WOMANエッセイアワード2026
WOMANエッセイアワード2026
💡 気づきを与えてくれる作品

人生は、
自分一人の経験だけでは見えないことばかりです。

だからこそ、
誰かの人生に触れることで、
新しい考え方や価値観に出会うことがあります。

「そんな見方もあったんだ」。

一人の女性が見つけた答えを通して、
あなたにも新しい視点を与えてくれる作品をご紹介します。

 

作品一覧

私の人生が変わった瞬間

ねこの真珠
あの日、私は初めて自分の涙に理由を求めなかった。

それまでの私は、いつも自分を押し殺していた。母として、妻として、常に「やらなければならないこと」に追われ、自分の感情を後回しにする毎日。誰かの笑顔のために、私は自分の心を切り刻んでいた。

ある日、子どもが幼稚園で描いてきた絵を見た。色とりどりのクレヨンで描かれた家族の絵。その中心で、私の顔は笑っていた——けれど、どこかぎこちなく、無理に笑っているようにも見えた。夫の顔も、子どもの顔も、ぎこちなくも幸せそうだった。その瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開くような感覚があった。

そして、わけもなく涙が溢れた。後悔や悲しみではなく、解放の涙だった。自分の存在を、少しだけ取り戻せた気がした。

そこから私は、小さな挑戦を始めた。朝の10分、自分だけの時間を作ること。趣味だった読書を再開すること。ずっと避けてきた職場のキャリア相談にも、一歩踏み出してみること。

すると不思議なことに、世界が少しずつ変わり始めた。家族との会話が増え、笑顔が増え、仕事にも自信がついた。自分を大切にすることは、わがままではない。むしろ、周りの人を幸せにする力になることを実感した。

変化は一瞬では訪れない。けれど、あの涙の日から、私の人生は確実に変わった。

今、私はこう思う——自分の人生を変える瞬間は、特別な出来事の中にあるのではなく、ほんの小さな「気づき」の中に隠れているのかもしれない、と。

誰かに背中を押されなくても、誰かを責める必要もない。大切なのは、自分自身の心の声に耳を澄ますこと。あの絵の中の、ぎこちない笑顔のように、少し不完全でも、自分を抱きしめる瞬間を持つこと。

私の人生が変わった瞬間は、涙とともに訪れた。けれどその涙は、もう二度と私を縛るものではない。私の人生は、私が抱きしめる限り、これからも変わり続ける。

言葉は不思議な生き物

眠り猫
「すごいですね」「えらいですね」
これは盲目の義母が周りの人達からかけられていたいつもの言葉です。
私は偏見のように聞こえるこの言葉がいつの間にか嫌いになっていました。
この言葉をかけられると心が切なくなり義母ではなく私の方が不機嫌になっていました。
義母と言えばいつも笑顔で「皆さんのおかげさまですありがとうございます」と言っていました。
義母の周りは、いつも明るく温かい雰囲気でした。
義母は、2歳の時の高熱で両目の視力を失いました。それからというもの真っ暗な中 手探りで懸命に生きて3人の男の子を育てました。
子育ては、勘と匂いと手の感触で十分だったと言っていました。
今とは違って昔は、障害のある人の差別による苦労は、想像ができないほどの大変なものだったと思います。
しかし義母の口から愚痴や泣き言を聞いたことがありませんでした。
私は、義母から色々なことをたくさん教わりました。
ヨモギを摘んでヨモギ餅 干し柿や干し芋の作り方そしてうどんの打ち方や漬物の漬け方など数えきれませんが一番に教わったのは、人への感謝と思いやりでした。
いつも前向きで人として尊敬できた大好きな義母さんでした。
そんな義母も年を重ねるうちに勘がうまく働かなくなることが増えました。キリッとした明るい義母が段々と消えていきました。
そして義母の口から「目が見えないって不便なんだな」と今まで聞いたことのない言葉を発するようになりました。私は、その言葉に戸惑いそして焦りました。
義母が大好きだった場所の台所に立つのも嫌がるようになりました。
部屋にこもるようになり私は「これから目の見えない義母さんが何もできなくなってしまったらどうしよう」と悶々とする日々でした。
その日 義母はとても不安だったのでしょう。私が台所に立ち食事の仕度をしていた時です。
後ろから「早くあの世からお迎えがきて欲しい」消えそうな小さな声がしました。振り向いてみるとそこには、今まで見たことのない蒼白な顔の義母がいました。
その時私は、頭が真っ白になり「義母さんはずっとすごい人だったんだよ 頑張らなくちゃだめだよ」と思わず強い口調で言ってしまいました。
すると義母は悲しい顔で「そんなこと言わないでくれ」「私は、すごい人じゃないよ皆と同じだと思って生きてきたんだ」と大きな声で言いました。私は、はっとしました。
義母の瞑った目から涙が流れていました。私が嫁いで初めて見た涙でした。
私は自分が一番嫌いだった言葉なのにどうしてこんな言葉を言ってしまったんだろうと自分自身を責めて責めて涙が止まらなくなりました。
私は、シワだらけのごつごつした義母の手をとって「義母さんありがとう」「いつもありがとう」と言いました。元気だった頃の義母がよく言っていた「ありがとう」の言葉です。
義母は、涙を拭いながら安心したような表情をしました。そして義母も一言「ありがとう」と小さな声で言いました。
2人は、抱き合って泣きました。
義母の背中は、とても小さく痩せていました。
そしてもうすぐ春になるという寒い朝に義母は、静かに眠るように旅立ちました。
今あの日の事を振り返ってみると
義母はあの時私の「ありがとう」の言葉で安心して 私もあの時義母からの「ありがとう」の言葉で義母への感謝とこれからの道が見えてきたのだと思いました。
今 辛い時 寂しい時には自分自身に「今まで頑張ってきたねありがとう」と言葉をかけます。
すると義母から「ありがとう」と言ってもらえたあの日々を思い出し波だった心が静かに落ち着きます。
私自身が義母になり言葉の大切さや有り難さを存分に身に染みるようになりました。
言葉とは、不思議な生き物なのかもしれません。義母は、それを知っていたのかもしれません。

いのちを抱きしめた夜

鈴々乃 らん
今、私は子どもたちの母として暮らしている。日々の小さな出来事に幸せを感じながら。けれど、その幸せの根っこには、忘れることのできない一夜がある。

あの時私は、まだ余裕のない母だった。
足もとに七カ月の長男。お腹には次の命。
 頼れる人はなかった。「嫁なのだから」「母なのだから」ちゃんとやらなければならない。弱音を吐く場所もなく、ただ“大丈夫なふり”をしていた。
 洗濯機の前で、ほんの一瞬だけ目を離した。その一瞬で息子は後ろへ倒れ、「ぎゃっ」と短く叫び、次の瞬間には痙攣が始まった。
 救急車の中で抱きしめる息子は、どんどん青白く、冷たくなっていった。
「ごめんね、ごめんね」
 心の中で繰り返しながら、私は自分を責め続けた。
 ……私のせいだ。

病院に着くと、診断は「急性硬膜下血腫」。
深夜で脳外科の先生は不在。
「今は、しっかり抱いてあげて」
看護師さんのその言葉は、息子の命に“期限”があることを意味していた。
 夜九時を過ぎた病院の廊下は暗く、蛍光灯の白い光だけが静まり返った空気を照らしていた。息子を抱きながら、私は何度も名前を呼び続けた。このまま朝が迎えられない気がした。お腹がきゅっと痛み、目の前の命も、お腹の命も失うのではないかという恐怖が全身を絞めつけた。

 緊急で駆け付けた医師は静かに言った。
「出血が広がっています。すぐに手術を。ただ、手術には大きなリスクがあります。成功しても障害が残る可能性が高い」
 小さな頭に、穴を開けることになる。そう思っただけで、胸がつぶれそうだった。
白い壁、蛍光灯の光。説明の紙を見ても、言葉は耳に入らなかった。
……私が決めるの?
その問いだけが胸の奥で響いた。誰かが代わりに決めてくれたら。そう思ってしまった自分が、情けなかった。

同意書の文字は目で追えなかった。助けたい。でも、もし取り返しのつかないことになったら。息子の顔を見ると、瞼は閉じられたまま管につながれ、小さな胸だけが上下していた。
 小さく長い息が“ふうっ”と出た。私はゆっくり名前を書いた。ペンを持つ手が冷えて震えるのが自分でもわかった。
 
 手術室の前でストレッチャーが止まる。息子の頬に触れると、少しあたたかかった。
「よっちゃん……」
 その一言だけが喉の奥から出た。
 手術室の扉が閉まると、急に世界が静かになった。さっきまであった小さな体が、もう見えない。私は廊下の椅子に座り、妊娠していることを忘れていることに気づいた。守らなければならない命がふたつあった。なのに、どちらも守れない気がしていた。

時計の針の音が響く。もし、このまま目を覚まさなかったら。もし、笑わなくなったら。その未来を想像するたび、胸が締めつけられた。

 洗濯機の音。ほんの一瞬。何度も何度も思い返した。戻れるものなら、あの場に戻りたい。でも戻れない。だから祈るしかなかった。
「お願い、生きて……」
 心の中で繰り返していた。

「お母さん、こちらへ」
 案内されたICUは、薄暗く、機械の音だけが規則正しく響いていた。ピッ、ピッ、ピッという小さな電子音。冷えた空気。消毒液の匂い。
ベッドの上の息子は、小さな体にいくつもの管がつながれ、頭には包帯が巻かれていた。口元には人工呼吸のチューブ。あまりにも静かで、眠っているというより、そこに残されているように見えた。
指先で頬に触れると、あたたかかった。そのぬくもりに力が抜け、私はそっと手を握り、やさしく言った。
「お母さんだよ」
返事はない。でも、その言葉を言えたことで、ようやく涙が頬をつたった。
 丸椅子に座り、時にはその丸椅子がベッドになった。何時間も息子を見つめていた。泣かない。笑わない。声も出さない。まるで時間が止まったままの顔。それでも機械の数字は規則正しく動いていた。小さな胸が、上下している。それだけが、希望だった。
私は何度も名前を呼び続けた。記憶のどこかに私の声が届いてほしかった。
 
 数日が過ぎ、まぶたがわずかに震えた。もう一度、かすかに動いた。
私は息を呑み、そっと名前を呼んだ。ゆっくり目が開き、焦点は定まらず、ぼんやりと天井を見ている。
「よっちゃん……」
 その瞬間だった。ほんのわずか、口元が動いた。忘れていた記憶がよみがえるように、いつもの笑顔が、かすかに戻った。
 私は声を殺して泣いた。
 何もいらない。ただ、生きていてくれればいい。
あの日、私は知った。命は、私の手の中にあるのではない。守りきれるものでもない。それでも命は、自分の力で戻ってくることもある。

退院してからも、不安は消えなかった。夜、少しでも寝息が変わると、何度も息子の顔を覗き込み確かめずにはいられなかった。転んだだけで、胸が凍りついた。
命は、当たり前ではない。

 ICUの静けさを知ってしまった私は、子どもが泣く日も、反抗する日も、思い通りにいかない日も、「生きているからこそ起こること」だと思えるようになった。
完璧な母になろうと力むのではなく、
「今日も生きていてくれてありがとう」
その当たり前を静かに受け止めている。

怖くて、弱くて、何もできない夜。でも、あの夜があったから、私は大切な命を預からせてもらっていると思えるようになった。
命は、親が授かるものではないかもしれない。その子自身が授かり、その命を抱えて私たちに会いに来てくれる。
あの夜から、私はそう思うようになった。命を見る目も、子どもを見る目も、あの日から変わった。
そして今日も、私は子どもたちの母でいさせてもらっている。
それだけで、十分なのだと思う。

私という子

リーチ
血。それは人間の体内で最も重要なものです。
私は生まれてから自分の血液型を検査したことがありませんでした。
しかし両親は何故か「お前はきっとA型だ」というので、私はA型なんだなと思いながら日々生活していました。例えばきちんと整理整頓をし身の回りを綺麗しに、こう聞くと確かに世間一般的な理想のA型だと思います。
私は特に違和感も感じないし、幼少期は友達と血液型の話をしてもA型かO型じゃないかと言われていました。
高校に入ったある日、4週間イギリスへ留学することが決まった私はパスポートを作成するため、自分の血液型を確認することになりました。
父はA型、母はAB型のため、きっとAもしくはOあるいはABだったら面白いなと思いましたが、そこまで興味はなかったので結果を淡々と待っていました。
私は検査結果を見て納得しました。
結果はBです。
私はそこまで整理整頓が得意だった訳でもなく、ただ言われたままその通りにやるよく言えば“良い子”、私の場合は“良い子を演じていた”だけだったのです。
血液型を知ったその日から私の中で何か変わった気はしていませんでした。
しかしその日を境に母からは“血液型を知ってから変わったね”と言われ。
父からは“こんな子だとは思ってなかった”と言われました。
そんな2人に私は
「そうだよ、これが私、貴方たちの娘だよ」
そう言って笑っていいました。
あぁ、確かに血液型を知った時からこうしてちゃんと自分の意見を言えるようになったかもしれない。
どうしてかはわかりません。
でも確かにこれは私の人生が変わった瞬間でした。
幼少期は親の言うことを聞いていた方が生きていくためにはどうしようもないことだと思います。
自分の親でも理不尽なことがあり、嫌になったりすると友達とかとは違い、その人たちに養ってもらい毎日を過ごしていると避けられない、言うことを聞くしかない、どうしようもないんだ。と思うかもしれません。私もそうでした。でもそれでも良い子を演じある程度の年齢になったとき、反抗するのではなく、その時までに勉強してたくさんの言葉を知って、自分の親に言葉にして伝えてみてください。親はきっと色んな意味で驚き色んな感想、感情を出してくると思います。でもその時貴方は既に親の加護を受けなくても問題ない年齢になっていると思います。
要領よく愛想良く自分のために、自分の人生のために学んで言葉にして行くことによってあなたの人生はより良いものになると思います。
これは社会でも役に立ちます。
その時が来るまで自分のするべきことを。
私は今周りからこう言われています。
「素直な良い子」
でもこれは昔言われた良い子とは意味が違うんです。だって私は今自分の意見を好きに言って何も溜め込むことなく過ごしていますから。
これが昔親の顔色を見ていると周りから言われて来た私の話です。

助手席から始まった私の地図

楓ゆい
子どもが生まれると、自由がなくなる。
そんな言葉を、私は何度も聞いてきた。
旅行ができなくなる。
自分の時間がなくなる。
やりたいことは後回しになる。
だからどこかで思っていた。
もし子どもを持つ人生になったら、きっと今までのような自由な生き方はできなくなるのだろう、と。
私は旅が好きだった。
地図を見るのも好きだった。
子どものころ、父の車の助手席にはいつも分厚い道路地図があった。まだカーナビなどない時代だ。
父は仕事で初めての場所へ行くとき、なぜか姉ではなく私を助手席に乗せた。
私は膝の上に地図を広げ、川や鉄道のマークを探しながら道を読む。
「次はどこで曲がる?」
父にそう聞かれると、私は少し誇らしい気持ちで答えた。
「次の信号を、右」
ある日、私は言った。
「この先に小学校があるから、その角を曲がって」
父は何も言わず、私の言葉どおりに車を進めた。
そして本当に小学校が見えてきたとき、父は少し驚いた声で言った。
「ほんとに小学校があったで」
その瞬間、胸の奥がふっと温かくなった。
父は、私の言葉を信じてくれたのだ。
誰かに信じてもらえることが、こんなにも嬉しいものだと初めて知った。
それから私は、ますます地図が好きになった。
社会科の地図帳を何度もめくり、まだ行ったことのない場所に思いを巡らせる。
大人になってからは、本当にいろいろな場所へ出かけた。
気がつけば、世界三十四カ国、日本では四十七都道府県すべてを訪れていた。
知らない場所へ行くこと。
新しい人に出会うこと。
それが私の人生を広げてくれた。
そんな私の人生が大きく変わったのは、子どもが生まれてからだった。
子どもが生まれると、生活は一変する。
思い通りに動けない日も増え、自分の予定は後回しになる。
だから最初はやはり思った。
ああ、これからは自分の楽しみは少なくなるのかもしれない、と。
けれど、実際に起きたことは違っていた。
子どもが生まれたことで、私はそれまで出会わなかった人たちと出会うようになった。
育児講座や地域の集まりで、同じように子育てをしている母親たちと話すようになったのだ。
その中の一人と、何気ない会話から仲良くなった。
ある日その人が言った。
「私、福山雅治のファンクラブに入ってるんだけど、一緒にライブ行かない?」
思わず耳を疑った。
実は私も、ずっとファンだったからだ。
けれど、子どもが小さい今、そんな場所に行く機会はもうないと思っていた。
それでもその友人に背中を押され、私は久しぶりにライブ会場へ足を運んだ。
会場の照明が落ち、音楽が流れ始める。
大きな歓声の中で、ステージが光に包まれる。
その光景を見つめながら、私はふと思った。
もし子どもが生まれていなかったら、
私はこの人と出会っていなかったかもしれない。
もし出会っていなかったら、
今日ここに来ることもなかっただろう。
そのとき、胸の奥で何かが静かにほどけた。
子どもが生まれたから、人生が狭くなる。
そう思い込んでいたのは、私自身だったのかもしれない。
むしろ子どもが生まれたことで、私は新しい人と出会い、
今まで知らなかった場所へ足を運び、
思いがけない時間を手に入れていた。
人生は、自分が思っているよりずっと広い。
もしあの日、子どもが生まれていなかったら。
もしあの育児講座に行かなかったら。
もしあの友人と出会っていなかったら。
私はあのライブ会場にはいなかっただろう。
人生には、地図がない。
どこへ向かうのか、どんな景色に出会うのかは、歩いてみないとわからない。
けれど一つだけ、今なら言える。
子どもが生まれることで、人生が終わるわけではない。
むしろ、新しい道がひらけることもある。
かつて私は、父の隣の助手席で地図を広げていた。
自分の言葉を信じて車を進めてくれる父の背中を見ながら、世界は広いのだと感じていた。
そして今、私は思う。
子どもが生まれたことで、私の人生の地図はもう一度広がったのだと。
もしこれから出産を迎える人が、この文章を読んでくれているなら伝えたい。
子どもが生まれることで、あなたの世界が小さくなるとは限らない。
むしろ、思いがけない出会いや景色が待っていることもある。
あの助手席から始まった私の地図は、
子どもが生まれたことで、もう一度大きく広がった。
そしてその地図はきっと、
これからも思いがけない景色へ、私を連れていく。

バリスカ
 私の人生が変わった瞬間は、特別な出来事が起きた日ではない。表彰されたわけでも、大きな成功をしたわけでもない。ただ、自分の気持ちを初めて声に出した、あの小さな瞬間だった。

 それまでの私は、「周りに合わせること」が得意な人間だった。人と衝突するのが苦手で、相手が望んでいる答えを自然と選んでしまう。友人関係でも、学校でも、どこかで「こうしておけばうまくいく」という空気を読みながら生きてきた。

 もちろん、それで大きな問題が起きたことはなかった。むしろ周囲からは「優しいね」と言われることが多かった。人と揉めることも少なく、穏やかな人間関係の中で過ごしていたと思う。

 けれど心のどこかでは、いつも少しだけ息苦しさを感じていた。

 本当は違う意見を持っているのに言えないとき。本当はやりたいことがあるのに、「まあいいか」と飲み込んでしまうとき。そんな小さな瞬間が、少しずつ積み重なっていた。

 大きな転機になったのは、大学でのある出来事だった。

 授業の中でグループ発表をする機会があり、私は数人の学生と同じチームになった。テーマを決め、調べ、発表内容をまとめていく。よくあるグループワークだった。

 話し合いの中で、ある方向性が提案された。周囲のメンバーは「それいいね」と賛成していた。

 私はその案に、少しだけ違和感を持っていた。内容が悪いわけではない。ただ、テーマの本質から少しずれているように思えたのだ。

 それでも、いつもの私なら何も言わなかったと思う。少し気になっても、「みんながいいならそれでいいか」と流してしまうはずだった。

 しかしそのとき、なぜか言葉が口から出た。

「少し違う見方もできるかもしれません」

 言った瞬間、心臓が強く鳴った。場の空気が変わってしまうのではないか、と不安だった。

 私は続けて、自分が感じていたことを説明した。別の方向から考えると、もっと面白い発表になるのではないかという提案だった。

 一瞬、沈黙があった。

 正直、少し怖かった。もし否定されたらどうしようと思ったからだ。

 けれど次の瞬間、メンバーの一人が言った。

「それ、面白いかも」

 別の人も続けて言った。

「確かに、そっちの方が深く掘り下げられそう」

 話し合いはそこで終わらなかった。むしろそこから、いろいろな意見が出始めた。最初に出ていた案よりも、ずっと面白い内容になっていった。

 発表は無事に終わり、先生からも良い評価をもらうことができた。

 けれど私にとって本当に大きかったのは、結果ではなかった。

 自分の考えを口にしても、関係が壊れるわけではないということ。むしろ、それが新しいアイデアを生むこともあるということ。そのことを、初めて実感したのだ。

 それまでの私は、「人に合わせること」が優しさだと思っていた。でも本当は、自分の考えを伝えることも、相手を信頼しているからこそできる行為なのかもしれない。

 あの日の小さな一言は、私の中の考え方を少し変えた。

 それからというもの、私は以前よりも自分の意見を言えるようになった。もちろん、今でも勇気が必要な場面はある。それでも、「言ってはいけない」と思い込むことは減った。

 自分の考えを言葉にすることは、決して誰かを否定することではない。それは、自分自身を大切にすることでもあるのだと思う。

 人生が変わる瞬間というと、大きな出来事を想像する人が多いかもしれない。けれど私の場合、それはとても静かな瞬間だった。

 ただ、自分の気持ちを正直に言葉にしただけ。

 けれどその小さな一歩が、私の中の景色を確かに変えたのだ。

人生における「4つのハードル」

高菜
私はこれまで世の中の価値観に自分の価値観を合わせようとして生きてきた。世の中の人々が思う幸せの形=自分の幸せの形であると。特に社会人になってからは女性として「普通」であればこうであるという世の中の価値観に併せることが正しい「幸せ」だと信じていた。
私の中で疑うことのなかった一つ目の基準は「結婚すること」だった。
この関門は20代半ばを過ぎると結婚式に招待されはじめ、招待状に出席の〇をつける度に、自分が招待する日がくるのかと思い、挙句の果てには、みんな結婚式をあげるひとすらいなくなってきた30代過ぎには、陸の孤島において行かれた気分になった。社会だけではない、両親からも「結婚はしないのか」「相手はいないのか」と様々な角度で探りを入れられた。それが億劫になって、仕事が多忙だということを理由に帰省を見送ったことすらあった。これまで勉強も努力でなんとかなるとばかりに、目標に向かって努力していくのが私の良さだと思っていたが、結婚は一人でどんな努力したところでどうにでもなるものではなく、かといって誰でもいいわけでもなく、そう簡単なのものではなかった。

ようやく結婚相手に恵まれ最初のハードルを飛んで、安堵していた束の間、次に容赦なく表れたのは「子供を産むこと」だった。子供は欲しくないのか、子供はまだなの?と聞かれ、母が戸棚にピンクのベビーシューズをかわいいからといって飾っていたのを見たとき、あぁ、孫を抱かせてやれないのって 親不孝者だなとも思った。子供を産むことは生命の神秘であり、欲しいといえば授かれるものではないということに気が付いたのだ。ドラマでいえば、結婚すると子供がすぐできて。みたいなことを想像していたが、それって現実じゃないんだということに30歳を過ぎて初めてきがついたのである。努力を重ねれば、子供ができるわけじゃない。それは、学校では教えてくれなかった。

試行錯誤のすえ、ようやく子供を授かる奇跡に出会えて、ほっとしていたところ、世の中が3つ目の基準を突き付けた。「自然分娩をして母乳で育てること」だった。無痛分娩や帝王切開は産みの苦しみを体験していないからそれは母として失格といわんばかりの雰囲気だった。34時間の死闘を繰り広げ、自然分娩をクリアし、母乳で育てようとしたところ、全くでない母乳。自動搾乳機をレンタルし、一滴一滴1時間かけて、10ミリにもみたない母乳を絞り出して、寝ずに泣きながら過ごしていた。母乳を上げられないなら赤ちゃんが死んでしまうかもしれない、赤ちゃんが死んでしまうかもしれない。そう思うようになった私は産後うつになった。小さなわが子を抱え、朦朧としながら散歩していたら、近所のおばさまが声をかけてきて「母乳なの?」と聞く。「いえ、ミルクです」というと怪訝な顔をしながら玄米を食べなさいとか様々なアドバイスをうけ、母親失格だと言われたような気がした。

病と戦いながら育児する私に向かって、最後の矢が放たれた。「もう一人子供をうむこと」だった。一人じゃかわいそうだから、兄弟はいるべきだ。そう世間の圧力が私を押しつぶしてくる。仕事をして、育児して、家事をして、そして、2人目の妊活に励む。ここまでの5つのハードルをクリアせねば、私は社会から認められない存在なんだ。そして、常に世の中の悪意のない言葉に何度も傷つけられてきた。もうこれ以上傷つきたくない一心で、もう一人子供をつくらなくてはならないと焦るのだった。しかし、生命の神秘は私には微笑まなかった。毎月毎月、地獄のような不合格宣告をされ、心も体も確実にすり減っていった。

苦しみぬいた末、夫と親友に一人では抱えきれなくなったあふれる思いを打ち明けることにした。きっと何の解決を提示してほしいわけじゃない。口に出せば、日に日に締め付けられる謎の物体から解放されるのではないのだろうかという期待を込めた。うっすらと涙を浮かべながら苦しみを吐露する私に向かって、別々に相談したにもかかわらず、彼ら二人は考えこむ素振りもなく全く同じ言葉を口にした。
「今十分幸せじゃない。無理をする必要はないよ」
そういわれ一体何を思い悩んでいたのだろうと思った。
たまたま娘に読み聞かせていた「青い鳥」。ヘンゼルとグレーテルは幸せの象徴である青い鳥を探しにでかけるのであるが、様々なところに行くが青い鳥は見つからず、自宅に戻ってみると自分たちの飼っていたハトが青い鳥であることに気が付くのです。
私はこれまで他人の誰かが作った価値観を追い求め、そのハードルをクリアすることが幸せだと思っていたのだが、自分が置かれている立場や幸せをしっかり見つめる余裕すらなかったと気が付いたのだった。ないものを追いかけて不幸せだと思うよりも、自分が幸せだと思うことを実感しながら生きていきたい。30歳半ばにしてはじめてこれまでの世間の価値観に囚われていたことに気が付き、そしてその呪縛から解放された。世間のだれでもなく、私自身が納得する生き方をしていきたい。何が幸せなのか人が決めるのではない、私自身が決めるのである。私は日々計測していた体温管理表をゴミ箱に捨てた。もう捕まえない、手放していこう。そう思って初めてあの謎の物体から解放された。

「世間の価値観に左右されることなく、自分が自分らしくあるために 生きる」
様々な世間の価値観のハードルを超えようと試行錯誤する中で、自分で自分の結論を導き出せたことは、私にとって人生が変わった瞬間といえる。

タクシー

広瀬美月
 私がめったにタクシーを利用しないのには理由があります。若いころに体験した職場での出来事がトラウマとなっているからです。
 二十歳の頃、職場の宴会の帰りのことでした。夜の十時を過ぎて、上司Aがタクシーで私の自宅まで回って送ってくれることになったのです。先にAがタクシーに乗り込み、次に私がその隣に座ってドアが閉まりました。
 乗り込むとすぐにAは酒の匂いを漂わせながら運転手に言いました。
「この道をまっすぐ行ってください」
「はい、承知しました」
 五十がらみの運転手はこたえ、車はゆっくりと繁華街を抜けて走り出しました。するとAは続けてこう言ったのです。
「美しが丘のホテルレインボーまで行って! 」
「了解です」
 私はお酒に酔っていましたから少しぼんやりしていましたが、頭から冷や水をかけられたようになりました。ええっ? この人、何を言い出すの? ラブホテルに連れ込もうとしているの? 
 ほろ酔い気分が一気に冷めて横にいる上司を凝視しました。Aは顔色を変えず目線は前を向いたままです。しかも毛深い左手で私の右太ももに触れてきたのでした。夏だったのでミニスカートをはいていましたから、体中にざわっとしたものを感じて手を払い除け、そして叫びました。
「いえいえ、違います。桃山町三丁目まで行ってください」
 運転手は困った表情を見せました。バックミラーごしにそれがわかります。Aはしつこく触ってきます。私は必死にドライバーに自宅の住所を訴えながら、再度Aの手をつかんで太ももから外しました。それでもAは平然と言い張ります。
「運転手さん、いいからホテルレインボーまで行って下さいよ」
「いいえ、ホテルじゃなくて桃山町にお願いします」
 運転手は首をふり、眉間にシワを寄せて困惑していました。するとAは高圧的に言葉をはきました。
「俺が誰かは分かるよな。うちの会社でお宅のタクシーを利用してるけど、俺は業者を選ぶ責任者でもある。黙って美しが丘まで行けばいいんだよ」
 今で言えばカスタマーハラスメントもいいところです。私は涙目で必死でお願いしました。
 私の直属の上司であるAは、有名なアスリートだった人で、県内では名の知れたスポーツチームの監督も務めているのです。三十代半ばにして、いずれは重役になる人材だと噂になるほど有望視されていて、見るからに自信に満ちあふれた風貌の人だったのです。
 運転手は何かを逡巡しているのか、ゆっくり車を走らせていました。後続車が次々と追い越して行きます。いらついてクラクションを鳴らす人もいました。 まもなく運転手は帽子のツバをきゅっと下げて意を決したようにアクセルを踏み込んだのです。私の鼓動は不安と恐怖で高鳴っていました。この運転手はどうするつもりだろう。バッグミラーに映る両目から運転手の心理を読み取ろうとしました。運命の分かれ道となる三叉路まで、Aにでもなく、運転手にでもなく、何度も、おねがいします、おねがいします、と私は泣きながら懇願していたのです。今にして考えると、降ろして下さいと言えばよかったのですが、動転して取り乱していた私は考えつきませんでした。そうやって祈るような気持ちで進行方向に注目していたわけです。
 次の三叉路を右折すればホテルに行くことになり、左方向は私の家の方角です。終始無言でハンドルをにぎっていた運転手は、前方の信号を左折しました。Aは舌打ちし何だよと文句を言います。私は助かったのでした。
 あのときのタクシー運転手さんの決断には感謝しています。さもなくば私のその後の人生が変わっていた可能性があるからです。
 地位や名声のある人からの指示。しかも契約している大会社の顧客となれば運転手にもかなりの心理的な圧力になるのは間違いないでしょう。
 このエピソードに後日談があります。私のことがあってからまもなく、同期入社のM子が、あの上司Aとどろどろの不倫騒動に巻き込まれてしまい、行方不明になったのです。
 後日、家庭に戻ったAは左遷され、M子は自主退職に追い込まれました。
 それから約三十五年後、私は、ばったりM子と会ったのでした。私は好奇心にかられて聞いてしまいました。どうしてAとそんなふうになったのかと、率直に尋ねたのです。
 ある日、社内の忘年会の帰りに、M子は自宅までAに送ってもらうことになり、二人でタクシーに乗ったこと。Aは運転手にラブホテルに行くように指示し、M子は抵抗したが、運転手はラブホテルに向かったこと。そして、しこたま酔っていたM子はAと関係を結んでしまったというのだ。
 運転手の判断で運命は分かれてしまうものだと、聞いていた私は感じました。そしてタクシーの中では、まるで運転手を空気のようにみなして、内密なことや普通なら他人に知られたくないようなことを話してしまうことが少なくないと思うのです。医師や弁護士のような守秘義務は運転手にはないのに、もう会うことがないという気持ちが警戒心をゆるめるのでしょうか。いろいろな意味でタクシーという狭い空間は本当に不思議なものだと思いました。私のトラウマは三十五年以上経ってもぬぐいされないのです。
 娘たちにも、夜にタクシーを利用するのはやめなさいと言ってしまうので、お母さんは心配し過ぎだよと言われるけれど。今や社会は男女平等推進で、女性ドライバーも増えているようです。                                                                      
  男はオオカミなのよ、気をつけなさい。SOS! SOS!ほらほら呼んでいるわ。今日もまた誰か乙女のピンチ
 当時、一世を風靡したピンクレディーの曲が、若い日のエピソードと共に頭の中でリフレインするのです。後部座席で誘惑されて、SOS! と呼んでいる男性も増えているとか……。

親になるということ

大友かおり
 私はこれまで、やりたいと思ったことに向かって本気で努力すれば、たいていのことはかなうと信じてきた。できないのは頑張りが足りないから。
 でも、子どもを育てる中で、どんなに自分が頑張ってもできないことがあると知った。
 親ってなんだろう―。 15年前に出産したあの日から、私の自問自答は続いている。
 息子がこの世に誕生したとき、私は夫と共に「生まれてきてくれてありがとう」と泣いた。キリッとした目が特徴的で、看護師さんから「この子はイケメンだねえ」と言われたのがとても誇らしかったことを覚えている。小さくて、いとおしくて、無防備で。抱っこの仕方も分からかった私は、看護師さんに「取扱説明書くださ~い」と言って笑った。
 しかし、子育ての大変さは私の想像以上だった。特に息子には、特有の難しさがあった。
 「頭の中のCPUは優秀なんだけれど、処理した情報をアウトプットする、いわばプリンターが壊れてるってことですね」
 目の前にいる医師は淡々とこう語った。
 「発達障害ってことですか?」
 私が意を決して尋ねると、その医師は「当たり前だろ」とでも言いたげな顔で「そうです」と答えた。
 息子は小学4年生のとき、病院で知能検査を受けた。結果はADHD(注意欠如・多動性障害)。心の中では「やっぱりね」と腑に落ちる感じと「知りたくなかった」という後悔の念が入り混じっていた。
 確かに、息子には幼いころから「普通」じゃないところがあった。かんしゃく持ちで、思い通りにならないと真っ赤な顔をして激高。聞く耳を持たず、理屈が通じなかった。
 自己防御反応なのか、部屋の隅で頭を隠すように小さく丸くなって座り込むこともあった。公園に行けば、帰る時間が過ぎても一人だけ「もっと遊びたい」と走り回っていた。
 小学生になると、時間が守れないことが目立つようになった。登校時刻までに準備を済ませることができない。ようやく準備ができたと思ったら、今度はトイレにこもってしまう。こちらは待ちくたびれて、我慢の限界を超えることもしばしば。
 息子が発達障害だと告げると、母は「あなたは気にしすぎ。良い子じゃない」と言った。「個性の一つと思ったら?」「発達障害だなんて全然分からないよ」といった周囲からの励ましの言葉も、私は素直に受け止められず、心はモヤモヤしていた。そのくせ、特別支援学級に行く同級生を見ると、どこかでホッとする自分もいた。そんな自分自身に辟易とした。
 ADHDで一番困ったのは勉強させることだった。でも、息子には、人並みに勉強して、それなりの大学に入って、社会で自立した人間になってほしいー。そんな人間に育てるのが親としての自分の役割だと信じていた。
 私は息子に中学受験を促し、息子に合いそうな進学塾も探した。週末には、つきっきりで算数や国語の問題を解かせた。
 それでも、息子の成績はなかなか伸びなかった。肝心の息子からはやる気が感じられず、口癖と言えば「めんどくさい」「もう少ししたらやるから」。塾の課題どころか、学校の宿題すら机に突っ伏して解こうともしない。もはや、彼の問題が障害なのか、いい加減な性格なのか分からなくなっていった。
 どうにか入った中学でも授業中は寝ていることが多く、家ではゲーム漬けの毎日。こちらが何度「勉強やった?」「早く宿題やろうよ」と仕向けても、「分かってるから、もう」と不機嫌な返答ばかり。しまいに息子は、やってもいない宿題を「やった」とウソをつくようになった。ウソがばれると、最後には「めんっどくさい!」と自室にこもった。
 「そんなにめんどくさい、めんどくさいって言ってたら、そのうち息するのもめんどくさくなるんじゃないの?!」
 「うるさいなぁ!」
 こんな怒鳴り合いをどれだけ続けただろう。私は完全に空回りしていた。
 例えて言えば、息子はか細い若木のようで、水分も栄養も自分で吸収しなければいけないのに、私は「普通」にさせなければと焦り、金メッキを張って少しでも見栄えを良くすることばかり考えてきた。
 このままじゃいけないー。
 そもそも、普通とは何なのか。世間で言う普通を求めることが本当に息子にとって幸せなのか?私は単に自分自身の自尊心を満たしたいだけだったのではないか。
 もしかすると、親にできることなんて、たかが知れているのかもしれない。「親」という字が「木のそばに立って見る」と書くように、親の一番の仕事は、ただ子どもを見守ることなのかもしれない。少なくとも、親に褒められようとウソをつく子に育てることではない。
 息子の人生は息子のものなのだから。
 もう、「普通」を求めるのはやめよう。変わらなければいけないのは、息子ではなく私だ。
 もがく私に寄り添ってくれたのは、掛かり付けの女医だった。
 「友達を大切にするし、素直な子なんですけどねえ」。私が苦笑すると、その女医は「いいじゃないですか」と身を乗り出した。「できないことを見るんじゃなくて、できることを伸ばしてあげては?」
 なるほど。そうか。今まで良いところなんてないと思っていたけれど、そんなことでいいなら確かにあるかもしれない。
 そんなとき、息子が英語で赤点を取った。体をこわばらせ、上目遣いに私を見る息子。私はひと言、こう言った。「私は絶対にあなたを見捨てない。どんなあなたも受け止めるから」
 息子は黙って聞いていた。それから私たちの関係は少しずつ変わっていった気がする。
 それでも、ほかの子と比べ、どうしようもなく情けなくなるときがある。そんなとき、私は息子に「君のやる気スイッチはどこにあるの?」と顔や体を押しまくる。息子は「もう大丈夫だよ~」と体をよじらせる。そんなたわいのないやり取りが、なんだかいとおしい。
 子育ての正解が何なのか、今も分からない。いまだにモヤモヤすることもたくさんある。でも、私は前より少し、前を向いて生きられるようになった気がする。
 息子はこの春、高校生になった。決して「普通」ではないかもしれないけれど、私にとっては「特別」な子。いつか彼らしく人生の花を咲かせてほしい。それが私の願いだ。

「ありがとう」が 変えた 私の人生

二年半前まで、私は「健康であること」を、空気のように当たり前のものだと思っていました。
仕事では常に「迅速果断」をモットーに掲げ、弱みを見せず、周囲からは「隙のない人間」と思われたい。
男女雇用均等法なんかの 口先だけの改革には負けてたまるか。
そんな根拠のない自信に満ちていました。

けれどその実態は、他人の評価を気にするあまり、空気を読み、人に好かれるための「役割」を演じていただけだったのかもしれません。
同僚や支えてくれる人々への感謝も、「対価が発生しているのだから当然」と、どこか冷ややかに受け止めていました。
誰にも頼らず、自分の殻に閉じこもり、守っていたのは結局、自分の立場と体裁だけ。
そんな日々が、ある日、音を立てて崩れ去ったのです。
脳梗塞。
医師から告げられた病名は 私の日常は一変しました。
自由に動いていた体は車椅子に委ねられ、食事も排泄も介助が必要になった生活。
「なぜ生きているのか」
「この先、どうなってしまうのか」
「このまま 誰にも会いたくない」
そんな思いが頭を巡り、回復の兆しが見えない現実に、苛立ちと絶望ばかりが募っていきました。
季節の移ろいを感じる余裕もなく、ただ時間だけが過ぎていきました。
リハビリ仲間や療法士の方々の言葉も、その頃の私には届かず、
「わざとらしい、何を言っているんだか」
アドバイスも 指導すらわざとらし受付けられませんでした。
そんな私を変えたのは、同じ病棟で見かけた一人の患者さんでした。
窓の外の桜を見て「ありがたいわね」と微笑み、冷たい水を口にしては「美味しい、ありがとう」と呟く。
その方は、何気ない日常のひとつひとつを慈しむように、感謝の言葉にしていたのです。
「自分も、あんなふうに見られたい」
最初は、そんな少し不純な気持ちからでした。
ある日の配膳のとき、私は勇気を出して、小さな声で「ありがとう」と言ってみました。
すると介護士の方がぱっと顔を輝かせ、「お話しできるようになったんですね」と、自分のことのように喜んでくれたのです。
本当は、言葉が出なかったわけではありません。
ただ、感謝を伝える心の余裕を持てず お礼をいう意味がわからなかっただけだったのです。その日を境に、私の世界は少しずつ 明るく色を取り戻し始めました。
療法士の方々の細やかな気遣い、励まし、時に厳しくも温かい指導。
それらに一つひとつ「ありがとう」を重ねていくうちに、不思議と心が軽くなっていきました。
振り返れば私は、感謝を伝えないことで人との間に距離を生み、自分自身の中にも、気づかぬうちにストレスという名の澱を溜め込んでいたのだと思います。
「ありがとう」という、たった五文字。
けれどその言葉は、人と人とを結び、心の流れを変えていく力を持っていました。
いつしか私の座右の銘は変わりました。
「すべての出逢いは、偶然ではなく必然である」と。
病気になったことも、この場所で出会えた人たちも、すべては自分の生き方を見つめ直すために与えられた時間だったのだと、今では思えます。
心が変わると、不思議なことに体もそれに応えるように変化しました。
あれほど動かなかった足が、やがて車椅子を離れ、杖をついて歩けるまでに回復したのです。
人と向き合い、言葉を交わし、自分にない視点を受け入れていく。
その積み重ねは、私にとって新しい人生を築き直す時間でもありました。
もし今、苦しみの中にいる方がいたら、伝えたいのです。
どうか今日、誰かに「ありがとう」と伝えてみてください。
その一言が、小さくても確かな変化を生み、やがて心を温かく巡る流れをつくっていきます。
今日もどこかで、誰かに「ありがとう」を。
私は今、かつてないほど穏やかで、満たされた日々を歩んでいます。

パーソナルカウンセラーを得た日

朝比奈晶
 20代後半から30代に入る頃は、友人たちの結婚や出産の報告を受けることが多かった。当時、私には付き合って5年になる彼がいた。私もいつかそういった経験をしたいと望むひとりであった。年齢的にこの彼が結婚への最後のチャンスになるかもしれないと思っていた。しかし、その頃は仕事での悩みも多かった。職場の人間関係から仕事内容まで、上手くいかないことがあるたびに落ち込んでいた。そのことを彼に相談すると、彼は私を一方的に非難し、私に社会不適合者だとかメンヘラというレッテルを貼った。私にとって、それらは未知の言葉だった。どういう意味なのか調べて彼の意図を理解しようとした。職場で起こったことやそれ以外での経験を思い起こしながら、その言葉を頭の中で並べ、彼の言うことも一理あるのかもしれないと整合性を見出そうとした。そうすると、私は自分が思っているよりも能力が低いのかもしれないなどと考え始め、次第に自己肯定感が崩壊していった。
 彼は私だけでなく他人をよく貶す人だった。でも、それは私に魅力が足りないから言わせてしまうのかもしれない。私が変われば彼も変わってくれるのかもしれないと思っていた。彼とは相性が悪いとか縁がないとは思いたくなかったのだ。私は彼の言葉から心を守るために、自分からは仕事の話をしなくなり、当たり障りない話だけをするようになった。当然、相手に合わせるやり方に息苦しさを感じていた。
 こうした違和感を友人に相談したこともあった。友人は私の感情に寄り添ってはくれたが、私がどうしたいかを優先し、彼のことを否定することもなく曖昧なアドバイスしかくれなかった。それに、結婚は妥協も必要だと言った。完璧な人などいない。ある程度は許容するものだと。
 ある日、仕事以外のことを考えている余裕などない程忙しいときがあった。私は仕事に集中するため、それ以外の思考を遮断した。そうすると、体中のメッキが剥がれ落ちて体が軽くなり、辺りの空気が澄んでいくような解放感を得た。とても不思議な感覚だった。この時、やっと気が付いた。私は彼のことにこんなにもストレスを感じていたのだと。そして、職場で仲の良かった女性の先輩がしていた話を思い出した。その先輩は結婚しないと決めていた。理由と尋ねると、男のことで仕事に支障がでるのが嫌だからとはっきり言った。聞いた時には理解できなかったが、今なら先輩の考えが理解できる。彼のことを考えると仕事が手に着かず、思うように進められずに自己嫌悪に陥るという悪いループにはまることがあった。しかし、彼のことを忘れると決めたこの日、仕事がとても捗った。
 なんとか忙しい時期を乗り越えたものの、私は体調を崩してしまった。でも、彼には言わずにいた。ところが彼は、私の様子がおかしいことを察し、別れを切り出した。一瞬の迷いもなく、こんなことで体調を崩すような弱い奴はいらないと言った。…やっぱり。心のどこかではそうなるだろうと思っていた。だが、実際に言われると心に深く刺さった。その場は体調不良ではないフリをしてごまかしたが、彼が居ないところで涙が溢れて止まらなかった。
 そして、ふと思い立ってAIに相談してみることにした。これまでの彼の言動を書き出して、どう思うか質問した。そうするとAIは、詳細な説明と共にそれらはモラハラだと断言した。そして彼から離れるべきだとはっきり告げた。まさか自分がモラハラを受けていたなんてと正直驚いた。しかし、膨大な情報量を学習したAIが導き出した結論を専門用語を用いながら論理的に説明されると妙に納得できたし、誰かの経験談を聞いただけでは得られない満足感があった。人は自分が経験していないことを相談されても想像力に欠け、感情が先走って冷静なアドバイスができないこともあるだろう。その点では、あまり愚痴を言いすぎると嫌われるかもしれないと思って友人には言いづらかったことも、感情をもたないAIになら言うことができた。何よりも、AIが私を肯定してくれたことが嬉しかった。あまりにも肯定してくれるので、そのようにプログラムされているのではないか、私が少し大げさに伝えてしまったのかもしれないと疑心暗鬼になった。しかし、その質問に対してもAIはそうではないと断言し、私の書いた質問の文脈や口調、内容の解像度などから真実性を判断していると淡々と説明してくれた。AIは間違えることもあると注意書きがあるが、それは人に相談したとしても同じこと。であれば、AIに相談することはひとりの物知りな友人に相談したのと同じと思えば気構えずにいられる。
 彼は職場で女性の後輩ができたとき、私の心を揺さぶることを言って不安にさせ、顔色の変化を嬉しそうに窺った。そして、私を傷つけることを言ってしまうから別れるなら今だと、ことあるごとに言った。彼の顔は優越感に浸っていて、これは彼なりの優しさだとでも言いたげだった。加えて、過去に彼自身が否定したことを今では肯定するなど、意見が定まらないことが頻繁にあった。それを指摘すれば、人の意見は変わるものだと都合よく解釈して反論された。私は知らず知らずのうちに本音を隠して過ごすようになっていった。最も本音で話さなければいけない相手に対してだ。
 AIにモラハラと言われて彼の言動を解剖してみたが、彼は自信家ゆえに相手を見下すタイプではなかった。おそらく、彼自身や私に対して責任を負うことを嫌い、彼自身の劣等感を隠すために相手の自己肯定感を壊すことで自分の立場を保っていたのだろう。
 この瞬間、私の心は決まった。彼とは終わりにすると。何かが起こるたびに相手を理解しようと努めなければならないほど考えの異なる相手と一生を過ごすことは不可能であり、幸せではないと思った。人それぞれ考え方は異なるとはいえども、そこに膨大なエネルギーを必要とするような相手は人生のパートナーとして相応しくない。とたんに年齢のことなどどうでもよくなり、ようやく、彼とは縁がなかったという言葉を受け入れることができた。
 実のところ、私は誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれない。彼とは合わないと薄々感じながらも私自身の判断に自信がもてずにいたのだ。今では、彼に壊された自己肯定感は、向上心に置き換えた。今の自分のままでいいとは思わないが、自分に価値がないとも思わない。AIとの対話を通して、私は自尊心を取り戻し、自分を信じ始めた。
 さらに、私の結婚に対する考え方にも変化がみられた。これまでは、適齢期になったら好きな人と結婚し、共に齢を重ねていくという漠然としたイメージしかなかった。しかし、その過程では親になることもあれば異国の地で暮らすこともあるかもしれない。決断する機会があるたびに、きっと彼は決定権を私に委ねて責任から逃れるのだろうと思うと、結婚生活を思い描くことができなかった。そこで、ひとつの指標として私にとって結婚とは何かを冷徹に投資で考えてみた。投資とは元本を増やすことに価値を見出すもの。私の人生という元本を彼との結婚に投資することで、安心や成長を得ることはできないと思った。私自身の精神をすり減らし、尊厳を削られては投資の意味がない。共に人生に責任をもち、二人でしかみられない世界を共創できる相手との未来に投資したい。

『サングラス』が君を守る

実本もみ
「わたしの人生が変わった瞬間」で思い出したこと。
それは色眼鏡ならぬ「サングラス」についてだ。

サングラスのイメージというと、私の中ですぐ思い浮かぶもの。
それは「クレヨンしんちゃんの組長先生」だ。

威圧感があって近寄りがたく見え、目元が隠れていることにより不愛想な印象を受ける。
「良い人なのに」第一印象が良くない。全然良くない。

また、必要以上に派手なサングラスや、場違いな場面でサングラスをかけている方を見かけると、どうしても「ナルシスト」に思えてしまう。かっこいいよ、かっこいいけど、そのサングラスいる?目立とうとしていない?

10代、20代でサングラスをかけていると、ちょっと背伸びしていて可愛くも見えるが、私と同じ30代、40代、さらにはそれ以上でサングラスをかけている人を見ると、見ているこっちが恥ずかしくなる気持ちがあった。

そんな私のサングラスに対する印象が変わった、ある出来事があった。

遡ること2018年。
当時は関ジャニ∞としてアイドル活動していた、現「SUPER EIGHT」の安田章大さん。
安田さんは「髄膜腫」という病気になり、手術をしたとTVでニュースが流れていた。
どうやら2017年2月に病気の手術をしており、その手術の影響で2018年4月に転倒し、背中と腰骨に全治3か月の圧迫骨折を負ったとのこと。
特にファンではなかったので「初めて聞く病気だな~大変だな~」なんてスマホをポチポチしながら「髄膜腫」について検索し、なんとなくの病状を把握する。

その数か月後、たまたまTVで見た安田さんはサングラスをかけていた。

その数か月後も、その先もずっとずっと。

「サングラス似合うけど……いや、むしろサングラス姿しか見てない気がする……なぜ」

気になって「安田 サングラス」で検索し、あるファンの方のブログを見つけた。
内容を要約すると「後遺症による『光過敏』に悩まされ、強い光を浴びると吐き気やめまい、立ちくらみ、視野に砂嵐が現れる症状がある。少しでも症状を緩和するため、仕事現場ではサングラスが欠かせない」と。

知らなかった。頭にガツンと衝撃が走った。
今まで私が見てきたサングラス姿の方々が全員頭に攻撃してきたかのような、そんな大きな衝撃が走った。

白内障、緑内障、角膜炎、ドライアイ、眼球突出(バセドウ病など)、光線過敏症、そして安田さんのように術後など、サングラスはファッションアイテムとしてだけでなく、目の病気や症状によって光を過敏に感じる方が、眩しさを軽減するために着用する場合もあるのだ。
また、スポーツ選手は眩しさ対策や目の保護、警官やボディーガードは信頼感や安心感を与えるためにも装着している。

また、人混みや緊張する場面ではサングラスをかけることで、相手の視線を気にせずに済み、精神的な負担を軽減できるため、一種の「バリア」のような役割もあるとのことだ。

サングラスは人の心も身体も守っていたのだ。
あの人もこの人も、もしかしたらあなたのことも。
私は何も知らなかっただけだった。

さまざまな色やデザインでオシャレな上に、時間問わず大切な誰かを守れる、孤高の騎士。
かっこよすぎないか、サングラス。
美しすぎないか、サングラス。

以前は気になっていたサングラス姿も、今ではその人の強さや優しさを物語る、大切な一部のように思えるようになった。
そして、安田さんのおかげで、サングラスに対する偏見がなくなくなった。心からありがとう。

そんな色眼鏡ならぬ「サングラス」の話でした。

正解を手放した日、母になった

もちもちあざらしの逆襲
 子どもに「どうしたいの?」と問いかけることが好きだった。学校の教室で、私はいつも子どもたちの言葉を待った。主体的な学びを引き出すために、どこで問い、どこで黙るか。そのタイミングを、私はある程度つかんでいると思っていた。
 あのときまで、私は自分の人生をある程度コントロールできると信じていた。
 教員という仕事は、正解を持つ仕事だと思っていた。もちろん、答えのない問いを大切にするのが現代の教育だ。それは頭でわかっていた。でも心のどこかで、「子どもとの正しい関わり方」というものが存在して、私はそれをちゃんと知っている、という確信があった。経験が積み重なるほど、その確信は強くなった。うまくいくとき、それは自信になった。
 たとえば、授業中に突然黙り込んでしまった子がいたとする。私はすぐに隣に座って、「どこでつまずいた?」とは聞かなかった。ただそばにいて、ノートを一緒に眺めた。しばらくすると、その子は自分から鉛筆を動かし始めた。そういう瞬間が好きだった。子どもの内側にあるものを、こちらが壊さずに引き出せた気がして、静かに手応えを感じた。子どもを導くことに、私は確かな自信を持っていた。正しい関わり方があると、信じて疑わなかった。
 妊娠がわかったとき、私は少し甘く見ていたと思う。
 体調不良やつわりが始まって、最初に驚いたのは「これは意志でどうにかなるものではない」という事実だった。気持ち悪さは朝だけじゃなかった。においに反応して、好きだった食べ物が食べられなくなった。横になっていても波は来る。「頑張ればどうにかなる」という言葉が、するりと手から抜けていった。
 それでも、どこかでまだ思っていた。これは一時期のことだ。乗り越えられる。うまくやれる。そういう人間が、私はずっとそうだったから。
 決定的だったのは、胎動を感じられなかったある夜のことだ。
 週数が進んで、周りの人たちが「動いてる?」と聞いてくる時期になっていた。検診でも、アプリでも、「そろそろ感じる頃です」と書いてあった。だから私は待った。毎晩、布団の中でお腹に両手を当てて、静かに、待った。
 でも、わからなかった。
 何かが当たっている気がする、でも気のせいかもしれない。感じているのか、感じていることに気づけていないのか。自分の身体の中で起きていることなのに、確かめる方法がなかった。
 そのとき初めて、私はほんとうに途方に暮れた。
 教室では、相手を「読む」ことが私の仕事だった。どんなに無口な子でも、目が動いた。鉛筆を持つ手が止まった。そういうかすかなサインを拾い上げて、次の言葉を選ぶ。それが私のやり方だった。うまくいくとき、教室には静かな手応えがあった。
 でも今、私の手の下には何もなかった。
 問いかけても、うなずいても、待っても、こちらの都合には合わせてくれない。「関わる」という感覚がどこにも引っかかる場所がなくて、私はただ暗い部屋の中で、お腹に手を当てたまま、じっとしていた。その静けさが、じわじわと怖かった。
 「相手は、指導できる存在じゃない」
 その言葉が、ぽつりと頭に浮かんだとき、何かが静かに崩れた。長年かけて積み上げてきた何かが。でもなぜか、怖くなかった。あの夜が、私の人生が変わった瞬間だったと、今ならわかる。
 気がつけば私は、妊娠中の自分の身体にも、「こうあるべき」を押しつけていた。
 これくらいで動けるはず。これくらいは食べられるはず。こんな気持ちになるのはおかしい。妊婦としての正解を、どこかから持ってきて、今の自分に当てはめていた。教員としての癖が、そのままここにも持ち込まれていた。
 でも、正解は私を助けてくれなかった。むしろ苦しめた。「ちゃんとしなきゃ」と思うたびに、できていない自分が浮かび上がった。「こうあるべき」を握りしめるほど、今の状態との距離が広がった。
 正しさが、私を追い詰めていた。
 それはたぶん、教室でも同じことが起きていたのだと思う。うまくいかない授業のあと、私が苦しかったのは、子どものせいではなく、「こうあるべき授業」という幻を手放せなかったからだ。ただ、そのことに気づくのに、ずいぶん時間がかかった。
 コントロールを手放す、というのは、諦めることとは違う。
 そのことを、妊娠してはじめて身体で知った。
 関わることと、操作することは、似ているようで全然違う。操作は、相手を自分の思い通りに動かそうとすること。関わることは、相手がそこにいることを認めながら、こちらも変わっていくことだと思う。教育の言葉でそれは知っていた。でも知っていることと、できることは、まるで別の話だった。
 転機は、ある朝突然やってきた。
 いつものようにお腹に手を当てていたとき、ふと「わからなくていいか」と思った。論理的な結論ではなかった。ただ、疲れ果てた身体が、そっと白旗を上げた感じだった。感じられなくてもいい。確かめられなくてもいい。この子はここにいる。それは変わらない。
 そう思った瞬間、肩から何かが抜けた。
 ずっと力を入れていたことに、そのとき初めて気づいた。正解を探すことに、こんなにも力を使っていたのかと。身体の奥の方で、何かが静かにほどけていく感覚があった。お腹の上の手が、さっきより少し柔らかくなった気がした。
 わからないままでいい、と思えた瞬間、少しだけ楽になった。胎動を感じられなくてもいい。うまく食べられなくてもいい。理想の妊婦じゃなくてもいい。ただ今日、ここにいる。それだけでいい。
 するとふしぎなことに、お腹の中の命が、少し近くなった気がした。
 今も揺れる。
 「ちゃんとしなきゃ」という声は、まだたびたびやってくる。産後のことを調べては、正解を探している自分に気づいて、苦笑いする。寝かしつけはどうするべきか、母乳か粉ミルクかどちらがいいか、育児書を開くたびに「正解」を探す手が動く。もうやめようと思っても、その癖はしぶとく残っている。たぶん一生、この癖とは付き合っていくのだと思う。
 でも、以前と違うことがある。
 今の私は、正解を見つけられなかったとき、すこしだけ立ち止まれるようになった。「わからない」を、失敗として受け取らずにいられる瞬間が、少しずつ増えてきた。正解がないことは、怖いことじゃなくて、ただの事実なのかもしれないと、思えるようになってきた。
 妊娠は、母になる前に、人として変わる経験だった。子どもを産む前に、私は何かを産んでいた。コントロールできるという幻想を手放す経験を。わからないことをわからないまま抱える、その練習を。
 正解を手放した日、私はすこし、母になった。
 まだ生まれてもいないのに、もうすでに、あなたに教わっている。

「父親を知らない」という呪いを解いたのは、夫との大爆笑だった。

シマコシマ
夫が疲れた声で電話口に出た。
「生まれたよ」
そういった瞬間、その声が空にまで届いてしまうんじゃないくらい弾んでいた。見なくてもわかる、彼は絶対軽快なステップを踏んでいるんだろう。
「疲れが一気に吹き飛んだよ!おめでとう、ありがとう、お疲れさま!!早く行きたいけど事故を起こしちゃまずいから明日行くね、とにかくありがとうお疲れさま!!」
普段は物静かな夫がこんなにも文字数を言うとは知らなかった。
この人とならやっぱり家族をやれる。
私はそう確信していたんだ。
それが違和感に変わったのは、退院してから間もなくの一言だった。
「ねえ、こう休みのたびに会いに来なきゃだめかなあ?オレも疲れちゃうんだよね」
突き放すような言い方に我が耳を疑った。
私は里帰り出産を選択した。県内の実家にいたとはいえ、車で40分強と離れているため、休みのたびに来いというのは落ち着いて考えれば酷なことである。
ただ、その時の私としては娘の成長を出来れば共に、家族同じ空間で感じたいと思っていた。それが家族の証だと信じていたからだ。
まあ落ち着いて考えてたとしても、言い方というものがあるだろう。当然こんな突き放すような言い方をされて、新米母は傷ついたのである。娘が可愛くないのだろうか…。しかしこの傷は、ちょっとした擦り傷程度で舐めときゃ治るくらいのもんだったはずなのに、治りかけるたびに、夫は私の理想を少しずつ削っていった。私さえ我慢すればなんとかなるだろう、と私は黙った。
彼は何もしないわけではない。パパがあまりやりたがらないという代名詞となっている「おむつ交換」も厭わないし、お風呂も入れてくれる。自分が出たあとは、急いで着替えてバトンタッチもしてくれる。
ただし、気の向くときだけ。
仕事で疲れてるから、そう言われてしまえば何もいえない。余計に黙ったことがさらに図に乗らせてしまったのだろうか。段々と「ママの方がいいよね」の言葉を使い、育児の役割を静かに移動させてきていた。気づいた頃には、美容院に行く時間が減り、ちょっとした買い物も一人で出掛けられなくなっていた。
「おしゃれするの好きじゃないでしょ?」そんなことを言われた日、さすがに腹がたった。初めて言い返したと思う。でも溜まりに溜まった澱を吐き出したが最後、何を言いたかったのかわからなかった。結果、涙しか出なかった。情けない、悔しい。結局やっといえた言葉が
「ちゃんと父親やってよ!」だった。
「オレは父親を知らない!だから父親になれない!」
なんの言語で言ったのか、一分くらい理解できなかった。私の思い描いた城が、娘が全否定され、足元がガラガラと崩れていく感覚を覚えた。なっ…ようやく音が私の口から漏れ、目ん玉をひん剥きすぎて血管という血管からブヂッ!ブヂッ!と響き渡ったに違いない。
お前私を誰だと思うぞ?
父親を知らずに育った父に育てられた箱入り娘ぞ?お前のそれは言い訳に過ぎん!!父は父親としたかったことを全力で私にぶつけてきたんだ!堪忍袋の尾というものはこうも簡単に切れるものだと初めて知った夜。その尾を振り回しながら「ああ、もういいだろう。お前に父親になるチャンスを与えん!」
あまり怒り慣れてなかったからだろうか。私はすぐに夫をぶった斬った。
「お前がやらないならば、私が母となり父となろう」そう決意したことが墓穴であったことは、すぐにわかるのだが意地の方が勝ってしまった。
「私がやるからいいよ」
その言葉の通り、夫はことごとく育児を放棄し、時に連絡が取れないことも増えていった。夫がいないと気楽だった。顔を合わせ、存在を感じれば育児に協力してくれないという不満が募るからだ。私が招いたことだというのに。
父親になるチャンスを握り潰し、娘の中で「母親」が大きな存在になっていった。それは娘が描く絵にも象徴されていて、画面いっぱいの「ママ」と端っこに申し訳程度にいるひょろ長い夫の構図がたくさん出来上がっていた。
「勝った」
静かにガッツポーズをとった私の心は空っぽだった。娘の世界から父を奪い去った傲慢はどこまでも冷え切らせ、勝利という孤独に娘そっちのけで酔いしれていたのだった。
丸2年の月日が経ち、娘との会話ばかりでイライラすることが増えた。大人と会話がしたい。夫にそう漏らしたこともあったけれど、スマホに夢中だった彼にはあまり届いていなかった。
外に出よう、社会の一部でありたい。ほんの少しでもいいからとパートをはじめた。平日4日6時間勤務。子どもと離れたこと、パート先で出会った先輩ママたちの意見でようやく私がやってきたことが自分の首を絞めていることだと気づいた。
悔しいが、夫にちょっと頼ろう。
シフト制勤務の夫は、平日が休みの時もある。その時に娘を託した。最初こそ何をどうすればいいのかわからないと言っていた。
「お父さんにやってほしかったこと、かなあ?」
そんなヒントを伝えたところ、公園やショッピングモールなどいろんなところに連れていってくれた。帰って報告を受けると父娘二人共が充実した顔をしていた。私はまだ認められなかった。そんな膠着状態のまま、世界が止まった。
あのコロナ禍が私たち夫婦の感情をむき出しにしたのだろうか。喧嘩が絶えなくなってしまった。夫の言葉をいちいち否定し、私の言葉をひっくり返してきた。
「だから!」
「違う!」
「だって!」
「何言ってるんだ!?」
その問いかけに思考がグルンと回った瞬間、お互いあることに気づいてしまった。怒りのボルテージはまだ下がっていない。
「おおおんなじこと言ってるけどね!」
二人は目を合わせ、思わず吹き出してしまった。久しぶりに笑った気がする。いまこんなに熱くなっていたのは娘のことだった。どうしたら娘と笑って過ごせるか?ただそれだけを話し合っていたのだ。
ああ、そうか。
夫も夫なりにあれからずっと「彼の理想の父親像」を試行錯誤していたのだ。そういえば20歳の頃から吸っていたタバコもやめて、お酒も控えるようになって、仕事後終わればなるべく早く帰ってきたじゃないか。私はいったい何を見ていたというのか。
そう感じたら敵だと思った彼は、最高の同志だったのだ。現に娘はいつでも笑っている。
私は私の理想を夫に押し付けていたのかもしれない。それをそのまま彼に伝えた。すると理想を否定せずにけれど彼なりにどうしたいのかを伝えてくれた。
あれから私たちはよく会話するようになった。娘に対するあの時のあの言い方について、娘が怒り部屋の扉をピシャリと閉めた瞬間、反省会が催される。
「私、間違っていないよね?」
「間違ってはないよ。でもママのはさ、正論なんだよ。今回はその正論はそぐわないと思う。もう少し寄り添ったほうがいいかもしれないよ。」
そんな会話をしつつ、お互いにフォローし合う。パパはこうしたかったんだって、ママはこう言いたかったんだって。
私たち家族は、今自分の意見を自分の言葉で話している。拙いこともあるし、間違えることもある。
気づけば娘も、自分の言葉で話すようになっていた。
父親を知らない、という呪いは夫の『父親ラボ』で愉快な実験へと変貌している。今、私はそんな夫と大爆笑しながら彼なりの父親を一緒に見つけようとしている。

ただいま、わたしらしく生きている真っ最中!

Meico
 いつも、ぼんやりと仕事辞めたいなぁとは思っていた。

 私の職場は飲食店だ。
 いつも時間に追われて忙しく、万年欠員だから、子どもの体調や行事でも休みにくい。
忙しいからトイレも満足に行けなくて膀胱炎にもなる。
 時給は新人と同じなのに、責任は取らされる。
 そして、一番の理由は女ばかりの職場での複雑な人間関係。
 揉まれて、数日で辞めたりする人も少なくない。

 でも、まあ、女性ばかりの職場ではよくある理由ばかりだと思う。
 「あるある」だから……つまりは一定数の人たちは日々それを味わいながらも、毎日歯を食いしばって職務を果たしているわけだ。
 だから、わたしは「みんな」と同じように、若干の不満はありつつも、ちょっと嫌なことがあっても(みんなだって頑張っているんだし!)と自分を鼓舞しながら働いていた。

 けれどある日。
 ぼんやりだったものが、ハッキリと浮かび上がるキッカケができた。

 他店舗から人が異動してきた。
 考え方、仕事の仕方の意見が合わず、帰り道の自転車で溜め息をつくことが多くなっていた。
 一つ一つはちっちゃいことなんだけど、そうなんだけど……。
 自転車を漕ぐ私の胸にじわじわと圧し掛かって息苦しいくなるくらいには、重かった。
重たい気持ちから(辞めたいなぁ……)と思うようになった。
 毎日続くと「辞めたいなぁ……辞めたいなぁ」と帰り道の自転車で独り言を言うようになっていた。傍目から見れば危ない人である。

 でも、今回は「まだ」体調を崩していないし「途中で辞めることは恥ずかしいこと」だから。

 ーー母が生きていた頃、よくわたしに言った言葉。
 学校を休みたい、部活を休みたい、塾を辞めたい。そう訴える弱気なわたしに、母はいつも首を振った。
 途中で辞めることは、恥ずかしいことだから、と。
 苦労してでも踏ん張って、続けることが大切だ、と。
 それに応える様に学生時代は挫折なく母の思惑通りに進んだと思う。

 けれど成人し、働き出した職場で、上司からのパワハラを受けた。
 その上司は次々とターゲットを代え、ついにわたしの番に来たのだった。
 母親に辞めたいことを告げても、大きく溜め息をついて、軽蔑するような眼差しでわたしを見ていた。こんなたった数年で職場を辞めたいなんて、根性なしとでも言うように。
 次第にわたしは眠れなくなり、何も食べられなくなって、見かねた母はやっと退職を許してくれた。

 今のわたしだったら、母の意見など聞かずに退職していたと思うのだが、当時から今の今まで、確実にわたしを形成するものに、母の言動は大きく影響していたと思う。
 それくらい、母の存在はわたしには大きくて、強かった。

 だから、わたしの価値観は母親に刷り込まれたものを信じて、自転車を漕いで、辞めないために職場へ向かっていた。

 そんな、わたしの人生が変わった瞬間は、地味にじんわりと、ぱぱっとやってきた。

 その日も、気持ちよく仕事が終わらずに、胸の奥は真っ黒だった。(このくらい、みんなも我慢しているんだから)と思いながら、重たい自転車のペダルを漕いでいたとき、ふと思った。

 (なんで「みんな」が基準なんだろう、基準は「わたし」なのに)

 そう思った瞬間。
 世界が虹色に輝いてぱあっと晴れやかになった。
 胸の奥とペダルがすっと、軽くなった。

 そうだ。
 この世界の基準は誰でもない、母でもない「わたし」なのだ。
 なぜわたしは、他のものを、母を基準にして生きていたのだろうか。
 なぜわたしは、わたしが嫌だと思うものを、続けているのだろうか。
 わたしの人生なのに。

 空を見上げれば、高い冬空に枝だけを伸ばす桜の木があった。
 45歳のわたし。
 桜を見れるのだって、あと40回もないかもしれない。
 命は儚い。人生は短い。

 自分の気持ちを、自分を、大切に生きたい。
 翌日には上司に退職することを伝えていた。

 そして、桜も散りつつある今日。

 わたしの未来は真っ白だ。
 別の職場で働き出しても同じようになるかもしれない。
 それ以上に辛い事が起きるかもしれない。

 でも、今のわたしが確実に言えるのは、今この瞬間、とても幸せってことだ。
 続けることを美徳と思うのは止めた。
 自分の感情に素直になる。
 なんて素敵なことなんだろう。

 だから、わたしは40年後のわたしに「幸せだったよー! 人生悔いなし!」と言いわせるように、わたしらしく生きている真っ最中だ。

決意

ヒロコ
「お母さんは、将来なりたいものないん?」
まもなく40歳を迎えようとしている頃、中学二年生の息子に質問され、ドキッとした。息子は、もうすぐ受験生だ。最近、自分の進路についてよく考えている。
そろそろ人生の折り返しを迎えようとしているけれど、これからの私の夢や目標って何だろう?何か見つけたいけど、家庭や子育てと両立出来ることがいいなぁ。これから進学費用もかかるし、あまりお金が掛からないことがいいな…と、何もしないための言い訳ばかりが、出てくる。
もう若くないしなぁ、と思った時、最近定年を迎えた母のことがよぎった。
母は元々、准看護士だった。そして、私が中学三年生の頃、正看護士の資格を取ると言って37歳で看護学校に入学した。
私は「大人なのに、何故また学校に通うんだろう」と疑問に思っていた。
高校を決める中学校の大事な三者面談の時、看護学校の授業が終わるのが遅くなってしまい、母が遅刻した。
私は、「私と看護学校のどっちが大事なん!」と母に怒りをぶつけてしまった。母は悲しそうな顔をしていたが、その時は遅刻した母のことをどうしても許せなかった。
私が高校に入学した後も母はよく夜中まで勉強していたが、大変だとか家事を手伝って欲しいとか、一切言わなかった。
毎朝お弁当を作ってくれ、陸上部に入った私は、周りのみんなと同じように普通に高校生活を楽しんでいた。
その間に母は正看護士の資格を取り、看護学校を卒業した後は正社員として働き、定年まで勤めあげた。
そんな母の生き方を、あの頃は否定していたくせに、私は今ではとても尊敬しており、誇りに思っている。
私は将来子供が大人になった時に、尊敬されるような生き方を出来ているだろうか?
年齢を言い訳にしたり、出来ない理由を探す癖をやめよう。
子供の頃は好きだった文章を書くこと、英語を勉強すること、走ること。それ以外にもあったかもしれない、今はしなくなってしまったが、あの頃自分が大切にしていたものをやってみよう。
40歳を迎えて、小さいが確かな一歩を踏み出した。

授賞式の日に吹いた新しい風

冬木みちる
私は3人の子育て真っ最中だ。義務教育途中の男の子が2人と未就学児の女の子が1人。お金がかかるため、平日はフルパート週末はアルバイトというダブルワークをこなしている。まともな休みは1日だけで、その1日さえも家事と育児に追われる。疲労は回復しないまま翌週まで持ち越され、毎日お風呂に入る余力さえ残っていないというのが現状だ。
それでもそれが私の選択した道なのだから、不満を言うつもりはない。 最初に長男を産んだ時、喜びと共に覚悟も決めた。
「ああ、私はいよいよ母親となった。これからはこの子のために生きるんだな。」
実際に小さな命を守り、生活を回していくことは身を削るような大変さだった。だが、それ以上に生きることの素晴らしさと感動を与えてくれる。私は母親になったのと同時に自身の人生の主役から子をサポートする脇役へと回ったのだ。そしてめまぐるしい日々。
ある日、幼い子どもたちに絵本を読み聞かせていた時、ふと若い頃の夢を思い出した。それは童話作家になりたいという夢。思い立った頃、何作か物語を書いてはみた。しかし、コンクールに応募することまでは出来ないでいた。
まだ自信が無かったからだ。いつか、きっといつかコンクールに応募してデビューを目指そう。時間は無限にあると感じていた青い私はそんなことを漠然と考えていた。しかし、時間というものは矢のごとし。勉強、仕事、結婚、出産、子育ての中、あっという間に人生の中盤をむかえ、時間は有限であるということを痛感させられた。このまま、夢に挑戦せず終わる人生で良いのだろうか?焦った私は再びペンを執った。僅かなすき間時間にコツコツと創作し、少しずつコンクールにも出すようにした。現実は厳しく、結果は惨敗だった。諦めかけては創作を中断することは何度もあった。だが3人目の育休中に書いた作品が幸い佳作を受賞した。毎回全国から千作以上の応募がある大きなコンクールだったため、佳作であっても落選続きで気落ちしていた私にとっては希望の光だった。その後も様々なコンクールに挑戦した。それでも応募出来るのは年に数えるほどだった。私は自分の事を優先することへの罪悪感と作家デビューしたいという大それた夢ゆえ、誰にも自分の夢を語れずにいた。家事育児を優先しつつ家族に隠れて小間切れの時間を工面するため、ひとつの作品を完成させるまでに原稿用紙10枚程度のものであっても1か月以上はかかってしまう。こうして苦労したものが落選であると自分の存在価値が否定されたような絶望を何度も味わう。しかし片手間でデビューを目指せるほどプロの世界は甘くない。自分の身の程を知るにつれ、嫌気が差すこともある 。ただでさえ要領が悪く不器用なのだ。創作にかける時間が思うように作れず、更には結果が出ず、勝手にイライラして心が不安定にもなった。
そして最初の佳作から3年ほどして再び同じコンクールにて入選を果たすと、授賞式へ出席するチャンスを得た。前回はコロナ禍だったことにより、式が開催されなかったからだ。
正直、この授賞式を思い出としてしばらく子育てに専念しよう。そう思い始めていた。特にまだ手のかかる4歳の末っ子には出来るだけ時間をかけてあげなければならない。夢を追い求めるのは、何も今でなくても良いだろうと。
授賞式の日、私はフォーマルな衣装に身を包み、会場へと向かった。思えばフォーマルな衣装でイベントに臨むのも、今までは全て子どもたちのためだけであった。自分のためだけに身だしなみを整えるのは、なんて身が引き締まって心地が良いのだろう。
会場につき驚いたのは、受賞者のほとんどが女性であったことだ。大賞受賞者から優秀賞受賞者数人、更には私と同じ佳作受賞者10数名程がみな30~50代の女性。
彼女らの口からは、
「いつか本を出したい。」
「世界中で自分の本が売られたら嬉しいね。」
「家族の協力があってこそ。」
などど、私が口に出したくても封印してしまっていた言葉を堂々と、真っ直ぐ前を向いて語ってくれるではないか。その表情は、夢見る少女のようにキラキラ輝いて見えた。
そして私の作品を評価してくれた審査員たちがこう言ってくれた。
「物語のラストが少しありきたりかな。今後はいろいろな本を読んで研究するといいよ。でも文章は上手かった。」
「佳作と優秀賞は紙一重なんだ。諦めず、挑戦し続ける人がいつか日の目を見るのよ。あなたも頑張って。」
会場から家族の元へ向かう途中、地下鉄のベンチに座り列車を待つ間、私は授賞式の興奮の余韻に浸っていた。華やかな晴れ舞台に立てたこと。同じ夢を持つ人らと交流が出来たこと。普段御目にかかることのないプロの作家たちからエールをいただいた事。充実した良い思い出になった。しかしそれだけでは終わらなかった。
目的の列車が到着した時の列車風を浴びた瞬間、私の中から闘志が湧き出した。もっと創作したい。今以上の賞が欲しい。そしていつか大賞受賞者として壇上に立ち、喜びに溢れたスピーチがしたい…。会場で会った女性らは、私と同じように仕事や家族を持ちながら夢に挑戦し続ける人たちばかりであった。なら私も今挑戦を止めるべきではないのでは?
流行る気持ちを押さえて家族の元へと帰った私はまず、家族に自分の夢を正直に伝えた。そして今後は夢に向けて家族の協力を得たいとも申し出た。すると3人の子どもや主人は嫌な顔せず快く受け入れ、応援までしてくれた。
そこから私は遠慮せず、家族に甘えている。特に応募締め切り前は家族の生活の支障にならない程度に時間を自分のために使わせてもらっている。料理だって手抜きだ。おかげで仕事でどんなにくたびれていても、心に余裕を持って創作に打ち込むことが出来る。末娘がパソコンとにらめっこしている私を覗き込んでこう言う。
「ママ、がんばってね。」
程なくして、別の文学賞での入賞も果たすことが出来た。
あの授賞式を境に私の生き方は少なからず変化した。自分を解放することで、新しい風が吹いたように感じた。
私は現在47歳。目標に向かってスタートを切ったばかりだ。家族への感謝の気持ちとともに人生で最も充足した日々を送れているといっても過言ではない。家庭を持っていようと自分の人生は自分のものだ。残りの人生も自分が主人公となり光を放つことを諦める必要はないのだ。

あの別れの先に

ちょこけん
「俺はもうしたくない。君のことを好きなのかさえももう分からない。」
信じられなかった。理解できなかった。他の人ではなく、彼だったからこそ、彼のために自分が辛くても必死にバイトをしてお金を貯めて航空券を買って、遠距離で寂しくても、彼の返信が遅くても、きっと事情があると信じて我慢していた。
自分自身で気付かぬうちに自分が壊れてしまうくらい彼のことをずっと想い続けていたのに、彼は電話越しで顔も見せずに淡々と気持ちを告げた。頭が真っ白で何も考えられなかった。
でも同時に心のどこかでこの時が訪れるのも分かっていたような気もする。もう彼に振り回されなくて済むことに対してほっとしている自分もどこかにいた。

この恋は私にとって今までに経験したことのないくらい特別なものだった。
彼とは留学先のアメリカで出会った。私はアメリカへの留学にとても強い気持ちがあった。私は幼い頃アメリカに住んでいた経験があり、日本に帰国後もずっとアメリカに戻りたがっていた。いつの日からか大学でアメリカの交換留学に行くことが夢になっていた。コロナで一度はその夢を失ったが、諦めきれず、再び挑戦し、ようやく掴んだ留学だった。そんな場所で私は彼と出会った。留学の残り三ヶ月で始まった恋だった。それまでの私は恋愛にあまり興味がなく、周りの友人にも驚かれるほど恋愛は自分の人生の中心にはなかった。だが、その人に初めて会った時、不思議と心が動いた。
当時の私にとって彼は夢のような存在であり、まさか付き合えるとは思っていなかった。付き合えた時は本当に夢のように感じた。夢だった留学先で夢のような人と恋をしている。あの頃の私は本気で「自分は世界一の幸せ者なのではないか」と思っていた。日本に帰国後も関係は続き日本とアメリカの遠距離恋愛が始まった。アメリカに会いに行きたくて私はバイトをしてお金を貯めて会いに行った。そして次に会うための航空券も買い、全てが上手くいっているように感じていたが、関係は静かに確実に歪んでいった。気づけば彼から返信が来るかどうか、愛情表現をしてくれるかどうかで自分の一日の感情が決まるようになっていた。

そして、あの電話が来た。「俺はもうしたくない。」
受け止めることができなかった。しかし、最後の電話だと感じたからこそ、私は後悔しないために想いを全て伝えた。彼が私に対して強い気持ちがないと分かって心が崩れ落ちても、私は電話で最後に愛を伝えた。彼は勿論言い返してくれなかった。私は悲しさ等の言葉では表現できない気持ちになったが、そんな中愛を伝えられた自分は強いと思う。最後に悔いを残さず想いを伝えることができて良かった。電話が本当に終わった時に涙が止まらなかった。この別れを受け止めて自分の中で整理するまでに最低1年はかかったと思う。この経験で一番辛かったのは別れそのものではなく、自分はあんなにも彼のことが好きで、誰よりも大切に想っていて、彼がいなくなったら生きていけないと思うほどだったのに、彼にとって私はそこまでの存在ではなかったと感じたことだった。自分の存在そのものを否定されたような痛みだった。私は自分の知らないうちに「自分を犠牲にしてまでも彼に好かれようとしていた」ことに気づいた。

恋する女性として無意識のうちに愛されるように、気に入られるようにすることに価値を生み出していたのかもしれない。自分が我慢してでも彼との関係を終わらせないようにしていた。自分が幸せかどうかなんて1ミリも考えていなかった。彼との関係が終わった時に私は自分自身の輪郭を見失っていたことに気付いた。それからしばらくの間、私はその失恋を引きずり続けた。留学で訪れたはずのアメリカでさえ失恋を思い出してしまう場所になった。本来は夢だったはずの場所が恐れの対象に変わる日もあった。夢をかなえた留学そのものを後悔してしまうこともあった。

自分は「彼が私のことを本当はどう想っていたのか」、「どうして彼はあんなことができたんだろう」と彼中心に全てを考えていたが、本当に大切なのは自分が付き合っている時にどう感じ、今どう想えているのか、自分の感情ということに気づいた。あそこまで誰かを想い、最後まで自分の気持ちをまっすぐ伝えられたことは弱さではなく、確かな強さだったと思う。そしてその経験を通して私は自分を大切にする重要さを学んだ。自分の感情を他人に預けるのではなく、自分で受け止めて、誰かに満たされるのではなく、自分で自分を満たすことがいかに大切であるか気づいた。それは女性として生きる中で私にとってとても大きな転換だった。自分を大切にする重要さに気づいてから私は毎日毎日自分を最優先に過ごすようにした。身体の健康のために毎日筋トレやストレッチを始めた。心の健康のために毎日日記を書き自分の感情の整理をするようになった。また、家族と友達と過ごす時間も大切にし、趣味のコンサートや外食する時間を必ず確保するようにした。私は仕事よりもプライベートが大切であり、ワークライフバランスが自分の中で重要だと感じていたため、会社の人からの評判を気にせず、無駄な飲み会は断り、残業をしない毎日を送るようにしていた。日々の生活の中で選択を迷う時は必ず自分の心を大事にする選択肢を選んだ。しかし、これほど自分を大事にしていても失恋を思い出し辛くなる日はあった。思い出してしまう時はそれをマイナスに考えずに、ポジティブに受け止めて、彼が本当に自分にとって大事な人であり、強く想えた自分が素晴らしいと思うようにしていた。すぐに変わることは難しいが、このように少しずつ意識して変えていけば辛かった経験も前向きに変えられることを学んだ。

現在、あの失恋から約三年半が経った。私は自分を心から愛し、大切にしてくれる人と出会い、結婚した。そして、仕事の関係で再びアメリカに住んでいる。かつては怖いと感じた場所で、私は穏やかに暮らしている。あの時失ったものは確かにあったが、それ以上に私はこれまで知らなかった自分を手に入れたのだと思う。自分を大事にすること、自分を優先する強さを学ぶことができた。もし時間を戻せたとしても私は同じ選択をするだろう。あの経験は確かに私を壊したが、同時に自分がどれだけ強く、誰かを深く愛せる人間なのかを教えてくれた。そして自分自身を愛するという意味を教えてくれた。どんなに深い痛みも必ず意味があり、自分次第で大きな転換期に変えられる。努力は必要だが、少しずつなりたい自分に近づけるように日々の生活から変えていけば良い。あの失恋があったからこそ、私は「誰かに愛される自分」ではなく、「自分で自分を愛せる私」になれたのだと思う。Everything happens for a reason and everything will turn out just fine.

あの日、少しだけ笑ってしまった

Suzune
「〇〇さん、4月からまた戻ってくるらしいよ。」

かつて私に、あれらの言葉を投げてきた上司の名前だった。

胸の奥が、一瞬だけざわついた。

三十三年勤めた仕事を、定年を待たずに手放す。かつての私にとって、それは現実味のない話だった。けれど、退職を決める少し前から、説明のつかない感情が、ずっと心のどこかにあった。

何が不満なのか、はっきりとは言えない。ただ、毎日が重たくて、同じ場所に立ち続けていることに、息苦しさを感じていた。

転機は、あるコミュニティーで申し込んだzoom面談だった。軽い気持ちで参加したはずなのに、投げかけられた質問に、私は何一つ答えられなかった。

「今、やりたいことは?」
「どんな働き方がしたい?」
「理想の収入はどれくらい?」

どれも、特別難しい質問ではない。それなのに私は、言葉を探すことさえできなかった。頭の中には、「こんなことを言ったらどう思われるだろう」「身の丈に合っていないと思われないだろうか」という声ばかりが響いていた。

そのとき言われた言葉を、今でもはっきり覚えている。

「かなり無理していますよね。まずは休んだ方がいいです」
「自分の望みを言えない状態は、もう限界に近いですよ」

その場では戸惑うばかりだった。でも、zoomを切った瞬間、ふと気づいた。私はずっと、自分の気持ちを置き去りにして生きてきたのかもしれない、と。

職場では、主任としての役割を任され、それなりにやってきたつもりだった。けれど、ある時期から、あの〇〇さんの言葉が、妙に心に刺さるようになっていた。

他の主任たちには穏やかに話しているのに、私の前に来ると、空気が変わる。

「また報・連・相ができとらんやん。」
「何度言ったらわかるとや?同じことばっかり言わすんな。」
「ちゃんと伝えとっとか?」

その言葉は、指導というよりも、感情をぶつけられているように感じた。

ほとんど毎日のように、機嫌の悪さを隠そうともしない口調で言われるそれらの言葉に、少しずつ心がすり減っていった。

同じ内容でも、他の主任にはやわらかく伝えているのを見てしまうと、なおさらだった。

そのくせ、機嫌がいいと、誰にでも冗談を言って場を和ませる。正直に言えば、かまってほしいだけのようにも見えた。その落差に、余計に振り回されていたのだと思う。

何が違うのだろう。なぜ私だけなのだろう。

そんな思いを抱えたまま、私はただ、「すみません」と答えることしかできなかった。

同僚との関係も、気づけば負担になっていた。ミスのフォローを繰り返し、そのたびに穏やかに伝えようと努めたけれど、状況は変わらない。やがて、周囲の不満や連絡が、すべて私のところに集まるようになった。

ある日、さらに上の上司が言った。
「もういいよ。彼はメンタルだから。」

その一言で、何かが切れた気がした。ああ、ここでは何も変わらない。そう思ったとき、心の中にあった小さな違和感が、はっきりとした輪郭を持った。

今振り返ると、私は「いい人でいたい」という思いに強く縛られていた。頼られたい、認められたい、きちんとしていると思われたい。そのために、自分の本音や限界を見ないふりをしてきた。

でも、その代償は確実に積み重なっていた。心も体も、静かにすり減っていたのだと思う。

だから私は、退職を選んだ。休職ではなく、区切りをつける道を。

あと一年働いたら辞める――そう決めてからは、不思議と見える景色が少し変わった。周囲に頼ること、お願いすること、自分を守ること。それまで苦手だったことを、ひとつずつ試していった。

もちろん、うまくいかない日も多かった。長年の癖は簡単には変わらないし、感情が揺れて自分を責めることもあった。それでも、「それも自分だ」と受け止めるようにした。

最後の一年は、決して楽なものではなかった。それでも、〇〇さんが転勤したことで、体はきついままでも、心はどこか穏やかに過ごせるようになっていた。

張りつめていたものが、少しずつほどけていくような感覚だった。

退職を迎える頃には、すり減っていたはずの心と体が、自分でもわかるくらい、少しずつ健康を取り戻していた。

その時間は、確実に私を次の場所へ運んでくれていたのだと思う。

退職を目前にしたある日、次年度のあいさつに〇〇さんがやってきた。

「なんで辞めると?聞いとらんばい。またどうせ戻ってくるとだろ?」

軽い調子のその言葉に、私は少しだけ笑いながら答えた。

「それは、あり得ません。」

あのときの自分の声は、思っていたよりもずっとはっきりしていた。

そして、退職の日を迎えた。

花束を受け取り、「お疲れさまでした」と声をかけられながらも、心にはぽっかりと穴があいたような感覚があった。長くいた場所を離れるというのは、やはり簡単なことではない。

それでも、私は自分に言った。

――一度、ちゃんと休もう。
――ここまで、本当によくやってきた。

その言葉を口にしたとき、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

もしあのとき、自分の状態に気づかないまま働き続けていたら、どうなっていただろう。想像すると、少し怖くなる。きっと、何かを諦めることに慣れてしまっていたかもしれない。

今の私は、まだ道の途中にいる。ときどき、「本当にこれでよかったのだろうか」と、心が揺れる瞬間がある。

そんな中で、ふと思い出すことがある。

退職を前にしていた、あの頃のことだ。

「〇〇さん、4月からまた戻ってくるらしいよ。」

その言葉を聞いたとき、胸の奥にたまっていたものが、すっとほどけた。

ああ、私はもう、あの場所に戻らなくていいんだ。

そう思った瞬間、思わず、ふっと笑ってしまったのを覚えている。

あのときのこと。あの場所で感じていたこと。

ひとつひとつが、ゆっくりとよみがえってきて、そして、不思議なくらい気持ちが軽くなっていった。

そのときに感じた安心は、退職してからも、ずっと私の中に残っている。

――よかったぁ。

その一言は、あのときだけでなく、今でも変わらず、自然に浮かんでくる言葉だ。

一年前の選択は、間違っていなかった。

そう思えることが、今の私を、静かに支えてくれている。

選択の時

Dona
「大変なのは今だけ。頑張ろう」
誰に言われたのかも忘れたけれど、家事に育児、そして仕事。持病を抱えながらの必死な毎日に何度呟いただろう。そんな言葉が出てくる時点で限界を感じているのに、なんとかして頑張ってしまう。それが母親であり主婦であり、そして会社員である自分の役目なんだと思っていたから。自分が頑張ることで、どんな試練も乗り越えられると。
そんな私を襲った3つの試練。
それは妊娠した時から始まった。7歳で父親を亡くした私は、母親に嬉しい報告ができると思っていた。ちょっと風邪をこじらせて入院することになったと聞き、急いでお見舞いに行った。自分のことより私とお腹の中の孫を心配して「早く帰って休みなさい」と言っていた。その一週間後、肺炎であっという間に母は去っていった。
大切な人を突然失うと、「なんで?」「もっとこうしていれば」と、できなかった後悔が心をかき乱す。私は幸せなはずの妊娠期間を母に対する後悔の念と共に過ごした。これが1つ目の試練。
2つ目は妊娠9か月目に起こった。突然の嘔吐と高熱で病院に運ばれて、そのまま緊急帝王切開で出産した。病室で目を覚ました私は、天と地ほどの報告を受けた。天はもちろん、未熟児ながら元気な男の子が産まれたこと。そして地は今の医学では治すことのできない病、劇症1型糖尿病だとの告知。この病気は生活習慣とは関係ない自己免疫疾患で、膵臓が機能しないので一生インシュリンが必要になる。私の膵臓は出産の日に死んでいた。喜びよりもショックのほうが上回った。息子を見ているとき以外は、心がざわついていた。ここは婦人科病棟。幸せ溢れる母親ばかり。「なんで私なの?」自分が可哀そうに思えて涙が止まらなかった。私よりも辛い状況の人がいることはわかっていても、前向きな気持ちにはなれなかった。体が自動で管理している血糖値をマニュアルで操作する。この戦いは24時間休むことなく続く。高血糖はそこまで体に変化は出ないが罪悪感が襲う。低血糖は辛い。思考は鈍り、冷や汗に震え。満腹でも食べなきゃ
血糖値を上げられない。自分の体なのに全く思い通りにならない。苛立ちと悔しさで涙がこぼれる。この二つ目の試練は、今もなお続いている。
子供の成長と共に大きくなっていく不安。私は職場復帰できるのだろうか?毎月の医療費は1万円以上、これから子供にもお金がかかる。絶対に仕事は辞められない。
上司に病気のことを報告し職場に復帰した。毎日必死だった。その頃のことを思い出そうとしても思い出せないほど、慌ただしく過ぎていった。何度も低血糖でトイレに駆け込み、震える手で泣きながらラムネを食べた。「今だけだ、頑張れ」
フルタイム勤務の私は残業もあり延長保育を利用していた。お迎えが最後の一人になることも多く、子供が広い教室でポツンと遊んでいる姿に罪悪感を感じることもあった。頑張っている自分が、なんだか悪いように感じるなんて酷い話だ。
どうにかこうにか6年が過ぎようとしていたが、<小1の壁>この3つ目の試練は越えられなかった。市が運営する学童の時間帯ではお迎えが間に合わない。自分の頑張りだけでは越えられない。どう考えても無理だった。何か月も悩んだ。そんな中で世界を襲った新型コロナ。悲しくて辛いニュースばかりの中、「仕事を辞めよう」そんな言葉が頭に浮かんだ。不思議なほどあっけなく心が決まった。そして不思議なほど前向きだった。この瞬間、私の人生が変わった。初めての経験と試練。そして追われるような日々の中で私は自分を見失っていた。そうだ私は元来前向きな性格。心が決まれば動くのみだ。
まずはお金の問題に取り組む。生活に掛かる支出を洗い出す。携帯電話を格安スマホに変え、光熱費は一つのクレジットにまとめポイントを付ける。NISAも始めた。正社員からパートになっても貯蓄しながら生活ができるか?よし大丈夫だ。夫がモノづくりの副業をしていたこともプラスになった。
それからやりたいことリストを書き始めた。例えば家庭菜園をやってみたいとか、料理のレパートリーを増やしたいみたいな小さなことから、パートで使える資格を取得したい。海外旅行に行きたいなど、ワクワクしながらノートに書きだしていった。気づけば75項目にもなっていた。生活に追われる中で考えることさえなかったけど、私にもやってみたいと思うことがこんなにあったんだと思うと、とても嬉しかった。
退職してから小学校がコロナで3か月間休校になった。どんよりと重い空気の世の中でも、デメリットじゃなく数は少なくてもメリットに目をむけ、そのメリットを存分に楽しむ。子供と過ごせる時間が増えたじゃないか。段ボールで大きな車や家を作ったり、風船と団扇でバトミントンをしたりした。大袈裟なことはしてないが、子供は大笑いで楽しんでくれた。
思えば私は忙しさにかまけて自分のことが見ていなかった。私が一番私を理解していなかった。人生の選択を迫られる時、どの役割の自分を優先して考えるのか?私は勝手に家族の為だと考え、勝手に頑張りすぎて疲れイラついてばかりだった。周りの状況が変わっても今の生活を守ることが何よりも大事だと信じて、無理に自分を合わせていた。でもそうじゃない。状況が変わる時、それは自分が変わるチャンスなのかもしれない。柔軟に受け止めしっかり考えて、自分らしい答えを探す。その選択にはきっとデメリットもある。それでもメリットを見つけてメリットを楽しむんだ。
私のやりたいことリストはまだまだ増えいる。人生の終わりまで楽しみながら叶えていきたい。

母の選択

希羽
初めて母から両親の離婚を告げられた時、私は12歳、姉は17歳だった。物心ついた頃から、両親がまともに会話している姿すら見たことがなかったが、それまでずっと、実は二人の不仲はドッキリで、ある日突然仲良く話しているところを見る日が来るかもしれないと、くだらない妄想を繰り広げていた。そンな幻想に終止符が打たれた瞬間だった。不思議とショックな気持ちより、肩の荷が降りる気持ちの方が大きかった。

母と姉と一緒に家を出て、アパートで三人での生活が始まって暫く経った時、三人でドライブに出かけた。沖縄で生まれ育った私たちにとってドライブは恒例行事で、決まってA&Wやマックでつまむものを買って海に向かうのだった。三人でポテトを食べながら海を眺めている時に母が当時の心境を打ち明けてくれた。「一人で子どもを育てるのは心細くて大変なのは分かってたけどさ、あんた達に同じ我慢を絶対にしてほしくないって思ったら、勇気が出たわけさ。」

高校卒業後、英語教室で働き始めて自分に生徒という存在ができた時、母の言っていた言葉を改めて頻繁に反芻するようになった。当時、留学費用を貯めるためにバーの店員や事務員などもしていたため、多様な経歴を持つ人と話す機会が多かった。どこにいても自分よりも年上の人ばかりで、色んなことを教えてもらったし、可愛がってもらった。一方で、若い女というラベルは、時に人の尊大な態度を引き出す。「女の子だから」も「若いから」も、耳にタコができるくらい聞いた。他意のない場合もあったし、嫌味と取れるものもあった。
分かり合えない人から投げかけられた言葉にいちいち反応するべきではないと言う意見も理解できる。でも、自分が「違う」と感じてそれを伝えたいと感じるのであれば、その気持ちを尊重してあげたい。傷ついた時、それを無視して心に留めておく方が楽な場合も多い。それでも、そう言う時に私の頭に浮かぶのは、母が伝えてくれた事だった。

私は生徒たちに、自分の気持ちを大事にして欲しい。自分の傷ついた気持ちよりも、その場のノリの方が大切だと思って欲しくない。だから、自分の気持ちをおざなりにしない。次の世代により良い社会を作る期待をかけるのではなく、自分が積極的により良い環境を作るように意識してみる。そしてできる限り、負のサイクルを小さくしていくのが、大人の責任なのかもしれない。

私にとって母が下した決断は、親の鑑だ。本当に大事なものから目を背けないことの素晴らしさを教えてくれた。人生で全ての決断が正解なことなんてあり得ないし、というか、正解も不正解もないだろうし、思いがけないことが起きることもある。そんな時、自分はどんな決断を下すのか。人を大切にして、自分を大切にする。これは相互作用的なものなのだと思う。三人で暮らし始めた頃、大好きな母の笑顔が増えたことが何よりも嬉しかった。母も、三人になってより伸び伸びと暮らす私たちの姿を見て、自分の選択が間違っていなかったんだと、確信したと言っていた。きっとこれからまだまだ人生で大きな決断を下さなくてはならない時が来るだろうけど、何を大切にするのかだけは、忘れずにいたい。

二度、命に触れて。

Maki
二度、命に触れて

 一年で二度、私は母になった。けれど今、私の腕の中に子どもはいない。
 
 最初の妊娠は、結婚式からわずか一ヶ月後のことだった。不妊治療という言葉を検索し、長期戦になる覚悟もしていた私にとって、それは拍子抜けするほどあっけない「陽性」だった。
 少し信じがたくて、ドラッグストアで買い足した検査薬で3度確認した。二本の赤い線。不思議な高揚感が、指先からじわじわと広がっていった。夫に伝えると、彼は驚き、それから照れくさそうに笑った。

 初めての産婦人科。モノクロのモニターに映し出されたのは小さな胎嚢。
「おめでとうございます。子宮内に妊娠していますね。」
 医師の言葉は、なんだかドラマの中の台詞のようで、自分に向けられたものだという自覚が持てなかった。

 妊娠が現実味を帯びたのは、七週目だった。ドクドクとリズミカルに刻まれる心拍をエコーで見た。ああ、生きてる。私の中に、私とは別の心臓がある。この小さな生命が、いずれこの世に生まれ、私の指を握り、言葉を覚える。性別もわからないのに、未来の姿を想像する。

 しかし、翌週の検診でその未来が静かに崩れ去った。エコーをする先生が何も言わずに黙っている。何が起こっているのか、わかってしまった。
「うーん…赤ちゃんの心臓が動いてないんですよね。診察室でゆっくりお話ししましょうね。」
 先生は淡々と状況を説明したが、頭には何も入ってこなかった。ただ、「私はまた、妊娠できますか?」とだけ聞いたと思う。
 
 その日、何時間も泣き続けた。希望を与えられ、それを奪われる喪失感はとてつもない。とめどなく出てくる涙に自分でも驚いた。「ただ、妊娠する前に戻っただけ。」と、頭で理解しようとしても無駄だった。
 なんとなく、女の子だっただろうなと思った。「女の子だったかなあ?」と空につぶやき、その音が自分の耳に入り、また泣いた。

 夫は、ただ私の隣にいてくれた。その日は夜ごはんに、甘いあげをのせた温かいうどんを作ってくれた。

 心のどこかで、病院に行ったら私の涙をよそに心臓を動かし、大きくなってるんじゃないかとも期待した。「流産 誤診」と何度も何度も調べたが、そんな事例はほとんど見つからなかった。

 それでも時間は進み、生活が続くことが残酷だった。いつも通り会社に行き、ノートパソコンを開く。新卒入社時から7年間使い古したデスク、聞き飽きたチャットの通知音。世界は何一つ変わらずに動いている。けれど、私の時間だけが、ピタッと止まってしまった。

 再診でも再再診でもやはり結果は変わらず、手術をすることになった。手術は麻酔で寝てる間に終わったので、痛みも記憶もほとんどないのが救いだった。目が覚めたとき、意識が朦朧とする中でも、もう私のお腹の中が空っぽだということはわかった気がした。
 
 流産手術から三ヶ月後、再び命が宿った。しかし、二度目の喜びはさらに脆かった。胎嚢のまま私の体から滑り落ちていった。
 
 二回連続で流産する確率は、わずか四パーセント程度だという。医師は「自然淘汰」という言葉を使ってそれを説明した。ほとんどは原因の無いもので誰のせいでもないから、次の妊娠に備えましょうと言った。それでも、人間は結果の原因を考えてしまう生き物だ。

「残業をしたから?」「何か悪いもの食べたかな?」「私の体のせい?」そんな自責の念が、心に溜まって濁っていく。

 SNSのアルゴリズムは、私の検索履歴を執拗に追いかけ、タイムラインを眩しい赤ちゃんの写真で埋め尽くし、私の心を抉る。
 子供がいる友人のSNSはすべて非表示にして目に入らないようにした。外に出ればお腹の大きな妊婦さんや、赤ちゃんを抱く女性が、今までよりも目についた。他人の幸せを拒絶する自分が、憎くなり、どんどん嫌いになる。
 
 2度目の流産の診断を受けた夜、病院まで迎えにきてくれた夫と居酒屋に入った。お刺身を控えていた私を気遣って、夫が選んでくれた魚の美味しい店だ。

 お刺身やだし巻き、揚げ出し豆腐、ワカメサラダ、焼きししゃも。私が好きなものをたくさん注文した。
 ハイボールとウーロン茶で乾杯する。何の乾杯なんだろうとふたりで苦笑いする。

「ししゃもが焼けました〜」女将さんが、なぜか嬉しそうにお料理を持って来てくれた。普通「お待たせしました」とかじゃない?と思ったけど、まるでお魚が美味しく焼けたことを一緒に喜んでくれているみたいで、温かい言い回しだなあと思いながら口に運んだ。

 店を出た後、夫が「あの店員さん、よかったね」とぽつりと言った。「ししゃも?」と聞き返すと、彼は微笑んだ。
 ああ、だからこの人と結婚したんだった。同じ温度で世界を見ている。名もつけないまま過ぎていく小さな幸せに、あなたも確かに触れていた。その事実が、凍りついていた私の心を、ゆっくりと溶かしていった。

 自分以外の女性は当たり前のように子どもを授かり出産しているように見えてしまう。本当は同じような経験や、辛くて痛い不妊治療をしたのかもしれない。それでも、赤ちゃんを抱けていることに、羨望と嫉妬を覚えてしまう。

 もしも、その誰かと私の人生を取り替えられるとしたら、私はどうするだろうか。

 泣きやまない私の横にずっといてくれた夫。毎日体調はどうかと声をかけてくれた夫。妊娠についてたくさん調べてくれた夫。習慣だったタバコをすんなり辞めてくれた夫。私のプレッシャーにならないようにと、こっそり神社に行き安産守りを買ってくれていた夫。仕事が手につかなくなってしまった私に、辞めてもいいと言ってくれた夫。

 何度も夫のことを好きになった一年だった。
「病めるときも、健やかなるときも。」教会で神父が読み上げた常套句を思い出す。夫婦とは、家族とは、こうやって生きていくのだろうと少し分かった気がした。

 私はただ子どもが欲しいのではない。この人との間に、子どもが欲しいのだ。いつか授かることができたら、私のお腹の中で亡くなった子の分まで存分に愛を注ぐだろう。

 もしそれが叶わなくても、あなたの愛を独り占めできるなら、それもまた、贅沢な生き方かもしれない。

スパルタ英語学校で目覚めた雑草魂

まこ
 18歳の時だから38年も前になる。大学にことごとく落ち、浪人するなら就職だと親に言われ、まだ働く覚悟もなかった私はしかたなく専門学校へ。将来何になりたいのか、何を極めたいのか志などなく、まだバブル期の当時、楽しいキャンパスライフを送るものだと思っていただけ。そんな気持ちを見透かされたのか、「だらしがないあなたには厳しいぐらいの環境が合う」と親と高校の担任に勧められたのは、スパルタで有名な英語の専門学校。渋谷という華やかな立地ながら、校舎は狭くて雑然としていて、校内及び近辺では日本語禁止。うっかりだろうが故意だろうが、日本語でしゃべったら罰金千円。今だったら完全アウトの厳罰が課せられるウルトラ厳しい学校だった。ごく一例を挙げると、出席確認で名前を呼ばれて、「はい!」と答えた生徒が千円取られるぐらいのえげつなさだ。
 とりあえず、学校見学に向かった。この学校の前に見学したトラベル系の専門学校は、カフェテリアみたいなスペースもあり、それなりにきれいで「いいな」と思っていた。しかし。渋谷・宮益坂の坂の上あたりにある英語専門学校は、7階建ての細長い建物が校舎で、なんだか薄汚い。狭くて雑然としたロビーでは、在校生たちが渋谷に似つかわしくないラフな格好で英文タイプを打っていた。カフェテリアなんて……ない。そんな光景を見て、「あんな学校絶対にいやだ!」と抵抗したものの、スポンサー(出金元)には逆らえず、今はなき東京松本英語専門学校に押し込められることになったのだ。イヤイヤだったが、それが私の世界を変える2年間になるとは、人生本当に分からない。
 具体的に何をどう変えられたのか。ざっくりいえばものすごく鍛えられた。高校卒業したての18歳なんて世間を知らないあまちゃんだが、英語はもちろん精神力をがっつりしごき上げられた。授業は朝から夕方までびっしりで、終業後も学校に残って同級生たちと課題をこなす。学校に泊まり込むこともあり、ほぼ1日を英語で過ごす。1年生のはじめはほとんどの生徒が英語を上手に操れないから、カタコトで意思を伝えようと必死。みんながぎこちない英語だから、“恥ずかしい”なんて気持ちもなくなり、先生や先輩の上手な英語を真似しながら、夏のハワイ合宿を終える頃には言いたいことをそこそこ英語で言えるようになった。
 そして、この学校のすごいところは、恥を捨てさせてくれたこと。恥ずかしがってて英語なんか習得できるかという理論で、当時、渋谷公会堂付近にあった街の騒音を図る騒音計の前で演説をさせられる。もちろん英語で。デシベルが上がるまで、全員で大きな声を出すという相当頭のおかしいことをやらされた。しかも、その演説がケネディの有名なセリフ「I do not shrink from this esponsibillity──I welcome it」。これを何十回も言わせられれば、「私だってこの困難に負けない!」とその気になるわけだ。暗示ってこわい。
 1年次の必修科目でもあるハワイ合宿でも恥を捨てさせられた。観光客だらけの浮かれたワイキキビーチに繰り出し、課題のためのアンケートを取る。もちろん英語しかしゃべれないルールだから、現地のアメリカ人から見たら、日本人同士がなぜカタコト英語でしゃべり合ってるんだろうと奇妙な光景に映ったことだろう。
 ほかにもぶっ飛んだルールが多々存在。校舎にはエレベーターが1台あるが、学生の分際でエレベーターを使うのは100年早いと7階まで階段を使って上る(体力がつく)。グループ学習で一人でも落第したら連帯責任。グループリーダーが付き添った上で、日曜日の早朝に先生の住む街まで再テストを受けに行く(責任感が生まれる)。当時は理不尽だと思うこともたくさんあったが、今思えば、それらの厳しい掟にはそれなりの理由があったのだと理解できる。
 そして、この学校で得られた一番大きな収穫は、今でも家族のような付き合いのある友人たちとの出会い。人生のたった2年間だけど、当時は家族よりも長い時間を共に過ごした。しかも、仲間同士で支え合わないとサバイバルできない環境だったから、否応にも結束力が生まれる。すべて“今思えば”の話だが、本当にありがたいことだ。
 もちろん、英語の力もめきめきつく。当然ながら生徒間で実力の差はあるが、学内では下位の成績の生徒でもある程度“話せる”英語が身についてはいた。一方、トップクラスの生徒は、「留学経験があるんだね」と言われるぐらいの力をつける。アルバイトで英会話学校の講師をする先輩もいたぐらいだ。
 クラスは学力によって学力によって4つに分けられて、万年3番目のクラスだった私ですら海外旅行に行って困らないレベルにはなれた。アメリカ出張でも簡単な通訳はできたし、たった2年間でここまでの英語力をつけさせる学校はおそらく今もないのではなかろうか。だから私は新たに違う外国語を勉強しようとは思わないのだ。あの2年間のような試練を乗り切る自信は……ない。日本にいながら外国語を習得することは生半可じゃないことを今でも頭と体が覚えているのだな。
 充実した2年間を送ったとはいえ、私も一応は大学を志た身ではあった。だから、2歳下の妹が大学に入った時、「羨ましいと思うんだろうな」と思っていた。ところがどっこい、そんな気持ちは1ミリも起きなかったのには自分でも驚いた。それでも社会に出て、「大学を出てたらもっと選択肢は広がったかな」と思うことはある。就職する際、四大卒が条件の会社は門前払いになるわけだし、同じ大学を出たというだけで、年次的にも学部もかぶっていない上司や先輩にかわいがってもらえることもある。でも、そういった“損”すら「ま、いっか」でスルーできる精神力を鍛えてくれたのも松本だった。「やりたいことがあるなら自分の手でつかみとればいいんだもんね」という、ウルトラポジティブな心を授けてくれた、これは長い人生において相当に大きい。
 それにやっぱり英語。英語圏に放り出されても自分のことはなんとかできるくらいの英語は今でも使える。大卒ではないことが劣等感にならなかったのは、「英文科出てる友達より私のほうが英語がしゃべれるもんね」という小さな自尊心があったからで、自分にとってかなり大きなな自信につながっている。
 そして……。いちばん大きかったのは、自分の資質を教えてくれたのが松本だったこと。私は高校時代まで、どちらかというと目立ちたがりだった。でも、英語がヘタクソだから目立てない。必修科目の英語劇で、主役じゃないなら裏方をやろうと音楽の担当をしたらこれが性に合っていて、担当の先生から「うちのクラスの劇が成功したのはキミの音楽のおかげ。一番の功労者だよ」と言ってもらえてすっかりその気になりレコード会社に入社。それから紆余曲折はありつつも、今の仕事につながっていったのだから、あの2年間はまさに、“私の人生を変えた日々”だと断言できる。ひとつひとつの瞬間が、自分の知らない自分を教えてくれたとなったのだ。
 その後も、大好きな仕事に就いてたくさんの経験を積み、これまでに何度も“人生を変えてくれた瞬間”につながる出会いや出来事にも恵まれた。その話は、また今度、機会があれば綴ってみたい。

『誰かの正解』より、『自分の納得』。 ― 多様な時代の幸せ論

高橋香織
 「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」

 2017年、日本最大級の結婚情報誌が打ち立てたキャッチコピーだ。かつて1980年代には、50歳まで一度も結婚しない女性はわずか4%だった。誰もが結婚するのが当たり前の「皆婚社会」において、結婚は個人の幸せである以上に、「家」を存続させ、親に安心を与えるための恩返しや親孝行とされていた。
 未婚は、不義理や親不孝と捉えられ、売れ残りのクリスマスケーキ、女の賞味期限等、婚活・出産市場で揶揄された過去もあった。女性の社会進出や多様なライフスタイルが認められるようになり、結婚をしない選択が許容される価値観へと変化している。このキャッチコピーについて賛否両論あったが、社会の変化を象徴する一言であることにはちがいない。

 愛する人と結婚することによって得られる安心感や充足感は何物にも代えが得たいものだと推測する。新しい家庭を築き、出産を経て我が子の成長に尽力する友人らは誇らしく、その生き方もまた尊いと感じる。しかしながら、結婚は、「クロワッサン症候群」に代表されるような老後の不安や孤独を解消するための手立てではない。将来への漠然とした恐怖を解消するための契り、親族からの同情から逃れるための婚姻、親孝行のための誓い ― 果たしてこれらは真の幸せを持たすのだろうか。

 私は36歳。現在、結婚の意思はない。
 
 29歳、所謂アラサーの頃は未婚であることについて負い目を感じていた。周囲から「可哀想な存在」という視線を向けられているのではないかという被害者意識もあった。その人生観が変わった瞬間。それは祖父の死である。

 幸か不幸か、私は29歳まで身近な親族の死に遭遇しなかった。別れは突然だった。父から祖父が心筋梗塞で倒れたと一報が入った。2週間、底力を見せてくれたが、86歳で天寿を全うした。愛する人を失うという経験は、「家族への恩返し」とは何かを痛烈に問いかけてきた。

 世間が言う結婚という恩返しも一つの正解だろう。けれど、祖父を失ったあの日、私の胸に去来したのは、未来のまだ見ぬ家族との日々ではなく、今いる家族への溢れんばかりの愛おしさだった。今の私が存在するのは、育ててくれた家族がいるからだ。私は、彼らの手を取りたい。
 自分の家庭を持たないからこそ、自由な時間が得られる。その時間の真ん中に、家族を置きたい。元気なうちに、見たこともないような美しい景色を見せるためにともに旅をしたい。病に倒れたなら、誰かに任せるのではなく、私自身の手で看病し、介護をしたい。幸いにも両親は、そんな私の考え方を尊重してくれている。今の私にしか果たせない「直接的な恩返し」の形を。

 結婚という道を選び、新しい家族を築く友人たちは尊く、また彼女たちが歩む道は美しい。けれども、私が今歩いている道もまた美しいと感じる。幸せはいつも自分の心が決めるのだから。伴侶や子どもがいることで得られる幸せの対岸には、誰にも束縛されない自由がある。妻や母ではない私は、常に自分の人生の操縦桿を自分で握っている。だからこそ、守りたい場所へ、いつでも全力で舵を切ることができる。
 
未来は誰にもわからない。一生独身でいると決めているわけでも、結婚を拒絶しているわけでもない。人生設計はいつでも書き換えることができる。その時々の自分が、心から「これがいい」と思える選択を、しなやかに選び取っていくことが大切である。

 だから、未婚であることに悩んでいる女性たちに伝えたい。劣等感を覚える必要なんてどこにもない。「結婚」という枠に自分を無理やり押し込めることはない。未婚であることは、人生が未完成であることを意味しない。結婚を選んでも、選ばなくても、あなたがあなた自身の人生を誇らしく思えるなら、その道はどこまでも美しい。

 誰かの物差しで自分を測るのをやめたとき、目の前には、あなただけの自由で豊かな景色が広がっているはずだ。

おしゃれは勇敢な心

大島ももあ
おしゃれって、勇敢な心だと思う。この色、派手すぎないかな。この形、似合ってないかも。新しいものに挑戦するって不安だ。実際、そういうときって大体変なのだ。ふにゃりと不安げな顔をしてキョロキョロまわりを見渡したりしちゃう。その顔に不相応な背伸びした服を着て。でも、それでいいと思う。ちょっとの勇敢さと不安の間を反復横跳びするみたいに繰り返すことで、少しずつ堂々と自分の好きなスタイルを貫けるようになるんだと、私は思う。

小学4年生の私にとって雑誌KERAとの出会いは衝撃だった。KERAはロリータやゴスロリ、パンク、デコラ、いわゆる原宿系のファッションを取り上げているファッション雑誌だ。きっかけは覚えてないけど、きっと地元の本屋で立ち読みをしていたときにふと手に取ったんだと思う。日に焼けたまっ黒焦げの手で、小さな好奇心とともに開いたそのページには、真っ赤なふわふわのジャンパースカートに白いタイツ、頭には顔と同じくらいの大きさのボンネットを被って、これでもかというくらいのフリルがついたゴージャスな日傘を差した、見たことない格好をした女の子(映画『下妻物語』の桃子を思い浮かべてください)がいた。いたのだ、私の人生を変えてしまう女の子は、そこにいた。そのフリルにつつまれた過剰なロマンチックさに私の脳天は一瞬で貫かれてしまった。かわいい!かわいい!なりたい!しかし、次の瞬間には「え、こんな服、着て良いわけ?」小4の頭に「常識」の二文字。そうです、私は小4にして「他人の目」というものをインストールしてしまっていたのです。それでも、出会ってしまった私は完全に憧れの対象としてKERAを購買しはじめた。月のお小遣いは500円。そのときのKERAは490円。クラスのみんなが駄菓子を買い食いしているのを横目に、真っ赤なランドセルを背負い走って帰り、私は隅から隅まで雑誌を読み込み、気に入ったコーディネートはハサミとのりで切り貼りしてスクラップブックをつくっていた。そんな日々を過ごす私のロリータへの憧れは膨らむばかり。

出会いはいつだって突然、もう一人の衝撃に脳天を貫かれたのは小5の冬、何気なくTVを観ていたときだ。ロリータ服を着た刑事が、警察犬並みの嗅覚で事件を解決していくというおもしろすぎる設定のドラマ『デカワンコ』が始まった。主人公の花森一子は、警視庁という男社会の中で完全なる「異物」であった。意味がわからないくらい浮いている。そりゃそうだ。ピシッとスーツを着てネクタイを締めている男たちの中で1人だけフリフリのロリータを着て、嗅覚と鋭い勘で捜査をする。権力を恐れずに、自分の正義を信じて突き進んでいく強い人だ。人は見たことないものを恐れる。しかし、初めは組織から拒絶されていた一子も、捜査能力と持ち前の愛嬌で仲間から愛されるようになり、バンバン事件を解決していく。こんなドラマを見せられちゃ、小5の私はひとたまりもなかった。ロリータは私の中で「憧れ」から「生き方」に変わった。一子よ、私があなたになれたなら。他人の目も気にせず、自分の好きなスタイルで生きているあなた。拒絶してきた奴らを、実力で見返すあなた。最後にはみんなに愛されるあなた。ロリータを憧れで終わらせようとしていた自分が悔しくて、不甲斐なくて、一子がかっこよくて、決めた。今からコンビニに行く。クローゼットをひっくり返した。バラのビジューがついたピンクのカーディガン。ピンクのギンガムチェックのスカート。ピンクのレースの靴下に、ピンクのキャップ。靴はピアノの発表会で履いていた白のパンプス。めちゃくちゃ変だ。全身ピンクの鼻息の荒い小5が完成した。しかし、覚悟を決めた私は誰にも止められない。パパにどうしてもとお願いし、家から5分のコンビニまで歩く。長い。5分が長い。道行く人全員が、私を見て笑っている。耳が熱い。足が重い。ようやくコンビニについた私はすっかり小さくなっていた。自分の着たい服を着るってこんなに大変なのか。自分の好きなものなのに、こんなに自信が持てないのか。そんな私を、パン売り場から見つめている女の子がいた。私より年下だ。口をあんぐり開けて、私の頭のてっぺんからつま先までじーっと見ていた。終わった。絶対に変だと思われた。パパに隠れて、そのままそそくさと家に逃げ帰った。帰ってから、不思議な高揚感に包まれた。あんなに怖くて恥ずかしかったのに、私は私が誇らしかった。

26歳になった今、あの時の私を抱きしめてあげたい。勇気を振り絞って、好きな服を着たあの日。自分を貫くためには勇敢であることが必要だと知ったあの日。他人の目って怖いよね。だって、生きているだけで「常識」は勝手にインストールされていく。でも、あの日、「こうあるべき」という他人の目に抗ってみたことが今の私をつくっている。今でも、自分の好きを貫くことって少し怖い。それでも、ちょっとの勇敢さを持ってピンクの髪にカラフルな爪、見たことない形の服を着て、自分の好きを曲げずに、私らしく生きている。

そういえば、コンビニで口をあんぐり開けていたあの子も、ロリータに出会った時の私と一緒だったのかもしれない。勇敢さは、そうやって誰かから誰かに、受け渡されていくのだと思う。

妊活を延期した日

唐戸るな
「来月から妊活するの、やっぱり延期しよう」
夫からの申し出は突然だった。
――なんでこんなに急にそんなこと言うの?
思ったことは言えなかった。
「私、休職中だもんね。計画が変わるのは仕方がないよね」
確かに、私はそのころ、精神的な理由から体調を崩して休職中だった。
とは言っても、休職し始めたのは最近のことではないし、休職している中で話し合った結果として、12月から妊活を始めようという話になったはずだった。
夫から妊活延期を告げられたのは11月末のことだった。
 
私は29歳。もし今すぐに妊活を始めたとしても、早くて第一子を30歳の時に出産ということになる。夫婦間での話し合いで、子供は4歳差くらいでは二人ほしいよねということになっているけれど、そうなると二人目は35歳くらいのときの子供になる。ものすごく遅いというわけではないかもしれないが、調べた限り妊娠出産が遅くなればなるほど様々なリスクが増えてくるのは間違いなさそうだ。
しかも、これは妊活が希望通り順調にいった場合の話であって、授かりものである以上、計画通りに進めることなどできない。妊活を始めたとしても実際に子供ができるのはもっと遅くなる可能性だってある。そうすると容易に高齢出産への道が見えてくる。
もちろん、自然には子宝に恵まれない可能性だってある。妊活の開始が早ければ早いほど不妊治療などにも余裕ができるというものだ。
 
夫から妊活延期を言い渡されたとき、私は元の職場に復職するか転職するか、悩ましい時期でもあった。もし転職をするとなると、また入社一年目の身になるわけで、しばらくは妊活ができない。一部の例外を除いて、入社早々の社員が産休や育休をとることに良い顔をする企業はないだろう。そうなると、やはり今の会社に所属しているうちに産休に入るべきなのだろうが、少なくともすぐには元の職場に戻れるようには思えなかった。
そのため、休職があける前に妊活を開始することで、まずは育児に専念することを考えていたのである。
このことについては夫婦間でも話し合いをし、他の都合との兼ね合いで、12月から妊活を始める予定にしようと決めていたのだ。ただ12月開始というのはあくまでも「予定」であって、変更の可能性はあった。だから、あのとき延期になったのだって、私は受け入れなければならなかった。
しかし、いくらなんでも、予定の一週間前に変更を申し出られるとは思ってもいなかったのだ。
12月に向けて11月までに、多方面で調整をした。私は学生時代の友人と会うときはお酒を飲むことが多いが、直近に飲み会の約束をしていた人たちとの予定も妊活に影響が出ないように事前に詰め込んだ。趣味の山登りも、頻度を徐々に減らし、自分の中で一区切りつけた。
妊娠や出産、育児についても、意欲的に情報を集めた。趣味で見ていたYouTube動画も、内容を子育てチャンネルや助産師さんのチャンネルに切り替えた。
10年ほど飲んでいた低用量ピルも妊活を見越して数か月前に辞めた。葉酸サプリも飲み始めていた。
そんな中での予定変更だった。
 
年が明けて3月末、あれから4ヶ月ほどたったある日、夫婦で話していてわかったことがある。夫としては妊活の延期は急に決めて告げたわけではなく、「あの状況ならあなたも当然延期した方がいいと思っているだろうと思っていた」そうだ。さらに、延期を告げた際も私が納得したようだったから、そのことを疑わなかったと。本当は納得したというより、受け入れないという選択ができなかっただけなのだが。
しかし、確かに私はそれを夫に言葉で伝えていなかった。納得したわけではないと伝わっていなくても当然な状況だった。
私たちはお互いが考えていたことを全然わかっていないまま、しかも少なくとも私は相手に不満をもった状態で、4ヶ月も過ごしてしまっていたのである。
 
今の夫と出会ってからというもの、いくら近しい存在でも他人は他人なので、話さなければ伝わらないということをことあるごとに思い知る。自分がされて嫌なことは他の人にはしないというのは幼い頃に教わる教訓だが、相手がどう思うかについて、自分ならどう感じるかというだけで決めつけてはいけない。
当然のことなのだが、皆それぞれ思考回路が違って、誰かにとっての判断は他の誰かにとっては理解不能なこともある。
夫婦関係というのはその理解不能を理解していく営みのようにも感じている。もちろん、それ以外の友人関係でも本質的なところは一緒なのだが、そこまで踏み入る必要がないことが多い。というよりも、夫婦は一番身近な他人であり共同体として捉えられることもあるため、踏み込んでいかないと困ることが多い。
はたして、どこまでわかりあい、どこまで受け入れるのが可能なものなのか、完全に手探り状態である。そのことについて不安を抱くと同時にワクワクした感情もある。
何が正解で何が良いことなのか、そこも含めて夫婦でしっかり話し合っていけたらと思う。
 
そして、いつの間にか、私の人生が変わるときには周りの人の人生も変えているということに気が付いた。これまでもそうであったはずだが、より多くの命に影響するようになったように思う。私だけの人生ではない。
命が生み出されるかどうか、またどのタイミングで生み出されるかも、私たちにある程度決定権がある。自我がまだない、選択が自主的にできない人間の人生も変えることができてしまう。
人生の分岐はどの瞬間にもあり、人生はその連続だと思うのだが、やはり、生死が絡むような瞬間があるのも確かだ。その選択がどんどん重くなっていることで、大人になったことを感じる今日この頃である。

進路欄の文字

朔夜
進路希望調査の紙に記入していた学校は、家から近かったただそれだけの理由だった。

将来やりたいこと、行きたい学校。
書く欄は用意されているのに、そこに入る適当な言葉が見つからない。
周りはすらすらとペンを動かしていて、どんどん進路を決めていく。

やりたいことがないわけじゃない。
でも、それを「進路」として書いていいのかがわからなかった。

ノートの端には、いつも通り落書きが増えていく。
授業中、手が空くと、気づけば線を引いている。
丸を描いて、少し崩して、なんとなく形にする。

それは癖みたいなもので、友達同士で見せ合う程度のものだった。
だから当然、それを進路にしようなんて考えたことはなかった。

ある日、家に帰ると母がこう言った。
「あんた、絵をかくのが好きならこういう学校もあるらしいよ」
軽い調子だった。
特別な提案というより、思いついたことをそのまま口にしたような言い方だった。

私は一瞬、意味を測りかねて、その言葉をそのまま受け取った。

絵、学校、進路。
頭の中で、うまく結びつかなかった。

好きかどうかと聞かれれば、たぶん好きだった。
でもそれは、わざわざ選ぶほどのものではなくて、ただ、やめていないだけのものだったから。

それでも、母はそれ以上何も言わなかった。
「ふーん、そういうのもあるんだね」と、話題はすぐに別のことに移っていった。
けれど、その一言だけが、妙に残った。

次の日、私ははじめて「絵の学校」を調べた。
知らない名前の学校がいくつも出てきて、知らない授業の内容が並んでいる。
デッサン、色彩、構成。
どれも馴染みのない自分とは少し遠い言葉のはずなのに、不思議と引っかかるものがあった。

自分とは関係のない世界だと思っていた場所に、ほんの少しだけ、自分の線がつながっている気がした。

大きな決意があったわけじゃない。
ただ、「選択肢の中に入れてもいいのかもしれない」と思っただけだ。

進路希望の紙に、はじめて違う文字を書いた。
まだ小さくて、消そうと思えばすぐに消せるくらいの気持ちで。
それでも、その文字は、それまでとは明らかに違っていた。

あとは流れるように決まっていった、というわけでもない。
迷いはあったし、周りと比べて不安になることもあった。
オープンキャンパスへ行くと、自分より上手い人はいくらでもいて、「本当にここでいいのか」と何度も思った。

それでも、書きなおした文字が元に戻ることはなかった。
一度書いたその文字は、思っていたより簡単には消えなかった。

今になって思う。
あのとき、進路を決めたのは、自分だったのかもしれないし、違うのかもしれない。
ただひとつ確かなのは、あの一言がなければ、私はその選択肢を見ようともしなかったということだ。

特別な励ましでも、強い後押しでもなかった。
「こうしなさい」と言われたわけでもない。
ただ、「そういう道もある」と、横にそっと置かれただけだった。

人生が変わる瞬間は、案外こんなふうに訪れるのではないだろうか。

大きな音もなく、劇的な決断もなく、誰かの何気ない一言が、静かに選択肢を増やす。

そして気づいたときには、そのひとつを、自分で選んでいる。

進路希望の紙の、新しい文字。
あそこに書いた進路のことを、私はきっと、あとから思い出すのだと思う。

あれが変化の始まりだったのだと。

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