WOMANエッセイアワード2026
WOMANエッセイアワード2026
🤝 「一人じゃない」と思える作品

「悩んでいるのは私だけじゃなかった」。

そう思えた瞬間、
心が少し軽くなった経験はありませんか?

誰にも言えなかった孤独。
分かってもらえない苦しさ。

そんな心の奥にしまい込んでいた本音を言葉にし、
あなたにそっと寄り添ってくれる作品をご紹介します。

 

作品一覧

あの日、私は少し自由になった

Yonna
私の人生が変わった瞬間。それは、子どもを産んだときーーとくに二人目を出産してからだ。

一人目は、よく泣く子だった。少しの物音でも起き、抱っこから下ろせばまた泣く。そんな毎日が続いていた。

出産後、私は「完母で育てなきゃ」と思い込んでいた。誰に言われたわけでもないのに、それが正解だと信じていたのだ。
けれど入院中、現実は思い通りにならなかった。授乳はうまくいかず、赤ちゃんは泣き、私も泣いた。助産師さんに励まされながら、混合でどうにか乗り切った日々。退院後、母乳量が増えて完母でいけるようになったときは、本当に嬉しかった。まるで試験に合格したときのような気持ちだった。

ただ、その達成感とは裏腹に、生活は過酷だった。授乳の途中で寝てしまう子だったから、すぐにお腹が空いて起きる。やっと寝たと思ってもまた泣く。そのたびに私は飛び起きて抱っこし、あやし、授乳した。慢性的な寝不足の中でも、誰かに頼るという発想はなかった。母親は私なんだから、私がやらなきゃ。そう思い込んでいたからだ。

本当は辛かった。体も心もぼろぼろだった。それでも、小さな顔を見つめるだけで「よし、頑張ろう」と思えた。あの頃の私は、責任感だけで立っていた気がする。

そんな経験を経て生まれた二人目。少しは余裕を持てるだろうと思っていたけれど、育児はやっぱり予想通りにはいかない。

二人目の子には、アレルギーがあった。

一人目のときは、食材を一つずつ慎重に試していた。小麦はうどん、乳は牛乳、卵は卵と、きちんと分けて確認していた。
二人目も同じように進めていたつもりだった。しかし今思い返すと、量はだいぶ適当だった。1人目は特にアレルギーもなく大丈夫だったので、きっと大丈夫と言う少しの気の緩み。たしか生後七、八か月頃だった。パン粥を口にした直後、口の周りと目の周りがみるみる腫れていった。

一瞬で血の気が引いた。頭の中が真っ白になる、という感覚を初めて知った。検査の結果、小麦と乳のアレルギーがあることがわかった。

そこからは食事の工夫の日々だった。小麦は米粉に、乳は豆乳に置き換える。原材料表示を細かく確認しながら、食べられるものを探す。大変ではあったけれど、不思議と一人目のときのような焦りはなかった。「できることをやろう」と自然に思えていた。そして、それを楽しめていた。

一歳を過ぎてからは、半日入院でアレルギー負荷試験を行った。家でも少量ずつ試していった。今日は小さじの先だけ。次は小さじ1杯分。そんなふうに少しずつ、少しずつ。時間はかかったけれど、今では小麦も乳も、みんなと同じ量を食べられるようになった。

振り返ると、一人目の育児は「ちゃんとしなきゃ」でいっぱいだった。二人目の育児は「大丈夫、大丈夫」と自分に声をかけながら進んでいる。

私はもともと、人に気を使いすぎる性格だ。迷惑をかけないように、ちゃんとしていると思われるように、ずっと気を張って生きてきた。今もその性格が消えたわけじゃない。でも、以前ほど自分を縛らなくなった。

二人目の出産のとき、子どもと一緒に何かを産み落とした気がしている。余計な不安や、「こうあるべき」という思い込みや、自分で自分を追い詰めていた心の癖のようなものを。

一人目は昨年、小学生になった。また新しい「初めて」が始まった。
仕事に家事に育児に、待ったなしの毎日。それでも、なんとかなると思えている。
これからも子どもたちと一緒に、母として、人として、少しずつ成長していくのだ。

気にしすぎなくてもいい。完璧じゃなくてもいい。それでも子どもはちゃんと育つ。

あの日、私は母になった。
そして同時に、少し自由になった。

もしかしたら――あの瞬間こそが、私の人生が変わった瞬間だったのかもしれない。

揺れる

ワラムギ ホミ
 30歳、怪しい風が吹く。頭の中で感じる風だ。風はついに目に見えるほど環境を変えていった。気づけば、家の中は介護用品で満たされていた。柱、柱、柱、手すり、手すり、手すり。35歳になると、我が家は立派な在宅介護の風景と化した。
 父はパーキンソン病と、軽度の認知症を持っている。おととし9月、自宅で転倒し、年を越す前に自宅に戻った。それからだ、介護用品が倍増したのは。
 歩行器、車いす、手すり、柱(これも手すり)、転倒防止の床マット、電動式ベッド、ありとあらゆるものがそろえられた。介護保険よ、あっぱれ。しかし、環境だけそろえたからといって介護が解決するものではない。私たち家族は、父のために誰かひとり自宅に置いておかなければならない。父がいつ転倒するかわからないからだ。
 案の定、父は転倒した。あんなに手すりがあるのに、あんなに歩行器を使うよう声をかけるのに、父の耳に届いても記憶にはとどまらず、あっという間に彼は頭を打ち、顔の半分に大きなあざをつくった。家族はバタバタと父に駆けつけ、ひとりは怒り、ひとりはため息をつき、ひとりは励まし、また誰かが励まし、そうやって家族は支えあった。父は何も言えなくなって体を揺らしている。揺れているのはパーキンソン病の症状である。
 35歳となって、より本格的に要介護の父の介護の手伝いをしている現実を、これまで何度悲観したかわからない。同じ年齢で介護の悩みをもつ友人は数少ない。そして老後に迫る“老い”という摂理を父の姿を通じて徹底的に味わうこととなる。もともと結婚願望がない私に、いっそう結婚は遠ざかっていく。将来はいつかこうなるんだ。そう思うと、ロマンあふれる恋愛感情の芽は、育つどころか土に顔をうずめてしまう。
 父と向き合うのは容易ではないが、たまに腹を割った話をすることもある。父は語った。「自分はこのままでいいのかわからない。もっと頑張らないといけないと思っている。誰かの役に立ちたい」そう語る父に、私は「もう十分頑張ったよ。だからこれだけのものを持っているじゃん。娘も元気にしている。だからあまり悲観しないで、今あるものを見てほしい」そう話した。彼は揺れていた。いつものように。「そうかなあ」と語る父を見ていると、歴史を感じる。彼は、戦後の資本主義社会や高度経済成長期といった大変な時代の労働者として生きていた。“役に立ちたい”という言葉は時代が彼に要求したものではないか。
 私は自分の人生に突如起こった介護という文字を、何度も悲観し、時には絶望した。車いすで父を病院に連れていくとき、私くらいの年齢はあまり見ない。2段階ほどステージがとびぬけてしまったようだ。
しかし、決して父という人生と向き合うこと自体には悲観していない。父は、懸命に生きている。私は父が生きる背中を支えることに、絶望はしていない。ただ、私自身がどう生きたらいいか、これからをどう描いたらいいか、それだけがまだ頭の中でびゅーびゅーと吹いているのだ。

生きてるだけでいい

丁花
長男が学校に行かなくなったとき、私は自分を「母親失格だ」と思った。
朝になっても布団から出てこない息子を見ながら、胸の奥がざわざわしていた。
「今日はしんどい」
小さな声でそう言って、また布団にもぐる。
私は子どもを産んでから、ずっと体調を崩していた。精神的にも不安定で、特に朝は体が重く、心も沈みがちだった。本当は隣で一緒に寝てしまいたい日も多かった。それでも母親だからと、自分を叱咤していた。
やがて学校を休む日が増え、完全に行かなくなった。昼夜は逆転し、部屋のドアは閉まったまま。お腹が空いたら起きてくる生活。ずっと携帯でゲームをしていた。
そんな彼を見ながら、私は考えていた。
このままどうなるんだろう。
将来は。
社会に出られるのだろうか。
考え始めると、息が浅くなった。
私は「母親らしいこと」をしてあげられていない気がしていた。体調を理由に、十分に話を聞いてあげられていない。どこかへ連れて行ってあげることも少ない。笑顔も減っている。
だからきっと、こうなったんだ。
どこかで本気でそう思っていた。
私には子どもに対する負い目があった。その負い目が、私を焦らせていた。
不登校であることを、私は夫に正直に言えなかった。
「今日は遅刻して行った」
「午後から行った」
そんなふうに曖昧にごまかしていた。本当のことを言えば、責められる気がしたからだ。子どもも、私も。
夫とは表面的には仲がよかった。普通に会話もするし、笑うこともある。けれど今思えば、私たちは本当の意味で向き合ってこなかった。
ぶつかることが怖かったからだ。
子育てに対する考え方はどこか違っていた。でも、それをちゃんと話し合ったことはほとんどなかった。お互い気を使い、深いところには触れないまま時間が過ぎていた。
長男の不登校が続き、家の空気が張り詰めていたある夜、私たちは初めてゆっくり話をした。
「俺も、どうしたらいいかわからんかった」
夫のその言葉を聞いたとき、胸の奥が少しほどけた。
私だけが必死だったわけじゃない。
夫もまた、どうしていいかわからずにいたのだ。
それでも私は、「自分の手でなんとかしたい」と思っていた。
話し合えばわかる。
向き合えば変わる。
母親の愛があれば立て直せる。
どこかでそう信じていた。
長男のことをずっと心配していた。けれど、その奥にあったのは恐怖だった。
この子が取り残されたらどうしよう。
普通のレールから外れたらどうしよう。
でもそれは彼の問題というより、私の不安だった。
ある日、長男がぽつりと言った。
「俺のことなんて、好きじゃないんやろ」
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
私はこの子を愛している。ずっと必死だった。
でも、その言葉をすぐに否定することができなかった。
私は愛情を注いでいるつもりだった。必死だった。けれど、彼が本当にほしいときに、その愛情を渡せていなかったのかもしれない。
私は「いい母親でいよう」と必死だった。
でもそれは、彼が求めていた愛情ではなく、私が思う母親の愛情だったのかもしれない。
私の愛情は、どこか独りよがりだった。
私は子どもに「こうなってほしい」という思いが強かった。
自信を持って生きてほしい。
自分のことを好きでいてほしい。
でも、その奥にある本音に気づいたとき、はっとした。
私は、自分のことを好きではなかった。
私はずっと、ありのままの自分を愛してほしかった。
でも一番それができていなかったのは、私自身だった。
自由に生きようとする長男を見て、私はなぜかイライラしていた。でも本当は違った。
私は彼が羨ましかったのだ。
自分の気持ちに正直に生きようとする姿が。
私はずっと、人の目を気にして生きてきた。周りを心配し、自分の気持ちを後回しにしてきた。
子育てをうまくやろうと、講座もたくさん受けた。本も読んだ。お金も時間も使った。
でも、どんな方法を学んでも、結局うまくいかなかった。
今ならわかる。
私が変わらなければ、人は変わらない。
そもそも人を変えようとすること自体が、おこがましいことだったのかもしれない。
たくさん揉めて、ぶつかって、泣いてばかりの日々だった。
でもある日、ふと思った。
この子が、生きていてくれるだけでいい。
それだけでいい。
あれから一年が過ぎた。
今、長男は高校に通っている。友達にも恵まれ、楽しそうに笑っている。
そして今は、
「お母さん大好き」
と笑顔を向けてくれる。
他愛もない会話をして、家族みんなでご飯を食べる。
そんな当たり前の時間が、こんなにも幸せだったのかと今は思う。
49歳になって、私はようやく気づいた。
何もできなくてもいい。
生きているだけで、もう十分素晴らしい。
自分も。
他人も。
そのままの自分でいいんだよ。
人生に、不必要な出来事なんてない。
あの苦しい時間も、きっと必要だったのだと思う。
あの暗い日々を思い出すたび、私は初心に戻る。
生きているだけでいい。
長男の不登校は、私にそれを教えてくれた。

子供と人生

芝木杏子
 私が結婚したのは26歳の時。5年間子供が授からなかった。子供は当たり前に授かるものだと思っていた私には、苦しい5年間だった。毎月生理が来るたびに絶望を味わう。姑からは「いい報告はまだ?」という電話がしょっちゅうかかってくる。電話のベルがなるたびに、心臓をきゅっと鷲づかみにされるようだった。職場でも「作り方教えてあげようか?」といった心無い言葉を浴びて、隠れて泣いた。不妊治療にふみきったが、それがまた苦しい。痛くて恥ずかしい治療と落胆の繰り返し。私より後に結婚した姉に、子供ができたとの報告を母から受けた時には、こらえていたものが爆発したかのように、母の前で泣きじゃくってしまった。あのとき母は一緒に泣きながら、背中をずっとさすり続けてくれたっけ。でも、ついに奇跡のように体外受精が成功し妊娠することができた。どれだけ挑戦しても授からない人も多くいるのだ。辛いつわりを乗り越え、丸一日陣痛と闘って無事男の子を出産した。「ああ、これが幸せというものか・・・」出産直後の私には、もうなにもいらないという、満ち足りた気持ちがとめどなくわきおこっていた。
 待ち望んだ我が子は泣き続ける子だった。夜中の2時から5時までの3時間、抱いていないと泣き続けるのだ。やっとやっと授かった子供なのだ、これくらい、と渦中にいると思えない。ベランダから子供を投げるいうニュースに共感してしまう自分がいる。泣くという行為は辛いときに発生するものと思い込んでいたから、子供が泣くと「苦しい、苦しい」と悲鳴をあげているようにしか思えなかったのだ。一度、あまりに泣きやまないので、夫と真夜中に病院へ連れて行ったことがある。病院の先生は不機嫌というより、明らかに怒っていて、荒っぽく診察し、「異常なし」と言い放った。帰りの車でぐっすり眠っている我が子を見ながら、申し訳ないと思いながらも、先生の仕打ちに涙した。静かに寝ていると、息が止まっていないか心配で、何度も確かめてしまうような子育て初心者夫婦だったのだ。夜泣きは2年間続き、2歳の誕生日を境にピタッとおさまった。
 その後、自然妊娠、流産、そしてまた自然妊娠で二人目の子供を授かった。やはり子供というものは人智を超えた授かりものなのだ。竹取の翁が竹の中でかぐや姫を見つけたように、桃を拾って桃太郎を授かった夫婦のように。「子どもをつくる」なんて軽々しく言える
領域ではないのだろう。
 次男は長男と違って夜泣きはなかったが、少しずつ、あれ?と思うことが増えていった。なかなか歩かなかったし、言葉が出るのも遅かった。偏食も激しく白ご飯とリンゴしか食べない。同じビデオを何度でも見たいと泣き叫ぶ。ほっておくと球が転がる玩具を一日中見ている。何かおかしいと思いながらも、単なる思い過ごしだ、今に普通になると思いたい自分もいて、心は揺れ動いていた。エピソードはたくさんあるが、今も強烈に覚えているのは、チューリップフェアに家族で行った時のことだ。園内に入った途端、色と匂いに刺激されたのか手を振り切って全力で走り始めた。ただただ走る我が子。いったん見失うとみつけられないほどの人の多さ。私は髪を振り乱して追いかけ続けた。どれくらい走っていただろう。やっと立ち止まってくれた時には、私はマラソンを走り終えた選手のように地面に倒れこんでしまった。帰りの車の中、疲れ果てて寝ている息子の横で、これからこんなふうに翻弄される日々が続くのかもしれないと暗澹たる気持ちになっていた。
 保育園では問題が頻発した。お友達の顔をひっかいて夫と謝罪に行ったことは何度も。「安心して預けられない」という保護者の苦情も受けた。それでも、保育園に通い続けられたのは、保育士さんたちのおかげである。「着実に成長していますよ。」と言って、できないことではなく、できるようになったことを伝えてくれた。私は今人の善意、良心の存在を、心の底から信じている。自分では治しきれない心の傷にそっと絆創膏をはってくれる人が、どんな時も必ずいたから。 
 小学校でも同様に先生方をはじめ、多くの人たちに支えられ何とか6年間を全うすることができた。ただ、今も答えの出ないできごとがある。あれは5年生の時だったと思う。次男はプールが大好きで、前日の夜にはワクワクして眠れないほどだった。ある日、持ち返った水着を洗おうとしたところ、水着が濡れていない。「あれ?今日はプールなかったの?」と聞くと自分だけプールサイドで見学したとのこと。理由を聞くと「爪を切ってなかったから。」次男は忘れものが多い。でも、一人でプールサイドにたたずんでいる次男の姿を思い描くと、かわいそうでたまらなくて、泣けてきた。爪は学校で切れる。補えるうっかりミスではないか。勉強が苦手で、できないことも多い我が子の最大の楽しみを奪われた悲しみがおしよせてきた。先生には日々手を合わせたいほど感謝していたが、もやもやは晴れず、思い切って懇談会の時に、この思いを伝えた。すると先生はおっしゃった。「お母さんは甘すぎます。いったいどんなふうになってほしいと望んでおられるのですか?」私は何も答えることができなかった。「どんなふうに?」家に帰ってもその問いが、頭の中を駆け巡る。実はそんなこと考えたこともなかったのだ。今日元気だ、今日笑っている、「行ってきます」と家を出て、「ただいま」と帰ってきてくれる。それだけでうれしかったのだ。親として失格なのかもしれないが、それがその時の私の精一杯だったような気もするのだ。
 その後、長男も次男も中学、高校、大学と進んでいったのだが、正直その時代のことは覚えていない。書きたくても何も思い出せないのだ。私は高校の教員をしながら夫婦で子供を育ててきた。教員の仕事は年々加速度的に仕事量が増し、時々電池がきれたようにぶっ倒れることもあった。長男は、自分で決めて自分で選んで教育学部に進んだ。ボロボロになっている親の姿を見ていたはずなのだが、同じ仕事を目指すと決めた長男。私はうれしかった。次男も嫌なことはたくさんあったはずなのだが、学校はほぼ皆出席だ。高校3年の最後で、次男が3年間体育委員だったことを知った。教員をやっているのでわかるのだが、体育委員は誰もが一番嫌う仕事だ。授業の内容を事前に聞きにいったり、前に出て体操をしたり、体育行事のたびにこきつかわれたり、忙しいのだ。同じ委員でも選挙管理委員や総務委員など、ほとんど仕事がない委員もたくさんある。だから役員を決める時は要領のいい生徒は割のいい委員にどんどん立候補する。結局大人しくて運動と縁遠い生徒がやることになり、笑われながらみんなの前で体操することになるのだ。体育祭で青春を謳歌しはしゃいでいる選挙管理委員の裏には倉庫から競技の道具を必死に運んでいる体育委員がいる。私の次男は今もそういう役回りを引き受けながら生きている。そんな次男は私の誇りだ。
 これが私の子育て奮戦記。まさに子供によって育てられた私の物語である。

富士山との約束

ゆりえ いみ
空気が冷たい季節になって、薄い青色の空に、白い雪を裾の方までまとった富士山がよく見える。

ハッピーニューイヤー、富士山。
明けましておめでとう。
昨年の約束をおぼえていますか?
私はあれからもなんとかやってます。
今年もどうぞよろしくお願いします。

昨年のその頃は、富士山はまだ青く、雲に隠れる日も多かった。

初夏の頃、当時3歳の息子が大病を患った。

発熱から徐々に意識が混濁となり、救急搬送されて、目の前の現実についていけない私の心は置き去りのままに、息子の入院加療は始まった。

付き添いが許可された最初の夜には、息子の心拍数の低下を意味するアラームを何度も聞いた。看護師さんはことも無さげにアラームを解除していたけれど、医療知識のない私には、このまま息子の鼓動がどんどんゆっくりになって、やがて止まってしまうんじゃないかと思えた。そんな恐怖に駆られて、眠る息子の頬に手を当て、戻っておいで。お願いだから。お母さんのところに戻ってきて。と夜通し声をかけた。あの夜のことは、生涯忘れないだろう。

ボロボロのメンタルで自宅に戻ると、ベランダから薄雲の向こうに富士山が見えた。

我が家のベランダからは遠くに富士山が見える。
大きなローンを抱えるマイホーム購入の、その最後の一段を、私に乗り越えさせたのはこの富士山だった。

私はベランダに出ると、たまらず富士山に祈った。

お願いします、富士山。どうか息子が笑顔を取り戻せますように。息子にとって良い母親になると約束します。もう絶対、鬼のアプリなんて使いません。だから、どうか。

病気になる前、私は息子の育児にとても苦戦していた。自己主張と感受性の強い息子に、親の言うことを聞かせるのは毎回至難の業で、家事と仕事と育児でいっぱいいっぱいだった私は、しばしば鬼の力を借りていた。
一生懸命だったその時の自分を、責めるつもりはない。
だけどあの追い詰められた状況で、思わず鬼のアプリが口をついて出たのは、鬼が息子をどれだけ怖がらせるか、私が誰よりも知っていたからだろう。あの時は息子の世界から全ての恐怖を取り除き、もう大丈夫だよ、って言いたかったのだ。

数日経って息子は意識を取り戻し、やがて笑顔を取り戻し、1ヶ月の時間をかけて、身体機能と会話能力もゆっくりと取り戻していった。

ハロー、富士山。
私はあれから鬼のアプリは使ってないよ。なんてったって、約束だからね。だけど鬼さんの力なしで子供に言うこと聞かせるの、本当に大変だね。

今朝も幼稚園には行きたくないから始まって、出された食事は食べないし、そのくせ服を着させてお尻を拭いてと甘えてくるし。ふざけて道路に飛び出しそうでヒヤヒヤしたよ。お風呂も寝るのもお母さんとじゃなきゃ嫌なんだって。寝返りして背を向けたら、お母さんこっち向いて!って、私、フクロウじゃないんだから。無理だよ、首痛めるっつーの。

だけど今はそれも全部、育児の醍醐味なのかなぁって強がりながらもやってるよ。
見ていてね、富士山。
私がここで、息子のお母さんをやっているのを。
時には自分が鬼になったり、悪戦苦闘しながら、与えられた命を、育んでいる姿を。

最終兵器を手に入れた日

うえのひとみ
きっかけは些細なことだった。
夫が私に言った一言に傷つき、ショックで一瞬絶句した。
次の瞬間カッとなり「人を傷つけてなんでそんなに平気な顔をしていられるのか」と詰め寄った私に夫が放った言葉は「何が?」だった。

それから私は夫にラインで業務連絡をするようになった。
なんの感情も込めず淡々と必要なことだけを送信。
私から話しかけることはなくなり、夫からの問いに短く無感情に返事をする。
目をあわさないどころか顔を向けることもなくなった。
それでも家は回るもの。

一週間、思い出しては涙を流した。
もう疲れた。もう無理だ。なんであんなひどいこと…これ以上一緒にいるなんて考えられない。

一週間も泣き続けると泣きつかれ疲れるのかと思いきや、飽きた。
涙が枯れるなんてことはなく、泣きつかれることもなく、ただ泣くのに飽きたのだ。
私は彼と出会った頃のように若くはない。
まぁ出会った時もそんなに若くはなかったのだが、今よりは多少若かった。
残された時間はあの頃よりずっと短い。夫といえど自分を傷つけるような奴に費やす時間などないのだ。
それから役所に行った。もともと用事があったのでついでといえばついでなのだが、行かなくてもいい窓口に行って『離婚届』を貰った。
どこかに置いてないかなと探してみた。見当たらない。スマホで調べてみたら、窓口で貰うらしい。窓口で職員さんに「離婚届をください」って言わないといけない。ちょっと気が引ける。一瞬ひるんだが思い切って言ってみた。なんだか職員さんが神妙な顔をしているようにも見えるが、まぁ言っちゃったんだからしょうがない。
「一枚でいいですか?」と職員さん。え?一枚じゃないの?みんな何枚も貰うの?あー書き損じた場合を考えてか…まぁ貰うだけで本当に書くかは分からないし一枚でいいか。一瞬の間によくまぁ次から次と、私の頭の中は随分と忙しいものだ。自分で自分に呆れながらも「はい、一枚お願いします。」と元気に答える私。「書き方の紙も要りますか?」「あー、じゃあそれも。」職員さん、なんかごめんね。大丈夫よ、心配しないでと心の中でつぶやいて役所を出る。
車まで歩きながら顔がにやけた。なーんだ、離婚届貰うってたいしたことないじゃん。それになんだか最強の武器を手に入れた気分。
車の中で書き方のプリントを眺める。「めんどくせー」
そう、離婚届ってめんどくさいの。婚姻届けもめんどくさかったんだろうけど、そんなにめんどくさいって思わなかった。
この『めんどくさい』が消えた日、私は夫に最終兵器を突きつけるのだろう。でも、簡単には出さない。最終兵器なんだから最後まで取っておかないとね。

「大丈夫」

ふく田ふみ子
それは2020年、コロナ禍のこと。
当時大学生だった私には「ハタチ」前後になると送られてくる、子宮頚がん検診の案内状が送られてきていた。暇だから受けてみよう、どうせ大丈夫、そんな軽い気持ちで検査を受けた。

ちょうどその頃、リモートワークが出来ない職種の母がコロナ陽性に。一家を回していた母がコロナとは、父と2人の妹とてんやわんやだった。母は別室に隔離、大学生で比較的融通の効く私が主にLINEでやり取りをしていた。必要なもの、日常の何気ないこと、父の愚痴、、、。

そしてある日、リビングでテレビを見ていた私に父が封筒を渡してきた。婦人科からだった。「検査結果在中」それをみても何も思わず開封した。結果を見た私はあれは何分、何時間だったのだろう、茫然自失としてしまった。

結果は「ASC-US」。当時医者に説明された記憶では、つまり、細胞の形が正常ではないものの(=異形成)、まだ前段階で断定はできないグレーゾーンのようなもの、とのことだった。そして今後消えるかもしれないし、消えないかもしれないもの、とも言われた。

結果の紙をみてふと我に帰った時、まずは母に助けを求めたくなった。その時隔離されている母は数メートル離れた部屋にいるだけで近くにいるのに、それでも地球の裏側にいるように遠く感じてしまった。心細くて、どうしていいかわからなくて、父にも妹にも話せず、泣いて、泣いて、泣いた後に、同じ家にいる母に電話した。意外にも母は驚く様子を見せずに「大丈夫、大丈夫」を繰り返すだけだった。その後にきたLINEのメッセージも「大丈夫」だった。

そこから約1年半、経過観察のために総合病院へ3ヶ月に1度通った。その1年半は色々なことを考えた。「この妊婦さんは総合病院でないといけない事情があるんだろうか」「この女性は何で通院しているのだろう」。結果の通知を受けた時こそ悲劇のヒロインのように泣いた私だが、私が大学生活を過ごしている裏でこんなに沢山の産婦人科の患者さんがいて、その人それぞれがさまざまな苦しみと闘っていた。

また私がこの結果を受け取ったことで、「人生」そのものを考え直すキッカケとなった。大学を卒業したら大手企業でバリバリ働いて、結婚・出産しても働いて稼ぐんだ!それは意気込みとして勝手だが、女性として生まれて当たり前に叶うことではない、その私の理想は全ての幸せではない、と気がついた。

そしてそれを知っていたからこその、母の「大丈夫」ただそれだけだったのだ。

現在は異形成は無くなり通院の必要も無くなったが、あの時の苦しみを忘れることはない。また昨今は比較的理解がされてきた中で、母の時代は出産と仕事を並走することが難しかっただろうとも思う。ただこれは私が実際に経験したからこそ、現実味を帯びて想像し得たこと。母も1人の女性として悩んできたからこそ「大丈夫」、そのひと言に尽きたのだろう。

いつか私も「大丈夫」、そのひと言で1人でも救えたら。

胃に穴が開いた日

たかだま
休職した。

私は新卒入社5年目、金融系企業に勤める会社員だ。
その日、始業時間ギリギリで自席に滑り込んだ。
会社貸与のパソコンを起動し、いつものようにメールチェックを始める。
突然、胃のあたりにキリキリとした違和感を覚え、よじれるような鈍痛を感じた。
なぜか涙が溢れてくる。
隣の席の十ほど歳上の先輩が、異変に気付いてくれた。
私はそのまま病院へ行き、その日を境に出社しなくなった。

お腹の違和感の原因は、ストレス性の胃潰瘍。すでに胃に複数の穴が開いていた。

それまでの私は、振られる仕事は何でも引き受けていた。
業務の提案も積極的に行い、産休や育休で不在の先輩方の分も頑張ろうとしていた。
上司や、離れて暮らす両親の期待に応えようと必死だった。
社会人5年目に差しかかり、周りでは同世代や独身の先輩が精神的な理由で休職していくなかでも、『私は大丈夫』という自負があった。

胃に穴の開いた私を支えていたのは、『休職せず、安定して成果を出し続けている』というプライドだけ。
見かけとは裏腹に、中身はもう限界になっていた。
診断を受けたとき、私は自分に失望した。
同時に、安堵している自分もいた。
――やっと、あの場所に戻らなくていい理由ができた。
そう思ってしまった。
休職することを決めたとき、これまでの自信もプライドも、音を立てて崩れていった。

表面上では、いつもにこやかに仕事をしていた。
けれど内心では、いつからか、産休や育休に入る人や、介護やお子さんといった家庭の事情で遅刻・早退する人を、冷ややかな目で見るようになっていた。
『ご家庭の事情があって、いいですね』
そんな言葉を心の中で投げつけ、皮肉ってやりたいと思うこともあった。
本当は、そんなふうに考えてしまう自分が一番嫌いだった。

休んでいるあいだ、なぜこうなったのかを考え続けた。
けれど、理由はひとつに絞れるものでもなかった。
他責にしたい気持ちと、自分の非を認める気持ちのあいだを、何度も行き来した。

頑張りたくても頑張れない。
そんな状態は、人生で初めてだった。
体育会系出身で、体力にもメンタルにも自信があった。
それでも、「よし、動こう!」と思っても身体は重く、頭がぼんやりとして動けない。
絶望とまではいかずとも、将来のことはおろか、その日食べるものすら考えられなかった。
毎週ジムに行くことが日課だったのに、ベッドから起き上がるだけでも、かなりのエネルギーを要した。
こんな自分になるなんて、思ってもいなかった。

それでも、少しずつ時間が経つにつれて、私はまた日常を取り戻していった。
心を許せる仲間と過ごす時間や、何も考えずにいられるひとときが、少しずつ自分を回復させてくれた。
『五十点でもいい』
『上手くいかないなら、誰かに頼ればいい』
そんなことを思いながら、前よりも少しゆるゆると生きている。
平日の夜は湯船に浸かり、週末には甘いものを楽しむ。
最近は散歩が趣味になり、小さな心地よさを大切にするようになった。

高校からの親友と、『人生って、ネタ集めだよね』と何年か前に話したことを思い出す。
胃に穴が開く前に、私自身に掛けてあげたかった言葉。
ストレスに感じた出来事も、いつか笑って話せるなら、それはきっと“ネタ”になる。
最近は、日記にそんな出来事を書き留めるようになった。
仲間と集まって、お互いの“ネタ”を披露し合うこともある。

自信とプライドに代わり、“ゆるゆる”と“ユーモア”に価値を見出すようになった。
あの日を境に、私の人生は少しだけ変わった。
誰かが早退するとき、今ならきっと、心からの「お疲れさま」と言える。
仏のようにはなれずとも、少しだけ軽やかに人と関われる自分でいたいと思う。
ウィットに富んだコメンテーターくらいには、なれていたら、いい。

忘れられない新快速

月燈 一華
2023年、春。

始発で行って、終電で帰る。
「暮らす」というよりも「こなす」という言葉がぴったりの日々。

自分が望んで忙しい環境に身を置いたため、充実していたが、刺激的な毎日。

生きることに必死だった。

ノンストップで駆け抜けていく日々に、ようやく、ぽこんと1日だけ休日が訪れた。

待ち望んだ貴重なお休み。絶対に昼まで寝よう。そう思った。

______当日の朝、

私は京都行きの電車に揺られていた。

何故か。

当時の恋人が「京都に行こう!」と誘ってくれたのである。
正直、寝かせてくれと思った。行くとしても午後ではダメなのか。

しかし、久しぶりのデートを楽しみたい気持ちもあったため、

普段よりも少しだけ遅く目覚め、家を出た。

この京都へのお出かけが、私の人生の大きな転機となる。

まだ肌寒さが残る春の日だった。

「行きたいところ全部行く」ミチミチのスケジュール。

丸善から始まり、新風館や蝶矢、さらには今宮神社まで足をのばす大満喫ツアーだった。

1日中歩き回って、ようやく帰路に就く。
ちょうど帰宅ラッシュに巻き込まれ、駅のホームには人が溢れかえり、
大阪までの新快速は満員だった。

普段の私は丈夫な方だが、
刺激的な毎日を経て、この時ばかりはかなり疲れが蓄積していた。(写真を見返すとどの写真も心なしか下がり眉だった)
満員電車に嫌気がさしつつも、恋人と共に車内に体をねじこむ。

そして訪れる運命のとき。

京都を出発し、あともう少しで新大阪といったところ、急停車する電車。
「状況を確認いたしますので、しばらくお待ちください」というアナウンスの声が響く。
ざわつく車内。

「新幹線間に合うかな?!」と焦り始める乗客たち。

状況が掴めず、叫ぶ外国人観光客の子どもたち。

どこからどう見てもカオスであった。

その時、

突然感じたことのない不安が私を襲った。
ありえない速さで心臓が鼓動を打つ。息が詰まるような感覚。焦り。恐怖。

「このまま車内に閉じ込められたらどうしよう!」

「今すぐここから逃げ出したい…!」

初めての感覚にわけもわからず、

咄嗟に隣に居た恋人に助けを求めたが、

パニックになっている私を初めて見たからか、彼も戸惑っていた。

「とりあえずイヤホン!」と言われ、周りの声や音を遮断する。

周囲の人たちも私の異変に気付き、座席を譲ろうとしてくれた(満員電車のため動けず断念したが)。

その心遣いが、嬉しかった。

いまだ電車は動かない。

しばらくして少しずつ私の心が落ち着いてきた頃、

隣に居たおばさまが、
「息詰まるよな〜こんなん誰でもしんどなるわ、これで顔とか手とか拭き〜」と、
優しく笑いかけるわけでもなく、窓の外を見つめながら、
クールにウエットティッシュを差し出してくれた。

大阪のおばさまは、アメちゃんだけではなく、ウエットティッシュも常備しているのか。

なんでパニックになってしまったんだろう、と自分を責めていた私の心を、
なんともスマートに、さわやかにフォローしてくださった。とても救われた。

ようやく電車は動き始め、

助けてくださった方々に感謝し、無事に降りることができた。

おそらく15分ほどのことだったのだろうが、とてつもなく長く感じた。

この日から、毎日が変わった。

電車だけではなく、仕事中でも、

突然得体の知れない不安に襲われたり、常に吐き気がそばにいるという日々が半年以上続いた。

仕事を精一杯頑張りたいのに、
大事な時なのに、迷惑かけられないのに。
もしも過去に戻れるなら、
京都なんか行かなかったのに、、

後悔ばかりが募った。

心も体も辛く、食欲も湧かなかった。

騙し騙し生きていたが、ついにどうにもできなくなり、休職。そしてほどなくして退職した。
夢半ばでの退職は、”仕事が全て“のように思っていた自分のアイデンティティを崩壊させたような気がした。

何もできない自分は生きている価値があるのだろうか。
嫌な言い方かもしれないが、これまで割と順風満帆だった人生。
そんな私に訪れた、初めての挫折だった。

田舎に帰り、引きこもった。外出することも、人と関わることも怖かった。
生まれて初めてこの人生を終えたいと思った。私はずっとこのままなのかもしれない。
どこにも行けない、誰とも話せない。

出口の見えない暗いトンネルの中にいるような気持ちだった。

そうして、

沈んだり、沈んだり、たまに浮いたりしながらぼんやり過ごすこと、1年半。
家族の助けもあり、いろいろな人の話を聞いたり、本を読んでみたり、
ひたすらに自分と向き合ったことで、ようやく気づき始める。この経験の意味に。

そうか、この挫折が必要だったのか。

生きづらくなってしまったように感じた経験は、生きやすくなるためのものだったのか。
(もちろん、渦中にいた時はそんな風に思えなかったのだけれど。)

電車での出来事から3年経った今だから思う。
正直今でもまだ電車に乗るのはこわい。

けれど、あの時、初めてパニックになったことや、そこからの「地獄のような日々」だと思っていたこの経験は、

私はどんな人間なのかを教えてくれ、これからどう生きていきたいか?を考えさせてくれるきっかけであったのだ。

つくづく強硬手段だとは思うが、こうでもしなければ、私は完璧主義で、常に自分を責め、自分で生きづらい道を進み続けていたかもしれない。(本当に頭が固い人間だった。)

自分の本音に向き合う必要性。家族が与えてくれる愛。友人の優しさ。立ちどまる時間の大切さ。
田んぼに映る夕陽のきらめき。頬をなでる風の気持ちよさ。風に吹かれた飼い犬の変な形のしっぽ。

全然知らなかった。いや、全てあって当たり前だと思って、ちゃんと見ようとしなかった。
感謝をしているようで、できていなかったし、幸せに気付けていなかったのかもしれない。

3年前の自分では考えられなかった内面の変化。

心と体が本当の意味で健康になっていくのを実感した。
些細なことにも感謝ができるようになった。

良い顔をして本音を隠して踏ん張っていた過去の私、よく頑張った。
でも、これからはありのままの自分でいい。もう責めなくていい。頑張っても、頑張らなくてもいい。

何度もいうが、渦中にいる時にはこんな風になんて考えられない。所詮、綺麗事だとも思ってしまう。長年染みついた癖、自分責めがすぐにやめられるわけでもない。

でもいつか必ず、少しずつ靄が晴れていき、過去を認められる日が必ずくる。

体験したからこそ、わかる。

私の人生が変わった瞬間は、間違いなくあの電車だった。

それも一見、とんでもなくマイナスのように思えたことが、長期的にみると、私にとってはとんでもなくプラスの出来事であった。

この人生を選ぶことができてよかった。

私のこの経験が、

同じようなことで苦しみ、暗いトンネルの中にいる方の、一助になれば嬉しく思う。

死にたい夜の記録 ―18歳から20歳、私が生きた証―

みく
18歳から20歳まで、私は毎日「死にたい」と思いながら生きていた。中学ではいじめに遭い、立ち上がる力もなく、体も心も不安定だった。
高校では、高一から高三まで仲の良かった友達のグループから外され、孤立。高三では摂食障害に陥り、過食と拒食を繰り返した。

高校を卒業し、ブラック企業に就職した。毎日13時間働き、朝4時に起き、夜9時に帰宅。職場には私を嫌う社員がいて、出勤するたびに嫌味を言われ、適応障害を発症した。体も心も限界で、仕事を辞めたときには安堵よりも虚しさが大きかった。

働けなくなり、家賃も払えず、夜職で生活費を稼ぐも、ストーカー被害に遭い退去。実家に戻って少し落ち着いたかと思えば、家族の死や病気、さらには口座売買の被害で2000万円の損失を経験した。絶望の中で、私は何度も自殺を考え行動に移したこともある。

そんなとき、私はノートを書き始めた。最初はただ苦しみを吐き出すためだけの場所だった。しかしページをめくるうちに、それは“遺書”のようになり、過去の自分の感情や孤独、絶望をそのまま残す場所になった。ノートには「これはただの自殺ではない」と書いた。生きた証を残すため、誰かに理解してほしいわけではなかった。ただ、自分自身が存在した証を形にしたかったのだ。

ノートを書き続ける中で、私はあることに気づいた。過去の出来事や傷ついた自分も、自分自身の一部であり、消すことはできない。しかし、書くことで自分を受け入れられる瞬間があった。生きることの苦しさと向き合うことで、少しずつ「生きる力」が戻ってくる感覚を覚えた。

私の人生が変わった瞬間は、絶望の中でノートを書き続けたことだ。悲しみや痛みは消えない。それでも、書き残すことで自分と向き合い、少しずつ前に進める自分を見つけられた。

今も生きる理由は完全にはわからない。それでも、苦しかった日々も、孤独だった夜も、ノートに残した言葉も、すべてが私を形作る大切な瞬間だった。書くことで、私は初めて自分の存在を肯定できた。

生きることは簡単ではない。でも、あのノートを書き続けた瞬間が、私にとって人生を変えるきっかけになったのだと思う。あの絶望の中で見つけた自分自身の小さな光こそ、私の人生を変えた瞬間だった。

子育ての先にあったもの〜私の人生を変えたの瞬間は息子の自立だった〜

Blue Rose
 今年一月、息子が成人式を迎えた。20年本当にあっという間だった。
 子育ての間、私は病気続きだった。31歳で、卵巣嚢腫、その後、子宮内膜症、そして47歳には乳がん。江戸時代は寿命が50歳だったというから、私も「50歳までの人生。息子の成人を見届けられればいい」と思って生きていた。その先なんて考えたこともなかった。
 息子が生まれてから育てることに必死で、いつも交感神経が優位な状態が続いていた。寝ていても息子が起きれば目が覚めるし、自分の時間が持てるようになった小学生の時は、その時間をどう過ごせばいいかわからないくらいだった。それだけ、私の人生はある意味、息子に夢中で依存していたとも言える。
 私は子育てにおいていつも120%の力を出し切っていたのだと思う。それは体が悲鳴を上げるだろうと今考えればわかるのだが、その時は子供の成長を見守ることに必死すぎて気づけなかった。
 息子が大学に入った時、「今までと違う自分になりたい、変わりたい」と言った。そう言われた時、「今までは心配性の私がいろいろと先回りしてしまっていたのかもしれない。これからは見守ろう」と反省した。息子は息子なりに外部からの影響も受け、いつまでも母に頼る自分ではいけないと思ったのだろう。
 それからの変化は著しく、親の私がついていくのも必死なくらい、日々成長していった。
自己啓発の本をたくさん読み、SNSで美や容姿について学び、資格の勉強をする息子を見て、「私も負けられない」そう思った。
 息子が簿記の勉強をすれば、私もやってみたくなり、美について学べば、私もメイクの動画を見て勉強した。息子の成長に遅れをとりたくなかったのかもしれないし、気持ちを理解したかったのかもしれない。
 今まで先の人生を思い描けなかった私が、息子が夢を語る姿を見て、「ああ、私もこういうことがしたかったんだ」という気持ちを思い出した。夢は若者だけのものではない。何歳からでも夢が見られるし、変われるのだということを息子は教えてくれた。
 ある日、息子が「小麦を食べると蕁麻疹が出る」と言い出した。しばらく小麦を家の食事から外してみることにした。
 そんな生活が当たり前になったある日、友人と外でイタリアンを食べ、スイーツを食べた帰りに、私はお腹が張って帰るのもやっとという状況になった。なんとか家に辿りついたが、原因はわからず、「また婦人科系の病気になったのかな?」とすら思った。しかし、次の日にはその症状も治っていた。
 息子に常々、食日記をつけるよう話していた私は、もしやこれは食べ物に原因があるのではと自分も食日記をつけてみることにした。なんと、私も小麦の遅延アレルギーということが判明した。以来、食べ物に興味を持ち、資格を取ったり、私は現在ゆるく、小麦・砂糖・油・乳製品を控える生活を続けている。
 食を変えたことによる変化は毎日少しずつ体感でき、自分の体で実験しているような感覚で非常におもしろい。肌のトーンがあがり、ほくろやしみが薄くなり、周りからは元気そうと言われ、「何かやっているの?」と聞かれるようになった。何より、体調がよく、やる気に満ちてまるでスーパーサイヤ人にでもなったみたいだ。美容に興味のある息子と、夜、今日はこんな変化を感じたと話すのが日課になっていた。二人とも、体は食べたものでできていると実感していた。よいと言われたものを試し、感想を言い合う。
 いつの間にか、息子との関係も依存ではなく、良きパートナーに変わっていた。お互い相談し合い、今日あった出来事を話し合い、お互いを褒め合えるそんな関係になっていた。もちろん、親に話せないこともたくさんあると思うが、そこにはあえてふれず、相手を尊重しあえるような関係にはなれたと思う。
 そして、今息子は食事・運動・睡眠を大事にするようになり、最大のパフォーマンスを出せるよう日々努力している。
 私はまだまだ息子の足元にも及ばないが、食事と睡眠は気を付けるようになって、病気のことで頭がいっぱいになるようなことはなくなった。再発を恐れてばかりの日々から夢を持ってチャレンジしたいと気持ちでいっぱいになった。今思えば、子育ての疲れから食べていた甘いものが不安を呼び、自分を後回しにした生活が病気を作っていたのかもしれないと思う。そのことに私一人では気づけなかったし、気づけたとしても私は変わることはできなかったと思う。
 年をとればとるほど保守的になり、変化を嫌う。私も、ずっとそうだった。世間の常識を疑わず、そのまま受け入れて生きてきた。テレビでこの食品がいいと見れば、それをたくさん食べ、それが自分に合うかなんて考えたこともなかった。その価値観を変えてくれたのが息子だった。
 子育てをして、子供を育てた気になっていたが、実は私の方が教わることが多く、たくさんの刺激をもらっていた。息子が二十歳になり、もう心配は学費のことだけだが、今度は私が息子に認めてもらえるよう、あきれられないよういつでも新しいことにチャレンジしている自分でいたいと思っている。
 そして息子に刺激をもらったように私も周りに刺激を与えられる人になりたい。私の病気続きの日々を語ることで、誰かの励みになったり、病気の人に寄り添えるのではないかと思う今日この頃。病気になっても、人生は終わりではない。むしろ病気になったからこそ、見える景色もあるのではないかと思う。
 今、叔母が難病で苦しんでいる。「死にたい」とこぼすこともあるらしい。離れたところに住んでいる私にとってできることは限られているが、今度は叔母に「病気は終わりではないんだよ。病気になっても夢は持てるし、何歳からでも変われるんだよ」ということを伝えていきたい。
 子育ての先にあったのは空の巣症候群ではなく、息子との新しい関係でした。そんな大切な関係を築かせてくれた息子に感謝したいと思います。
「生まれてきてくれて20歳まで元気に成長してくれてありがとう!たくさんのことをあなたに教わりました。本当に感謝しています。あなたに負けないよう母もアップデートし続けます」

誰でもいいから、ここにいてほしいと思った夜に、私が手放したもの

夕凪
あの夜、私は本気で限界だった。

赤ちゃんが泣き止まない。
用意した離乳食は一口も受け付けず、床に散らばったままだった。
深夜、静まり返った部屋の中で、泣き声と自分の荒い呼吸だけが響いている。
「この子をちゃんと育てていけるのだろうか?死なないように…」

そんな不安が、暗い部屋の隅々にまで広がっていた。
家には私と子どもだけ。
頼れる人は近くにいなかった。
時間だけが、静かに過ぎていく。
ふとカーテンの隙間から外を見ると、街灯に照らされた通りを、名前も知らない誰かが歩いていた。
そのとき、思った。

「ああいう人でもいい。誰でもいいから、ここにいてほしい」

自分でも驚いたが、それが正直な気持ちだった。
特別な知識はいらない。
育児の専門家でなくてもいい。
ただ、大人が一人、同じ空間にいてくれるだけでいい。
「大丈夫、少し休んでいいよ」と言ってくれる人がいたら、それだけで救われたと思う。
あのとき私が求めていたのは、制度でも、お金でもなかった。
金銭的な支援も大切だが、あのとき本当に必要だったのは、隣に誰かがいるという「人の存在」だった。

この経験を通して、私は考えるようになった。
育児の負担は、決して一人で抱えきれるものではないのではないかと。

現在、子育て支援としてさまざまな制度が用意されている。
しかし実際には、利用に理由が求められたり、人間関係に気を使ったりと、心理的なハードルを感じる場面も少なくない。
本当に支援が必要なときほど、それが届きにくいと感じることもあった。
もし、理由を問わず、定期的に家庭を訪れ、一緒に子どもを見守ってくれる存在があったとしたらどうだろう。
指導や評価ではなく、ただ寄り添う存在として。
それだけで、救われる親は少なくないのではないかと思う。

あの夜から年月が経ち、子どもは成長した。
今では自分の世界を持ち、時には意見をぶつけ合うこともある。
それでも、他者を思いやる気持ちや優しさを持って育ってくれていることに、私は大きな意味を感じている。
その姿を見て、改めて思う。
親がすべてを抱え込まなくても、子どもは育っていくのではないかと。

子どもはまだ成長の途中にある。
これから先、どのような道を歩むのかは分からない。
順調に見える今も、いつか壁にぶつかるかもしれないし、親の手だけでは支えきれない状況になることもあるかもしれない。
そうしたときに必要なのは、

「親がなんとかするべきだ」

という責任の押し付けではなく、
安心して支援に頼ることができる社会の仕組みではないだろうか。
家庭だけで抱え込むのではなく、
専門的な支援や環境に委ねるという選択肢が、もっと自然に受け入れられてよいと感じている。
それは決して手放すことではなく、
子どもがより良い形で成長していくための一つの方法でもある。

そのためには、支援の質や受け皿となる環境が十分に整っていることが欠かせない。
必要なときに、適切な場所へつなぐことができる社会であってほしいと思う。

これからの社会においては、
子育てのあり方もまた、少しずつ見直されていく必要があるのかもしれない。
親だけが責任を背負うのではなく、
社会全体で子どもの成長を支えていくという考え方。
そして、困難な状況に直面したときには、
安心して支援に委ねることができる仕組み。
そうした選択肢が当たり前に存在する社会であれば、
子どもを持つことへの不安は、今よりも和らぐのではないだろうか。

「誰でもいいから、ここにいてほしい」

あの夜の感情は、今でもはっきりと覚えている。
それは決して特別なものではなく、
多くの親が心のどこかで感じていることなのかもしれない。
私はあの夜、「親がすべてを背負わなければならない」という思い込みを、静かに手放したのだと思う。

「産んでも一人の人間として生きていい」

そう言える社会になったとき、
あの夜のような孤独は、少しずつ減っていくのではないかと思う。

母の言葉は魔法の呪文

オカノアイ
母の言葉は、娘にとって魔法の呪文となることがある。

母は娘に呪文をかけたなんて微塵も思っていないし、娘も母親に魔法をかけられているとは思いもしない。そのまま母と娘は、魔法の呪文の真実を知らずに生きていく・・・。

たまたまその恐ろしい真実に気づいてしまう娘もいる。
「なぜ頑張ってもうまくいかないのか」
「友達や恋人に理解されないのはなぜ?」
「子どもにこんなこと言う自分はダメな親なのか」など、自分の生きづらさをどうにかしたくて、書店で心理学の本を立ち読みしてみたり、インターネットにヒントがないかと片っ端から検索しているうちに・・・青ざめる。

この事例、自分にも思い当たるぞ。母からこんなことを言われた気がする。まさにこんな態度をとられあことがあったなぁ、と記憶がバンバン蘇り、自分にかけられた魔法の正体に気がついてゆく。私自身もそうだった。

母の呪文の効力は続いていても、それに気づけたので考え方や行動が変わった。
我が子に対しての言葉選びに気をつけられるようになった。
「もしママがこんな風に言ったら、それは良くない伝え方だから、教えてね」と子に伝えてある。
うっかり魔法の呪文を唱えてしまっても、子どもは「ママ、それ良くないんでしょ?」と教えてくれるので「その通り!ごめんね」とその場で謝り、言い換えることができている。

例えば「長女なんだから」という呪文。
長女である前に大切な子どもであり、小さくても1人の人間として尊重してあげなければならないはず。下の子と比べたりせずに。
「お姉ちゃんなんだから早く着替えて!」ではなく「早く着替えられたら、ママと一緒にこれやろう!」とか「着替えてくれたら洗濯機が回せるから助かるな」とか、誰かと比べるのではなく1人の子どもとして伝えたり、納得できる説明をしようと、母になって思う。

一人っ子でも、そう。
「ミホちゃんに負けないようにピアノの発表会頑張れ」とか「ノリコちゃんよりお習字うまかったね〜えらい」みたいな言葉が、呪文として娘の心に染み込んでいく。
「ピアノの練習頑張ってるから発表会も楽しみだな」とか「前回よりさらに立派な字が書けたね」とか、いくらでも言い換えられる。

私の母は言い合いになると「どうせ私は悪いママなんでしょ?!」と吐き捨てていた。
そう言われたら娘は何も言い返せなくなり「そういうわけではないけど」とフォローもしなければならなくなる。

「勉強しなくなったのはママのやり方がダメだったんだね!?全部ママのせいだね?!」と泣かれたこともある。
私が勉強をサボってコソコソ漫画を読んでいた時だ。受験を控え、そろそろ本腰入れなさいという母の教えに背き、隠れて漫画を読んでいた。そういう行為はすぐ母にバレる。

母は「あなたの将来のためだから」と言った。
事実だし、親が子どもの将来を心配するのは当たり前。でも当時の私には「習い事や塾をさせてきたおかげで優等生として先生からの評価も良いから、将来ちゃんと大学に入っていいところに就職できるはず。そうなれば親戚とか友達に自慢できるから」と聞こえていた。

「勉強したくなったらやるから今は放っといて」と伝えても、すぐやらなければ母は安心できず、母が安心できないことは許されなかった。
それで机の引き出しに漫画を隠しながら読んだのだが。

母は怒ると、泣くかモノに当たる。
泣きながらモノに当たることもあった。
泣くのは、ずるい。
悔しかったけれど、当時の私はその悔しさの理由を説明できずただ反抗心を燃やした。泣いた母が被害者、泣かせた私は悪者となる。理不尽な気がした。
漫画は死守できたが、かわりに参考書たちが母によって廊下に投げ捨てられた。
「そんなにやりたくないなら、こんなものもう捨てればいい!」
参考書に挟んであった計算用紙などが散って廊下を埋め尽くし、ノートは折れ曲がった。私は漫画の代わりに身代わりとなってくれた参考書たちを拾い集めた。
私の背中に向けて泣きながら放たれる「どうせママがいけないんでしょ?ママもこんなにいろいろ頑張ってるのに・・」という呪文の言葉は耳を塞いでも体の中に入ってきた。

母から多くを与えられ、無償の愛で育ててもらい、感謝してもしきれない。
「こんなにいろいろしてあげているのだから」という母の気持ちもよくわかる。
子どもに見返りを求めていないことも知っている。
いま母親となった私も、母に見習うべき事はたくさんある。

だけど母というものは、自分の母に苦しめられた魔法を娘にもかけてしまうようだ。
私の母もその母(私の祖母)の魔法たちに今も振り回されている。

ちなみに祖母が母に与えた「潔癖症」の呪いを私も受け継いでしまった。
でも私の場合、夫と子どもたちの男3人が力を合わせて潔癖の呪いから救ってくれた。
彼らは「虫」「魚」「石」などの自然界アイテムを次々に家に持ち込み、「手洗いせずに素手で食う」などの不潔技を使いこなす。
こんなタイプが3人集まれば、潔癖の呪いは解けるようだ。

母の「願い」も見えない魔法の刻印として私の中に刻まれている。例えばこの2つ。
「孫は女の子が絶対可愛いよ」
「二世帯がいいよね、そう思うでしょ?」

小学生くらいの頃から思っていた。
「優等生を続けて、友達トラブルにも堪え、大学に入り就職したら母と旅行に行き、結婚して二世帯住宅を建て、母を喜ばせよう」と。
常に意識していたわけではないけれど、ことあるごとに母の願いが自分の願いのように脳裏をよぎった。母が喜ぶことが私の正解であり、使命のように感じていた。

私が妊娠した時、母は「女の子じゃない?」と言った。私は男の子が欲しかったが、「男の子もおもしろそうだけど、女の子は育てやすいしかわいいよ〜」などと言われた。結局男の子だったので私は嬉しくて、母もさすがに初孫はデロデロに可愛がった。

次男が生まれる時も「次は女の子じゃない?そんな気がする」と再び謎の予想をしてきた。
「兄弟がいい」と私は思っていたので、母を喜ばせられなかったとしても「また男の子がいいです」と神様に願い、叶った。
でも心の奥にモヤモヤが生まれた。母が女の子の孫が欲しかったのに私がその期待を裏切ってしまったからだ。
とはいえ母は次男もベロベロに可愛がっている。

最近母の夢が実現し、両親が我が家の近くに越してきた。
昔言われた「二世帯か近所がいいよね?」「孫のお世話してあげられるからお互いにいいよね?」という呪文は時が経っても効力があったのだ。
「あなたもそうでしょ?」という連帯責任のようなずるさが特徴的な呪文である。

もし物事がうまくいかず、その原因が母との関係性の中にある時は、母や自分を責めたりせずに「なるほど原因はこれか」と納得し、潔く諦めるようにしている。そして別の方法を探したり誰かに助けを求める。
別ルートが意外とうまくいったりするし、手を差し伸べてくれる人も必ずいる。

それは反面教師となってくれた母のおかげかもしれない。母の魔法には、娘の視野を広げて成長させる良い効果もあるのかもしれない。
少なくとも「母の愛」という秘薬が混ぜられているはずだから。
母の魔法。娘は悩みながらも受け入れ、たくましく生きていくしかないのであろう。

今、幸せですか

大杉 綾

 「お前、笑っているのが一枚もないな」
私の結婚式の写真を見て、次兄が言った言葉だ。
 実は、結婚式に際して、本当は結婚そのものをやめたいと思っていた。だからお色直しもしなかった。誰もそんな私の思いに気が付かなかっただろう。私は幸せ芝居を演じていたから。だが、次兄だけは気づいていたのかもしれない。
 結婚することに消極的だったのは、私が夫を愛しているかどうかが曖昧で、どこか成り行きで結婚してしまったからだ。
 
 夫の一家は、鹿児島の片田舎から出てきて、夫が高校生になる頃、この地に引っ越して来たようだ。夫はその後、東京の大学に進学し、実家を離れていた。
 しばらくして、夫の父親が、市会議員の選挙に立候補することになったらしい。余所者で、普通の会社で普通に働く父親には、この地に地盤も看板もないし、カバンもなかったのに、どうして立候補したのかわからない。とにかくそのために、学生で暇な夫は帰省し、選挙活動を誘導する役を担ったという。
 当時私は、その地にある大学の学生で、私の下宿先が夫の実家に近かったため、ウグイス嬢の勧誘に、夫が私の下宿にやって来た。それが夫との最初の出会いだった。貧乏学生の私はすぐに飛びついた。短期のアルバイトは助かるから、友人を誘って楽しく働いた。
 だが、結果は落選。流れ者のような父親が当選するはずもなく、落選は当然のような気がした。それで関係は終わりになるはずだった。ところが、夫は、その後も私の下宿にやってきて、食事に誘ったり、私の家庭教師のアルバイト先まで車で送ってくれたりと、なにかと貧乏学生の私の援助をしてきた。夫が食事代を出してくれるので、アルバイト収入で学生生活を送っていた私には有り難く、ずるずると応じていた。夫は、大学にはもともと熱心に通学していなかったようで、選挙の仕事で戻っていたが、その後そのまま、大学を中退して、この地でなぜか工務店の下請の仕事を始めた。
 私は大学を卒業し、自分の地元に帰り正規ではないが、高校の非常勤講師として働き始めた。そんな私に、夫はなにくれとなくプレゼントを贈ってきたり、ドライブに誘ってきたりした。年頃の私には、見合いの話が校長から何度かあったが、私の家は貧しかったので、裕福な家庭の男性とは結婚しても引け目を感じると思って断っていた。私には、恋愛をしても、自分の家庭が相手の家庭と釣り合いが取れるか、ということが絶えず根底にあった。貧しいということが、負い目になっていたのだ。自分の身の丈に合った幸福を選ばないと不幸になると思っていた。そのため、逆に身の丈に合った不幸を選べば、それに慣れてくるからと、惰性のように夫との関係を続けて、結婚ということになってしまった。
 
 結婚式まであと半年という頃、夫が一人住むアパートに夫が留守の時、車で出掛けたことがあった。ところが、風呂場に女性の洗顔クリームが置いてあったのを見つけた。前日に女性が泊まったことは明白だった。私は怒りやら、呆れるやらで、すぐに自宅に帰ろうと車を走らせた。あのまま帰ってしまえば良かったとそれだけは今も後悔している。
 なのになぜか、途中で夫に電話をして、市境にある川の袂にいることを言ってしまった。当然夫は迎えに来た。土下座をして謝罪した。仕事で知っている人の奥さんで、相談に乗っているうちに、男女の仲になったとのこと。それにしても、洗顔クリーム持参で来るだろうか。もやもやした思いを抱えながら、私も優柔不断な人間だったから、今更、式を取りやめることが煩わしく、世間体もあるからと、そのまま許してしまった。だから、複雑な思いのまま結婚式を迎えたのだ。
 二十四歳までに結婚して、子供を産むのが、女の幸せなどという当時の時流に乗ってしまったことが間違いだった。まるでクリスマスケーキの賞味期限のように。今ならもっと違う選択肢はあっただろうに。

 やがて、子供も生れ、男の子だったので、夫の実家も大変喜んだ。育児休業明け、自宅から一時間余の学校に転勤が決まり、破綻が生じた。朝、子供の保育園の準備から始まり、朝食の支度、洗濯、自分の着替え等々。それを済ませて、七時には家を出なくてはならない。長い通勤時間も身体に堪えた。夫は起きてただ食べるだけ。子供の保育園への送迎はやってくれたが、それ以外は全くしなかった。
 次第に私も疲れてきて、五月の連休あたりに、倒れてしまった。メニエール病という、その頃はまだ名称も付いていない病気だったが、目眩がして、天井がぐるぐる回り、起きていられなくなり、動くたびに嘔吐。ひたすら寝ているしかない病気だ。とても苦しい。その頃は、何の病かは、全くわからず、発症から四十年ずっと悩まされることになる。今はストレスとか、自律神経の関係とか言われるようになるが、自分の意識しないところで、今の暮らしがストレスとなり、神経が病んでいったのだと思う。

 そんな頃、一年前に亡くなった次兄の三回忌があって私の実家に帰省した。結婚式で笑っていないと指摘した次兄は、息子の妊娠と入れ変わるように、電車に撥ねられて亡くなってしまっていた。私が切迫流産で入院して、危機的な状態が続いていた頃の出来事だったので、次兄は息子に命を委ねて、この世を去ったのだと今も私は思っている。そんな次兄の死をとても悲しんでくれた次兄の友人が身内に交じって席に並んでくれた。
「綾さん、今幸せですか」
 次兄の友人に唐突に聞かれ、私は絶句した。「はい」とは答えられなかった。息子は二歳になろうとしていたが、確かに可愛いし、慰められてはいたが、生活そのものが幸せかどうかはわからなかった。いや正直、「NO」と答えそうな自分がいたことは確かだ。その言葉が引き金になって、その後、「離婚」という言葉が頭の中に住み着いてしまった。
 確かに、このまま夫とずるずる暮らしていくことが明るい未来にならない気がし始めていた。それは、私の思考の中に、私の両親のように、愛してもいないのに一緒に暮らすことは許せないと考えていた青臭い考え方がずっと、私の根底に流れていたからだ。
 私も疲れていたが、疲れた私からその負のエネルギーが出ていたのを感じ取ったのか、その頃から、夫は、帰宅して、食事をすると風呂に入って、飲めもしないのに、飲み屋に行くようになった。それは、行かない日には、店の女性から電話が来るので分かった。また、私の車で出かけた日に、女物の傘が車の中に置き忘れてあったこともあった。夫の結婚前のあのことが頭をよぎり、一緒に暮らすことは耐えがたいものとなっていった。
 年度末三月、私は思い切って家を出た。羅針盤なしで道を行くような、離れ業のようなことをしてしまった。短期間で結論を出し、行動に移すということを、本当は結婚前にすれば良かったのだ。だが、この時ばかりは、見る前に跳べた。よくやったと思う。それは兄の友人の言葉、「今、幸せですか」がすべての始まりだった。

過去にとらわれず、今を生きていく

ちひろこ
人生というか、人生における私の気持ちのもちかた、を変えたであろう分岐点は、それは恐らく、現在の夫と再婚したときなのだろうと思います。前夫との離婚後10年後の、一昨年に私は再婚しました。離婚当時13才だった息子を、10年間一人で育ててきました。育てるのに必死で、がむしゃらに生きてきました。息子が大学、今日の大学院進学まで、やっとの思いで育ててきました。生活が荒れて、仕事から帰宅し1日の家事を終えると、クタクタすぎてリビングで寝てしまって、息子に起こされたり、あるときは息子が寝室までおんぶして連れていってくれたりと、1日1日を生きていくのが精一杯で、余裕の無い生活をしていました。そんな生活では、到底自分に向き合って自分の心の声を聞くこともできません。ただ、毎日をやり過ごすだけの日々が過ぎていきました。
あの時こうしていたらとか、今何かすれば元に戻れるのかと、自分の気持ちではなく相手に合わせることを思っていました。いつまでも現実を受け入れられずにいました。離婚したという現実を認めたくなかった。その当時からほんの最近まで、いつも過去にとらわれて、今を生きていなかったと思います。辛いなと思う時や、寂しいなと思いたいけど、思わないように生きてきたように思います。自分の気持ちを無いものにしてきたように思います。

一昨年、現在の夫と出会い再婚しました。再婚後は、ゆっくりと時間を過ごすことができ自分と向き合い、見つめ直す時間をもつことができました。そうすると、起きてしまったことは変えられない、それを自分で受け入れないと前に進めないということを、ようやく自分の中に落とし込むことがきました。今まで過去に囚われて、忘れたくても忘れられなかったのに。
また、離婚後10年の間一人で頑張って子供を育ててきたという、私が一人でやり遂げてきたことにも気がつきました。振り返って考えてみたら、私、頑張ってきたよね、一人で子どもを育てて、ちゃんと生きてきたよね、と思いました。この10年頑張ってきたことを、誰かに褒めてもらいたかったのだと感じました。誰かに認めてもらえることがなかったから、だから、過去に起きたことは失敗だったと、自分のせいで、自分が悪かったのだと、自分を責めてきたのかもしれません。でも私はその時その時で、目の前のことに、やれるだけのことをしてきたという自覚がありました。
ようやく、自分を慰めて認めてあげることができたと思いました。やっとわかりました。自分の心の傷は、自分でしか治せないのだと。自分が思っている痛みをないがしろにしないで、ちゃんと聞いてあげることが大切だと思います。

もう1点、辛かった過去を薄めてくれる大切なものと出会いました。それはピアノです。今まで生活に追われて趣味を持つ余裕なんてなかったけど、今自分の趣味を見つけられて嬉しいです。何かを忘れたい時は、新しい何か夢中になれるものを見つけるのが良いということを聞きますが、本当にそうだったと思いました。ピアノは、自分が初めの聴衆だと思って自分のために弾きます。自分のために演奏します。

今まで色んなことがありました。離婚してその後再婚して、これからも人生は続きます。乗り越えていかなければならないこと、これからもあるでしょう。過去ばかりを振り返っていた自分でしたが、これからは自分の心の声を聞いて、自分の気持ちを育てていきながら、今を生きていきたいです。

私が”私”を生きるとき

コロン
娘が中学生の時、16年の結婚生活にピリオドを打った。

今振り返ると、多感な時期の子どもにとって、
なんと理不尽な親だっただろうと思う。
環境を大きく変えてしまったことへの後悔がなかったわけではない。
それでも、あの時の私は立ち止まることができなかった。

これからは母と娘、二人で生きていかなければならない。
その現実を前にしたとき、心のどこかで「カチッ」と音がした気がした。
責任と覚悟のスイッチが入った瞬間だった。

それまでの私は、ずっとパートで働いていた。
でも生活を守るには、それでは足りない。
正社員として働かなければならないと考え、仕事探しを始めた。
すぐに仕事が見つかったわけではない。
仕事が決まるまでの間は、国の支援にも頼らざるを得なかった。
その期間は、正直に言って苦しかった。
自分の子ども一人養えない情けなさと苛立ちが、胸の中で渦を巻いていた。

だからこそ、仕事が決まってからの私は必死だった。
どんなにクセの強い上司でも、どれだけ業務がハードでも、
とにかく食らいついた。娘が社会人になるその日まで、
何としても仕事を辞めるわけにはいかない。
その一心で、自分を奮い立たせていた。

気付けば10年。
私はメキメキと力をつけ、業務統括マネージャーにまで上りつめた。
あの頃の自分からは想像もできない場所に立っていた。

そして、娘は社会人になった。
ふと、肩の力が抜けたような気がした。
同時に、これまで見ないようにしてきた「自分自身」と向き合う時間が訪れた。

この10年、私は何のために走ってきたのか。
もちろん答えは分かっている。生活のため、娘のためだ。
けれど、その役割をひとつ終えた今、次は「自分のために生きたい」と思った。

会社に残り、さらに昇格して定年まで勤め上げる道もあった。
けれど、組織の中で生き続けることに、どこか息苦しさを感じている自分がいた。
もっと自由に、もっとシンプルに、そして誰かの役に立てる働き方がしたい。
そんな想いが、少しずつ、でも確実に大きくなっていった。

そして私は、50代にして会社を退職し、フリーランスとして生きる道を選んだ。

周りは口を揃えて反対した。
「今の地位や収入を手放すなんてもったいない」
その言葉はもっともだと思う。それでも、私の意思は揺らがなかった。

振り返れば、離婚も確かに大きな転機だった。
けれど、あれは自分の意志というよりも、
どこか諦めや流れに押されて決断した「なし崩し」の選択だったように思う。
それに対して今回の決断は違う。自分で考え、自分で選び、自分で行動した。

収入は大きく減った。
まだ軌道に乗ったとは言えない。
それでも、不思議なほど心は軽い。清々しさすら感じている。

はじめて、自分の足で歩いている気がするのだ。

誰かに決められた道ではなく、自分で選んだ道を進んでいる。
それがこんなにも満たされるものだとは、これまで知らなかった。

私の人生が変わった瞬間は、もしかすると過去ではなく、まさに「今」なのかもしれない。

これが、私の生きる道。
私はいま、人生の節目を、自分の足でしっかりと歩いている。

運命の光

春裏和
 私は、中学生の頃から韓国のアイドルグループが好きだった。周りの子は、日本のアイドルグループが好きだったり、俳優さんやアニメのキャラクターが好きだったが、どれも私の心を奪うようなものはなかった。でも、たまたま音楽番組で見たある韓国のグループを好きになり、そこから色々なグループを調べて、どんどん韓国アイドルにのめり込んでいった。
 韓国アイドルを好きになってから、もう15年ほど経過した。当時から唯一今でも推しているグループがいる。それは、SUPER JUNIORというグループだ。もう20年目のご長寿グループである。正直、15年ずっと同じ熱量で推していたかと言われると、そうではない。それでも、毎回何かのきっかけで再燃して、未だにライブやファンミーティングに行っている。2年前に三度目の再燃でファンとして戻ってきた。これが私の人生が変わった瞬間だと思う。
 部活や勉強が忙しくて、ライブやファンミーティングに行けなかった中高生時代、部活をやめて、バイトと勉強をしながら推し活をしていた大学生時代、そして今。学生時代は、すごく充実していたから、推しに対しての感謝は今よりも感じていなかった。でも社会人になった今、就職活動で挫折して人生で一番しんどい時期だった私にとって、今回の三度目の再燃は、すごく重要な意味を持つ。真っ暗だった私の人生を照らしてくれた。心の拠り所になってくれたのだ。
 私は30年弱の人生で、韓国アイドルを好きになった中学生以降、推しがいなかった時期は一度もなかった。でも、推しに縋るほどの熱量だったことも、正直一度もなかったのである。いつもどこか虚しさのある推し活だった。そんな私の推し活人生で、一番心を揺さぶられたのが、忘れもしない2024年6月25日。この日、メンバー2人のユニットのライブがあった。今まで行きたいと思いつつ、最推しではなかったので行ったことがなかった。人気なのは知っていたので、保険をかけて2日分申し込んだら両日当たってしまい、1日でよかったのにと後悔した。それでも久しぶりに彼らに会うので、少しワクワクしながら、ついに開演。予習していなかったが、1曲目から知っている曲だったので、ひとまず安心。序盤の曲が終わり、MCに移った。日本語も以前より上達していて、なおかつ以前は感じなかった大人の余裕があった。最初は昔と今の彼らの違いに注目して感慨深くなっていたのに、いつの間にか、このメンバーのダンスや歌、話し方や仕草一つ一つに見とれていた。あっという間に1日目の約3時間のライブが終わり、一瞬にして心を奪われた。2日間当たって後悔していたが、すぐに2日間参戦できることに感謝した。そして2日目には、物販に直行し、気づけば購入していた。グッズを買うつもりなんてなかったのに、1日でグッズまで買わせてくる彼らは、本当に罪な存在だと思った。開演まで待っている間、セットリストは同じなので、2日目はパフォーマンスに注視しながら見ることを決意して、ついに2日目が開演した。そして、あるメンバーのソロ曲のときに、ダンスがとても綺麗で無駄がないなと感じた。1日目を経験したからこそ、そこまで見る余裕ができたのだと思った。私は、誰かのダンスを上手だと思ったことはあっても、心を奪われるほど魅了されたことはなかった。こんなに綺麗にダンスを踊る人がいるんだと思ったと同時に、今までしっかりと彼のことを見ていなかった自分を恥じた。2日目は、1日目よりもさらに彼のことを好きになり、終演した。
 グループのときには感じなかった部分がたくさん感じられて、とても充実した2日間だった。楽しかった反面、なぜもっと早く彼の魅力に気づかなかったのかと後悔が押し寄せた。でもそれはきっと、その当時の私には魅力に感じる部分が、別の部分にあっただけの話だ。その当時の私の感性も私のものなので、それを否定するのは違うなと思った。
 彼らもたくさん苦労して、20年もの長い月日をアイドルとして過ごしている。自分の夢だった仕事に就いても、何十年も同じ仕事を続けていくのは難しいことだと思う。演技がしたかったり、プロデューサーとして育成に回ったり、やりたいことが変わったりする。でも、彼らは新しいことに挑戦しつつも、アイドルという仕事を続けてくれている。生半可な気持ちでできることではない。
 私は、高校生の時にスポーツで挫折した。勉学に切り替えて大学に行った。しかし、大学でも就職活動で挫折した。同級生は希望の就職先から内定をもらっていたり、公務員試験に合格しているのに、私は夢だった公務員にはなれなかった。その後、一般企業に就職した。しかし、やりたかったことではなかったことと、2度の挫折経験が原因で自信は地の底に落ちていた。
 就職をしたからには、やりたいことでなくても頑張ろうと思った。普段から任された仕事は、しっかりと丁寧に、なおかつ期限以内に遂行することを心掛けてやっている。しかし、いつも自分の仕事でのポジション、やりたいことではない仕事をしているため、劣等感を抱き続けていた。そんな私が、この公演に行ったことで仕事に対しての考え方を改めることができた。彼らのおかげでどのような立場や仕事内容でも、努力すれば将来に繋がるのだと思えるようになった。
 就職してから早数年、今までの経験から興味のある分野が少し見えてきた。その分野の仕事をするために、転職活動をしている。内定をもらうには、まだ少し応募する企業が少ないので、時間がある分、しっかりと後悔しないように動いていくつもりだ。
 私は、新しい感性を持てたことに感謝している。そして、こんなにも長く好きでいさせてくれるので、とても幸せだ。彼らがいたからこそ、上手くいかなくても諦めずに頑張らなければいけないと思える。彼らは紆余曲折ありながらも、20年以上もの長い年月を私たちファンのためにアイドルを続けている。だからこそ、私も胸を張って応援できるように、自分のことを磨き続けたい。

あの日、少し息がしやすくなった

野村カオリ
 1月の昼下がり、私は家のリビングで生後まもなく2週間を迎える子どもをあやしていた。抱っこで揺れながら、背中をトントンしていた。

 この世に生まれたばかりの赤ちゃんは小さくてほやほやで、本当にか弱い。はるか昔の人間はどうやって自然界で生きてきたのだろうかと、何度も疑問に思った。

 自分のお腹から出てきた子どもは無条件に可愛い。その一方で、新生児のうちは表情も乏しく、まだ同じ人間とは思えなかった。宇宙人と接している感覚に近かったかもしれない。  
 
 コミュニケーション手段は泣くことのみ。母歴2週間の私には子どもが何を求めているのかがなかなか分からず、何度も途方に暮れた。とりあえずエンドレス授乳、エンドレスおむつ替え。それでも泣き続けたら寝かしつけ。この寝かしつけが上手くいかないことが多かった。

 どうやら赤ちゃんはママの声を聞くと安心するらしい。何を考えているかわからない相手に話しかけ続けるのは少しこたえる。そこで私は、自分の声のキーに近い女性シンガーの歌を歌って寝かしつけをしていた。しかもなぜかパワフル系の歌声ばかり。DREAMS COME TRUE、Superfly、MISIAには大変お世話になった。赤ちゃんを寝かしつけるというよりも、連日寝不足で心が折れかけていた自分を鼓舞したかったのかもしれない。

 今日も何を歌って寝かしつけようかと、子どもを抱っこしながらソファに座り、テレビでYouTubeを見る。すると大学時代から大好きなバンドのライブ映像の動画がふいに上がってきた。そのバンドはかれこれ10年以上のファン。ライブのために東京まで一人で遠征することもあったくらいに。妊娠中にあったツアーは泣く泣く参戦を見送った。

 子どもが生まれてからは音楽を聴く余裕もなかった。その日は本当にたまたまライブ映像を見かけて、一気に懐かしい気持ちが込み上げてきた。

 ONE OK ROCKの『キミシダイ列車』

 イントロが始まる。ライブ映像の中の観客と一緒になり、子どもを抱っこしながら久しぶりにノリノリで歌ってみた。

 「大事なコト忘れてないかい? 何かのせいにして逃げてはいないかい?」

 歌の序盤で完全に涙腺が崩壊した。なぜか涙が止まらなかった。 映像の中の観客は、サビに向かって熱を帯びていく。私は大泣きしながら、子どもを抱っこしながら歌い続ける。 それまでぐずっていた子どもも、母親の急変した様子を感じ取ったのか、神妙な面持ちで私の顔を見上げていた。

 曲が終わったあと、部屋は急に静かになった。 私はしばらくそのまま動けなかった。ふいに我に返ると、涙はもう止まっていて、不思議なくらい頭が静かになった。 あの日の涙の本当の理由はわからない。でもあれ以来、少しだけ息がしやすくなった気がする。

小さい私、ここまでおいで

あきの もみじ
 母が泣いていた。祖父母と両親が二階で何か話している。音をたてないように手足を交互にゆっくりと移動させ、四つ這いで一段ずつ昇った。階段の軋みにも注意しながら、聴力全開の集中力。階段を昇りきると最難関のドア。いつもの開閉時の音の出方を思い出しながら、そっと数センチ押し、隙間から部屋を覗くと、母の悲しむ涙と、夫婦の話し合いに後ろから様子を窺う祖父母が見えた。小学一年生の私の記憶は途切れていて、いつの間にか家を出て母と兄の三人暮らしが始まっている。ちょっとストレスや、精神的にダメージを受けてしまったのか、それとも子供の記憶力の問題なのか、引っ越した初日のことも覚えていない。
 けれど、あれが離婚の話し合いだったのだろう。私の人生が変わった瞬間は人生前半で既に訪れている。悲しいと思うこともあったけれど、もうあれから四十年以上も過ぎている。大人の私が、
『悲しい思いなんて小さな出来事に過ぎないんだよ。』
と励ましてあげることができたら・・・。
『そんな考え方しないでいいよ。』
と何度も言いたくなる場面がある。私は母親になって多くの親が持つ子供への気持ちや感情を自分なりに感じている。似たもの同士(というか、同じ人間だけど)、言葉が届くなら、タイムトラベルできるなら、小さい私を応援してあげたい!なんて、日々の生活でよく思っている。

 学年末にノートを処分していると、こくご・さんすうに続いて日記のノートが出てきた。日記ノートを開くと、例の二階で話し合いの出来事をしっかり書いてしまっていたようで、先生はあの文章を読んで気まずかっただろうと思った。家庭の問題をいち早く担任に教えてしまって、親にも申し訳ないと思った。
 今の世の中、シングルマザーは世間に認知されていて、子供にとっても珍しい家族構成ではなくなっている。新しいお父さんができることもある。当時、同じクラスに親の離婚と再婚を経験したクラスメイトがいたが、教室の黒板を背に先生と並んで立ち、
「今日から○○君は名字が変わって、○○君になります。」
と伝えられた。そしてその男の子は腕を目に当てて泣いていた。なんでこんなに細かいことを覚えているのか不思議でたまらない。高校の数学はさっぱり覚えていないのに、感情と結びついた経験は一生忘れることができないのだなと思う。それにしても、この記憶は特別必要でもないはずだけど、今でもあの涙の意味が分かるような気がして、先生の手が男の子の左肩に乗っていたことまで覚えている。私は繊細だったのだろうか?学校の中で父親がいない家庭は少なく、提出するプリントの保護者名が女性の名前であることを恥じた。後ろから集められるプリントを下に重ね、どうか他の人に見られませんようにと願い、素早く前に渡して欲しいと思っていた。
(小さい私、気にしすぎだよ。人は他人にほとんど興味を持たない生き物。世の中、自分の話題にすり替え、会話のキャッチボールができない人間に多く出会い、びっくりする時期がくるからね。)

 家では自分が幼いがゆえ、なんだか疎外感を感じていた。内容を理解出来ないから母と兄の会話に加わることができない。まだ生きているから声を大にしては言えないけれど、母は子供に対して上手く接することができなかったのか、単純に私は嫌われていたのかもしれない。また、兄の癇癪持ちのせいで、部屋から出てくるなと言われたことがある。あの時の母親の対応に大きなショックを受ける。自分が親ならば、兄に対して間違いを指摘する。そんな思いが多々あると言うことは、私と母は相性が合わないと判断していいと思う。今は思えるが、小さい私は落ち込むしかないのが残念。年下に生まれただけで、命令される兄弟関係も辟易してくる。
(小さい私、ドラマや幸せそうな家族の話をたくさん聞くから、自信がなくなっていくでしょう。人は自分の不都合なことを隠す傾向にあるって早く知れるといいのにね。大人になってから一番似た例を挙げると、パチンコに負けたらその日パチンコへ行った事も話に出ないのに、勝った時は自慢話が聞けるんだよ。家族の話も幸せな人は楽しくて話すけれど、わざわざ家庭の悩みを友達以外に話す人なんてめったにいないのと同じ。そして、あなたの兄はジャイアンです。ずっと性格も変わりません。遺産相続などお金が絡んでくると余計に疎遠になってもいいと本気で思う出来事も多く発生します。兄弟だから仲良くしなければいけないのかと悩んだ末、霊視の占いに行ってしまいます。ほっといていいと助言を貰い、その日から気持ちがとても軽くなるので、この事案だけは本当に早い段階で教えてあげたい気持ちになります。)

 性格の影響もあるけれど、全くもって自己肯定感が低い人間に成長してしまった。他人の目を気にしてしまう。自分の意見を言えない。人に裏切られることが怖い。羅列すれば気持ちがどんよりしてしまう。
(これが噂のインナーチャイルドというやつか。人に大切に思われていないような気がして、集合時間に自分だけ待つ状況になったら不安で仕方ない。本当に来るのかな・・・。来るに決まっていると頭ではわかっているのに不安になる。そんなことは少しも感じていないふりで、思考の癖に目を背けるけれど。)
 この人生で良かったと思えるように、他人と比べることを辞め、自分で選択した道を進んで行くのみだ。目の前に現れた出来事は、きっとなにか意味がある。この考え方に辿り着いた時こそ、私の人生がいちばん変わった瞬間に決まっている。そして、それは今でも更新続きの人生だから、昨日の私より今日の私が好きでいれる。小さい私、早くここまでおいで。

私はようやく「私」になった

みわ
 48歳という年齢は、人生という長い物語の折り返し地点を過ぎ、ふと立ち止まって足跡を振り返るのにちょうどいい時期かもしれません。世間では「アラフィフ」だとか「おひとり様」だとか、記号のような言葉で私たちを括ろうとしますが、その記号の内側にある、誰にも侵されない静かな決意や、震えるような変化の瞬間は、本人にしか見えない宝物のようなものです。私の人生が劇的に、そして静かに音を立てて変わったのは、今から数年前、40代半ばに差し掛かったある秋の日の午後のことでした。
 それまでの私は、どこか「正解」を探しながら生きていたように思います。女性としての幸せ、自立した一人の人間としてのキャリア、老後の安心。独身であるという選択を、自分では納得しているつもりでも、親戚の集まりで向けられる同情混じりの視線や、SNSで見かける「丁寧な暮らし」を送る同世代の家族写真に、心のどこかがざわつくのを止められませんでした。自分を納得させるために「仕事があるから大丈夫」「自由があるから幸せだ」と、呪文のように言い聞かせていた時期もありました。それは、自分の人生を誰かに、あるいは社会という実体のないものに承認してもらおうとする、終わりのない努力だったのかもしれません。
 あの日、私はひどい風邪を引いていました。数日間、仕事も休み、ただ一人でマンションの寝室に横たわっていました。熱が上がり、関節が痛み、喉を通るのは冷たい水だけ。普段なら「誰かがそばにいてくれたら」と心細さに押しつぶされそうになるところですが、その時は不思議と、自分を客観的に見つめる冷徹な意識が研ぎ澄まされていました。夕暮れ時、カーテンの隙間から差し込むオレンジ色の光が、埃の舞う部屋を照らしているのを眺めていた時です。私はふと、この静寂の中にいる自分自身が、驚くほど「完成」されていることに気づきました。
 それまでは、独身であることを「欠落」だと捉えていた節がありました。いつか出会うかもしれないパートナー、いつか手にするかもしれない家庭、そういった「いつか」というピースが埋まらなければ、私のジグソーパズルは完成しないと思い込んでいたのです。しかし、高熱に浮かされ、身動きも取れないほど弱り切ったその瞬間、私の心に降ってきたのは、「ああ、私はもう、これで全部なんだ」という、突き抜けるような解放感でした。何かが足りないのではなく、今、ここに横たわっているこの体と、この孤独と、これまでの経験、挫折、わずかな成功、そのすべてが合わさって、私は一人の人間としてすでに100パーセント完結している。何者かを付け足す必要も、誰かに選ばれることで価値を証明してもらう必要も、最初からなかったのだと。
 その瞬間、世界から色が溢れ出したような感覚に陥りました。窓の外を走る車の音、近所の子供の笑い声、冷たいシーツの感触。それらすべてが、私という個人の宇宙を構成する要素として、等しく価値を持って迫ってきました。それは「諦め」ではなく「受容」でした。私は女性として、誰かの妻にならず、誰かの母にもならなかった。けれど、その分、私は「私自身」になるための時間を贅沢に使ってきたのだという自負が、ようやく腑に落ちたのです。48年という歳月をかけて、私はようやく自分の人生の運転席に座ったのだと感じました。
 この「気づき」から、私の日常は劇的に変わりました。以前なら、週末に一人でカフェにいても「寂しそうに見えないか」と気にして、無理に仕事の資料を広げたりしていましたが、今はただ、コーヒーの香りとページをめくる指先の感覚を純粋に楽しむことができます。誰かに自分を定義させる権利を返上したことで、心に広大なスペースが生まれたのです。
 女性の40代、50代は、ホルモンバランスの変化や老いへの恐怖、親の介護といった現実的な問題が波のように押し寄せます。私も例外ではありません。鏡を見るたびに増える小皺や、疲れが取れにくくなった体に溜息をつくこともあります。けれど、あの日の熱い部屋で感じた「私は完結している」という確信が、今の私を支える背骨になっています。不足しているものを数えるのをやめ、今持っているものを愛でる。それは、独身という道を選んだ、あるいは選ばざるを得なかった一人の女性が辿り着ける、究極の贅沢なのかもしれません。
 今、48歳の私は、以前よりもずっと自分に対して寛容になりました。失敗しても、道に迷っても、「これも私という完成された物語の一部だ」と笑える強さが備わったからです。人生が変わる瞬間というのは、必ずしも劇的な成功や出会いにあるわけではありません。むしろ、人知れず流した涙や、孤独な夜の静寂、自分でも気づかなかった心の奥底にある「声」を聞いた瞬間に、世界は一変するのだと思います。私はこれからも、この「完結した自分」を抱きしめながら、誰のためでもない、私だけの時間を刻んでいこうと思います。窓から差し込む光は、あの時と同じオレンジ色ですが、それを見つめる私の瞳は、もう二度と「欠落」を探すことはないでしょう。。

ノートに刻む、私の小さな足跡

堤信乃
 「あぁ、またやってしまった」そう言って、小さく溜息を吐く。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、思わず周りを見渡した。キーボードを叩く音がやけに大きく響く。素早い指先の動きを目で追っていると、自分だけが取り残されているような感覚に襲われた。
 その日、私はまた仕事でミスをしてしまった。データ入力の確認を怠り、思い込みに気づかないまま処理を進めてしまう。本来なら、絶対に防げるミスだった。
 上司から指摘を受けた後、ファイルボックスから一冊のノートを取り出した。表紙は色褪せ、角は丸くなっている。何度も開いてきたページをめくると、かすかに乾いた音がした。
 日付を書き、先程のミスを記す。その上で、「指差ししながら、入力内容を声に出して一文字ずつ確認する!」と、赤ペンで改善策を書き込んだ。そして、その日の終わりにはノートを開いて振り返る。ミスをしなかった日は、いつも日付と一緒に小さな星を添えていた。
 誰に見せるわけでもない、自分だけのノート。そこには嘘も言い訳もない。ただ、未熟な自分の記録が淡々と残されていた。書くたびに胸の奥が痛んだ。それでも、手は止めない。同じミスをもう繰り返したくない。その一心で、ペンを走らせた。
 思えば、過去にも似たようなことをしていた。前の職場にいたときのことだ。業務の流れや端末の操作手順を一つひとつ分解し、自分の言葉でノートにまとめた。マニュアルだけでは理解しきれない部分を、整理するためだった。
 そんな私に、上司は言った。「マニュアルを見れば分かるだろう」「そんなことに時間をかける意味が分からない」聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。何も言い返せず、ただ「はい」と頷くしかなかった。自分なりに考えてやっていたことが否定されたような気がして、心に突き刺すような鋭い痛みが走る。私は手元のノートをバタンと閉じた。今まで書いていたページが、全く意味のないものに思えた。
 結局、ミスは減るどころか増えていった。仕事のスピードにもついていけなくなり、私は一ヶ月でその職場を離れた。あのとき、書くことを辞めたのは正しかったのだろうか。自分は働くことに向いていないのではないか。頭の中で、自分を責めた。
 その後、少し時が経ち、新しい職場に身を置くことになった。新しいパソコン、新しい人々。どれも新鮮に映るオフィスの中で、懸命に業務を覚えた。しかし、働き始めてから四ヶ月が過ぎた頃、立て続けにミスを起こした。その日は繁忙日で、業務に追われて気持ちだけがずっと空回りしていた。何度も深呼吸をしてみても、心は落ち着かない。すると突然、前職の光景が不意に頭をよぎった。「そんなことに時間をかける意味が分からない」あのときの一言が、耳の奥で再生され、胸が苦しくなった。
 それでも。かすかに抵抗のような感情が残っていることに気づいた。小さく、でも確かな、まだ消えていない火のようなものだった。何もせずに立ち止まることだけは、どうしても選べなかった。自分にできることは何か。その問いを反芻しながら、私は、ゆっくりとペンを取り出した。
 ふと、大学生から使っている俳句のノートの存在を思い出す。心に浮かんだ言葉を、ゆっくりとノートに書き留めていくあの時間。出来上がった瞬間、不思議と心がじんわりと満たされていくような、あの懐かしい感覚。学生時代の自分が大切にしていたものが、今の私をそっと励ましてくれているのだと感じた。
 ——私にできるのは、「書くこと」しかない。そうして私は、再びノートを開いた。今度こそ、手放さない。そう心に決めた。同時に、オフィスの方々の顔が思い浮かぶ。私を見守り、時に指摘し、仕事を続ける場を与えてくださる人たち。その支えに応えるため、自分のやり方で少しずつ成長していきたい。そんな思いが、ペンを握る原動力になった。
 最初は単なる反省日記だった。しかし、書き続けるうちに、自分の癖が見えてきた。例えば、ミスをしやすいのは、繫忙日で処理する量が多いときや、慣れてきて確認のスピードが上がったときだと気づいた。それ以降、入力内容をゆっくり声に出して確認するように心がけた。そうすることで、焦りの中でも思い込みや見落としに気づける場面が少しずつ増えた。
 ノートの習慣にも慣れた、ある日のこと。小休憩を終えて席に戻ろうとすると、上司に呼び止められた。一瞬、嫌な予感がした。前と同じように、また続けられなくなるのではないか。そう思うと、上司の席に向かう足取りが重くなった。
 呼び出されたのは、同じミスを二件起こしたからだった。上司の言葉のひとつひとつが重くのしかかる。それらを受け止めるのに精一杯で、思わず視線を落としてしまった。やっぱり私は駄目なのかもしれない。——そんな考えが、頭をよぎる。
 しかし、上司は静かに言った。「あのノートを書いているあなたなら、改善できるはずです」思わず顔を上げた。その言葉は、ただの励ましではなかった。前の職場で否定され、手放してしまった「書くこと」を、初めて肯定されたように感じた。
けれども同時に、ある疑問が浮かんだ。ノートのことは誰にも話していないのに、どうして上司は知っているのだろう?ノートは業務の合間や仕事終わりにひっそりと書いていただけなのに。ずっとそう思っていた。
 けれど、違った。上司は以前、ミス記録をノートに書き留める私の姿を、偶々目にしていたのだという。誰も見ていないと思い込んでいたのは、私のほうだった。気づかぬうちに、その積み重ねは確かに誰かの記憶に残っていたのだ。それがわかったとき、強く握っていた指先の力が、ゆっくりとほどけていった。自分のやり方は間違っていない。少しずつでも、前に進める自信がようやく芽生えた。
 今まで、私にとって「書くこと」は、心の内側にある感情を外へ解放するためのものだった。けれど今書いているのは、自分の過ちや行動だ。それは外へ放つものではなく、内側に刻むものだった。解き放つ言葉から、刻む言葉へ。気づけば「書く」ことは、いつしか自分のあり方そのものになっていた。
 この「書く」という行為は、すぐに何かが変わるものではない。それでも、書き続ける中で、ミスとの向き合い方が変わったと実感できるようになった。ノートを開き、事実を書き出し、改善策を考える。その積み重ねの中で、同じミスに気づくのが少し早くなった。確認の手順も、以前より丁寧になった。これは、誰の目にも見えない変化かもしれない。それでも、確かに自分の中に糧として刻まれていった。
 仕事終わり、いつものようにページをそっとめくる。擦れた紙が、かすかな音を立てる。そこには、これまでの自分が刻んできた足跡が残っている。そしてこれからも、その続きを刻んでいくのだろう。そう思いながら、私は今日の日付と小さな星をひとつ添えた。

男の子じゃなくていい

夏目わか
「男の子だったらよかったのに」
そう言われた瞬間、私の人生が闇へと落ちていった。
私は次女として生まれた。先天性の病気だったため、母に「三人目を諦めざるを得なかった」と言われた。
でも、両親や親戚の心には、一つ心残りがあった。
それが”男の子”だった。
初めて「男の子だったらよかったのに」と言われた時、正直単純に男の子が好きだからだと思っていた。
でも、違った。
年齢を重ねるごとに気付かされる。男の子がよかった理由が一つひとつ露わになっていった。
大学を卒業し、社会人になり、結婚を意識し始めた頃に私は気がついた。
自分の家系が途絶えること。
二人姉妹だった母は「自分の苗字が途絶えてしまうから、私と姉の名前には、苗字に入っていた”木”の文字が入るように名前をつけたの」と遠くを眺めながら言っていた。そして、母の娘である私たちも二人姉妹。また、ここで苗字が途絶える。
そうだ。これは女性であるがための弊害だ。
女性が苗字を変えることが一般的な世の中だから、いつも女性の方が途絶えさせてしまった感覚に陥るのだ。
幼い頃の「男の子だったらよかったのに」という言葉がふと頭の中に浮かび上がる。
これが原因か。
あの一言が、私の生き方を縛り続けていた。
そこで私は考えた。婿養子になってくれる人と結婚しよう。
私は長男ではなく、婿養子の可能性がある次男と付き合うようになった。
そして私は婿養子になってくれる人と結婚を果たした。
すると、私は周りから奇異な目で見られるようになった。
「次女なのに、婿養子さん?」
「婿養子なんて、いいわね」
「まぁ、羨ましい」
周りから言われる言葉に、私の心はざわついた。
逆の立場だったら絶対に言われない。私が嫁に行ったら、こんな風に言われることはあり得ない。
モヤモヤした気持ちだけが、心の中で渦巻いた。
周りの視線や言葉で、夫は「俺は婿養子だから」とカードを切るようになった。婿養子になってあげたからという理由での頼み事、横柄な態度、婿養子は特別であることを私に突きつける。
そして周りはそれを「婿養子だから仕方がない」と言う。
「嫁だから仕方がない」とは聞いたことがないのに。
そして、親戚からはこんな言葉が囁かれる。
「子どもはいつなの?」
「孫の顔が見たいわ」
「そろそろ子ども作る時期じゃない?」
親戚や家族、職場でも囁かれるチクチクと刺さる言葉たち。男性は言われるはずのない言葉を、日常的に浴びるしかない。
ほしいと願ってもできない場合もある。でもそんなことを言えるわけもなく、ただただその言葉たちに押しつぶされそうになる日々を過ごすしかない。
「今のご時世、共働きが当たり前」
その風潮があるため、私は週5日から6日働きに出ている。
でも、だからと言って家事をやらないわけにはいかない。「奥さんでしょ?」夫の弁当を作るのは私。
介護の一部を担うのも私。休みの日だって家のことか仕事の準備で終わる。
男性は仕事だけをしていたら大抵のことは許される。
後継問題をきっかけに、実家の建て替えの話が進み、そしてペアローンを組んだ。ハウスメーカーの担当者さんや建築士さんとたくさん話をする機会があった。
そのとき、差し出された名刺は、迷うことなく夫の手元に置かれた。私は同等の立場であると思っていても、社会はそうはさせてくれない。女性は、女性だからというだけで権限が低い扱いを受ける。
いつからだろう。
私が背負ってきたこの重さは、私だけのものではないと気づいたのは。

思い返せば、母も同じように、苦しんでいた。
母は、若くして結婚し嫁いだ身だった。嫁いびりを受けたこと。父は「子どもを見るのはお前の役目だ」とほとんど育児を手伝わなかったこと。仕事をしながら四人分の弁当を作り、休みの日は掃除洗濯に追われていたこと。私が見てきた母は、いつも何かに追われ、背負い、走り続けていた。
でも、それを誰かが特別褒めることはなく、それをやることが当たり前とされてきた。
父は休みの日に好きなところに遊びに行ったり飲みに行ったり自由。家事をしなくても怒られない。育児をしなくても許される。でも、母は女性だからそういうわけにはいかないと、社会が呪いをかけていた。
母が言った「男の子だったらよかったのに」は、私への非難ではなく、女性という立場上の非難だったのだ。
女性が背負う苦悩を知っていたからこそ、その苦労を我が子に味わわせたくないという思いからの言葉だった。
友人と会ったとき、カフェの隅の席で向かい合った友人は、やけにやつれて見えた。テーブルの上のコーヒーはほとんど手をつけられていない。
義理のご両親に「次の子はまだかとプレッシャーをかけられる」「仕事が忙しくても、子育てもあるけど、圧がすごいから、次の子もなんとかしなきゃ」と視線を落としながら語っていた。その横顔には、逃げ場のない辛さと、悔しさと諦めが滲んでいた。
なんで……。なんでそうなるの。
時代は進んでいるのに、一向に縮まる気がしない男女の格差。
「今の時代、共働きが当たり前だよね」
そんなふうに言われる世の中なのに、女性は家事や後継問題、出産や育児の負担に加え、働くことも強いられる。
気づけば、私の周りにいる女性たちは、それぞれの場所で、同じように押しつぶされそうになっていた。
それは偶然ではなく、社会そのものが女性に背負わせてきた重荷であり呪いだった。
だからこそ、私は思った。
この闇を、次の世代にそのまま渡してはいけない、と。
私は、女性だからという理由で押しつけられてきた役割を、もうそのまま受け取るつもりはない。
家事も育児も、どちらか一方が背負うものではなく、二人で歩いていくための営みだ。
その歩幅を決めるのは、周りではなく、私たち自身である。
私は、私の人生を私の手で選ぶ。
そして、同じように苦しむ誰かの声をすくい上げ、光へと導く側に立つ。

もしかしたら、あなたも同じように、「女性だから」で片付けられた痛みを抱えてきたのではないだろうか。
言い返せなかった言葉、飲み込むしかなかった悔しさ、誰にも気づかれないまま積み重なった重荷。逃げられないと、背負うしかないと、涙を堪えた日々。
そのどれもが、あなたのせいではない。
今まで背負ってきたものは、決して軽いものではない。仕方がないと片付けていいものではない。
それでも、今日まで歩いてきたことは、もう十分すぎるほど強い。
その強さを、どうか自分で否定しないでほしい。頑張ったと、よくやったと、称えて誇って褒めてほしい。
そうできなかったら、私が胸を張って言いたい。
十分すぎるほど頑張ったよ。あなたは、もう十分に歩いてきた人だ。

もう「男の子だったらよかったのに」なんて言わせない。
女の子でも男の子でも、「あなたが生まれてきてくれてよかった」と言える社会にしたい。
私は私でいい。あなたはあなたでいい。
誰かに圧力をかけられることのない、心の平和を感じられる社会。
そう胸を張って言える未来を、私はこれからの人生でつくっていきたい。

「止まった日から、」

saori
気づいたら、心と身体が動けなくなっていた。
あの静かに崩れ落ちるような瞬間。
それが、私の人生が変わった瞬間でした。

それまでは、「頑張ること」が当たり前だった。
周りの期待に応えたい。迷惑をかけたくない。ちゃんとしなきゃいけない。
そう思うほど、自分の気持ちは後回しになっていった。

私は、人の感情に敏感だった。
特別なことができるわけじゃないけれど、相手の気持ちに強く共感してしまうことが多かった。
だからこそ、気づけば自分より相手を優先するようになっていた。

あの頃は、それが苦しさだとも思っていなかった。
「まだ大丈夫」「これくらい普通」と、自分に言い聞かせていた。

いつの間にか、軸は「自分がどうしたいか」ではなく、「どう思われるか」「期待に応えられているか」に変わっていた。
気づかないうちに、自分を演じることが上手になっていた。

そんなある日、突然、心が動かなくなった。

何もしたくない。
笑えない。
人に会うのも怖い。
外に出るだけで、息が苦しくなる。

電車に乗ることも簡単ではなくなった。
気持ちが悪くなったり、呼吸がしづらくなったり、何もなく乗れていたと思った矢先に、突然体調が悪くなることもあった。

音が怖くなって、電話の着信音にさえ身体が反応する。
好きだった音楽でさえ、頭が痛くなってしまうことがあった。
眠りたいのに眠れず、夜になると理由もなく涙が出た。

それでも私は、「甘えちゃダメ」と思っていた。
自分で決めたことなんだから、と。
もっと頑張れるはず。やればできるはず。止まることは逃げだと思っていた。
でも本当は、止まることが怖かった。何もできない自分になってしまいそうで。

だから、限界に気づかないまま、走り続けてしまった。

そして本当に動けなくなったとき、私はようやく、自分が空っぽになっていたことに気づいた。
心の充電は、もうゼロだった。

そんな私を救ってくれたのは、特別な言葉でも、劇的な出来事でもなかった。

家族が、いつも通りに接してくれたこと。
「大丈夫、大丈夫」と何度も言ってくれたこと。
何もできない私を、否定せずにそばにいてくれたこと。

その優しさに触れたとき、張り詰めていたものが少しずつほどけていった。
私以上に私のことを信じてくれている人がいることが、こんなにも心強いのだと、初めて気づいた。

声が出なくなった時期もあった。
自分の気持ちを、自分の声で伝えられないことが、こんなにも苦しいのかと初めて知った。

でも同時に、「話せること」「笑えること」「ご飯を食べられること」。
当たり前だと思っていた日常が、どれだけ尊いものだったのかにも気づいた。

少しずつ、少しずつ、戻ってきた。
楽しいと思える感情。美味しいと感じる感覚。誰かと笑い合える時間。
その一つひとつが、奇跡のように感じた。

そしてある日、ふと気づいた。
「あの時の私は、本当によく頑張っていたんだな」と。

初めて、自分で自分を認めることができた瞬間だった。

今でも、体調は完全に元通りではない。
不安になる日もあるし、思うように動けない日もある。

でも、もう無理はしないと決めた。
動けなくなる前に、自分を見失ってしまう前に、止まっていい。頑張れない日は、頑張らなくていい。

自分のペースでいい。

あの時、すべてが止まったように感じたけれど、本当はあの瞬間から私の人生は変わり始めていた。

「人にどう思われるか」ではなく、「自分がどう感じているか」を大切にすること。
できない自分も、そのまま受け入れること。
そして、そばにいてくれる人の温かさを、ちゃんと受け取ること。

あの日、立ち止まったことは、決して「終わり」ではなかった。
私が、私に戻るための、はじまりだった。

もし今、少しでも苦しくて、余裕がなくていっぱいいっぱいになっている方がいるなら、どうか覚えていてほしいです。

止まることは、逃げじゃない。
何もできない時間も、ちゃんと意味がある。

あなたが感じているそのしんどさは、ここまで耐えてきて、自分自身と向き合い続ける強さをもっていて、相手のことを自分以上に大切に想える心をもっている、そんなあなたが、もう充分に頑張ってきた証だから。

少しだけでも、自分にやさしくしてあげてほしい。
「頑張ったね」と伝えてあげてほしい。

大丈夫です。
あなたのペースで、ちゃんと前に進んでいけます。
きっと、大丈夫。

どうか、この言葉が、似たような経験をした誰かのもとへ、そっと届きますように。

土下座から始まった

クレイジーキャサリン
「僕が1番じゃなくなるから絶対に子供は欲しくない。」
 土下座から始まった人生の転換期。8年生活を共にしてきた旦那が涙ながらに頭を下げている。
それまで順風満帆な夫婦生活だった。本来私も子供が欲しくない側の人間だったこともあり旦那と思想が似ていた。
 結婚するしない、子供を作る作らない、夫婦別姓にするかどうかなど様々な選択肢があるけれど周りに振り回されずに夫婦間で話し合い決めればいい事だ。
 私達も結婚当初しっかり話し合って決めたが30歳になる年に母が胃がんを患い「あんたの子供を抱きたいな」と言われ、私も今後について深く考えた時に子供が欲しくなり旦那に相談して返ってきたのが冒頭の一文である。
 私の思想が変わってしまったのだから仕方がない。円満解散の流れとなった。
 1人目の旦那と離婚したのが32歳。一般的に子供を産むタイムリミットまでそんなに時間がない。その頃、今では珍しいミクシィというSNSサイトのカラオケオフ会に参加した際に2人目の旦那と抜群のタイミングで出逢った。
相手もバツイチで子供を望んでいたこともありトントン拍子にお付き合いが始まり、息子が私のお腹の中に来てくれた。
 妊娠中も幸いなことに眠いこと以外は、ほとんどつわりもなく経過し出産の日を迎えた。初産だったため、なかなか子宮口が開かずお産が進まない。痛すぎて「もうやめるー!」と叫んだら助産師さんが「お母さん!ここまで来たらやめられないから頑張るよ!」と励まされながら出産。
 その際に1.2リットル近い出血があり足元でみんながザワザワしていたが輸血は免れた。2時間絶対に動くなという指令が出され大人しくしていたが、2時間経過したと同時に空腹が限界に達してパンでも買おうと財布を握りしめ売店に向かおうとしたら師長さんに秒で見つかり、人生で1番の大目玉をくらい車椅子で病室に連れて行かれた記憶も懐かしい。
 産まれてきた息子は本当によく泣く赤ちゃんだった。昼も夜も泣き、寝不足の旦那と私はイライラしてケンカが増え、帰って来ない日が多くなり2度目の解散となった。思う所は沢山あったが息子という宝物を授けてくれたのだから感謝している。
 そんな息子もすくすく身長と体重は順調に育ったものの、言葉が出なかったり発達の面で不安なことが増え、保健センター経由で児童精神科を受診すると「自閉スペクトラム症」の診断がすぐについた。
 スーパーなどで床と同化しがちだとは思っていたが自分の子供が発達障害……。ショックじゃないと言えば嘘になる。しかし立ち止まってはいられない。気持ちを奮い立たせてしっかり働いて育てなければいけないと自分を鼓舞した。職場が病院で介護職をしていた為、院内保育で息子をみてもらえる環境が有り難かった。
 その頃、小さな人生の転機が訪れた。昔から趣味で公募ガイドに応募することが好きだった。その時も気持ちを整理する為に「心の輪を広げる体験作文」というコンクールに応募した。
 毎年12月3日から9日までの1週間を「障害者週間」という。広く障がい福祉についての関心と理解を深めるとともに障がい者が社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加することを促進するため障害者基本法により設けられているもので、国や地方公共団体では「障害者週間」の趣旨を踏まえた様々な取り組みが行われている。
 軽い気持ちで応募したコンクールでなんと札幌市の最優秀賞、内閣府の佳作に入り地元新聞の取材を受け掲載してもらった。別に息子を見せ物にしたかったわけではない。現在発達のグレーゾーンの子供が本当に多い。小学校に進学する時に知らないと困ること、損することが沢山あった。どのタイミングで動いて、どんな療育があるのか、悩んでいるお母さん達に伝えたかったこともあり、その後チャイルドカウンセラーの資格も取得して、知識を広げることに勤しんでいる。
 そして今から2年前、新たに神様から試練が与えられた。息子の嗅覚がないことが判明したのだ。なぜ気づいたのかというと、私がコロナに罹患した際に一時的に嗅覚がなくなり「何の匂いもしないわ!」と息子に話すと「僕も匂いしないよ!今まで1度も匂いしたことないから、どんなもんか嗅いでみたいな!」と笑いながら言うではないか。
青天の霹靂とはまさにこのこと。
 今まで「いい香りー」「美味しそうな匂いするね」と言っていたのは私のマネをしていただけだと返ってきた。産まれてから10年間息子は香りを知らずに生きてきた。母として情けなく涙が止まらなかった。たしかに視覚と聴覚の検査は分かりやすいが嗅覚の検査をするタイミングがなかなかない。
 ひとまず定期受診の時期ではなかったが児童精神科の主治医に予約を入れ、すぐにみてもらえることになった。主治医から伝えられたのは「発達障害のお子さんは感覚が過敏の子もいれば反対に感覚がなかったり鈍いこともあります。息子さんはおそらく先天的に嗅覚がなかったけれど、コロナの後遺症のように途中から匂いが消えたということでもなく、味覚があったから不便に思わなかったのかもしれません。大人になって気づく人も珍しくありません。」とのことだった。
 残念ながら詳しい検査を今からしても治る可能性が低いなら、うまく付き合っていくしかない。私にできることは……
①息子の現状を病院と情報共有しながら把握すること。
②ガス、火事、腐った食品がないよう危険予測できるように環境を整備すること。
③いつも周りに人が集まってくれるような魅力的な人間でいられるように育てること。
この3点に尽きると思う。
 反抗期のイライラと更年期のイライラがぶつかり合いケンカも多い我が家。子供は育てたようにしか育たない。息子の良いお手本になれるよう、いつも周りに居てくれる人達に感謝と尊敬の念を忘れず真面目に生きて行こう。
 他の人から見たらどうかわからないけれど泥臭い自分の人生が好きだ。選択を人に委ねたことはない。いつもその時々で一生懸命自分で選択してきた人生だから、今が最善の道。苦境も失敗も人生のスパイス。
 今日もあまりある幸せを両手に抱えて人生を楽しむ。
 ゆっくりでいい、しなやかに強かに。

鮮度は人に測れない

ゆすら
生きていると、周りと自分の鮮度の差が、気になることがある。世の中には、ぴちぴちと水を滴らせて動く魚と、浜辺に打ち上げられて、そのまましけてしまったような魚の2つに分かれている。
私は絶対に鮮度を保ったまま生きていたい。特に、大学生になってから自分は周りと遅れていないかをひたすら自分の胸に問いていた。濁流の中をその時々、必死で岩や、たまたま見つけたような細い流木に必死に掴まって生きてきたような気がする。
女子校で育った私は、今までの大人しい生活を払拭するかのように振る舞うようになった。色々なサークルに入り、友達と遊んで、彼氏をつくって、充実した自分を演出することに熱を注いでいた。

でもそんな生活も、3年生になる前の春休みに、無理がたたってきた。体が動かない。友達との予定を立てても、どうしても行く気にならない。メールの返信すらままならない。
なぜこうなってしまったのか、理由も浮かばなくて悶々とした日々が続いた。たぶん、心と体の速度が合わなくなってしまったのだ。そして、家でじーっと周りから隠れるように過ごすようになった。

「ゆすら、ご飯今日夜食べる?」
「うんなんでもいいよ」
「わかった、最近ずっと夜ご飯家で食べてるね」
母は、今までろくに家で夜ご飯を食べていなかった自分が、突然家に籠るようになったことを心配しているようだった。
「走り続けてきたからね、止まればいいんだよ」
「でも不安になる」
私は、わっと泣いてしまった。今のままじゃだめだ。どうにかしないと遅れる。遅れる。遅れる。

「動き続けたらそりゃ疲れるよ、自分の時間も大事」
いつからか、自分の時間という概念がなくなっていたように思う。SNSを見ると、みんなが誰かしたとご飯を食べて、遊んで、デートしていた。私は、周りに追いつきたいと思う一方、自分の何が好きか、嫌いか、全てがわからなくなってしまっていたのだ。でもそれをなおそうと、自分と向き合った瞬間に空虚で、スッカスカな自分が目についてつらくて、つらくて仕方がなかった。
このままじゃダメだな。そう気付いた私は、徹底的に目に入る他の人の情報を減らした。若い今、どう足掻いても人と比べてしまうのは仕方ない。だからこそ、本来の自分を取り戻すためにあまりSNSも見ず、毎日の生活を整えることにしたのだ。

代わりに、自分が人からの評価を得ようと思っていなかった時代に、元々好きだったことを掘り返してみた。
私は元々、読書が好きだった。本は、マイペースに文字を追えるので、自分だけの世界に没頭できる。大学生になってからは華やかな人間を演出するために人から見たら地味なことに時間を使っていられないと思い、まったく手をつけていなかった。
自分を失っていたのだ。取り戻さなければ、本当の自分を。地味と思われてしまうかもしれないなんてちっぽけな理由で切り捨てた大好きなことを。

久しぶりに、本のページを捲ると心がホッとした。一瞬で懐かしい感情になった。誰にも邪魔されず、物語に没頭できる時間に心躍った。
そして、私は夜にベランダで小さな灯りをつけながら本を読むというルーティンができた。
空気のおいしさを感じながら、自分が本当に好きなものと向き合えているという実感がとにかく幸せだった。

今までの自分だったら、こうやって1人でゆったりと過ごすことに罪悪感を覚えていた。活動的に動かなければ周りと差がついてしまうと思っていたからだ。
でも、こうやって自分と向き合い、生活を整える作業は、大学生になってからのどの時間よりも充実していた。

ああ、いくら遅くたっていいじゃん。周回遅れだとしても、全部に意味があるんだよ。昨日食べたパスタの味とかは忘れちゃうかもしれないけど、その時その時の自分が生き生きと生きていれば、全部意味があるな。心がぴちぴちと跳ねていれば、それが目に見えなくてもいいんだよ。
ベランダで見る夜空は、あまり星が見えなくて、ただ風だけは冷たいはずなのに、温かくて、それが私を応援してくれるような気がした。

立ち止まったあの日、私ははじめて自分で選んだ

「今回で契約は終了となります」派遣社員として働いていた職場での面談だった。担当者の声だけが、妙にくっきりと残った。三歳になる娘が熱を出す日が続き、数ヶ月まともに出社できなかった。組織の判断は正しいと、頭では理解していた。「わかりました」そう言って、席を立った。帰り道の記憶は、ほとんど残っていない。夜、娘の寝顔を見たとき、ふと、一つの思考が浮かんだ。(私は、一体何をしていたんだろう)
それまで私は、「正解」を選び続けてきた。地方から東京の大学へ進み、安定した会社に入り、結婚した。当時の私は、「ちゃんとキャリアの正解に乗れている」と思って安心していた。新卒で入った会社では、寝る時間を削って働いた。きつい仕事ではあったが、不思議と嫌ではなかった。できることが増え、それが評価として返ってくること。同期と励まし合いながら前に進んでいくあの感覚に、確かなやりがいを感じていた。
けれど、結婚を機に流れが変わった。従来の働き方を続けることが難しくなり、一度、ペースを落とすことにした。当時の私は、それもまた「正しい選択」だと思っていた。無理をしすぎたのだから、少しゆるめる。けれど、本当は迷っていた。これでいいのか、と。周りはそのままキャリアを積み上げていく。昇進や転職の話を聞くたびに、自分だけが別の場所にいるような感覚があった。私はすでに働き方を変えていて、同じ場所にはいなかった。結婚との両立もうまくできなかった。体もついてこなかった。仕事を続けたい気持ちと、続けられない現実の間で、ずっと揺れていた。
流産を経て、ようやく授かった命だった。今度こそ、失いたくなかった。妊娠がわかったとき、嬉しさと同時に、「これで、ようやく人並みになれる」と思った。けれど、働き続ける周囲と自分を比べ、社会からこぼれ落ちていくような不安に揺れる自分もいた。そうして私は、その迷いに区切りをつけるように、仕事を手放すことを選んだ。子育ては想像以上に大変だった。ワンオペの日々の中で、私は「正しい母親であること」に必死にしがみついていた。仕事をしていないのだから、これくらいやって当たり前。そう思っていた。児童館に行っては、当たり障りのない会話をして一日が終わる。穏やかなはずの毎日の中で、気持ちが沈む瞬間があった。「幸せそうでいいね」そう言われるたびに、「私は恵まれている。だから、これでいいんだ」と自分に言い聞かせていた。気持ちが落ちるたびに、「贅沢だ」と自分を責めた。そうやって、自分の感情を押し込め続けているうちに、何を感じているのか、わからなくなっていった。
そうして、気持ちが限界に近づき始めた頃、保育園で一時保育をやっていることを知り、度々、お世話になるようになった。それまでずっと一人で抱えていた時間に、少しだけ余白ができた。体力的には、確かに楽になった。けれど、気持ちは楽にならなかった。むしろ、時間ができたことで、これまで見ないようにしてきたものが、見えてしまった。それでも、まだうまく言葉にはできなかった。だから、その感覚を封じ込めた。「贅沢だ」「子どもも預けられて、安定した生活もあるのに」そうやって、自分に言い聞かせた。だから、自分も頑張らなきゃいけないと思った。親も遠方で頼れない。私は母親だから、やるしかない。そう思って、私は頑張った。頑張ることでしか、この違和感をごまかせなかった。
そんな中で、保育園に空きが出た。「今しかない」と思い、入園を決めた。そして私は、外で働くことを選んだ。子どもがいる中で、就職活動に時間も手間もかけられない。ブランクもある。本当はこうしたい、という希望はあった。けれど、「その条件は難しい」と言われた。コーディネーターの提示する条件に、自分を合わせた。「これが現実なんだろう」と思うことにした。
働き始めてからも同じだった。最初は、うまくやれている気がしていた。周りも頑張っている。だから、自分も頑張らなきゃいけないと思っていた。けれど、現実は違った。ワンオペ、保育園の洗礼、熱、寝不足、家事、新しい仕事。すべてを一人で抱えるには、限界があった。自分の時間はなかった。休む余裕もなかった。だから、あの面談室で、頭が真っ白になったのと同時に、どこかで思っていた。「ああ、これはもう、止まったんだな」と。それでも私は、自分を責めた。うまくできなかったのは、自分のせいだと。そこから、やみくもに仕事を探した。けれど、条件に合うものはなかなか見つからなかった。
そのとき、はじめて思った。私は、何をしていたんだろう。空白の時間ができた。自分と向き合わざるを得なかった。母親でも、妻でもなく、「私」という人間が、何なのか。そこから、私は考え続けた。自分は何が好きだったのか。何にやりがいを感じていたのか。思い出すように、一つずつ拾い直していった。
その中で、ひとつだけ、消えていなかったものがあった。独身の頃の働き方だった。仕事はきつかった。それでも、楽しかった。達成感もあったし、できることが増えていくのも嬉しかった。自分が成長していく感覚が、確かにあった。あの頃の私は、ちゃんと「自分」として働いていた。それに比べて、派遣での働き方は違った。自分で選んだものではなく、条件に合わせて作った働き方だった。だから、きつかった。仕事そのものというより、「自分で選んでいない状態」が、きつかった。同じ“働く”でも、こんなにも感覚が違うのかと思った。その違和感が、ずっと残っていた。
母親になって、はじめて気づいた。私は、「誰かの役割」ではなく、「自分として存在していたかった」のだと。そのとき、思い出した。会社員時代、報告書を書いていたときの感覚だった。複雑なものを整理して、言葉にして、誰かに伝える。あの感覚が、消えずに残っていた。だから、出てきた。「文章を書きたい」そのとき、はじめて気づいた。空っぽになったからこそ、ようやく自分の声を詰め直す余白が生まれたのだと。
それがわかっても、すぐに進めたわけではなかった。何を書くのか。どこで書くのか。自信はなかった。それでも、小さく、少しずつ書き始めた。最初から結果が出たわけではない。何も反応がない日もあった。そのたびに、不安になった。それでも、やめることはできなかった。やっと見つけた「自分がやりたいこと」だったからだ。うまくいくかどうかはわからない。それでも、とにかくやってみたい。その気持ちだけは、はっきりしていた。
書き続けていくうちに、少しずつ反応が返ってくるようになった。記事が、ぽつぽつと売れるようになった。自分の書いたものが、誰かに届いている。それが、嬉しかった。自分の書いた言葉で、誰かが少しでも楽になっているかもしれない。そう思えたことが、何よりも嬉しかった。
そこから、次の目標が生まれた。「雑誌でコラムを書きたい」三十代後半。周りはキャリアも子育ても軌道に乗り始める頃だった。その中で、私はようやくスタート地点に立ったのだと思う。遅いのかもしれない。遠回りだったのかもしれない。それでも、今は思っている。ここまでのすべてがなければ、私は自分の人生に戻れなかった。だから私は、この遠回りを、自分の手で正解にしていく。

老婆の日々

トンカツマダム
ほとんどの女性がそうだろうけど、人生が1番変わった瞬間は出産だろう。
十月十日お腹の中で育った命と初対面するのだ。残念ながら男性は体験出来ない。
ただ女性としては別にそんなのいいから男と交換したい、のが出産中頭の片隅にあると思う。そんな苛立ちを乗り越えて、女は子供を産むのだ。痛みと不安を抱えながらも、もうすぐ会えるという確信。力尽きながらも子供を抱き抱え、良かったとポツリつぶやいて安堵する。全てが瞬間、瞬間が今になっては愛おしい。
息子を産んだ時はそれはそれは…と、道端で声をかけられただけのおばあちゃんが未だ口滑らかに語るくらい人生の1ページいや巻頭カラー特集くらいセンセーショナルなのだ。
ちなみにそのおばあちゃんは今月で92歳だそうで、昭和ウン年生まれなのよと言っていた。
赤ちゃんを連れていると、おばあちゃんホイホイで子供好きな優しいおばあちゃんが声をかけてくれるのだけれど、必ず「私はこう見えて昭和ウン年生まれなのよ!」と蛇足する。
私も昭和生まれだが、即座に何歳だと計算出来ないので非常に厄介だなと思う。
それなのに「母は大正の生まれで…」とさらに登場人物を増やすのも例にもれない。
おばあちゃんは子供を褒めてくれているのに、私は産後のポンコツな頭で苦手だった計算に気を持っていかれてこれっぽっちも頭に入らない。
「あーありがとうございますー」
「あーいやー、そんなこと」
「あー嬉しいですー」
と、いつもこの3つがランダムで出てくる会話をしている。ファミコンのゲームの選択肢だって、もうちょっと気が利いた言葉で返しているのではないかと思う。
そして「あー、そう見えないです。若いです」もちょいちょい挟む。これはおばあちゃんに対してだ。
向こうは子供に対してはべた褒めしてくれるが、若いですねって褒めている私のことは完全スルーする。不思議だ。
そして延々と昔話をしてくれる。
私がヨイショヨイショと頼んだわけじゃない。
その時産んだ息子はもう私より年上で、孫も社会人や大学生やらで、どうやら皆さん優秀そうだ。大手やら名門やら枕詞がつくとこにいらっしゃる。「すごいですねー」と返すと、
「大したことないわよ!」と一蹴する。あとに続く私の「いやいや、すごいです」なんて「あんなの誰でも入れるわよ」のパンチの強さに掻き消されてしまう。どうやら子や孫が優秀なことは本当にどうでもいいらしい。愛嬌がなくて可愛くないと不貞腐れている風にも見受けられる。分からない。私は優秀じゃないからこそ、子供がちゃんと自立したらそれでいい。愛嬌も交換条件としてくれてやるっといった感じだ。
難しいものである。
私もこんなおばあちゃん思考がわかる日が来るのだろうか。

昭和と昭和ならまだそんな世代違いも感じないが、今は令和。昭和は二つ前。私らで言うと明治。教科書に載っている偉人がたくさん生きていた時代だ。加えて、ラストサムライまでいた。侍なんて、時代劇でしか知らない。
私もそんな風に思われるのだろうか。偉人はそんなにいないけれど、ドラゴンボールやコナンは一話スタートから見ているリアルタイム世代だったし、たまごっちもポケモンも販売し出したのはこの頃。娯楽では黄金期を生きている。
「あ!セーラームーンとか入っていたんですよねー?」とか「新撰組の人見たことありますかー?」くらいな雰囲気で言われそうな気がする。
ここは新撰組でなくてもいいのだけれど、明治の人いたら聞いてみたくなりそうなので書いてみた。日本人の三代武将と新撰組好きは異常だと思う。
不老不死はないけれどキャラクター化されて何度でもそれなりの男前で蘇るのだから、ご本人もワクワクが止まらなくて転生出来ないだろうなとか、たまに考える。
それに比べたらセーラームーンも桜木花道も大きく姿形が変わることなくて新しい不老不死の形と言える。ドラゴンボールの悟空は正真正銘の不老不死だし。
私の「若いですね」に対するおばあちゃんの「そんなことないわよ、お化粧しないだもの!」は実は話が噛み合っていないのだ。

子供を抱っこしながら、腰痛いなぁとか電車乗らないといけないんだけれどなぁと思いつつ、見知らぬおばあちゃんと話すのは意外な発見があるので「私そろそろ…」と口を出せないでいる。あと、私の子供を大絶賛してくれるし。
して来れなかったら街頭にいる携帯会社のセールスの前を素通りするくらいの速さで立ち去るだろうと思う。街で「どの携帯会社使ってますかぁ?」と近寄られたら、目も合わさないで逃げる。使っていない会社の人の場合なら特にだ。他社より絶対安くなるプランや一定期間使うと何だかの一円携帯の話を一方的に話され
るからだ。それが長い。「ちょっと待って」とこちらに一言も言わせない早口も苦手。
子供が大きくなったら謎の抽選会やくじに引っかからないよう指導したい。

というか、まだ序章なのかしら?
まだまだ長そう。そんな雑念ばかりの私もいつかはこうやって子連れママをナンパするようになるのだろうか。起承転結は早々につけて、5分で終わる話しにはしたいと思うが、だって子供はかわいいもの。
二重じゃなくても団子っ鼻でもみんな可愛い。むしろ整っていすぎたら、これじゃないんだよなぁと思ってしまうくらいヨダレ垂らして「ママじゃないと笑ってやんないよ!」ってふてくされた顔の方が親しみが沸く。
うちの子はこっち。
まぁ私よりは何倍も顔整っているけれど。
こうやって住宅街の見知らぬ人の家の前で、誰かも知らないけれど姑は嫌なやつだった92歳と話すのは楽しくて私の人生を豊かにする。
座ってお茶がある場所でならもう少し聞いていたい。図書館に置いてある偉人の伝記のように後世のために輝かしいことはせずとも、人一人の一代記としてとても聞き応えがある。
鬼ババの他に親切だった義姉。朝早く起きてご飯を用意しても事あるごとにいびられる。
赤ちゃんの話はしばらく出てきていない。
私は朝ドラを朗読されているのだろうか。
おっと…、旦那は酒飲みだったと。
「あらまぁ!」と私。
まだまだ92歳の思い出は止まらない。

「私」を受け入れるということ

shiki
振り返ると、あの頃の私は「普通」であることに、かなりこだわっていた気がします。こだわっていた、というより、そこから外れないように必死だったのかもしれません。

周りの友人たちは、当たり前のように異性の話をして、恋愛の話題で盛り上がっていました。私もその場にいて、一緒に笑ったりはするのですが、どこか少しだけ距離があるような感覚がありました。うまく言えないのですが、自分だけがその会話の外側にいるような、不思議な感じでした。

きっかけは、本当にささやかなものでした。

ひとりの女の子のことを、好きになったのです。
驚いた、というよりは、「ああ、気づいてしまったな」という感覚に近かったと思います。彼女と話す時間が楽しみになったり、何気ない仕草が気になったりして、そのたびに「これは何なんだろう」と考えるようになりました。

同時に、戸惑いもどんどん大きくなっていきました。私は同性愛者なのだろうか。それとも、自分の性別そのものに違和感があるのだろうか。考えてもはっきりした答えは出なくて、同じ問いばかりが頭の中をぐるぐる回っていました。

誰かに相談することもできず、インターネットでそれらしい言葉を探しては、「これが自分なのかもしれない」と思ってみたり、でもしっくりこなかったり。その繰り返しでした。だんだんと、自分が何者なのか、余計に分からなくなっていった気がします。

それでも、気持ちをなかったことにはできませんでした。迷った末に、その子に想いを伝えました。

結果は、はっきりしていました。彼女にとって私は、大切な友達ではあっても、それ以上の存在ではなかったのです。

そのとき、世界の色が少しだけ遠くなったように感じました。失恋したから、というだけではなかったと思います。「普通ではない自分」を、急に現実として突きつけられたような感覚でした。

それからしばらくは、何をしてもあまり楽しいと思えませんでした。朝起きるのもつらくて、ぼんやりしたまま一日が終わるような日も多かったです。今思うと、少し心が疲れていたのだと思います。

「どうして私は、こうなんだろう」
そのことばかり考えていました。

でも、あるとき、ふと考え方が少しだけ変わりました。本当に小さなきっかけで、「別に、今すぐ答えを出さなくてもいいのではないか」と思ったのです。

自分が誰を好きになるのかとか、自分がどういう存在なのかとか、無理に言葉にしなくてもいいのではないか、と。誰かが決めた枠に、自分をきれいに当てはめなくてもいいのではないか、と思いました。

その考えにたどり着いたとき、ほんの少しだけ、息がしやすくなった気がしました。

何かが劇的に変わったわけではありません。今でも迷うことはありますし、答えが見えているわけでもありません。でも、「分からないままでもいい」と思えたことは、自分にとっては大きなことでした。

あのときの気持ちや、失恋の痛みが消えたわけではありません。ふと思い出して、少し苦しくなることもあります。それでも、あの経験があったからこそ、自分の気持ちに向き合うことができたのだと思います。

今の私は、まだ途中です。自分のことをはっきり説明できるわけでもないし、完全に受け入れられているとも言えません。

それでも、前よりは少しだけ、自分に厳しくしすぎなくなった気がします。迷ったときに、「今は分からなくてもいい」と思える瞬間が、少しずつ増えてきました。

誰かと比べて落ち込む日も、もちろんあります。それでも、そのたびに少し立ち止まって、自分に言い聞かせています。

大丈夫、とまではまだ言えないけれど、ちゃんと進んではいるよ、と。

私はまだ、自分を受け入れている途中にいます。はっきりとした名前がなくても、揺れていても、そのままの状態で、少しずつ前に進んでいます。

今は、それでいいのだと思っています。

挑戦と挫折は必ずいつか魅力に変わる。

しおりんご。
仕事を辞めた。
25歳。
社会人3年目を終えた春。
理由は男女関係のもつれという今振り返るとものすごくしょうもない理由なのだけど、その時の私にとっては明日に目を向けられなくなるほどストレスだった。
大学生の頃から人生設計は明確だった。
大学卒業後、さっさと結婚して家庭に入る。
コツコツパートでお金を貯めて、子供を旅立たせた後はカフェを経営しながらのんびり働く。
卒業のタイミングでの結婚は叶わなかったけれど、社会人になり出来た同じ会社の彼とすぐに同棲という名の寄生を始め、貯金も着々と進み、さあいつでもかかってこいという状況で彼が上司と浮気、のちすぐに結婚。
そして負け犬の私は会社を離れるというドラマなんかでよくある展開だ。
とまあそれは特に重要なことではなく、大事なのはそこからだ。
25歳。
そこからパートナーを探すとして、常識的に考え2年付き合ったとして27歳。
憧れていた可愛くて若いお嫁さんにはなれない。
という現実的な逆算と、同棲生活からの開放感により「自分の人生楽しむしかないじゃん」とハイモードに突入。
人生のパートナー候補を失った代わりに、晩御飯の支度や束縛、結婚への蓄えの為の節約、そんなものから一気に解放された。
ここはもう開き直って30歳まで遊び切ろう。
やりたいことをやってから結婚して子供を産もう。
そんな考えのもとやりたいことリストを一つずつ潰していくことにした。

まずは仕事。
学生時代から同じ仕事しかしたことがなかった。
それほど自分に適している仕事だったし、やりがいを感じていた。
けれどせっかく手に入れた自由だ。
学生の頃にやってみたかったことだったり、人生の新たな一手になるかもしれないことだったり、そんなものに挑戦しよう。
お花屋さんは思いの外寒かった。
美容部員はマダムの圧力がすごかった。
パン屋さんは男社会だった。
ホテルスタッフはもっと男社会で体育会系だった。
会社ではそれなりに仕事ができる方で自信家だった私のプライドなんてあっという間に崩れていった。
別に意図的にへし折られたのではない。
ただ現実を知った。
それだけだ。
特に心が折れたのはホステスデビューだった。
人見知りはせず社交的、学生時代それなりにモテた私は挑戦してみたい心があった。
そして見た目さえ取り繕えばある程度はテレビの中の女の子みたいに輝けるのではないかという妙な自信があった。
ところが実際は下の上にもなれなかった。
辞めていない、無断で休まないというところで下の中ぐらいにはなっていたと思うけれど、人見知りしないなんて当たり前、笑いが取れるとか無言にならないとかそんなものは当たり前。
それも出来て、尚且つ見た目も良くて、それでやっとレースに出れる状態だ。
私みたいな普通の人間が入り込んでいい世界ではなかった。
そしてそこで更に大きな世界を知った。
夜の世界にも私の父のような一般家庭の父親はいるけれど、大多数はそれなりにお金を持った人間たちが集う。
お金の使い方、見ているもの、感じていること、何もかもが知らない世界だった。
今日を生きる私、10年後を考え生きる彼ら、1万円を稼ぐ私、100万円を使う彼ら。
一般家庭で育った私にとってはたくさんの発見とたくさんの挫折を経験した世界だった。

もう一つ、単純に言葉通り世界が広がった。
それまでは地元を出たことがなかった。
特に出たいとも思ったことなんてなかった。
そんな発想すらなかったから。
けれどせっかく手に入れた自由を無駄にしたくなかった。
時はコロナ禍、海外には行けないまでも日本国内リゾートバイトや友人のツテなど、使える限りのものを使い旅行したり住んで見たり。
そこで出会う人たちは、夜の世界とはまた違う世界に住む人たちで、芸術家だったり旅人だったり大人になったら大抵がサラリーマンになるもんだと思っていた私は職業を聞く度に「それって具体的に何をするの?」と質問責めにした。
世界もだんだんと落ち着きを取り戻し、海を渡ることが普通になって来ると同時に海外の友達を作るようになった。
言語学習アプリで出会ったり飲み屋で仲良くなったり。
旅行中に泊まったドミトリーで仲良くなった人もいる。
海を渡ると更に見える世界は違うようで、日本よりもはるかに厳しい就職状況だったり治安の悪さだったり、自ら好んで聞かないような話も友達の悩みとしてたくさん聞いた。
そんな厳しい中でも楽しく強く生きる彼らを見て、こんな恵まれた環境で甘えて生きる自分が恥ずかしくなった。

世界を広げれば広げるほど自分の存在が恥ずかしくなった。
頭も悪い、ガッツもない、努力は嫌い、おまけに運もない。
パートナーもいなければお金もないし、何にも周りに勝てるものがなかった。
26歳になってからの私は鼻を折られ、心を抉られ、どちらかというと悲しい気持ちになることが多かった。
成功か失敗かで分けると失敗ばかりである。
その度にまた悩んで、文句を言って、周りに当たって。
小さなことまであげれば終わりがないぐらいに挫折挫折挫折の日々だった。
途中からはもはやゴールが見えなくなって、なぜこんな苦労ばかりしているのかと答えの出ない答えを延々と考え続けた夜もある。
その答えは分からないにせよ一つだけ確かなことがある。
それは確実に私は成長したということだ。
フリーランスで働く人を見て、働き方の選択肢が増えた。
たくさんの仕事を経験し自分の向き不向きが分かった。
失敗を重ねる度に謙虚な気持ちを持てるようになったし、いわゆる勝ち組の人たちを見て少しでも勝ち組に近づく為の努力も覚えた。
挫折する度にそこから立ち直る強さを手に入れ、時には仕方ないのだと流すことも覚えた。
今歩んでいる道が100点かと言われると少し口を濁してしまう部分もあるけれど、あのまま会社にいて、平凡な人生を歩んでいて良かったと言われるとNOと即答出来る自信がある。
あのまま行けば私はプライドだけがやたら高い自信家の嫌なおばさんになっていたはずだ。
私の場合、その点で人生が急激に変わったわけではないけれど、仕事を辞めていたからこそ緩やかに、でも着実に魅力的な大人に近づいていると思う。
「仕事を辞めろ」とは言わない。
ただ「挑戦と挫折」を繰り返して欲しい。
必ずいつか自分自身の魅力に、武器に繋がるから。

何も語らなかった父と、最後に残された言葉

KANASA
「よく眠れた?」

その言葉にたどり着くまでの2ヶ月間のことを、
今でもよく思い出す。

父の余命が残りわずかだと知ったとき、
私は仕事を休職し、一人で故郷の沖縄へ帰った。

娘と主人を残し一人で帰る選択肢は無かったが、
二人に背中を押され悩みながらも帰路についた。

飛行機の中で、何度も同じことを考えていた。

本当にこれでよかったのか。

娘と主人を残して帰るという選択は、正しかったのか。

もっと他に正しい選択肢は無かったのか。

窓の外を眺めても、何も頭に入ってこなかった。

ただ、時間だけが過ぎていく感覚だった。

このまま戻れなくなるかもしれない。

そんな感覚が、どこかにあった。

それでも行かなければいけない気がしていた。

もともと父の介護は、母と妹がしていた。

だから、私が関わるのは「最後の時間」だった。

父とは、特別仲がいいわけではなかった。
どちらかといえば、距離のある関係だったと思う。

近くにいるのに、どこか遠い存在。

子どもの頃から、父とはそんな距離感だった。

本当はもっと踏み込んで話したかった。

本当はもっと本音でぶつかり合いたかった。

でも、それができないまま、時間だけが過ぎていった。

それでも私は、その2ヶ月間、父のそばで過ごした。

多くを語り合ったわけではない。

でも、一緒にドライブに行ったり、
お風呂に入れたり、
ただ、同じ時間を過ごした。

最初は、沈黙が怖かった。

何を話せばいいのか分からず、
当たり障りのない言葉ばかりを選んでいた。

天気の話や、テレビの話。

そんなことしか、口にできなかった。

会話が途切れると、
何か言わなければいけない気がして、
余計に苦しくなった。

でも、時間が経つにつれて、
その沈黙も少しずつ怖くなくなっていった。

言葉がなくても、
ただ同じ空間にいるだけでいいと思えるようになった。

父が「今日はどこに行きたい?」と
その言葉を聞くたびに、少しだけ距離が近づいた気がした。
それだけで、十分だった。

父が旅立つ前日のことを、今もよく覚えている。

私はもともとネガティブな性格で、
「父のために帰ってきたのに、何もできていないんじゃないか」
そんな不安に押しつぶされそうになっていた。

「ちゃんとやってるよ」と母は言ってくれたけれど、
どうしても自分を認めることができなくて、
気づけば、母と言い合いになってしまった。

翌日の明け方、ふと目が覚めた。

なんとなく気になって、父のもとへ行った。

すると父は、私にこう聞いた。

「よく眠れた?」

それが、父の最期の言葉だった。

自分も苦しいはずなのに、
それでも私のことを気にかけてくれていた。

私は「眠れたよ」と答えた。

そのあと、父の容態は悪化し、
その日の午後、息を引き取った。

この2ヶ月間で、
何か大きなことをしたわけではない。

たくさん話したわけでもないし、
何か特別なことができたわけでもない。

それでも、あの時間は、
確かに私の中で何かを変えた。

私はずっと、

「ちゃんとやらなきゃ」
「役に立たなきゃ」

そうやって、自分を追い込むように生きてきた。

でも父は、
そんな私に何かを求めることもなく、
ただ、そばにいることを受け入れてくれていた。

言葉がなくてもいい。

何かができなくてもいい。

ただ一緒にいるだけでいい。

父が最後にかけてくれた
「よく眠れた?」という言葉は、

「そのままでいいよ」

そう言ってくれているような気がした。

私は、あの時間を通して、

“ちゃんとできる自分”ではなく、

“そのままの自分”を

少しだけ、認められるようになった気がする。

今でもふと、あの時間を思い出す。

忙しく過ごしている日常の中で、
ふと立ち止まる瞬間がある。

そんなとき、あの静かな時間がよみがえる。

何もしていなかったようで、
でも確かに、そこにあった時間を。

あの静かな時間が、今の私を、静かに支え続けている。

子育ての謎とH.S.P

梅田 真由美
3月生まれの私は「一番好きな季節は、春!」と、子どもの頃から言ってきました。でも、ある時から頭も心も重い季節になりました。
いつも元気に遊び回っていた娘が、小学2年生の三学期に、突然布団から起き上がれなくなりました。どうにも体に力が入らないのです。

その症状は、特に午前中に強く出ます。立てないので、トイレまでおぶって連れて行き、お箸さえ持てないので、食事も口まで運んで食べさせるような状態になったのです。
病院にも連れて行きましたが、どこにも異常はなく、何が原因かわからないままで、とても不安な毎日でした。

最近、何か変わったことがなかったか、同じクラスの子に聞くと・・・
「〇〇ちゃんが、もうすぐ転校しちゃうんだって!」と娘に伝えたら、すごく顔色が変わったと教えてくれました。
赤ちゃんの頃からずっと仲良しだったので、確かにショックだっただろうなとは思いました。
引越しまでは3週間あったので、一緒にまだ遊んだりもできたのに、そんな状態なのであまり話しも出来ないままのお別れでした。

友達と会えなくなるのが淋しかったとしても、おしゃべり好きの子が話さなくなり、食べる事が大好きな子が食べれなくなり、体を動かすことが大好きな子が立ち上がれなくなるとは⁉︎
その当時、どうしても理解できませんでした。

20年程経った今、その全てが腑に落ちる見解を見つけました。
H.S.Pと言われる、生まれつきの気質があるという事を、本やテレビで知り、ほとんどが彼女に当てはまると思えたのです。
H.S.Pとは、ハイリー・センシティブ・パーソン
(Highly.Sensitive.Person)の略で、感覚や感受性が高く、人一倍繊細な気質を持った人という意味だそうです。
その特性というのは・・・
①何かあると、その将来的な影響まで深く掘り下げて考えてしまう
②五感による刺激(音・光・匂いなど)に敏感。
その他、人の感情や場の雰囲気などにも敏感なため、人混みですぐに疲れてしまう。
③共感性が高く、他者の感情を自分の事のように感じ取る。
④細かい事によく気がつき、相手の表情のわずかな変化にも気がつく為、他人からの評価を気にしやすい。
“”これは、病気や弱点ではなく気質であり、一つの「才能」でもある””と書いてあるものもあり、救われた気がしました。

友達が転校すると聞いて、起き上がれなくなったのは、将来の会えなくなった時のことや、その時の自分の感情まで、リアルに想像出来てしまう、H.S.P気質のために起こったことだったのです。

そして、一年生の時にも何日か行けなくなった事がありました。
元気な男の子が隣になり、彼女によくちょっかいを出していたそうです。
その頃も、続けて何日か休みました。
そして、その子のお母さんに「うちの子のせいかも」と謝罪を受けましたが、男の子からのそういう事には、幼稚園でも慣れていたし、””違う理由なのでは?””と、ずっと思っていました。

よく聞くと、その男の子が何かする度に、先生が大きな声で怒っていたようです。
それは、彼女のためだったはずですが、大きな音や人の感情に敏感だから心が重くなり、しんどくなってしまったのだろうと思います。

また、長く休み始めた頃の、友達の自分を見る目も気になるようでした。
放課後、みんなが学校から帰る時間くらいになると、比較的動けるようになるので、外で遊んでいると、どうしてもズル休みと思われてしまいます。
口に出して言われなくても敏感ゆえに、教室の雰囲気などで察知していた気がします。    

それから長いこと家に居ました。
中学校の時、同じ様な子を受け入れている、山の上の小さな学校に転校しました。
自主性を伸ばし、人として対等に接してくれる先生に出会い、その先生に憧れて大学進学を目指し、高認から頑張りました。
教員免許を取るために、その中学校に教育実習生として再び行けたことは、彼女にとって最高の思い出になっていると思います。
その自分の姿は、そこで勉強を始めた時から思い描いていた夢でした。

H.S.P気質=「才能」という言葉について考えました。先のことを深く考えるため””自分のありたい姿””がハッキリと見えていて、それに向かって誠実に真っ直ぐ進んでいける。
その姿勢を「才能」と言えるかもしれません。

まだまだ、たくさんのエピソードがありますが、困っていた事や不思議だった事の謎が解けてきて、今はスッキリした思いです。

毒親から離れて変わった私!

のの
私の実家は、両親が毎日喧嘩ばかり、母と私の祖父母にあたる父の両親が愚痴の言い合い、母は、祖父母が嫌いでご飯はいつも別で1人で食べていました。兄は小学高学年から不登校になり、いい環境ではありませんでした。
私は毎日母に怒られ、必ず誰かと比べられ『あんたはそんなものもできんのか』って言われてきました。兄は頭が良かったので、兄とも比べられ、祖父母には馬鹿にされ兄ばかり優しい祖父母。
私はよく泣いたし、自分はダメなんだって自分を叩いたし、よく癇癪を起こしていました。まったく自信がない子でした。
私には小学校の高学年の時に福祉のボランティアに参加して以来、将来人の役に立ちたいと介護の道を目指し、専門学校へ通わせてもらえることなりました。この時まだ通える範囲だったので、一人暮らしはできず早く実家を出て行きたいばかりでしたね笑
そして専門学校を卒業し念願の一人暮らし!
本当に気楽で、実家にいる頃はあれもダメ、これもダメと欲しいものを買ってもらえなかったので自分の欲しいものを頑張ったお給料で何かを買える幸せ最高でしたね。
本当に社会に出て、人間関係や出来の悪い自分がすごく嫌で20代の頃は特に悩みました。社会に出てたくさんの人と出会い自分でもどうにか変わりたいと友達に誘われセミナーへ行ったり勉強したりしてきました。結婚して今5年目になります。30代に入ってからも自分と葛藤しました。勉強してきて変われたと思ったのに、また自分を責め、私は夫に対しありがとう、ごめんなさいを言うのに夫は口数が少なくなぜかありがとうがいえない人。仕事に家事とこれだけ頑張ってるのになぜありがとうを言ってもらえないのか夫と話し合い自分の思いを伝えました。それでも治らなくて…限界が来て夜中1人で胸が苦しくなり号泣しました。本当は夫と仲良くしたいのにイライラして求めてばかり。こんな自分を変えたくて、YouTubeで有名なひすいこたろうさんやゲッターズ飯田さん、インスタで発信されてるゆうこさんの言葉聞いて、読んで変わっていきました。
本当に最近です変われたのは。
主人も私のフォローをしてくれててお互い様!できないところを補って日々過ごしてる!照れくさくていえない夫のありがとうは今や、イライラするのではなく、自分で自分にありがとうや褒めたりしています✨自分に自信がなくてもいいありのままの自分を好きになる。許すが大事!
自分を大切にすると、人間関係も良くなります。
全部自分なんです!今悩んでる方がいるなら、必ず変われる日が来るので自分を大切にしてくださいね。

父の癌と娘のオツトメ

ふじもと すいか
 四十にして惑わずと言ったのは孔子だが、迷えなくなったのは私である。三十九歳の六月のことだった。先週まで孫達の子守りを任せていた父が、ステージ4Bの膵臓癌で、余命は3週間程度との宣告を受けた。検査結果を聞きに行ったつもりが、その場で抗癌剤とモルヒネを打たれることになった。電話の向こうで母が泣き崩れている。

 ドラマ「春になったら」は、結局最初しか観れなかったけれど、確かノリタケさんが演じた雅彦さんと同じ病気だ。ドラマでも三ヶ月だったぞ、余命。ドラマよりもなんというか、残酷というか、リアリティがないとから崩れ落ちたりしている気がしたが、私は職場で電話を取ったこともあったからか、自分でもびっくりするほど淡々としていた。

 病気とは無縁な人生の父で、超健康体が自慢だった。どちらかというと母の方が膝が痛いとか心臓に弁膜症がとか、歯の治療がとか言っていたけれど、父は57歳で、新卒で入社した会社を早期退職してからは、毎朝ジムで運動し、ゴルフもやって、新たに始めた仕事の後には毎晩サウナに入るのを日課にしているような生活だった。年の割には若々しくて、仕事を辞めてからのほうが肌ツヤがよくなったくらいだ。父の家系には癌を患った先祖もいない。どこでどうまちがって、父の膵臓に癌がやってきたのか。あの日から私と、私たち家族の人生は変わった。

 人間って、謙虚に生きているようで、案外厚かましかったんだなと思ったのは、父のサウナを解約して、ロッカーの荷物を回収に行ったときのことである。父が入院して数日後に、隣県に住む弟だけが病室に呼び出され、私は弟から父のメモを預けられた。宝の地図のようだったが、更衣室のロッカーの見取り図だった。自分のロッカーのところにぐるぐると丸がしてある。弟には、いろいろ大事な話があったようだが、私に託されたのは、年払いしてしまったサウナとそこのロッカーの解約だったからちょっと拍子抜けしている自分がいた。

 年払い契約をした頃には、まさか自分がこんなことになるなんて、思ってもいなかったはずだ。また毎日1年間、ここに来ると思っていたんだよなぁ。受付の人に解約の旨を伝えると、「え!どうかされたんですか!」と若いお兄さんが、心配そうに驚いてくれた。そうか、毎日のように来ていたから、父には顔なじみの人がいたんだ。私の知らない小さな世界がこのサウナにあったんだな。私は病気のことにはふれず、もちろん余命のことなんて口が避けても言えず、「ちょっと転んでしまって。またよくなったらお願いします」と嘘をついてその場をしのいだ。39年間愛嬌の良さでやらせてもらってるので、多分上手に笑えていたと思う。

 男性更衣室にまさか私が入れるわけがなく、ロッカーの荷物を丁寧にビニール袋に入れて、若いお兄さんがササッと取ってきてくれた。「お大事にとお伝え下さい!また待ってますね!近所に新しいサウナができたから、そっちに鞍替えしちゃうのかと思いましたよ!」
受け取った袋からほんのり、父の匂いがした気がした。

 そういえば受付で、解約書を書いて返金してもらうときに、ずいぶん久しぶりに、旧姓を書いた。嫁いでもうすぐ15年になるのか。すっかり、新しい苗字で第二の人生を当たり前のように歩んでいたので、旧姓を書いたときに、なんとなく、娘に戻ったような感覚になった。結婚する前もしてからも、おかげさまで幸せにやらせてもらっているので、深い意味はないが、感覚としては、有名すぎるジブリ映画「千と千尋の神隠し」で、千尋が湯婆婆に名前をセンに替えられて、呼ばれ慣れた頃に、ハクに「チヒロ」と呼ばれて、ハッとした、あの感じしか、思いつかない。

 父が余命の宣告を受けたあの日から、結局父のことばかり考えている。同じ県に住むようになったし、仲が良い方だったとは思うし、私の子どもをとても可愛がってくれていたので、近しい間柄であったことに間違いはないが、正直、父のことをそんなに考えていたことは、申し訳ないが、ない。いつも手伝ってくれてありがたい、健康でいてくれてありがたい。その程度だった。あの日から私は、娘の部分が強くなって、年に数回しか会わない弟、妹と毎日のように、父のことで連絡を取り合うようになった。

 父のために何かできることはないものか。ただ3週間が過ぎるのを待つしかないのか。たまたま闘病の経験がある方が親身に相談に乗ってくださり、車で3時間ほどかかる病院だったら、治療が見つかるかもしれないと助言してくれた。私は妹夫婦と連絡を取り合って、父を連れて行くわけには行かないので、データだけを持ってセカンドオピニオンを受けに、新幹線で向かったところ、厳しい状況には変わりないようだが、その先生は、眉間にシワを寄せながら、「3割…」と仰った。3割も!?だった。

 病院を変えたことが父のためにできた唯一のことだったが、読書が好きな父に、本の差し入れでもしようと思った。どんなジャンルも割と幅広く、話題作はだいたい制覇している父なので、読んでいない本を探すほうが難しそうだ。私は悩んだ挙げ句に、自分で本を書いてみることにした。今は割と、同人誌を作ったりする人が多いので、安く1冊単位で簡単にオンラインで製本もできる。何本か父や家族との思い出や、言えなかったことを30頁くらいで綴ろうかなと書き始めたのだが、困ったことに、この期に及んで恨みつらみしか出てこない。そして筆が止まらない。

 私は比較的、いい子で育った。目立った反抗期もなかった。しかし、両親に言いたいことはたくさんあったのだということを、文章を書き出してから、思い知った。私は書いた。泣きながら書いた。父を思って書き始めたつもりが、幼少期の自分が可哀想で泣いていた。いい両親だったが、転勤は多かったし、夫婦喧嘩は耐えなかったし、なにせ家がいつもきたなかったのだ。時代的にも「24時間働けますか」の感覚で、仕事の報酬は仕事だと、父もよく言っていた。戦中を生き抜いた厳しい祖父に育てられ、団塊ジュニア世代で、競争社会で揉まれたからこそ、子どもたちもその荒海で生き抜ける強さを授けようとしてくれたのだろう。

 私は余命と言われた3週間近く、書いて書いて書きまくった。書かずにはいられなかった。いや、書くことくらいしかできなかった。父は新しい病院での治療が肌にあって、夏には退院、元気な秋と冬を過ごした。取り越し苦労だったね、と笑った正月の後から徐々に薬が合わなくなって、三月に天国に旅立ってしまった。あっちで読んでね、と棺に原稿を入れようとしたら、「バルブが詰まってしまうので紙は…」と葬儀屋さんに止められてしまったのも、妙にシュールで笑ってしまう。私はこれからの人生で、3週間のうちに粗く書きなぐった文章を、少し整えながら過ごしていくのだろう。いつかやろうと思っていたことを、父の癌が早めてくれた気がしている。 人生が変わった気がしているが、死は誰にも訪れるものだし、生きていれば年も取る。だから、この一年に起きたことは、ただ私の人生が進んだだけなのかもしれないなとも思う。一つ変わらないのは、私が父の娘だということだ。

大好きだよ‼︎

ゆうこ
数年前に私は双子を妊娠しました。
主人と大喜びしましたが次の検診で育っていない事がわかり流産しました。
その日から私は自分をせめて、せめて、せめまくりました。何をするにも無気力で生きている実感などなく感情もありませんでした。
時々あるとしたら悲しい感情に涙して過ごしました。
ごめんね…とか
もっと私がちゃんとした身体だったら…
っと言う気持ちを抱きながら一年ほど経ったある日のことです。急に私はこんな感情を抱くことになります。
それは…今の私を見て子供達はどう思うのか?ということです。
この一年ほど私のことを上から見ていて辛かっと思います。
自分たちがいなくなった事でお母さんがこんなもボロボロになってしまった…
ちゃんと育つことができなくてごめんね…。
などと思わせながらこの一年を過ごしてきたかもしれないからです。
しかも流産の原因は自分にあると私は思っていますが
もし原因が子供達で子供達も今の私のように自分達をせめていたらとふっと思った瞬間
私の人生が変わりました。
明るく生きようと‼︎
その日から私は元の自分にもどり明るく生きています。
今では5人の子供達を育てるお母さんです。
この双子達を合わせたら7人のお母さんです。
毎日幸せです。
私も子供達も笑って過ごせる毎日にしたいです。

学校は地獄

玖万田瑛
「お母さんは、学校がどんなにひどい場所か知らないから『学校へ行け』って言うんだよ」

涙ぐみながらもランドセルを背負って学校へ向かう娘の背中を毎日、身を切られるような思いで見送ったことが昨日のことのように思い出されます。

娘にとって学校は地獄のような場所でした。

「お母さんは、学校の先生だったのにどうしてわかってくれないの? お母さんも学校へ行けばわかるよ。先生は意地悪だよ。学校で一日中勉強をさせて宿題まで出すんだよ」

娘には無理に勉強を教えることはしなかったので、文字も書けない、時計も読めない状態で小学校に入学させていました。

時間がわからない娘にとって、学校に着いてから放課後の挨拶まで、娘には心安まるときがなかったようです。二学期に入り、ベテランの女性教諭が産休に入り、臨時で未経験の若い女性教諭になってから登校渋りは加速しました。

幸か不幸か娘はお友達には好かれるタイプでしたが、新任の先生にとっては指導困難だったと思います。

娘のことがきっかけで、非常勤講師として学校に就職をすることになりました。

最初の仕事は小学校での算数の先生でした。たまたま娘と同じ学年に配属されることになりました。学校から帰った娘と給食の話をすることから話題が膨らむようになりました。

家事が終わると教材研究に時間を費やすようになりました。そんな私の姿に娘は宿題がどんなに辛い物かわかるだろうと興味を持ちました。そこで子どもたちがよい練習相手になってくれました。娘の予習にもなり、またお母さんが先生という状況をとても面白がり、娘はダメ出しをしながら私の授業に熱心に参加するようになりました。

その年の担任の先生が特に立派な先生で、娘の良いところをどんどん引き出していってくれたことが大きかったこともあり、娘は「勉強は嫌いだけど、学校は好き」な子どもになっていきました。

教員になったこともすべて娘が引き寄せた縁でしたが、いまでは教員の仕事があることで私の人生は豊かになっています。

そんな娘も今年で大学四年生になりました。

大学に入学してからは、二十四時より前に寝たことがないくらい勉強をしています。今年はなんと教育実習で中学校へ行くと言います。

学校が嫌いだった人が先生になれば、きっと生徒の気持ちに寄り添った良い教師になるかもしれません。

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