

このラベルはきれいにはがせます
泣きはらした目で部屋から出てきた娘が、ぽつりともらした。
夜10時、外は真っ暗だ。
リビングのテレビを消し、静かに娘と向き合う。
今月何回目の欠席だろう。
朝「行きたくない」と言って高校を休んだ娘は、一日中部屋に閉じこもっていたのだ。
「学校に行っても何もうまくいかなくて…周りに何か言われてる気がして、話すのもうまくできない。私、生きてる意味あるのかな」
そう言って、娘はまたポロポロと涙をこぼした。
何か言おうと思うのに、言葉が出てこない。
「辞めたら楽になれるって思う。でも学校生活に期待する自分もいる。頑張って行ってもまた落ち込んで休むくらいなら、やっぱり辞めたほうがいいのかなって」
胸が張り裂けそうだった。
「ここまで頑張ったじゃん!」
いつもなら言えるはずの言葉が出てこない。
辞めるのもありなのかもしれない…
そう思ってしまう自分がいたからだ。
思えば夏休み前から不穏な空気はあった。
最初はよくあるクラスの愚痴だと思っていた。
けれど「陰口を言われているかも」と言い始めた頃から休みがちになった。
2年前、不登校だった中学時代が、脳裏をよぎる。
仕事中も、教室で一人縮こまる娘の姿が頭から離れない。
担任に電話もした。
神社で神頼みもした。
暇さえあれば不登校関連の本や動画を貪った。
病的なほどの焦り。
夫からは「辞めるなら早く次の道探した方がいいんじゃないの」と急かされる。
──わかってる!
私は完全に余裕を失っていた。
これじゃ2年前と何も変わっていないじゃないか。
「あーもう無理だ」
一人で抱えきれなくなった私は考えるのをやめ、まっさきにさちさんに連絡を入れた。
彼女はセラピストだ。体だけでなく、私の心もメンテナンスしてくれる。
翌週、私は彼女の家にお邪魔した。
一通り話し終えると、
「そっか。娘ちゃんは人一倍感じやすいんだね」
と、さちさんは優しい声で言った。
「でもさ、めっちゃ強くない?」
「え…?」
思わず間抜けな声が出た。
「だって、学校休めるってすごいよ。私なんて、行きたくなくても休みたいなんて言えなかったもん」
雷に打たれたような感覚だった。
たしかに、そうだ。
「行きたくないから休む」。私にはそんな選択すらできなかった。
学校は無理してでも行くのが当たり前だと思っていたからだ。
「五月雨登校でもいいじゃない。娘ちゃんは自分のペースをつかむために、自分で休みどきを判断してケアしてるんだよ」
心がふっと軽くなる。
頼りなく見えていた娘が、急にたくましく思えてきた。
「娘ちゃん、将来やりたいことはあるの?」
「…大学で心理学を学んで、カウンセラーになりたいって」
「高2で行きたい道が決まってるなんてすごい! 今は自らの身でその勉強をしてる最中なんだね。私から見たら、なーんにも問題ないよ」
言葉が出なかった。
メンタルが弱いと思い込んでいた娘は、実は自分の足で立ち、自我をしっかり持った強い人間だったのだ。
「親子でも境界線あるからね。 娘ちゃんのことは娘ちゃんに委ねて、自分自身の感覚を大切にすればいいと思うよ。」
そして、ふふふと笑って彼女はこう言った。
「『また休む』ってラベルを貼っているのは、 ママのほうかもしれないね」
帰宅すると、風呂上りの娘がスッキリした顔で洗濯物を畳んでいた。
「たくさん寝たら元気出た。明日学校行くね」
なんだよ、心配させてと思いつつ、お風呂でふぅと大きな安堵の息を吐く。
首のコリをほぐそうと頭をぐるりと巡らせた時、娘用のシャンプーボトルに貼られたシールが目に入った。
『このラベルはきれいにはがせます』
胸がドキッとした。
うそでしょ…?
さちさんの声が蘇る。
勝手に『弱い子』『休む子』とラベルを貼っていたのは、やっぱり私だったのだ。
よく見ると、そのシャンプーは金木犀の香りだった。
そういえば先週も金木犀のヘアオイルを買っていたっけ。
春は桜の香りを身にまとい、秋になれば金木犀に包まれる。
ああ、私ときたら。
これほど自分の世界を持ってたくましく生きている子のことを、どうして『弱い』だなんて決めつけていたんだろう。
大丈夫。私なんかより、この子はずっと自分を知っている。
季節が巡るように、娘も大人へと移ろっていた。
2年前の記憶に縛られ、立ち止まっていたのは私のほうだった。
ふふっと笑って、ボトルのラベルの角を指でめくってみる。
シールは拍子抜けするほど、するりとむけた。
また不安に押しつぶされそうになった時は、今日のことを思い出そう。
大丈夫だって、再確認するために。
私はそう心の中で呟き、手の中のラベルをひらひらとゴミ箱へ落とした。
審査コメント
「どんな話だろう?」と興味をひかれるタイトルから、「ラベル」を軸にした意外な展開へ。新たな気付きと、最後にタイトルの意味が鮮やかにつながる構成が印象的でした。