、貸切の露天風呂だった。一瞬、言葉に詰まった。
『家族風呂』とかかれたフロアへ案内された。山道のドライブで少し車酔いしていたせいで、足元はぐらついた。私が戸惑っていると、彼は「中で待ってるから」と、先に行ってしまった。
ここから先は、引き返せない気がした。
現実味がなかったことが、今から、現実になる。外は明るい。春の陽気を感じる晴天だった。
今日のために買ったワンピースの裾に、手をかける。タオルは?巻いていいの?ダメなんだっけ?髪って洗うの?
どう振る舞えばいいのかわからない。ぎゅっと瞑った目を、そっと開く。
覚悟を決めて、扉に手をかけた。
彼は淡々と、体を流していた。
何も隠さない彼と、バスタオルを巻きつけて離さない私。それを笑う余裕なんて、なかった。
彼も普段よりも笑っていないように見えた。私は不安になって、ますます動きがぎこちなくなった。
部屋へ向かう時も、その空気は変わらなかった。薄暗い廊下から戸を開けると、客室は思ったよりも明るく、途端にしんとした。
扉の向こうでは、仲居の笑い声や、足音が壁越しに聞こえている。人の気配はあるのに、ここだけが切り取られていた。
広い部屋でふたりきりになった。完全な密室でもない、半透明の隔離のようだった。
声をあげたら、きっと聞こえる。廊下の気配が、すぐ近くにあった。
壁一枚向こうの日常と、別の世界に来てしまった。昨日までの期待が、幻だったように思えた。
そのとき、彼に呼び寄せられた。
始まりの数分は、たしかに幸せだった。
向こう側に行くんだ、と思った。一瞬、彼とふたりだけの世界に包まれた。
だけど、すぐに緊張が戻ってきた。心が、追いつかない。
待って欲しい、でも待たせたくない。応えたい。そう思うほど、体はこわばって、もどかしかった。
体は、すっかり冷え切っていた。どうしていいのかわからなかった。助けを求めることもできなかった。
すぐに、それは彼に伝わってしまった。彼は動きを止めた。少し間をおいて言った。
「こういうこと、映像とかで見たことないの?」
頭が真っ白になって、何も答えられなかった。そして、彼は続けた。
「俺のまわりの友達、みんな普通に見るよ。」
「男女で集まって、ふつうに一緒に見たりもするし。」
その言葉に、心が凍りついた。彼の口調はあくまで淡々としていた。その“普通”が、私にはあまりに遠かった。
彼は夜がくると先に眠ってしまった。私は眠ることができず、朝を待つ時間がとても長く感じた。背を向ける彼の隣で、ただ孤独だった。翌日のことは、よく覚えていない。
心の拠り所だった、あのピアノの音が車内で虚しく流れていた。彼は「また連絡するよ」って言ったけど、その言葉が空っぽなことは、分かっていた。
その少し後、彼から連絡がこなくなった。予感はしていた。私が何かを壊したのか、最初から壊れていたのか。確かめる勇気はなかった。
好きのその先って、もっと明るいものだと思っていた。
取りこぼしたあの1日は、ずっと、私の中に残っている。
だけど、秘密の傷跡がそこにあることこそが、心の支えだった。消えてしまうと、無かったことになる気がして。ときどき、記憶に触れては、そこに在ることを確かめていた。
真昼間のあの部屋で、私は気づいた。
あのとき、私は、憧れていた恋物語と、目の前の恋の違いを思い知らされた。
確かに彼に惹かれていた。 けれど、はじめから私たちは、ずれていた。 恋に恋したまま、私はそれを見ないふりをしていた。
相手に合わせることしかできなかった19歳の私と、今ようやく向き合いはじめている。
車で流れていた、彼のお気に入りのアルバム。私は、彼に近づきたくて、自分らしくもないそのCDをこっそり買って、プレイヤーに入れていた。
あれから何度目か恋をして、結婚もした。
それでも、今日までそれを手放せなかった。
呼び出すのは、その中でいつも同じ曲。デートの初めに流れていた、あの曲だけ。
あのピアノのイントロが、ふたりの合図だった。
それを何度も呼び出した。
苦しくても、
何度も。
Hope
——ここまで来るとは、思っていなかった。
そもそも私は、「希望」を持つことすら、できなかった。
約30年前、私はこの絵と出会った。
盲目の天女が惑星の上に座り、ほとんど弦の切れた竪琴を抱いている。
かすかに残った一本に耳をすり寄せる姿は、希望という言葉からは遠いものだった。
それでも私は、どこかでその姿に自分を重ねていたのだと思う。
「私は、ここまで来たんだ」
声にはならなかった。ただ視界が滲み、目の前の「Hope」がぼやけていく。
ロンドンまで来たことよりも、ここまで生きてきたことのほうが、重く胸に残った。
「出会い」
私はその絵と出会った頃、すでに絶望の輪郭を知り始めていた。
幼い頃、店先で見つけたキラキラした靴に心を奪われ、「可愛い、欲しい」と口にしたことがある。
けれど返ってきたのは、「それって必要ないでしょ?」という言葉だった。
私は何も言い返せず、ただ口をつぐんだ。母を困らせてはいけないと思ったからだ。
その日を境に、私は「欲しい」と言わなくなった。
欲しいと思うこと自体が、いけないことのように感じられた。
中学生になると、周囲の顔色をうかがいながら過ごすようになった。
友達がいないと思われることが怖くて、本音を押し込み、いつも平気なふりをした。
そうしているうちに、本当の気持ちは心の奥に沈んでいった。
誰も信用できない世界の中で、私は希望を持つことも、夢を見ることもできなかった。
そんな時に出会ったのが「Hope」だった。
「いつかこの絵を見に行けたらいいのに」
それは、叶わないと分かっているからこそ抱ける、ささやかな夢だった。
「転機」
それから20年以上が経ち、私はようやく「本当の自分」で生きたいと思うようになった。
部屋を整え、好きなものを選び、そして英語を学び始めた。
その中で出会ったコーチの一言が、眠っていた記憶を呼び起こした。
——「やりたかったことをやってみたらどうですか?」
私は思い出した。「Hope」を見に行くという、あの頃の夢を。
そして私は、ロンドンへ向かった。
「希望」
彼女は静かに、そこにいた。
変わらずに。ずっとそこに。
その姿を見たとき、胸の奥にあった何かがほどけていくのを感じた。
それは劇的に何かを変えるものではなかった。
けれど確かに、「欲しい」と思ってもいいのだと、
「自分の人生を生きていいのだ」と、初めて自分に許すことができた。
「Hope」は、遠くにあるものではなかった。
それはようやく自分の中に見つけた、消えない灯りだった。
静かな帳尻
結婚式が、会うのは二度目だったという。新婚旅行も、結婚指輪もなかった。あるのは姑と小姑二人、店と田畑の重労働だけだった。
子どもながらに、泣いている母を見るのがつらかった。
私が生まれたとき、母は乳が出ないと責められた。ミルク代さえ惜しまれ、実家から内緒でお金を受け取っていたという。給金など一円もないのだから、分かっていただろうに。口紅ひとつ買うこともできなかった。伯母の家からお金が無くなった時、真っ先に疑われたのが母だった。
母はとっさに言い返したり、機転の効く会話が苦手だった。受け身で生きるしかなかった。甘えられる場所もなかった。そのせいだろうか、母は七十歳を待たずに、認知症を患った。それは、幻影の見える種類のものだった。
何もない場所に人が現れ、泥棒だと騒いで警察を呼んだこともある。どれだけ言い聞かせても、翌日にはまた同じことが起きた。やがて幻影に慣れると、今度はお金がなくなったと、私を疑った。
もともと人のいい母は、幻影に対しても尽くした。車の上に宝石を並べ、
「どうぞお納めください。」
と手を合わせていた。自分でなんとかしようと必死だった。
それは母にとって、全財産だったと思う。私は、この人はなんて澄んだ心をしているのだろうと、悲しくなった。母の病に初めて涙が出た。必死に祈るほど、悲しかった。その必要はない、自分の指にはめたらどうだと諭しても、もはや無駄だった。自己犠牲が母の人生に覆い被さって、母そのものになっていた。それが、私には悔しかった。ただ、悔しかった。
母はなぜあれほど嫁ぎ先に嫌われたのか、分からない。家は財産があったが、お金を使うことを極端に嫌い、母に自由を与えなかった。祖母が亡くなるまで、母は現金を手にすることさえできなかった。
それでも母は働いた。家業も、田植えも稲刈りも、身体を酷使して働いた。けれど小姑たちは、私の前で母の悪口を言い続けた。
私は幼いころから、人に良心のない人がいることを知っていた。しかも、それが家族の中にいることも。
『救ってあげたい』
それが、私の最初の愛だった。
母が喜ぶことは何でもした。炊事、洗濯、掃除。勉強もした。いい成績を取れば喜んでくれたからだ。
やがて、母はようやく自分のお金を持つ。祖母の死後、初めて手にしたお金で、母はプラチナの結婚指輪を買った。裏には結婚記念日が刻まれていた。
それから、母は宝石を買うようになった。高価なものではなかったが、「自分で買う」ということ自体が、母には初めての喜びだったのだと思う。認知症になってからも、それは変わらなかった。
母は父から愛情を受けなかった。それでも父のそばを離れなかった。今でも理解はできない。
アルツハイマー型の父は、ゆっくり進行していった。母の方が、劇的に病状が進んでいたが、父の世話をするのは自分だけだという思いが、母の心を満たしていったように見えた。仕返しではなく、寄り添うことを選んだのだと思う。
父を見送ったとき、母はそれを理解しているようだった。安堵したような顔をしていた。でも、寂しいとは、一度も言わなかった。
自分の母親が、父親を看取ったように、静かに、自分の人生を振り返るように、見送っているようだった。葬儀が終わるまで何も言わず、ずっとそばにいた。
その後の介護は、穏やかなものだった。母はもともとおっとりした性格で、最晩年は従順で静かだった。私のことが分からなくなっても、いつも「すみません」と、礼を言った。
可愛い人だった。
両親の介護は大変だった。けれど、その人の人生と重ねて見ることで、理解できない行動にも、少しずつ意味が見えてきた。
そう思うと、母の姿はどこか自然なものに思えた。
認知症は、悪いことばかりではないのかもしれない。辛かったことや、苦しかったことが、母の体の中で少しずつほどけていった。
母の生き方は、認知症によって、どこか帳尻が合っていくように思えた。
そのとき、私は初めて、母の人生を心の奥で受け入れた。
最期は、もう話すこともできなかったが、顔は穏やかだった。笑うこともあった。
もう、振り返ることをやめた。
体が軽くなった。
不機嫌でいるには、短すぎる
友達からのLINEにそう書いてあって、思わず手が止まった。
どうしたのかとドキッとした。
彼女には、私の知らないことがあったのだろうか。
私に何か伝えたかったのだろうか。
心配しながら続きを読むと、
「特に深い意味はなく、なぜかそう考えてしまう。」と書いてあった。
少し安心した。
理由はないのに、そう思うことは私にもある。
それでも、最初の一文は頭から離れなかった。
何て返事をしたらいいだろう…。
窓の外に目がいった。
――あの日から、私の中で何かが変わった気がする。
ときどき、よぎる。
いつかこの世からいなくなるんだな、と。
もう、人生の後半に入っている。
今の年齢の倍を生きることは、たぶんないと思う。
そんな思いを抱えながら、
日々の些細なことにも、引っかかる。
誰かの言葉に、つい腹を立てたり。
思い通りにならないことに、苛立ったり。
以前、テレビ番組で70代の夫婦を見た。
喧嘩をしないという。
奥さんが、こう言っていた。
「たった二人しかいないのだから、笑顔で過ごしたいじゃないですか」
きりりとした、迷いのない笑顔だった。
旦那さんは横で微笑んでいた。
そんな夫婦になりたいと思った。
心がけ次第でなれるはずなのに、そうしようとしない私がいる。
ついこの前も、夫に強い口調で言葉をぶつけてしまった。
「前から言っていたあれ、どうなったの?どうしてしてくれないの?」
気づけば、責めるような言い方になっていた。
結局、私ばっかりやっている――そんな思いがくすぶる。
込み上げた思いをぶつけたあとで、ふと気づく。
言い過ぎたな、と。
一緒に笑って過ごせる時間の方が、やっぱりいいから…。
夫は今月末で定年退職する。
時間の流れが少し変わる。
だったらなおさら、同じ時間を、少しでも心地よく過ごしたい。
そう思ったとき、ほんの少し尖がっていた自分に気づいた。
こんな思いを巡らせながら、私は返した。
「私も似たようなことを考えます。
もう、しっかり折り返してますから。 早いなぁ。
今年の桜も、楽しみましょうね!」
返ってきた言葉はこうだった。
「同じようなことを考えてたんですね。
私だけじゃなかったと、ちょっと嬉しくなりました。」
彼女の言葉に、肩の力が抜けた。
ふっと、頬が緩んだ。
でも今回は、やり過ごせなかった。
来年のことは誰にもわからない。
だから、今年の桜は今年ちゃんと見ておきたい。
数日後、最寄り駅の近くの広場まで歩いた。
青空と緑と、穏やかな気温。
桜はまだ五分咲きだったけれど、
レジャーシートを広げ、思い思いにくつろぐ人たちがいた。
お母さんと小さな子ども、カップル、ママ友たちの賑やかな輪。
あー、のどかでいいなぁ。
思わず携帯を手に取った。
この五分咲きの桜を、夫に見せたいと思った。
今年の桜は、今年しか味わえない。
そう思うと、それだけで十分な気がした。
もう少し咲いたら、今度は夫と来てみよう。
レジャーシートを持って、ゆっくり座って。
不機嫌でいるには、短すぎる気がした。
あのLINEの日から、少しずつ。
「はじめまして」とあなたに言えた日
2017年夏、彼に会いたく墓へ向かった。あの日の空は、今思い返しても目が覚めるような青色で、途中に横切った麦畑は黄金の色をしていた。この景色をきっと彼は何度も見ていたのだろう。彼の名前はフィンセント・ファン・ゴッホ。ひまわりを描いた画家が伝わりやすいかもしれない。
時は流れ2025年、私は37歳を迎えた。次のひとり旅はあの街へ帰ろう。何の迷いもなく、行き先はすぐに決まった。フランスのオーヴェール・シュル・オワーズ。37歳の彼が過ごした最期の街であり、眠っている場所である。
20代から国内外ひとり旅が趣味だが、ヨーロッパには行ったことがなかった。もしもヨーロッパへ行けるなら行きたい国は決まっていた。オランダとフランスである。美術鑑賞好きが高じて大学では学芸員資格取得のため勉強し、絵画は私の人生においてより欠かせない存在になった。オランダとフランスで美術館巡りをしたい。そんな夢を持っていた。
私が最も愛する絵画は、ニューヨークのMoMAが所蔵する『星月夜』。画家の名前はフィンセント・ファン・ゴッホ。二度目の海外ひとり旅をニューヨークに決めたのは、この絵画に会うためだった。『星月夜』に辿り着いたとき、私の心にいた作品とはまったく違っていて驚いた。色味、筆使い、絵の具の厚み、重なり。うねるような星空が、まるで動いているのではないかと感じる。自然と、絵の前で立ちすくんでいた。””本物””は、どんな美術書でも同じサイズのポスターでも代わりが効かない。まさに唯一無二である。写真撮影が可能なため撮っている人も多かったが、畏れ多すぎて撮ることができなかった。
海外ひとり旅にも慣れ、ヨーロッパに行ってみたいと欲が生まれたのは必然だったように思う。いざ調べてみると直行便と乗り継ぎ便とで値段に差があったり、同じ圏内なので通貨が共通していることや、国境を越える移動が簡単なことに楽しみが募った。自分の行きたい場所、観たい場所をリストアップし、人生初のヨーロッパ旅行へ。行き先はもちろん、オランダとフランスである。
画家フィンセント・ファン・ゴッホはオランダで生まれ、フランスに墓を持つ。彼の人生の旅路を少しでも追うことが長年の夢だった。オランダ・アムステルダムには彼の名を冠した国立美術館がある。彼の作品を観たく、世界中から人々が集まる場所。生前は絵が1枚しか売れなかった画家が、時を越え愛され続けていることを本人はどう思っているのだろうか。インタビューしたいものである。オランダからフランスへの移動は新幹線一本で、途中パスポートの確認もなく無事に辿り着いた。数時間で異国に到着することが初めての体験で、駅に降り立ち、アムステルダムとパリの空気感の違いを何度も噛みしめていた。
パリ18区のモンマルトルには、フィンセントが弟テオと2年間暮らしていたアパートの壁に看板が付いている。中に入ることはできないが、歴史として痕跡が残っているのだ。石畳が続く道のなか、私ははじめなかなか見つけることができなかった。行ったり来たりしながらやっと見つけられたときは、笑顔になったものである。まずは看板を撮影。そのままアパートを背にして立ち、左右にゆっくりと首を振る。この景色を、きっとゴッホも見ていたんだ。キャンバスを背負い絵を描いて、時には浮世絵を買いに、またあるときは友人とカフェで議論をしていたんだろう。歴史ある街並みを残すパリで、彼の追体験ができた気がした。
パリから電車を乗り継いで1時間ほどに、オーヴェール・シュル・オワーズという街がある。ゴッホがパリで暮らして数年後にたどり着くのだが、ここが終焉の地となる。燃えるように、うねるように、叫ぶように作品を描き続けた場所。約2ヶ月の滞在で70点近くの絵画を生んだ聖地でもある。ゴッホの最期は拳銃を自らに向け、報せを聞き駆けつけた弟テオの腕のなかで亡くなった。そして街の共同墓地に、フィンセント・ファン・ゴッホは眠っている。現在隣に眠るのは弟テオだが、亡くなってから20年以上後にテオの妻ヨーがオランダにある墓を移動させた。そのおかげで、心身ともに支え合った2人が今も隣にいることができている。
2017年夏、フランス行きを決めたからには絶対にゴッホ兄弟の墓地へ行きたいと決めていた。そしていざ墓石の前に立ったとき、絵画とは違う”本物”に息が止まった。想像していたよりもずっと簡易的で、素朴で、閑静なのだ。墓地には、写真や雑誌などからは読み取れなかった空気が流れている。MoMAで観た『星月夜』、ファン・ゴッホ美術館で観た絵画たち、モンマルトルでの追体験。それでも尚、彼そのものの魂に触れるのは不可能だと思い知らされた。画家に会うことと、絵画に会うこと。このふたつは全く意味が違うんだと、私は生まれて初めて知った。同時代に生きた人々の愛があり、意思を引き継ぐ者がいて、今もなお守られている。そのおかげで、現代の私でも会うことができる。ずっと隣にいると思っていたけれど、墓石を前にして、顔を真正面から見つめている気分になった。
「はじめまして」と呟く。
画家としての彼ではなく、ただひとりの人間として会う。まるでこの場所で待ち合わせでもしていたような、そしてフィンセントもまた、私だけを見つめてくれているような、そんな気分になった。
はじめまして、日本から来ました。あなたは浮世絵が好きだから、日本のことは知ってると思い込んでもいいですか。あなたが描いた絵から、たくさんのエネルギーをもらっています。あなたのことを知るたび、私の世界がどんどん広がっていくんです。画家になってくれてありがとう。生きる力をくれてありがとう。この街まで来れるよう、背中を押してくれてありがとう。
もちろん、声など聞こえてこない。それでいい。返事がなくとも、名画の制作過程にどんな真意があろうと、自らに銃を向けた理由にどんな真実があろうと。ここにたどり着いた事実が何にも代え難い幸福だった。絵画ありきではない画家との出会い。私の人生において、絵画を観る考え方が変わった瞬間だった。この日の体験は、まるで昨日のことのように思い出せる。とてもよく晴れた日、風が気持ちよく、穏やかな夏の1日だった。
フィンセント・ファン・ゴッホと、やっと出会えた気がした。
あれから9年。私の年齢は、彼がオーヴェール・シュル・オワーズに降り立った瞬間と同じになった。
もう一度会いたい。あなたと同じ年齢になった私で、あなたに会いたい。
コロナ禍も明け、海外ひとり旅は再開させていた。
今年はあの街へ行こう。あの街へ帰ろう。「ひさしぶりだね」と話しに行こう。時を越えて同じ年になった私で、あの街へ行きたい。久しぶりに会う彼はどんな顔をしてくれるだろうか。「また会えたね」と暖かく出迎えてくれるだろうか。
地球はまんまる
そんな父亡き後、母1人暮らす実家に子どもと共に引っ越すことになった。数年前にかなりもめて逃げるように離婚し、世帯主として必死に生活したほんの少しの自信は補助という形がはずれ、実家に行くことや両親への申し訳なさ、自分に対しての情けなさが全て消してしまった。その夜、泣きながら荷物をまとめた。
今の時代は表現が難しくなり、私のような年代はゆらぎ世代というらしい。のぼせや、腹痛、蕁麻疹にも悩む日が増えた。朝をむかえても布団から出られず仕事を休むことも出てきた。そしてある朝とうとう電車やバスに乗ることができなくなった。乗ると気持ちが悪くて途中下車し、悪夢を見ては眠れず怒ったり、泣いたりと心がとてつもなく揺れて苦しんだ。
泣き腫らした目で医者にかかるとカルテには『適応障害』と記載された。まるでこの地球上に適応できる場所などないと言われている気がした。そんなゆらぎ世代というより、大嵐の状態の私をみて母は困惑しただろう。できた娘でもなく、妻も嫁も母もこなせず、ただ生きることも適応できない自分がここにいた。
しばらく投薬と泣いては寝る生活だったが、この間に専門学生となった次女が私の携帯にあるアプリを入れた。ポイント獲得率が比較的高く、配信や動画を視聴するとポイントが貯まり、QR決済と交換して買い物もできる。いわゆるポイ活アプリである。
このアプリにはもうひとつの面があり、自分の応援する配信者にプレゼントという形の投げ銭ができることである。好きな人が自分の名前をよんでくれたり、話しかけてくれるのはうれしいものである。
いきなりだが私の実家は東海道五拾三次の宿場町のひとつである。主治医から少しずつ外を散歩して太陽にあたるようにすすめられた私は、出勤する長女を駅まで送り、そのあと小さい頃に父と自転車でまわった史跡巡りをした。長男の提案もあり、たまに歴史を説明しながらアプリで配信することもでてきた。誰が聞いているかはよくわからないが、たまに書き込まれるコメントに少しずつ癒されていった。
暦の上では秋となったばかりで暑い日が続いていた朝、近所の小学生の少女が学校に行きたくないと駄々をこねていた。うちの子どもたちもよく嫌がって私は怒っていたなあと思い出していた。その前を私と長女が通ると「ほら、お姉ちゃんたちといきな」と言われて少女はこちらを見た。
私は実家に戻ってきたため、近所の私より年下の馴染みのある子達は現在子育て真っ最中で、もちろん子どもたちも顔見知りである。少女は自然とついてきた。しかし橋にさしかかろうとした時に少女はくるっと方向を変えて家の方へ走り出した。私は長女と別れて少女の後を追った。家の前に立つ少女に対して出た声は穏やかなだった。
「今日はいやなの?」
「やなことがあるかもしれないの。」
「何時にあるの?」
「わかんない。」
「じゃあ、ないかもしれないね。」
「うん。」
静かに風は吹き、川はおとなしく流れていた。
「もう、間に合わないかもしれないから。」
と少女はつぶやいた。
私が
「じゃあ、お母さんに遅れますって学校に伝えてもらおう。」
というと顔がぱっと明るくなって
「うん!」
と走り出した。必死で追いかけていく。子どもはいつ頃からすごいスピードで走れるようになり、いつ頃から私は追いつけなくなったのだろう。
「あのバスに乗るんだ!」
とバス停にとまっていた茶色のバスに飛び乗った。続いて私も乗り込んだ。
ふたりで並んで座ってみる景色は、まるではじめて通る道のようになんだか不思議とキラキラしていた。少女の顔もひまわりのような笑顔だった。あっという間に時間は過ぎ
「ばいばーい」
と手を振って先生と校門から校舎へ少女は歩いていった。
はて…?ここはどこだろう。観音様で有名な町だ。けっこう遠くまできたもんだなと思って冷静になってみると持ち物は携帯と交通系カードのみ。財布もなく、飲み水もない。しかも交通系カードの残高はバスを乗った時にちらりと見えた55円。携帯の中のアプリのポイントも交換可能なのは100円からなのに89円。あわせて使用不可なので使える金額としては0円である。家に帰るには観音様の見守る商店街を横切り、大岡川沿いを歩きに歩いて山をこえなくてはならない。こんな時に横浜というのは山と坂のまちだと思い知る。
とりあえず途方にくれていても仕方ないと歩き出した。久しぶりに歩く大岡川沿いは桜の季節なら賑わっているものだが、まだ暑いこの時間では人も全くいない。水を買うためにはなんとかしてポイントを獲得したい。観音様のお膝元にいながらこうなるともう欲のかたまりである。動画をみるにも歩きながらでは難しく、一気に手に入れることはできない。半分命懸けのお散歩配信をはじめることとなった。最初のうちはまだ余裕があり、町の名所や由来などを話しながらすすんだ。時折りコメントが入り、説明したりしていくうちにだんだん疲れてきた。大岡川沿いは案外座れるような日陰が少ない。どんどん陽は高くなり、気温も上がってきた。ポツリポツリと投げ銭が届くも1円のもの。交換にはほど遠い。しかしこうしたすぐ横にいるわけでもない人々に支えられて息を切らして歩き続けてたどり着いた。
最後の難関である。目の前の坂は険しくだけど気高くひろがっていた。坂は日向だが、1番上はインターの下にあたり日陰になっていた。とりあえずあそこまで行こう、そこに行けば何かある気がする。もう坂を登り始めた頃には歴史を語るより、私自身の現状を語っていた。いかにダメなやつかと、適応障害になったり、でもそれが人間なのではないかと、泣いたり笑ったりそれが人それぞれの味なのではないかと。こんな私のことも幼稚園の壁に半紙ではってあった、仏様はみてござるという言葉を思い出した。そして誰かに手をとられるかのようにすすんだ。
やっと日陰について携帯の画面が日に当たらなくなりしっかりと見えるようになった。もちろん汗だらけでなるべく平たい石を見つけて座った。ゆっくり携帯を見るとお守りの投げ銭が複数寄せられいた。驚きと同時に誰が投げてくれたのか確認する。読めない文字の名前。海外か。他には愛知の方など顔は知らずともたまにやりとりする方もいた。これでギリギリ100円を交換するがレートの違いで95円になる。急いで坂の下のコンビニに行き78円の水を購入した。こんなに美味しい水ははじめてだった。暑さでふらふらになりつつ帰宅すると、家の中で1番涼しい仏壇の前に倒れ込んだ。ゴロリと上を向く。
あれ?バスに乗れたんじゃない?人を助けることができたのかも?見えない何かや人に助けられたのかも。残りの水を飲み干すと急に眠気が襲ってきた。私は見えるもの、見えないもの、袖振り合うもの、あわないもの、すべてに手を合わせた。そしてそのまま地球にとけていった。
桜は徒花か
桜が無駄な花だとは驚いたが、一方では納得もした。花は実をつけるためのプロセスとして咲くものだと考えれば、実をつけることのない桜は徒花だと言えなくもない。
観賞用の桜は実をつけない。日本人が愛する桜は、そんな風に作られている。種ができないから接ぎ木でしか増やせない、いわばクローンなのである。考えてみれば、子孫を残すことこそに存在意義がある自然界において、その存在はいびつなものと言っていいのかもしれない。
しかし、徒花の異名を持つ桜を、私たちは無駄だとは思わない。長い年月をかけて品種改良をし、年に1週間か10日しか咲かない花を楽しむためだけに、庭の一番目立つ場所に木を植える。春が近くなると開花予想だ、開花宣言だと大騒ぎし、咲けば咲いたで雨が、風がと天気に一喜一憂する。しかも平安のころから毎年、満開を迎えた日付が記録されているというではないか。無駄と思うどころか、この情熱の傾け方は一体どこから来ているのだろう。
それはやはり、実をつけないということ以上に、美しさという圧倒的な価値があるからではないだろうか。桜の花の持つ力は、誰もが認めるところだろう。桜はその花そのものがすでに「実」なのである。
一方、実際に実をつける桜もある。その果実を私たちは「さくらんぼ」と呼ぶ。ソメイヨシノのような、枝もたわわに咲く桜の花ひとつひとつに、そのあと佐藤錦が実ったなら、それは確かにすごいことだろうが、農業の素人である私でさえ「さすがにそれは無理だろう」と思う。実を得ようと思ったら、おそらく、多くの花を減らす必要があるだろう。
つまり、花も実も、というのは自然界では無理なのだと思う。ソメイヨシノも佐藤錦も、花か実か、一方に特化しているからこそ、ここまで人の心をとらえるのではないだろうか。
今年の春も、桜が咲いた。近所の公園で、たわわに花をつけた桜の枝を見たとき、「やっぱり、花も実も、っていうのは無理だな」と思った。
自然界では花も実も、というのは無理だというのに、人間界ではいつのころからか、特に女性に対して完璧さを求めるようになってきたように思う。いつも身ぎれいにして仕事も家事もこなした上に、出産、子育ても一手に担うのが当たり前、というような向きさえあるような気がする。
私には社会的な「実」がない。地位も肩書も立派な稼ぎもない。それがずっと自分の存在価値に影を落としていた。自分の経歴や人脈を使って周りを助け、新しいことを始める人たちを見るにつけ、社会に貢献することなく、ただ生きている自分は徒花のような存在なのかもしれないと、下を向いて歩くこともあった。
しかし、目の前に伸びていた桜の枝を見て思った。やっぱり全部は無理だったのだ。私のこれまでは、これで良かったのだ。
美しさで人を魅了するのもよし、子だくさんもよし、仕事に生きるのも家族を支えるのもよし。みんなそれぞれに、自分の力を発揮できる場所で、方法で、世の中に貢献すればいいのだと思う。世の中が求める完璧な存在ではないということだけで、自信を失うことなど微塵もない。「世間」の「理想」という幻影におびえる必要はないのである。
実をつけなくても、年に1週間か10日しか花をつけなくても、人々を喜ばせる存在であるならそれでいいのだと思った。私も、世間が拍手を送ってくれなくても、家族と笑いあって食事をし、小さくても日々の生活の中に私らしい楽しみを見出せるのであれば、それが、私の「実」なのだ。
この先実を結ぶことのない桜の花を見ながら、そんなことを思った。やっぱり、徒花なんてないのだ。私は家に帰り、どうにか自分を変えたいと思って持っていた自己啓発本を全部捨てた。
この春はまた、新しい自分が始まるような気がしている。
気づいた時には
娘は、うん、と答えた。
遠い目をしていた気がする。
まだ何も選んでいないのに、
もう「おねえちゃんになる未来」が、
そこにあるように見えた。
気づけば、私もそうだった。
やがてその未来がやってくるとわかって、
人形で抱っこの練習をしたり、
ミルクをあげる真似をしたりした。
ベビーパウダーだって、使っていた。
いざ生まれてから、
優しくしようとしたのに、
触ろうとしただけで止められる。
危ないから、だめ。
じゃあ、
あの練習は何だったんだろう。
そのとき、はじめて思った。
私は、
“おねえちゃん”という役割を、
背負っていたのかもしれない。
しっかりしないと――
ちゃんとしていないと――
気づかないうちに、
頭のどこかで考えていた。
――私は、誰の人生を生きているのだろうか。
その問いは、今も消えていない
運命に流されず
と、何かで読んだことがある。
運命とは、人に幸・不幸をもたらす巡り合わせ。
巡り合わせによって人は翻弄される。
自分で切り拓いていく力を持ってからの時の流れが人生なのだろうと思う。
両親のもとに「生」を受けたこと、その地で暮らすこと、それらは自分の力では変えることのできない『宿命』として受け入れるしかないことなのだろう。
私の人生において、この人との出会いは『運命』なのだろうか『宿命』なのだろうかと思い続けている大切な人がいる。その人と過ごした時間を書き残しておきたいと思う。
12歳中学1年生。地元の小学校を卒業して入学した地元の中学校で彼と出会った。
彼は小学校6年生の1年間を他県で過ごし、中学入学に合わせて戻ってきた同級生。
私とは出身校が違い、知らない者同士だった。
いつも数人の仲間を引き連れて、我が物顔で校内を騒がせるやんちゃ坊主という印象。
隣のクラスなのに自然に名前を覚えてしまった有名人だった。
彼は度々問題を起こし、職員室に呼び出された。その都度、なぜか私に事のあらましを話すようになり、いつしか親しくなり、恋心が生まれた。
私にとって中学の3年間は毎日が彼のことでいっぱいだった。
彼は幾度となく他の女子に気移りして離れたり、結局戻ってきたりを繰り返していたが私はその自由奔放さすら魅力に感じられていた。
私は彼を見ているだけで幸せだった。
幼い恋は淡く儚く、中学卒業とともに連絡は途絶えていった。
それぞれ県立の工業高校と普通科の高校に進学して過ごした3年生の大晦日、自動車運転免許を取ったばかりの彼の車の助手席に私は座っていた。
高速を走りオールナイトの富士急ハイランドへ向かう。
彼の私に対する態度はいつも変わらなかった。
どれだけ離れていても再会するとずっと側に居たかのように扱った。
都合の良い女だったのかもしれない。
それでも私は彼の隣に居られるだけで幸せだった。
お互いの家を行き来して両親や兄弟とも親しくなったのもこの頃だった。
時折「お前、いつまで待てる?」と距離をおこうとする言葉を聞き、3ヶ月だったり、1年間だったり会わない期間を持ちながらも私たちの時間はそういうものだと彼の自由を受け入れて私は日々を過ごしていた。
彼を待つ時間も私は幸せだった。いつも私たちの再会は必然だったから。
「俺たちは別れられない運命なのかもな」なんて簡単に言う彼の身勝手さも承知の上で彼と一緒に生きていかれるだけで幸せなんだと思っていた。
気づけば、出会ってから16年の月日が流れていた。
28歳、私は人生の半分以上の月日、彼を想ってきた。
そして、このまま続いていくのだと思い込んでいた。
彼のいう運命を信じていた私を叩き潰すような巡り合わせが訪れたのはそれからしばらくしてからのことだった。
彼の家で私の父の従兄弟と会ってしまった。私の父の名を知るとその人は気まずそうにその場を立ち去った。私たちの地元では未だに屋号があり、本家・分家が存在する土地柄でその人は父の実家の本家の跡取りだった。
間もなく、私は父方の祖母に呼び出された。そして、「あそこの息子とは別れろ」と命令された。どうゆうこと?なんで祖母にそんなこと言われるの?訳も分からず飛び出した私に叔母が事情を話して聞かせた。
父の従兄弟と彼の叔母が不倫関係となり、家同士が対立しているというのだ。
『そんなこと私たちには関係ない、私たちの方がずっと前から一緒に生きてきた』
そう思っていた。こんな理不尽なことはないと…大人たちの汚い関係と私たちを一緒にしないでほしいと…怒りが心に満ちたときフッと心配がよぎった。
彼はこのことを知っているのだろうかと。
暴走族あがりで所謂ヤンキーと思われているけれど、彼は硬派で、親兄弟をとても大切にする優しい人。身内が悪者扱いされていることを知ったら傷つくだろうと思った。
知られたくないと思った。
思い悩む日々を過ごしている私に決断のときがやってきてしまった。
「お前のことは一生面倒見るから」
30歳の誕生日を控えたある日、彼の口から出た言葉。
口下手で、甘い言葉など言えるはずのない彼が覚悟を決めて言ってくれたのだろう。
ずっと待っていた言葉だったはずなのに素直に喜ぶことはできなかった。
「長かったね」「長かったか」後に続いた言葉たち。
十分だった。そんなふうに思ってくれただけで私は涙が溢れてきてしまった。
身内の誰からも祝福されないとわかっている私たちの関係は彼を幸せにできないと思った。
後ろ指をさされるような立場に彼をおきたくないと思った。
そして初めて私から彼のもとを離れようと決めた。
他に方法はいくらでもあったのかもしれない。でも、あのときの私には離れることしか選択できなかった。親兄弟を捨てて彼と一緒になる勇気を持てなかった。
「ごめん、私の身体、壊れちゃった。もう一緒にいられない」ストレスと疲労で発症した甲状腺の病気を理由に私は彼に別れを告げた。
私の人生から彼が消えた日から私の人生は変わっていった。
出会って3ヶ月の人の妻となり、母となり、彼の知らない名前で、彼の知らない場所で生活している。あれから30年の時が流れた。両親も高齢となり、実家を訪れる機会も増えた。
地元に帰ると気づかぬうちに彼の姿を探している自分がいる。もう還暦を迎える私たちがたとえ再会したとしても、もうどうにもならないことはわかっているけれど、願ってしまうのだ。彼の姿や彼との時間は失くしても、彼を想う気持ちは30年間ずっと続いていたから。
人生の終わりを迎えるとき、彼の知っている私に戻り、私の愛したあの頃の彼ともう一度恋をしたい。運命に流されず、回り道はしたけれど、最後は自分の力でそこにたどり着きたいと願いながら生きていく。彼との出会いを『宿命』であると思うために。
「可愛い」アレルギーを乗り越えて
私は性自認・生物学的生ともに女性であり、女性として見られることが嫌なわけではない。一般に「可愛い」といわれるものが好きであり、「可愛い」と思うものを選んで買うことも少なくない。ただそれと同時に、自分自身と「可愛い」という言葉の取り合わせの悪さにいつも、吐き気に近い嫌悪感を覚えていた。「可愛くなりたい」「可愛くありたい」という気持ちを持つことは、一種の恥だと思っていた。私は可愛くあろうとしてはいけない。可愛くないからである。可愛くない人間が可愛くあろうとすることは、傍目からみればときに滑稽で、ときに無様で、ときに惨めである。他人に対してそのように思ったことは一度もないのだが、こと自分に関しては、「可愛い」を希求することをかたくなに禁じていた。
だから、鏡を見ることができない。
トイレに行き、手を洗いながら何気なく目の前の鏡に目をやる、ということが昔からできず、いつも目を伏せていた。鏡の中の自分を観察することは、自分の可愛さを確認する行為に思えた。前髪が乱れていないか。顔に変なものがついていないか。それはつまり、自分は可愛い自分でいられているか、という意味に思えたのである。鏡を見ている自分を他人に見られることが恥ずかしかった。可愛さを保つというほどの自分でないのに、可愛くありたいと思っていると他人に思われることが、なぜだかとても怖かった。
大学生になっても、メイクをするつもりはもともとなかった。美容には疎く、興味がなかった。興味がなかったというより、興味を持つことを恐れていたのだと、今となっては思う。「メイクをして可愛くなろうとしている自分」というものに耐えられる気がしなかった。入学当初はほとんどすっぴんで通学した。周りには、可愛く着飾り、メイクで目周りをきらきらとさせている女の子がたくさんいたが、私は「面倒だから」と言い訳をして、メイクをすることから逃げていた。しかしある日、先輩と思われる集団が話している声が聞こえた。「メイクはマナーだよね」。
マナーとは、社会生活上の明文化されていないルールや慣習である。守らなかったからと言って罰則はないが、他人に迷惑をかけることがある。あるいは、守らなくても他人が困るわけではないが、守ることでより快適に生活できるようになる。私がメイクをするか否かは、他人にまで影響を及ぼすのだ。そう知り、考え直した。おっかなびっくり近所のドラッグストアへ足を運んだ私は、化粧下地とパウダー、アイシャドウを購入した。
初めはなにもかもが手探りで、うまくいっている気がしなかった。メイク動画を見てやり方を学び、少しずつ上達させていった。アイシャドウ、アイブロウ、ハイライト。周りの子たちが魔法の呪文のように口にしていた言葉の意味を知り、徐々に使いこなせるようになった。メイクに関する会話にも、少しずつ入れるようになった。会話の内容が理解できる、という意味ではなく、自分がメイクをしていること、メイクをしていることを語ることを受け入れられるようになった、という意味で。
気が付けば、鏡の中の自分と目が合うようになっていた。下地は崩れていないか。リップの色は落ちていないか。いつもできるだけ目を背けていた自分と、正面から向き合ってみる。こういう自分も悪くない。そう、悪くない。積極的に「いいじゃん!」とはまだ言えない。でも悪くはない、そう受け入れて、生きられるようになった。
メイクはマナーである、という考え方自体が正しいとは思わない。メイクをするもしないも個人の自由であり、「するべきだ」と他人が強要できるものではない。だが私は、メイクをする理由を他人の存在に負わせることで、半ば他責的にメイクをすることを受け入れ、メイクをする自分を受け入れ、最終的には自分の存在そのものを受け入れられるようになったのである。それから、服を買う楽しみを覚え、髪を巻く楽しみを覚えた。自分を飾ることをいつも恐れていた。しかしそれは、なりたい自分に近づくということであり、自分をより好きになるためのプロセスでもある。
ここまで私の歪んだ自己意識を読まされてきた人にとってはやや意外かもしれないが、私は恵まれた家庭環境で、愛されて育った。花よ蝶よ、とまではいかないまでも、初めての女の子として可愛がられてきたし、親はやや過保護なほど大切に育ててくれた。それなのに当の自分はいつまでも自分に自信が持てないことに、昔から引け目を感じていた。なぜこのように自己意識が歪んでしまったのかはわからない。誰のせいでもなく、しいて言えば自分のせいである、と思っていた。
「その服いいね、可愛い!」「その色、初めて見たけど似合うね」
いつもモノトーンの服ばかり、寒色系の服ばかり着ていた。女の子らしいふわふわとしたパステルカラーやビビッドな明るい色の服を買うのは気恥ずかしく、着るのはもっと恥ずかしかった。けれどメイクをするようになって、鏡を見られるようになって、自分を「悪くない」と思えるようになって、私はある日、芥子色のカーディガンを買った。ものすごく奇抜で、昔の自分が見たらひっくり返りそうなほど鮮やかな黄色。でも、可愛いと思った。着てみたいと思った。どきどきしながら、家に届いたカーディガンを羽織ってみる。そこには知らない自分がいた。少し不安を覚えながら、けれどわくわくしながら、そのまま大学に向かう。春休み明け、久しぶりに会った友人たちは一瞬驚いたような表情をして、けれど口々に褒めてくれた。私は照れ臭く思いながら、悪くない、いや、いいかもしれない、と心の中で呟いていた。
自分に自信を持てない人が、その自信を手に入れるのは、簡単なことではない。私も以前に比べれば、鏡が見られるようになって、明るい色の服が着られるようになったけれど、それでも到底、自己肯定感が高いほうだとは言えない。けれどほんの些細なきっかけで、人は少しずつ、変わっていける。人生に大きな転換点がなくても、小さな分岐点を迎えたときに変わることを恐れなければ、いつか新しい自分に出会える。そう思えるようになり、心が外に向かって開かれているような感覚になった。
女として生きていると、時に、厳しい他人の目にさらされる。高校を卒業し、大学に在籍しながらも片足を社会に突っ込んで思うのは、社会は私たちが期待するほど変わってはいなくて、女が女として生きること、女らしくあることが暗に要求される場面は、この時代にあってなお無くなってはいないということである。「女は可愛くあれ」という揺らがせがたいテーゼへの反発として、私は「可愛い」を拒んでいたのかもしれない。その結果、必要以上に自分を抑制し、「なりたい自分」「ありたい自分」を見失っていたように思う。そうだとすれば、第二、第三の私を生まないためには、そのような社会の偏見を撲滅するために、私たちは闘わなくてはならない。自分に自信が持てない、それは自分のせいである。そう心を閉ざし、「ありたい自分」と向き合うことを恐れる少女たちを救うために、私たちは何ができるのだろう。唇に色をのせながら、鏡に映る自分に問いかけてみる。
ナイチンゲールと柱時計
あなたと生きる新たな人生について
あなたは、お腹の中ですくすくと育ち、やっとの思いでこの世に出てきて、一瞬にして私たち夫婦の仲間になった。
毎日生きる力の凄さを見せてくれて、一点の曇りもない寝顔や、時に不器用な愛らしい姿にみんなが釘付けになった。
あなたは小さくて弱々しくも、頼もしくて周囲を明るくする、特別な存在なのだ。
私の人生が変わったと同時に、あなたの人生が始まった。
あなたはまだ目が見えていなくて、生きることに精一杯だから
かけがえのない日々のことを書き留めておきたいという強い想いに駆られる。
あなたが産まれた日の朝のこと、病院に行く道の静けさ、ほんのりと灯る街頭、その景色は忘れないだろう。
見慣れた道中も特別なものに感じて、私の中には未知の世界が始まるような、静かな高揚感があった。
あなたは無事に10ヶ月を過ごしてくれたから、私に海外で出産する勇気をくれた。
不思議と怖くはなかった。
陣痛とあなたの心拍をモニタリングすると、あなたはお腹の中ですやすやと寝ていて、皆を和ませてくれた。
私は左のお腹を下にして、あなたを起こさねばならなかった。
産まれた時はきっと感動して泣くと思っていたけれど、そんな余裕なんてなかった。
夫があなたを初めて抱いた時の嬉しそうな姿を見て、初めて感動したのだった。
異国での入院生活。あなたは覚えていないと思うけれど、私たち2人は異国の地で優しさに包まれた。
思えばこの国での妊娠生活は穏やかなものだった。
電車に乗ればマタニティマークをつけてなくても、すぐに席を譲ってくれて、
レストランに行けば、足元に気をつけてね、と言われ、
マンションのエレベーターで乗り合わせた人には、「おめでとう!頑張って!」と声をかけられる。
日常に溶け込む優しさに、最初は戸惑い、申し訳ないような気がしたけれど、
この国が持つ温かさなんだと知った。
入院中の看護師、助産師たちは皆優しくて、「Hey baby」と声をかけてくれて、あなたが難しい顔をしている時は「何考えているの〜?」と言って可愛がってくれた。
私に対しても、「眠れた?」と気遣い、授乳の方法や赤ちゃんの包み方など何でも教えてくれ、夜中に授乳室に行く時は、「頑張って!」と励ましてくれた。
彼女たちの自然な優しさに包まれて、外国人であることの特別感を全く感じなかった。
ナーサリールームに行くと、いろんな国・人種の生まれたての赤ちゃんがいて、幸せな気持ちになった。
そして始まった私たち3人での毎日。
あなたは必死に生きて、毎日成長していく。
どんどん成長していく様子を見て、嬉しい反面で、いつまでこの成長を見れるのだろうかと、人の人生はなんて儚いのだろうとも思った。
そんなある日、大好きな祖母が帰らぬ人になった。
祖母と最後に話した時、祖母は「生きることと死ぬこと」は同じことだと言った。
あなたが、どこかからやってきたように、祖母もどこかへと旅立ったのだ。
祖母は戦中・戦後の貧しい時を経験して、女性があまり働かなかった時代に、必死に働き、
インテリアコーディネーターとなり、建築士の資格をとって、住宅の設計が生涯の生き甲斐となった。
時代を駆け抜け、自分のスタイルを貫いた祖母の生き方を、尊敬してやまなかった。
祖母は私の憧れだった。
戦時中苦労し、大学に行くことが叶わず、妊娠出産で仕事を中断した祖母にとっては、今を生きる私は憧れの的だったのだろう。
祖母はいつも私にエールを送ってくれていて、あなたが生まれた時も最後のエールを送ってくれた。
家族の生と死を目の当たりにしたことで、私はこれまで感じていなかったような、家族とのつながりを感じたのだった。
あなたが生まれたことで、祖母について、語り継ぎたいと思った。
それと同時に、私は自分の残された人生をどのように生きるかを考えている。
険しい道だとしても、祖母のように自分らしい人生を送りたい。
そんな姿をあなたに見せられたらいいと思う。
1ヶ月経って、あなたは徐々に目が見えるようになり、こちらに笑顔を向けてくる。
あなたが産まれて、私の人生はさらに自分らしく楽しみなものになるだろう。
一緒に人生を歩むことができて、どれだけ幸せか、これからあなたにたくさん伝えたい。
ひらめきのふりをして
そんな私だったが、今では非常に楽しくクリアな気持ちで創作活動とその発信ができている。自分の考え方の癖を理解して、それが自分の個性であると受け入れたからだ。私の言う自由な発想というのは、ゼロから何かを思いつくということである。何もないところから、自由に何かを作ることだ。幼稚園や学校生活ではたびたびそのような課題が出されるものだが、私はそれら全てをロジックで乗り切ってきた。まるでゼロからひらめいたような顔で提出してきた。
例えば、夏休みの自由工作ならホームセンターで最初に目に入った素材を使うという縛りを設ける。素材の特徴や用途を調べ、自分の持っている道具と加工技術を組み合わせて考える。大人になってみれば、このような創作順序でも何も問題ないと分かる。しかし、小学校ぐらいだと作りたいものを決めてから作り方や材料を考えるというのが主流なだけあって、自分のやり方は何も思いつかないときの苦し紛れだと思って隠してきた。
そのように完成品だけを見せて、発想の順序がバレないように隠してきた私にも転機が訪れる。そのきっかけは、大人になってから旦那に言われた一言だった。それは「努力できることも才能の一つになり得る」ということだ。どういうことかというと、私の「アイデアをひらめくのが苦手だからロジックで突破する」という理屈は、誰にでもできそうで誰にでもできることではないと言ってくれたのだ。私は自分で組み立てたロジックに責任を持ちたいと常々思っている。だからロジックが正しいかどうかきちんと調べる。そうしてつけた知識は別の創作でも生きてくる。この繰り返しだ。このように常に勉強しながら何かすることは、楽なことではないよねと言ってくれたのが旦那の一言だったのだ。
私には、その言葉がものすごくしっくり来た。なぜなら今まで自分の作品を褒められる時、「センスあるよね」とか「こんなの思いつかないもん、すごいよ」と言ってもらえても、理屈で組み上げたものを「ひらめき」と呼ぶのは嘘をついているようで、そのプロセスをずっと恥ずかしいと思って隠してきたからだ。それゆえいつだって微妙な笑みで誤魔化してきたし、なんなら自分の作品はオリジナルとは言えないのではないかとすら思ってきた。ところが、それも見方を変えれば、センスが足りない部分をロジックで補って作ったものが、他者からはセンスで作っているように見られているというわけだ。完成度は高いと言えるのだろう。
私の言う「センスで作る」が絶対音感だとしたら、「ロジックで作る」は相対音感のようなものだ。その精度を上げれば、憧れているものに近づくことはできるのかもしれない。私は、往年にわたって恥ずかしいと思ってきた考え方の癖を個性として認めることができたのだ。これをきっかけに、創作だけでなく自分自身のものの考え方や、ものごとへの取り組み方についてよく観察するようになった。仕事や趣味のゲーム、子育てや家事など、何につけても同じような思考の癖を発揮していることに気がついたのだ。
例えば私が今はまっているマインクラフトというゲームがある。このゲームは冒険や建築をして遊ぶ、いわゆるサンドボックス型のゲームで非常に自由度が高い。一応天候や気候もあるが、寒さでダメージを受けたり雨漏りしたりという心配はない。そんな自由なゲームだが、私はこのゲームの中での建築でもロジック創作を発揮している。これから建築する土地の気候的特徴や、地形、建物の役割を、現実の世界での法則に照らし合わせる。そしてそれを足がかりにある程度のアイデアをまとめて、最後に少しはずしの要素を入れることで、オリジナリティーやファンタジー感を出すという寸法だ。
以前は逃げだと思っていた思考プロセスを、今では全て説明したら面白いのではないかとまで考えて、ブログやXで積極的に発信している。「ゼロから考えるのは苦手だから、このように自分で縛りを設けてきっかけにしている」と堂々と言えるようになったのだ。「センスがある」と言われても、もう微妙な笑みで誤魔化さなくていい。それだけで、毎日が前よりずっと楽に、面白くなった。
おばあちゃんとどら焼き
.
20代で教員を挫折し、恋に破れ、会社員として働いていた頃
おばあちゃんがうちにやってきたら、
お母さんと三人でよくどら焼きを食べました。
ばあちゃんは普段血圧を気にしてるくせに
あんこには目がなくて光の速さでペロリと食べてはイタズラっぽく肩をすくめて笑ってたな。
今でも思い出すと涙出るほどあったかくて幸せな時間。
.
コロナがやってきた頃おばあちゃんは入院して、
会社勤めで人と接触のあった私は会いにいくのを躊躇いました。面会も制限されていた。
そして、その時はやってきてしまいました。おばあちゃんの病院に駆けつけたあの日、
高速道路で車窓から見た空は、どこまでもおばあちゃんの好きな紫色が広がっていました。見たことないほど美しかった。
まるで世界におばあちゃんが溶け出していくようで、
明日が来なくてもいいからどうかいつまでも日が沈まないようにと祈りながら車を走らせた。
仕事を数週間休んででも、会いに行けばよかった。病院に送り出すあの日、ハグをすればよかった。マスクを外して、にっこり笑顔を見せればよかった。
.
おばあちゃんを連れて帰った翌朝のばあちゃんちの庭の花々は満開でした。
.
会いたい時に会いたい人に会いに行ける
大事な人の大事な時にいつでも駆けつけてそばに居られる生き方がしたい。
.
そう決意し、その年に私はボーナスももらわずに会社を退職してフリーランスになりました。
ばあちゃんの育てていた庭木で染めたハンカチを売ったのが独立して初めてのお仕事でした。
.
そんな私はいまたくさんのご縁に恵まれ、支えられて、
好きなことを仕事にして時間も、場所も、自由に選ぶ働き方に
そして、不思議なことにここ2年間
毎月お客さんや、お義母さんや、ご縁のあるどなたからか、「どら焼き」をもらい続けているんです。時には一度に3箱同時にやってきたことも。
そして今日は、友人が
発酵あんこを学ぶから今度どら焼きの試食に来てね、なんて言ってくれるじゃありませんか。
.
ああきっとおばあちゃんが来てくれたんだなって
ご縁を繋いでくれて、進む道はこっちで合ってるよって、大丈夫だよって
そう言ってくれている気がしてならないのです。
天からの光
こう問われたら、私は迷わず即答する。
「二十七歳」
「人生が変わった瞬間が訪れたのは?」
これも間髪入れずに答えるだろう。
「二十七歳!」
現在わたしは五十六歳。だからこれから綴る話は二十九年前の出来事だ。
(マジ? そんなカビくさいのやめてよ~)
眉をひそめたそこの若いアナタ、時代遅れと決めつけずに読んでみてよ。中年オバサンにだって若い頃があり、それなりに人生経験を積んできたんだから、ね。
その二十九年前、私は広島の放送局(正確には関連会社)へ入社して三年目で、テレビやラジオの番組を制作していた。
肩書きは〈ディレクター〉だが、親会社のような教育体制もなく、現場でスタッフに怒鳴られながら体当たりで仕事を覚える日々。辛さと楽しさが半々でもやり甲斐はあり、〈アレ〉さえなければ続けていたと思う。
その〈アレ〉は前年の秋、苦手な上司のおねだりから始まった。外出準備をしていると
「ねえ、明日の会議用にもう一本企画書出してよ」と、上目遣いですり寄ってくる。
「は? これからロケなので無理です」
「テキトーでいいから。Mネタとかさ~」
忙しいのにチョーしつこい。仕方なく広島の戦国武将Mをテーマに薄っぺらな企画書を提出したが、翌日の企画会議では局のデスクに「今頃M?」と鼻で笑われた。
即ボツでホッとしたが、それからほどなくして驚きのニュースが飛び込んでくる。
「再来年の歴史ドラマの主人公はM。中国地方が初の舞台に!」
諸事情で急きょ決まったらしく、広島をはじめ中国地方はお祭り騒ぎに。
ところがここで問題が。企画会議はすでに終了。春からのシリーズものにM関連の番組を組み込むのは……あっ!
というワケで白羽の矢が私のボツ企画書にグサリ。地獄の日々の幕開けだった。
その国民的歴史ドラマは親会社の看板番組で、莫大な商業効果を生み出す。舞台を管轄する局にとっては責任重大なのに、最初の番組を担当するのが関連会社の人間で、しかも経験の浅いオネーチャンときた。局の人間は露骨に態度を変え、視線も冷ややかに。
(フン、やれるもんならやってみな)
対照的だったのは自社のオジサン連中で、「でかした。よくぞ親会社の鼻をあかしてくれた!」と出向させられた恨みなのか大はしゃぎ。企画書を書かせた上司など己の手柄のごとく胸を反らせ――そのくせ人が足りないから一人でやれという。
「東京から助っ人を呼ぶから、いい番組を作って関連会社の意地を見せろ!」
こうして私の戸惑いなどそっちのけでスタートした歴史紀行番組プロジェクト。四月から毎月一本、年間十二本を放送。局のベテランアナウンサーがMゆかりの地を巡って歴史や風土を紹介するという内容だった。
番組は短時間でも、ロケやインタビューのほかに鎧兜や古文書など撮影には膨大な時間を要する。Mは戦国武将としては歴史的資料が乏しく、ドラマの脚本用にあらゆる資料を発掘して撮影せよと命じられた。
つまり、到底若輩女性ディレクターの手に負える代物ではない。ゆえに番組を仕切ったのは東京から来た助っ人・A氏。ダミ声でよくしゃべる五十代オジサン(大半は自慢話)で、私は彼の手下と化した。
「空撮用ヘリコプターを手配しろ」
「東京から合戦の映像を調達してこい」
人使いは荒いがさすがにべテラン。的確な指示でチームをまとめ、私は命じられるがまま日夜コマネズミのように走り回った。
完成した初回分の大々的な試写会では
「いい出来だ」
「次回以降も楽しみにしているよ」
などと親会社のお偉方から賞賛され、鼻高々のA氏と自社の上司たち。疲労困憊した私は何の感慨も湧かなかった。
そう、当時は〈働き方改革〉や〈ハラスメント〉の観念がなく、いまふり返っても異常なまでの激務だった。取材・打合せ・下見・ロケ・編集・音入れにナレーション収録と朝から深夜までエンドレス状態。おまけに訪ねてくる自治体関係者や怪しげな自称歴史研究家の相手までさせられ、神経の休まるヒマもない。
最初の異変は翌年三月、朝実家の母と電話中にあらわれた。花見の話題になり
「そっち(長崎)は早かねえ」と感心すると母がぽつり。「広島も咲いとるやろ?」
言われて窓の外を見ると、遠くの山が一面ピンク色に染まっていて愕然とした。
以来心身の不調が顕著に。夜中に仕事の夢を見て飛び起きる。目の下に隈ができ、生理もストップ。机に山積みされた資料を開くと手が震え、文字が頭に入ってこない。
ついにはロケの昼食後、早めに現場へ向かおうとして店先で足が硬直。この時はなんとか動けたが、別の夜にはエレベーターから出られず、カメラマンに救助された。あの頃「メンタル」という言葉はなかったが、相当きていたハズだ。
が、ヘルプ要員を頼んでも首をふる上司。「うまくいってるじゃないか。大丈夫!」
たしかに番組は順調で、私への評価もアップ。ただそれは経験豊富なA氏がいるからで、彼はじき東京へ戻るし、なんとか一人で番組を作り終えたとしても、ドラマが始まれば間違いなく新番組を任される。〈Mに詳しいディレクター〉として――。考えるだけで鳥肌が立ち、涙が止まらない。
(怖い。逃げたい……ン、逃げる?)
編集室にいた私は卓上電話をとると、学生時代からの親友を叩き起こした。時刻は夜中の二時。「もしもし、私会社辞めるわ!」
それからは一気呵成。「急に結婚が決まった」と上司へ嘘の報告。引継ぎを済ませ、逃げるように八月末で退職した。(ちなみに残りの番組は三十代男性が二人で担当したらしい。私はドラマも含めて一切観なかった)
こうして地獄から解放された私。夜中に飛び起きる回数は減ったが、今度は仕事を途中放棄した罪悪感からドップリ自信喪失に。
退職を親にも告げられず、唯一相談できた恋人(関西在住)とも溝が生じ、アパートに引きこもる孤独な日々。ただただ〈活字〉を欲し、書店や図書館の本を貪り読んでいた。
そんな十月の午後、私は読書をやめてふと天井を見上げた。まぶしい金色の光が垂直に降り注ぎ、無数の埃がキラキラ漂いながら流れていく。(な、何コレ……)
同時に体の奥からカーッと熱いものが湧き上がった。(ああ、私も何か書きたい!)
気づけば光は消えていたが――まさに人生が変わった瞬間だった。
その日から〈文章修行〉と称して新聞や雑誌に投稿を開始。翌春関西へ越し、文章教室へ通った(恋人とは破局)。その後ラジオドラマや舞台の脚本を手掛けるようになり、三十代後半で地元へ戻ってからは児童文学の道へ。童話やエッセイの公募でポツポツ入選を重ねている。
今でも時々考える。二十九年前に目にしたあの光は何だったのだろう。だがおかげで自分が進むべき道を見つけ、自信と笑顔を取り戻せた。生涯書く道を歩み続ける覚悟だ。
子育て卒業
といっても、夢破れたわけではない。私は母親になり、子育てをすることが長年の夢だったので、それを叶えることができた話だ。
『子育て』という言葉を検索すると、一般的には18歳未満の未成年を育てる行為を指すという。
自分が『子育て』を卒業したきっかけは、次男が思いがけず、地方の大学に合格したことだった。卒業したといえば聞こえは良いが、嬉々として一人暮らしを始めた次男に無理やり 卒業させられた、というのが真相だ。
大学受験の会場まで付き添いをするような母親だったので、急な変化に心が追いつけずにいた。返信の届かないスマホを握り締めたり、空っぽになった部屋を覗いたりを繰り返すことしかできずにいた。
そんなある日、子どもに関わる仕事を紹介された。そんな気分ではなかったが、熱心に誘われたこともあり、職場見学にだけ参加することにした。
職場見学の当日は誕生会が行われていて、室内は子どもたちの屈託ない笑顔と明るい歌声に満ちていた。
気が付けば、私は涙ぐんでいた。息子ふたりが幼き頃、お風呂の中でいつも歌ってくれたことを思い出した。
気付かれぬように涙を拭い、私は子どもたちと、おままごとやパズルゲームで遊んだ。
「また来てね」
声を掛けてくれた子たちはそんな出来事さえ忘れてしまったかもしれないが、私は翌月からその職場で働くことが決まった。
入職初日。一年生から四年生の子どもたち、総勢20名ほどが出席していた。
「初めまして、仲良くしてね」
お辞儀から顔を上げると、こちらと同じくらい緊張した面持ちの彼ら彼女らがいて、安心すると同時に責任の重さも感じた。
学校ではないけれど家庭でもない。学童保育の現場は、とても特殊な空間だ。どちらに寄りすぎてもいけないが、どちらとも連携をとる必要がある。
子育ての経験はあるが学童指導員としての経験が無かった自分は、子どもたちとの距離の取り方がよくわからずに困惑した。
そこで、ベテラン指導員の方々に相談の上、まず、毎日提供するおやつを工夫することにした。
どんなおやつが好きなのか、毎日の遊び時間の中でそれぞれの子どもたちに質問し、すぐにメモを取った。
彼ら彼女らの嗜好は本当に人それぞれで、ドーナツが好きな子がいる一方でドーナツだけは食べられないという子もいた。市販菓子は苦手だけれどチョコレートだけは大好きだという子もいる。そうかと思えば、噛み応えのある煎餅などしか食べたくないという子もいた。
所属している学童施設の基本ルールとして、一日のおやつは三種類と決まっていた。
たとえば、煎餅、チョコレート、果物ゼリーといった具合で、それぞれを大きなトレイに並べ、各自の皿に取ってもらっていた。
試行錯誤した末、私は、トレイに複数のおやつを並べて選んでもらうようにした。たとえば一つめのトレイに煎餅とドーナツ、次のトレイにチョコレートとパン、最後のトレイに果物ゼリーと羊羹、といった具合だ。
これならば、多少の時間はかかるが、子どもたちは自分で考えて好きなおやつを選ぶことができる。好き嫌いをなくしてあげる方が丁寧だという声もあるだろうが、私はとにかく、通いたくなる空間づくりを優先させた。
その結果、子どもたちの食べ残しがぐんと減り、おやつを楽しみにしてもらえることが増えた。保護者の方々からお礼を言われることも増え、勢いづいた私は、手作りおやつの頻度を高めた。
おにぎり、カレーライス、パンケーキ。手作りのおやつを食べた日は子どもたちの表情がぱあっと明るくなり、ケンカ等のトラブルが激減するのを肌で感じた。
そうなると、職場への道すがらスーパーやパン屋に立ち寄るのが楽しく、夜の夢の中でも買い物をするようになった。
そんなとき、同居している長男が、半ば呆れ顔で声を掛けてきた。
「その子たちが本当に可愛いんだね」
幼き日、次男が生まれてお兄ちゃんになったときでさえ見せなかった表情に、私はハッとした。確かに、学童の子どもたちをとても大切に思い始めている自分がいた。
自身の子育てが終わっても、地域の子どもたちのお世話ができている。その有難さをしみじみと感じた。また、子育てというものはこうやって、親以外のたくさんの大人が関わって成り立つものかもしれない、と思い至るようになった。
思い返せば、息子ふたりを育てた日々は楽しかったが、後悔だらけの毎日でもあった。
恥ずかし過ぎて思い出せないような失敗や、誤った選択をしたことも数えきれないほどある。あの頃、相談できる相手が身近にいたら何かが違っていたのかもしれない、と考えてしまうこともある。
だが、流れる川を止めることもできないし、時計の針を元に戻すこともできない。
そんなことを考えているうちに、長男が彼女と一緒に暮らし始めた。つまり今度こそ、本当に子育て卒業だ。
今後は、学童施設の子どもたちから教わるいろいろなことを糧にしながら、人生をより豊かなものにしてゆきたい。そして、いま現役で子育て中のお母さんお父さんに寄り添って、あの頃に自分が受けたかったサポートやフォローを与えられるようになりたい。
夢が終わった瞬間、私が変わった。けれど、過去から変わらないものも大切にしながら、現在を充実したものにして、未来へとつなげてゆきたいと強く願う。
さあ、明日もかわいい子どもたちと、たくさん笑い合おう。
一粒の涙
今年もまたそうつぶやく私に友達の少し驚く顔…桜は嫌い…うぅん…正確に言うと…桜は苦手なんだ
お母さん…あなたがいなくなった春を思い出してしまうから…
あの日…一緒に窓の外を見ていた
あなたの部屋の窓から桜は見えなかったけど、春の訪れの暖かな日差しが桜の満開を教えてくれたから『お花見一緒に行こうね』あなたそう言っていつもの優しい顔で笑ってた
あなたは2度目の入院だった
几帳面なあなたが、一緒に食事をするはずだった時間に連絡もなく随分遅れて来たあの日から…ちょうど1年が経っていた
あの日遅れて来たあなたが、街を1人あてもなく歩いていた事
そしてその理由があなたの病気が見つかった日だって…後から知ったんだ
お母さん…あなたは優しかった。強くて頑張り屋だった。そして…いつも私を守ってくれた。一緒に笑って…一緒に泣いた
私が””彼と別れる””って決めた日…
お誕生日でもないのに『Happy Birthday!!今日はさっちが生まれ変わる日!!新しいさっち!』ってケーキを買ってきたあなた。そんなあなたの優しさが大好きだった
『神様は天使になれると思った人をこの病気にするんだって。心優しい人を選んで天使にするんだって。ママ優しくないのに神様に選ばれちゃった』
そう笑いながら言ったあなたが、いつもは優しいあなたが、あの時期先生や看護士さんを少しだけ困らせた事を知った時、
あなたの精一杯の抵抗を見た気がしたんだ…
私は何も出来なかった…
悲しいくらいに…何も出来なかった
悔しいくらいに…何も出来なかった
私は…無力だった
もし本当に優しい人を天使にしたくて神様が選ぶのなら、あり得ないくらい優しいあなたより、もっともっと優しい人に私がなれば神様はあなたを病気から解き放してくれるのだろうか…
そんな事を本気で考える事ぐらいしか出来なかった
あなたの辛さも痛さも悲しみも…あなたの涙を抱えてあげる事すらも出来なかった
それでも頑張り屋のあなたは元気になってくれた
手術が成功してあなたが退院出来た時、あなたの真似をしてお誕生日でもないのに『Happy Birthday!』 と書いたケーキを買って行った私に、あなたは花束で泣き顔を隠しながら『元気になってよかった』と言ったっけ…
そんなあなたが再入院をしたのは…
それからたった3ヶ月後…
たった…たった…3ヶ月後…。
『さっち…もう私がいなくても大丈夫だよね』って真剣な顔で言ったあなたに、どれだけ私が弱虫で寂しがり屋で甘えん坊 かを…あなたが居てくれないと困る事を必死で伝えた
そうすればいつもみたいにあなたが『私がいないとダメだなぁ。さっちの為に頑張んなきゃ』って笑ってくれそうな気がしたから…
でもその日のあなたは少し困った顔をするだけだった
でもね…本当にそうだったんだ。お母さん…あなたが居ないとダメだったんだよ
楽しい時も悲しい時もいつも一緒にいて
天使になんて選ばれるのならあなたが優しくなくったっていいと本気で願った
病院に行く度にあなたは小さくなって…痛さをなくすためのモルヒネ
幻覚を見るようになって、誰が来てももう分からなくなってしまっていたあなた…
でもあの日…
そんなあなたがベッドの上にチョコンと座り、細くなってしまった真っ白な足を抱えるように体操座りをして窓の外を見てた
いつもは虚ろなあなたの瞳は、しっかりと窓の外を見つめ『お花見一緒に行こうね』
そう言ったんだ…
あの日…あなたはそう言って、いつもの優しいしっかりとした顔で笑った
それから数日後…
あなたは天使になった…
静かに泣きながら…
あなたは…天使になった…。
ねぇ…今年も…桜はきれいだったよ
お母さん…あなたが最後に流した一粒の涙の意味を知りたくて
今年もまた、はらはら舞うまるで雪のような桜をひとり見にきています
あなたの最後の…””一粒の涙””の本当の意味は…まだわからない…
でも…大切なものをきちんと大切にしようと思うんだ。
何年経っても…あなたの優しさが…あなたの強さが…今もこうして私の中に息づいているから…
愛も優しさもきっと静かに淡々と広がり繋がっていくものだって思えるんだよ
大切な人を…大切な事を…大切にしていきたいと思ってるんだ
“”全てはそこから始まる””
それをあなたが教えてくれたから…
今年も桜…きれいだったよ
帰りにまたケーキを買って帰るね
あなたのお誕生日でも私のお誕生日でもないけれど…『Happy Birthday』のプレートを付けて…また…新しい自分に…
もしもあなたが本当に天使になったのなら
いつかまたあなたに出逢うためにあなたみたいに優しい人で居続けようと
そう誓いながら…
文章には、書き手の性格や感性が自然と滲むもの。
出来事の大きさやテクニックではなく、
ものの見方や感じ方そのものが、
作品の魅力になることがあります。
「この人にしか描けない」と感じさせる空気感や視点を持ち、
読み手を自然と物語の中へ引き込んだ作品をご紹介します。