

溶けたケーキは戻らない
「神は乗り越えられる試練しか与えない」
私はこの言葉が嫌いだ。
もし本当にそうなら、なぜあの日、私は一歩も動けなかったのだろう。
鬱病の底に沈んでいた頃、玄関のドアを開けることは、外に出るという単純な行為ではなかった。日常に戻ることそのものが、私には耐えがたいほど重かった。ただ毎日、「消えたい……」という思いだけが、心の中を静かに占領していた。
そんな中で、娘と一つの約束をしていた。
私の誕生日に、手作りのケーキを用意して、母の家で待っているという、ただそれだけの約束だった。
けれど当日、私は布団から出られなかった。
体が重いのではない。心が、動くことを拒んでいた。頭の中では何度も「行かなきゃ」「あの子が待っている」と繰り返しているのに、その言葉はどこにも届かず、ただ空回りして消えていく。スマホの画面には、娘からの通知がいくつも並んでいた。それでも、私はそれを開くことができなかった。
行けないのではなく、行かなかった。
その違いを、私ははっきりと理解していた。だからこそ、余計に苦しかった。
娘はランドセルを背負ったまま、玄関に立っていたという。
最初はきっと、何の疑いもなかったはずだ。
「ママ、もうすぐ来るよね」
そう思いながら、靴を履いたまま、ドアの方を何度も振り返っていたのだと思う。
壁の時計の針が進む音を、あの子はどんな顔で聞いていたのだろう。
スマホを手に取り、画面をつけては消し、またつけて。
通知が来ていないことを確かめ、それでもまた数分後には同じ動作を繰り返す。
「ママ……来るよね……」
「今、向かってる途中だよね」
誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように。
ランドセルの肩紐を握りしめたまま、玄関のタイルの上に立ち尽くしていた時間が、どれくらいだったのか、私は知らない。知らないまま、その時間を終わらせてしまった。
キッチンでは、小さな手で一生懸命に作ったケーキが置かれていた。
少し焦げたスポンジに、生クリームを無理やり広げた跡。
ところどころ削れて、均一ではない表面。
それでも、その不格好な形の中に、「喜んでほしい」という気持ちが、確かに詰まっていた。
最初はきっと、嬉しかったはずだ。
「ママ、びっくりするかな」
そんなことを考えながら、何度もケーキを見ていたのだと思う。
けれど時間が経つにつれて、そのケーキは少しずつ形を崩していく。
クリームは乾き、端からひび割れていく。
それを見ながら、娘は何を思っていたのだろう。
待つことに疲れて、玄関に座り込んだのかもしれない。
それでも音がすれば顔を上げて、違うと分かるたびに、また視線を落としたのかもしれない。
そして、どこかの瞬間で、分かってしまったのだと思う。
——今日は、もう、来ない。
その時、あの子は何を感じたのだろう。
悲しかったのか。
寂しかったのか。
それとも、「やっぱり」と思ったのか。
私は、そのどれも知らない。
知らないまま、その全部を裏切った。
翌日、ようやく母の家を訪ねた私を待っていたのは、テーブルに並んだ二枚の紙皿と、二本のフォークだった。片方の皿の上には、乾ききったケーキが、主を失ったまま手付かずで残されていた。
その光景を見たとき、私は初めて、自分が何をしたのかを思い知らされた。
帰り際、娘は私を見ずに言った。
「ママは嘘つきだから、もう約束しない」
その言葉は、責めるというよりも、何かを閉じる音のように聞こえた。ああ、この子はもう私に期待しないようにしたのだと、その時ようやく分かった。
それから時間が経ち、娘が中学生になる頃には、私の状態も少しずつ安定してきた。再び一緒に暮らせるようになり、私は自分に一つのルールを課した。行けない約束はしない。そして、約束したことは必ず守る。
それは償いではなく、ただの最低限の約束事だった。
ある雨の日、就職活動中だった娘から連絡が来た。履き慣れないヒールで靴擦れを起こし、歩けなくなったという。
その言葉を聞いた瞬間、私は考えるより先に立ち上がっていた。絆創膏とサンダルを掴み、外に飛び出した。あの日、どうしても越えられなかった玄関のドアを、私は迷いなく開けていた。
自転車を漕ぎながら、息が切れ、雨で視界が滲んでも、足は止まらなかった。あの日、動けなかった自分の姿が何度も頭をよぎる。それでも今は、逃げていないということだけが、はっきりしていた。
駅で待っている娘の表情は、あの日の少女と重なって見えた。ずぶ濡れのまま娘の前に立ったとき、彼女は一瞬驚いた顔をして、それから、嬉しそうに笑った。
その表情を見たとき、私はようやく、ここまで来た意味を思い知った。
壊したものは、元には戻らない。
あの日のケーキも、待っていた時間も、なかったことにはできない。
それでも、あの日の続きを、生きていくことはできる。
娘が社会人になった今、母の日になると、彼女はコンビニのスイーツを差し出してくる。
「あの日、来てくれたの、嬉しかった」
その一言を聞いたとき、私は胸の奥が静かにほどけていくのを感じた。
私はもう、「約束」という言葉を軽く使わない。
それでも、もしまた約束をするのなら、それは無理に守るためではなく、もう一度、同じ方向を向くためのものにしたい。
溶けたケーキは、もう元には戻らない。
それでも私たちは、あの日の続きを、生きていく。
審査コメント
このタイトルを見た瞬間、
「どういう意味なのだろう」と思わず惹きつけられました。
そして読み進めるうちに明かされる、その意味。
母として。
娘として。
そして、一人の人間として。
女性が抱える葛藤や後悔が、
生々しいほどリアルに描かれており、
深く心を抉られました。
そしてその葛藤が見えるからこそ、
自分なりに前へ進もうとする姿が、
大きな人生の『変化』として伝わってきます。
タイトルの意味が、物語の中で回収される構成も見事。
読み終えた後には静かな余韻が残り、
一歩一歩、人生を歩んでいく勇気をもらえました。
いくつかの箇所で、動作やセリフの主語が分かりづらかった点だけ、惜しかったです。
それでもなお、強く心に残る作品でした。
橋口 えつこさん、おめでとうございます!