WOMANエッセイアワード2026
WOMANエッセイアワード2026
✍ 文章力が光る作品

伝えたい想いを届けていくうえで、
文章力は大きな武器になります。

構成。
表現。
言葉選び。
そして、続きを読みたくなる展開。

スタートからゴールまで丁寧に物語を紡ぎ、
読者をその世界へ引き込んだ作品をご紹介します。

 

作品一覧

穴に差し込んだ光

笹木五十鈴
 4年前の私は人生のどん底にいた。勤めていた職場を発達障害と鬱病による『能力不足』という理由で去ることになったのだ。それだけではない。今まで正社員で働いていた私のプライドは、障害者手帳を取得し障害者雇用を目指す現状の中で、人より劣っていると感じ旧知の友人と会うのが怖くなったことで屈辱感へと変わっていた。
 再就職を目指して通い始めた就労移行支援事業所は、誰もが必死でどこかよそよそしい雰囲気が流れていた。一人暮らしの部屋に帰れば静寂だけが私を待っており、光の届かない穴の底で踞っているかのようだった。そんな日々を過ごすうちに、『誰かと話したい!』このような切実な欲求が私を蝕んでいった。
 この現状を打破したいと思った私は、マッチングアプリをダウンロードした。何人もとやり取りし実際に会ってみたところ、現在の伴侶にあたる人と巡り会うことができた。
 今の夫である彼と会った瞬間、『この人は逃しちゃダメだ』そう直感した。丁寧な物腰、こちらを常に気遣ってくれる姿勢、優しく見つめる瞳。何よりも私が発達障害者であること、現状就労移行支援事業所に通っていることを打ち明けた際も、戸惑いも同情もせず私を見つめる瞳は優しいままだった。その眼差しに私は初めてそのままの自分を許されたような気がした。
 数日後、お付き合いを正式に開始することになり、その一年半後には入籍をするというスピーディーさ。私には元々結婚願望がなかったけれど、彼となら人生をともに歩みたい。一緒にいるうちにそう感じるようになってきたのだった。
 出会ってから4年が過ぎた今。倦怠期や大きな喧嘩もなく、仲睦まじく毎日を送っている。付き合い始めた時から「可愛いね」「大事だよ」と4年間言われ続けたことで、自分自身でさえ気づいていなかった自分が大切な存在だと気づくことができた。最初は中々信じられなかったその言葉がいつしか私の心に染み込んでゆき、抱えていた希死念慮は徐々に薄れていた。出会った当初は不安定だった体調も落ち着き、彼と一緒に過ごすうちに笑顔も増えたことで、以前とは打って変わった温もりのある凪のような穏やかな日々を過ごしている。
 資格を取って職場で辛い思いをするのならば、その道に進まなければよかったのではないか。そのように思うことはたまにあるけれど、その道を選ばないと最愛の伴侶という光に出会えなかったのだから不思議な巡り合わせである。
私のモットーとして『正しい道を選ぶのではなく、選んだ道を正しいものにする』というものがあり、この選択の連続は、それが体現できたのではないだろうか。過去の選択を後悔するのではなく、今の幸せを積み重ねることで、あの『どん底』さえも必要な景色だったと思っている。
 マッチングアプリをダウンロードしてから、彼と出会ったあの日。確かに私の人生は変わった。人生のどん底に光が差し、その穴から抜け出すことができた。抜け出した穴の先で光に包まれながら、一歩ずつ輝く未来への坂道を登ってゆく。

この理不尽な社会を私が愛する理由

波野 みさ
『ああ、私、とても怒っているんだ』と思った。

新卒の頃からずっとコンサル業界にいる。社会人になってからの13年間、私は止まらなかった。たくさん思考し、時には深夜でも週末でも働き、クライアントの期待に応え、また次の案件へという日々。途中で家族の在宅介護が必要になった時も、ペースを落とすという選択肢は頭になかった。働いて、稼いで、走り続けた。それが私の知っている生き方だった。そして、「周りから””できる女””と思われるように生きること」が、私のアイデンティティだった。

そんな私が結婚して三年、子どもが欲しいと思い始めた。産婦人科で検査を受けると、自然妊娠が難しいこと、そして男性不妊であることが分かった。夫婦で相談し、顕微授精による妊娠を希望することにした。なんとなく、そうなのではないかと思っていたことが確信に変わった。落ち込むかと思ったが、逆に子供を産むことを諦めなくてよいと分かり嬉しかった。顕微授精の過程でもプレパラート上で育っていく受精卵を不思議な気持ちで見ながら、「私たちの子供も頑張っているね」と夫婦で話したのを覚えている。無機質なプレパラート上で起こっていることだとしても、私たちは確かに親になることを自覚した瞬間だった。

そんなとき、知人から「自分を責めないでね」と言われた。善意からの言葉だとは分かっている。でも、待ってくれ、私を責める?私はいったい、何か悪いことをしたというのか。その瞬間、どこにもぶつけられない怒りが、私の中に湧き上がった。まるで、自分を責めて当然の立場にいるかのような前提そのものが、何より腹立たしかった。でも、言い返せなかった。なぜなら、体外受精は夫婦で決めたことだから、「なんで?私は悪くないんだよ」という言葉は、飲み込むしかなかった。私の中で誰にも言えない言葉が、わだかまりがまた一つ増えた。そして、なぜ一般的に不妊治療というと女性側に問題があると認識されてしまうのだろうと、不思議な気持ちにもなった。今まで、「女性は結婚したら家庭に入るべきだ」、「女性は30歳ま出に結婚しないといけない」など様々な偏見を聞いてきたが、また新たな偏見を発見したような気持ちになった。

体外受精することをどちらが悪いとも思っていない。でも、正直、採卵のための注射を打つのも、薬を飲むのも私。ホルモン剤の副作用で体調が悪くなるのも私。通院のスケジュールを仕事と調整するのも、採卵手術の痛みに耐えるのも、全部、私の体だ。クライアントとの会議がピンポイントで重なった日があった。参加できない、でもその理由をクライアントには説明できず、有耶無耶にしながら早退したあの日のことは、まだ胸に引っかかっている。夫は寄り添ってくれる方だと思う。でも、その痛みを半分持ってもらうことは、どうしたってできない。

ただ、静かに、確信する。結局、体で引き受けるのは女だ。
これを怒りと呼んでいいのか、悲しみと呼んでいいのか、私にはよく分からない。ただ、腑に落ちる感覚があった。そうか、ここだけは、どうしても代われないのか、と。仕事で積み上げてきたものが、ここでは関係ない。能力も、実績も、意志の強さも、全部脇に置かれる。確かに子どもは欲しい。でも、そのためにキャリアを一度止めなければならないのは、なぜ女なのか。出産にあたり数か月しか休まなかったという女性もいる。そういったエピソードを聞くたびに、自分もそうしなければと焦ってしまう。でも、実際は誰でもできることではない。つわりが長く続く人もいると聞く、妊娠中に体がどうなるか、出産後にどういう気持ちになるか、経験したことがないのだから分からない。産休に入るまで職場に迷惑をかけずに働けるのか、うまくやれる自信が持てない。まだ起こっていないことに怯えて前向きになれない自分を自分が責める。それがまた、つらい。
現実問題として、不妊治療も妊娠も出産も、女の体なしにはできない。社会がどれだけ「パートナーシップ」を語っても、体だけは代われない。13年間、男性とも対等に戦ってきたつもりの私が、初めてその理不尽さに真正面から向き合わざるを得なかった。仕事なら努力で越えられる壁も、体は思い通りにならない。自分の体なのに、自分の心なのに、コントロールできない。私は途方に暮れている。

私はある日、電車の窓に映る自分の顔を見て、ぼんやりといつもと同じ顔だ、と思った。泣いているわけでも、取り乱しているわけでもない。ただ、静かに悟った顔だった。初めて立ち止まって、自分の体と、自分の気持ちと、この社会の理不尽さと、向き合わなければならなくなった。それは怖いことだった。でも同時に、ずっと見ないようにしていたものをやっと見ようとして、変わろうとして、そして、その理不尽を受け入れようとする瞬間でもあった。人生が変わる瞬間はどこか劇的なものだと思っていた。でも実際は、こんなふうに静かに、気づかないうちにやってくるのかもしれない。自分で望んだ、喜ばしいはずのことなのに、こんな感情が芽生えてしまう自分が怖かった。だからこそ、この気持ちを書き留めておきたいとも思った。

不妊治療、妊娠・出産、子育て、様々な場面で「なんで私ばかり」と感じるのは、正しい感覚だ。怒っていいし、理不尽だと思っていい。私の体と心が引き受けている痛みは、本物なのだから。誰かの心ない言葉にもやもやするなら、それもまっとうだ。おかしいのは私じゃない。こんなことを書くのは、私が特別だからではない。このもやもやを誰にも話せずにいる人が、言葉にできない怒りと一人で戦っている人が、仕事を笑顔でこなして帰り道に泣いている人が、確かにいる。今日も、どこかに。私もそのひとりだ。私たちは、一人じゃない。

女性の人生には、自分のことを後回しにせざるを得ない瞬間が確かにある。誰かが代わりに怒ってくれるわけでも、痛みを引き受けてくれるわけでもない。でも、そんなとき、自分の感じていることを、まず自分がちゃんと本物だと認めてあげなければと思う。それが、怒りでも悲しみでも醜い感情だったとしても、自分の一番の味方は自分でなければならない。自分自身のためだけに立ち止まり、自分の声にちゃんと寄り添わなければと思った。
なぜなら、この気持ちを昇華させないと、生まれてくる子供となにより未来の自分のためにならない。そして、まだ世界を知らないまだ形のない私の子供を私はすでに愛しているのだから。

誰もが幸せに生きるために

名嘉山レイ
 午前七時のNHKニュースのテレビ画面がぼやける。新聞もはっきり読めない。
「歳のせいやからしかたないわ」  
 万事に脳天気な夫は、一足す一は二、とでも言いたげに簡単に事をすます。だがしかし、単純にそうともいえない事態に直面した。
 一週間後、目覚めた瞬間、こう思った。
 ここは水中?
壁にかかった時計も、もちろん長針も短針もぼやけている。その隣にかけてあるジグソーパズルの、フェルメール作『真珠の耳飾りの少女』も、マホガニ色の木製テーブルも、すべてが海に沈んでいる光景に見える。プールのなかで、泡と化した水の音を聞いている気さえする。
 呼吸器系の慢性疾患でお世話になっている総合病院の眼科で診察を受けた。
「白内障がありますねえ」
 そうなのか……。そんな思いで眼科医の言葉を耳にする。
「すぐ手術しますか。先延ばしにしますか」
 ふっくらした体型の、眼鏡の奥の目が優しげな六十歳前後の医師の言葉に、即、答える。
「すぐお願いします」
 ぼやけた視界から少しでも早く解放されたくて手術を受けた。両目で二週間、入院する。
「手術の結果は順調です」
 眼科医の言葉に安堵するも、内心、服を釘で引っかけて穴が空いたままのような、心のひっかかりを覚える。
本当に順調なのかな……?
 不安をぬぐえないまま退院する。というのも、視力の回復が感じられなかったからだ。毎朝、浦島太郎よろしく海中生活を送っている不確かな気分におちいる。当然のごとく、ここは美しい竜宮城ではない。乙姫様から鯛やひらめの饗応を受けることもない。実際は四DKのつましいわが家である。
同じ日に白内障手術を受けた同世代の患者さんと術後の診察日で出会う。
「新聞がすっきり見えるし、本も読めるし、万々歳やわ。先生には心底感謝してるねん」
 聞いているこちらは内心、ますます不安がつのる。
「人によって、視力の回復ぐあいは違います。日にちがたてばだんだん見えるようになります」
 眼科医の言葉を信頼するしかない。そう思っても、病院内の展示物のすべてがぼやけて見える。気落ちしながら会計で診察費を支払い、病院を出る。
総合病院の広々とした庭の木々は、常緑樹を除いて、ほとんどが枯れ色に変わりつつある。裸木も目立つ。落葉を踏んで歩けば、さくさくと乾いた音がする。
 自宅に戻ってからも、気持ちはとことん落ちこむ。
「先生は徐々に見えるようになる言うてはるんやろ」
「うん」。
「大丈夫や」
 楽天家の夫は、新聞を読みながら、慰めたつもりになっている。
 だが、気持ちは暗いトンネルの中。一向に視力が回復しないからだ。おそるおそる思考を前に進む。行き着いた先に、ある疑惑に突き当たる。驚いたことに、これが大当たりだった。
なぜ、今の今まで気付かなかったのだろう。呼吸器系の慢性疾患のためにもう数年、服用している薬がある。そのなかのある薬の副作用だと判明した。ネット検索したところ、次の箇所に行きついたのだ。
『Aさんの場合、一年間の薬の服用は問題なく過ぎた。三カ月後から著しい視力低下を認め、どんどん悪化。やがて失明。Bさんの場合は、三年間、いっさいの視力低下は認められず、以後、急速に視力の悪化が進む。さらにまた、患者によっては副作用が認められない患者がいるのもたしかである。折々の視力チェックは必要不可欠である』
びっくり仰天。姉に相談。
「先生に言いなさい」
「お世話になっている先生には言いにくい」
「失明してもええん? 」
「いやや」
「だったら言わんと」
「うーん」
「わかった。口で言いにくかったら、文章にしなさい。先生に、ぜひ読んでください。そう言いなさい」
 姉に勇気づけられ,、慢性疾患で飲み続けているある薬の問題点、失明への恐れを、とつとつと文章にしたためた。それをまず、やさしげな眼科医に手渡す。
「先生、うまく口で言えないので、手紙に書いてきました。読んでください」
「ほーぉ。見せて、見せて」
 眼科医は好意的な態度で手紙を受け取ると、A4判のペーパーに印刷した文字に目を通しはじめる。ぞの様子を丸椅子に座りながらじっと見守る。裁判で有罪か無罪かの裁きを待つ被告に似た気持ちで。
眼科医は一度、首を上下に振り、頷いたように見えた。わかりました。そう無言で伝えてくれた気がした。それを証明するように、暗闇の中で診察が始まり、両目をかわるがわるチェックしたあと、神妙な声で言った。
「ふーむ。たしかに、視神経がかなりやられています」
 それだけではない。手紙で指定した薬の服用の中止を、慢性疾患の主治医への申し送り書面を書いて私に手渡してくれた。
 それを目にした慢性疾患の主治医は、その道の第一人者である。四十歳半ばの気難しそうな医師が厳しい表情を浮かべる。
「この薬は、世界標準で決まっている薬です。慢性疾患が少しずつ治りつつある今、この薬をやめるリスクが心配だ」
いささか感情を害した感がある。だが、次の言葉はまるでちがった。
「とはいえ、ここはあなたの視力を守ることが、最重要事項です」
 いささかとっつきにくい医師といったそれまでの印象が、一瞬にして氷解した。
「この薬をストップしましょう」
 医師は次の言葉を付け加えた。
「もし、この薬が視力低下の原因なら、六カ月から一年で視力は戻ります」
 あの日から一年余りが経過したとき、水を得た魚のように、羽を休めた鳥が飛び立つように、視界良好、新聞もテレビも文庫本もはっきり読めるようになった。
あの時、主治医に自分の気持ちを打ち明けず沈黙を守っていたなら、「沈黙は金」どころかラテン語の格言にある「沈黙は同意」とみなされ、今頃は失明していたかもしれない。
今となっては、白内障の症状は軽かったのかもしれない。だがしかし、手術をしなければ、薬の副作用という真実に到達していなかった。いい面があったと喜ぶのが賢明だ。
高齢者に限らず、若き人も、子どもも、何らかの薬を服用している人は全員、その副作用が起きていないか、常時チェックすることが大切だ。
この実感は、誇張すれば、私の人生が変わった瞬間ともいえる。医師への信頼は大切。だが、薬の服用で、もし、気になることがあれば、医師に伝えよう。
誰もが幸せに生きるために――。
                   (了)

婚活をやめた日から始まった「わたし」の人生

どん・よく子
「じゃあ、あとは結婚して子どもを産むだけね!」

わたしがなにかを達成するたびに、母は笑顔でその台詞を口にした。毎回、わたしの心には小さな、けれど鋭いトゲが刺さった。

念願だった英語を活かせる会社に転職しても、友人に囲まれ賑やかに過ごしても、趣味に熱中していても、母の目には「独身の未熟な娘」としか映っていない。その事実が、なによりわたしを追い詰めていた。

「結婚しなくたって幸せになれる!」
ーー そんな現代のキャッチーなフレーズは、母の放つ「結婚して初めて一人前」という力強い言葉の前で、脆くも消え去った。世間がなんと言おうと、わたしは母の言葉を無視できなかった。ただ、大好きなお母さんに一人前の証として「花丸」をつけてほしかったのだ。

だから、母が癌で長くは生きられないと知ったとき、わたしのアクセルは壊れた。
「母が生きているうちに、なんとしてでも結婚して孫を見せなくては。」
それはもはや、執念に近い暴走だった。

かつての知人に「お試しでいいから付き合って!」とすがりついた。地方住まいでありながら貯金を切り崩し、新幹線で東京の婚活パーティーへ通い詰めた(人が多いから出会いも多いと踏んだ)。アプリで出会う見ず知らずの男たちと、毎週同じバーで、同じ飲み物を頼み、同じような自己紹介を繰り返す。神頼みで買ったペールカラーの数珠は、いつしか効果を発揮しない呪いの品に見え、わたしはその淡い色彩さえも憎むようになった。

できることは全部やった。

けれど、祈りも空しく、季節は無情に巡る。冷たい雪が降り始めた頃、母はとうとうわたしの頭を撫でてくれることなく、あっけなく旅立ってしまった。

***

母から金メダルをもらうために走り抜けた20代。気がつけば、わたしは30代になっていた。 母のいなくなった部屋で、泣き疲れて佇む。ふと、これまで費やした膨大な時間と、すり減らした心が、途方もなく虚しく感じられた。

「……バカみたい。」

わたしは、アプリを消した。男たちの無機質な連絡先もすべて削除し「まだ見ぬ夫との結婚資金」として貯めていた通帳を握りしめ、成田へ向かった。

それは、半ばヤケクソの逃避行。けれど同時に、母の期待や他人の物差しを振りほどき、初めて自分の「やりたい」という衝動に従った瞬間だった。

一人で訪れた海外の島。そこには、職業や年齢で人を品定めする「婚活市場」の空気は一切なかった。男ウケを狙った窮屈なワンピースとヒールを脱ぎ捨て、ヨレたTシャツとジーンズ、スニーカーで歩く。砂浜に寝転び、どこまでも続く空と海の青に溶け込んだとき、わたしは生まれて初めて、自分自身のために呼吸をしている感覚を味わった。

「わたしには、こういう時間が必要だったんだな。」

本音を奥底に追いやってガチガチに固まっていた心が、あたたかい風に吹かれてふにゃふにゃとほぐれていく。快感だ。

決めた。

もう、他人の期待に応えるために命を削るのはやめよう。内向的なわたしが、無理に「初めまして」を繰り返す拷問のような日々には、もう戻らない。

そうして「婚活をやめる」と決めたあとは、霧が晴れたようだった。誰の顔色も伺わずに、自分の心の声に耳を傾けられる。足取りが軽やかで、スムーズに動き回れる。不思議と、やりたいことがどんどん浮かんできた。

そうと決まれば、行動あるのみ。日本に戻り、再び働いて資金を貯めたわたしは、今度は「逃避」ではなく「冒険」として海外の大学へ飛び込んだ。
出会う人すべてを「結婚できるか否か」の、重くつまらないフィルターを通してしか見ていなかった頃は感じなかった、人と話す喜びに震える。ただ自分の好きな学びや趣味に没頭しているとき、誇張抜きで「人生ってこんなに楽しいのか」と驚いた。

時期を同じくして「彼」に出会った。
婚活の場ではあんなに出せなかった「素の自分」が、彼を前にすると自然に溢れ出した。条件を照らし合わせるのではなく、心が共鳴する感覚。驚くほどすんなりと、わたしたちは家族になった。

今は、ブラジルでその彼、ラティーノの夫と暮らしている。毎日、雨のように降り注ぐキスとハグ。わたしたちはとても仲が良い。

もちろんここでも義母からは「孫の顔が見たい」という期待を投げかけられる。
けれど、今のわたしはかつてのようにうろたえない。
「どこの国の親も、思うことは同じなんだな」そう笑って受け流せる。
夫も「ママは大切だけど、僕たちの人生は僕たちのものだ。二人で決めよう。」と言ってくれる。

わたしたちの家庭に、子どもはいない。けれど、愛する夫と二人で創り出す未来は、なによりも鮮やかで自由だ。

かつて母に求めていた「花丸」も、届かなかった「金メダル」も、今はもういらない。
わたしは、自分自身にそれらをあげられるから。

今わたしは全力で「わたし」を生きている。

「Não tem problema!」の国で、私は「ちゃんとしないと」を手放せた

ochepaulo
「ごめん、ブラジルだわ。」
忘れもしない、2021年8月1日の夫からのライン。
「ブラジルって何?コーヒーのこと?」
「いや、転勤。僕、ブラジル行きだって。」

てっきり前日に買ったブラジルのコーヒー豆の話と思ったら、まさかの。
転勤の話。それも日本の裏側ブラジル。
待って、待って、待って。
結婚から5年。ちょうど昨年9月に、念願の一軒家を買った。まだ1年も住んでいない。

そもそも私は海外が好きじゃない。30歳を超えてパスポートすら持っていない。
言葉と自分の常識が通じないなんて、怖すぎる。新婚旅行だって北海道だった。

いや、そんなことより。わが家にはいるのだ。
日本も世界もコロナのニュースしかなかった2020年1月に生まれ、やっと1歳半を迎えた双子が。

育児デビュー戦にして、赤ちゃんが2人。世の中はコロナ一色。孤独な育児。
もはや今、可愛い赤ちゃん時代を思い出したくても
全く何も思い出せない。気づけば1日が終わっていた。
そんな生活をなんとか乗り超え、ようやく双子も1歳半。
ようやく生活リズムも落ち着いてきた頃。やっと、やっとここまで来たのに。
まさかのブラジルへの辞令。
だけど、ついていかないという選択肢はありえなかった。

あのLINEから7か月後、私達家族4人のブラジル・サンパウロでの生活が始まった。

選んだマンションは、見た目は綺麗だったけど
冷蔵庫、エアコン、洗濯機、キッチンの水回り。入居当初からとにかく色々な物が壊れた。
洗濯機の中の部品が壊れて、ズタボロになった双子の服が出てきたこともある。
思い出の服だった。あのときの絶望はまだ忘れられない。

壊れた家電を直すために、ブラジル人に修理をお願いした。
「明日の9時から17時の間にいくよ!」と返事が来る。
ずいぶん幅が広いなと思いつつ、待つ。来ない。連絡もない。メッセージをする。返事もない。やっと夜に返事が来た。
「今日は事故に巻き込まれて行けなかった。明日はいける。9時から17時の間に行く」
メッセージの語尾についた親指を立てたグッドの絵文字。
1日無駄にして笑うしかなかった。
次の日、修理の彼はやってきた。
9時からと言っていたのに連絡もなく8時40分にベルを鳴らし、
「BomDia!」と笑顔で部屋に入ってきた。
昨日のことなどなかったかのように作業を始めようとしている。
「昨日は大丈夫だったの?」と半分嫌味の気持ちで聞いてみる。
「Não tem problema! (問題ありません!)」
彼は鼻歌を歌いながら工具を広げて作業を始めた。

本当になんにも気にしていなさそうな彼の様子に
私は怒れなくなってしまった。
正確にいうと、責めるタイミングを失ってしまった。

こんなことはブラジルではよくあること。
帯同家族仲間とのランチ会で話すと、
絶対に複数人から「うちもさ~」と被害報告が出る。

でもやっぱり、ちゃんとしていないことが続くたび私は苛立った。
元々、かなりきっちりしている性格だ。
新卒で入社したのは銀行。ミスは許されない職場。
1か月で何度も始末書を書く同期もいる中で、
私が始末書を書いたのは、銀行員生活の中でたったの2回。
結婚してからも家計簿は1円単位でつけていて、収支がずれたことはただの一度もない。
双子の食事に関してだって、そうだ。
双子で未熟児での出産だったからこそ大きく育って欲しい。
白米も、肉も、野菜も。全てキッチンスケールで量って出した。
育児書の通りに、毎食、毎食、毎食。
ちゃんとしていないことが怖かった。他人にも「ちゃんとして欲しい」と思っていた。
でも、目の前で笑っているブラジル人を見ていると
なんとなく強く言えない自分もいた。

ある日、部屋の電球がまた壊れた。もう何個目か分からない。
双子の手を引いて、近所のコンビニのようなお店へ向かった。
小さいお店で、店内が混むことはまずない。だけどなぜか常に店員が5人はいる。
これもブラジルあるあるの1つで、小さい店に明らかに暇そうな店員が何人もいるのだ。

店員同士でおしゃべりしたり、
他のお客さんと雑談をしたり、
明らかに私用のスマホで電話をしたり。
レジに立っている店員は1人もいない。
日本では、絶対にありえない光景。

私が電球を選んでいる間、店員2人が双子に話しかけて遊んでくれた。
別の店員は、つたないポルトガル語でゆっくりしかしゃべれない私を
1度も急かすことなく、のんびり対応してくれた。

買い物を終えて近くのアイスクリーム屋に寄った。
最初は2人で1つと買ったアイスをご機嫌に食べていたが
「最後の1口を誰が食べるのか」で喧嘩を始めた。
大声を出す双子。焦る。早く静かにさせなきゃ。
そう思って、周りの顔色を見ようとした時だった。
双子が喧嘩している声よりも
大きな声で笑っているブラジル人の大人達がいた。どのブラジル人もそうだった。
みんな大声で笑って、店員さんと雑談して
好きなように時間を使っている。みんな、自由だった。
ふと店の外を見ると、見覚えのある顔。さっきのコンビニの店員達だった。
「また会ったね、可愛い双子ちゃん達!」
ブラジルでアジア人の双子連れ女性は目立つ。話しかけてくれた。
「お店は?大丈夫?」
つたないポルトガル語で聞いてみた。
「お店が停電になった。いつ戻るか分からないから、みんなでアイス食べに来た。Não tem problema!」
停電したから、店を閉めて、みんなでアイスを食べにくる。そしてそれが「問題ないよ!」
今はお昼で太陽も出ている。絶対に電気をつけなくても営業できる。
まず日本では通用しないであろう理由。

でも、目の前の彼らは、ただ楽しそうに笑ってアイスを食べていた。
その瞬間、ふっと肩の力が抜けた気がした。
「ちゃんとしてなくても、別に良いのかもしれない。」
そんな風に思えたのは初めての瞬間だった。

とは言ってもその後もブラジル人の適当さにびっくりすることは何度もあった。
そんな中で2025年12月、ついに夫に日本帰国の辞令が出た。

帰国当日、搭乗予定だった便は大した説明もないまま、なんと15時間も遅延した。
以前の私なら、耐えられなかったと思う。
でもその時の私は、双子と一緒に空港の椅子に座りながら、
「ブラジルが、私達に帰ってほしくないのかもね!」と笑って待っていられた。

2歳でブラジルに渡った双子は
この4月からは日本の小学校に通い始める。
きっとまた、時間どおりに、ちゃんと物事を進めないといけない日常が始まる。
でも私は、ブラジルで出会った人達を心のどこかに住まわせておきたいと思う。
「Não tem problema!」
そう笑っていたブラジル人達の声を思い出して。
これからの人生、少しだけ肩の力を抜いて、生きていきたい。

あなたが生まれて、私は自由になった

ひさこ
娘が生まれて、私の人生は少し「どうでもよく」なった。

誤解を恐れずに言えば、道端に落ちている犬のフンや、コンビニのレジ横でカピカピに干からびている唐揚げと同じくらいの価値に思えてきたのだ。
もちろん、これは究極にポジティブな意味である。

私は昭和の終わり際、高度経済成長の残り香が漂う家庭に生まれた。
父は厳格、母は専業主婦。「ちゃんとしていること」が何よりの美徳とされる環境だった。
母親が働いていれば「可哀想」と言われ、離婚なんてすれば「親の教育が悪い」と石を投げられる。
そんな窮屈な空気の中で、私はいつの間にか「他人の目」という名の監視カメラを脳内に内蔵して生きるようになった。
失敗してはいけない。評価を落としてはいけない。人に迷惑をかけてはいけない。

社会に出てからも、私はその監視カメラに怯えながら、自分という商品をいかに「まとも」に見せるかに腐心してきた。
私の人生は、他人の顔色を伺うためのサンプル品のようなものだった。

だが、娘という名の「理不尽の塊」が爆誕した瞬間、そのサンプル品は粉々に砕け散った。

世の中の育児エッセイには、玄関を開けると「ママ!」と駆け寄る我が子の姿に涙する、といった美談が溢れている。
あんなものは嘘だ。
少なくとも、私の日常には存在しない。

仕事終わりに電動自転車を必死に漕いで、喉に血の味がするほど追い込んで保育園に駆け込む。
そこで目にするのは、感動の再会ではない。
私を一瞥して「……あ、きたの」と言わんばかりに、おままごとでのお料理に没頭する娘の背中だ。
夜、疲れ果てて「一緒に寝よう」と誘えば、「パパがいい!!」と悪気なく全力で拒絶される。
十ヶ月もお腹の中で育て、ヒィヒィフーと、母娘初めての命懸けの共同作業をしたあの経験はなんだったのか。普通に凹む。

ところが、である。
そうやってズタボロにされた直後、娘がふと思い出したように「ママぁ」と、とろけるような笑顔で膝に乗ってくる。
そのほっぺたの柔らかさと、日向のような匂いに触れた瞬間、私の脳内には傲慢なまでの万能感が吹き荒れる。
「……待てよ。こんなに破壊的に可愛い生き物をこの世に爆誕させた私って、控えめに言って天才じゃないか?」
さっきまでの凹みはどこへやら。
「私、すごすぎる」という全能感で、すべての理不尽がチャラになる。
親という生き物は、本当にチョロい。

そう気づいたとき、内蔵されていた監視カメラが壊れた。

私の人生なんて、宇宙の歴史から見れば瞬きにもならない。
だったら、誰かの評価を気にして小さくまとまっているなんて、時間の無駄だ。
ゴミ同然の人生なら、せめて好き勝手に使い切ってやろう。

……でも、待てよ?
私の人生が本当に「ゴミ」だとしたら、そこから生まれた娘の人生はどうなるんだ。
ゴミから生まれたものは、やっぱりゴミなのか?

いや、それだけは断固として拒絶する。
この、私を「天才」だと思い込ませるほどの愛くるしい生命体がゴミなわけがない。
彼女は間違いなく、この世で一番の宝物だ。

だとしたら、論理的に考えて、その「製造元」である私の人生も、それなりに価値のある宝物として扱わなきゃいけないんじゃないか。
娘という「最高傑作」を生み出した自分を否定することは、彼女の存在そのものを否定することになる。
娘の人生を全肯定するために、私は私自身の人生を、誰が何と言おうと「最高に価値あるもの」として肯定し、面白がる義務がある。

私は「ちゃんとした大人」を演じるのを辞めた。
誰かの期待に応えるためにすり減るくらいなら、本心から自分の人生を楽しむ努力をしたい。

実を言えば、私の心の中には昔から、親や世間に見せてきた「優等生な私」とは別の生き物が住んでいた。

学校の放課後、レンタルCDショップへ駆け込み、棚の隅で見つけたブルーハーツを夢中で借りては、部屋の片隅で録音ボタンを押し続けていたあの頃。
ヘッドホンから流れる剥き出しのヒロトの言葉を、誰にも見つからないよう、ただ静かに飲み込んでいたあの頃の私だ。
今、胸の奥で再び「情熱の真っ赤なバラ」が咲き始めている。

失敗して転んでも、それを最高のネタとして笑い飛ばしながら、私は私の人生を遊び尽くすと決めた。
それが、私が娘に手渡せる唯一で最大のギフトだと思うから。

完璧な母親になんて、なれるはずがない。
相変わらず不器用で、娘に振られては凹み、それでも「私、天才」と自惚れながら自転車を爆走させる毎日だ。

でも、あなたが生まれてから、私の世界は確実に色を変えた。
それまでの人生が、誰かに見せるためのモノクロの履歴書だったとしたら、今は、誰にも見せない自由でカラフルな落書き帳のようなものになりつつある。

娘が生まれて、私の人生は少しどうでもよくなった。
そして、その「どうでもよさ」こそが、私に本当の自由をくれたのだ。

人生は短い。
そして、驚くほど自由だ。
だからあなたも、どうか好きに生きてほしい。
あなたの人生は、あなたのものだ。
もし道に迷ったら、いつでも帰ってくればいい。
そこには、誰よりも自分の人生を面白がっている、世界一ゴキゲンでロックな母親が立っているはずだ。

大丈夫。
私があなたの、甲本ヒロトになってやる。

終わりの始まり

爽矢
2024年、春。NHK連続テレビ小説「虎に翼」の放送が始まった頃。私は臨月の身体で、大学院修士課程の入学式を迎えていた。頭上では桜が舞い散り、そよ風が頬をなでている。まもなく誕生する命をこの身に宿し、学問の場に立ち返れる喜びを噛みしめながら、この半年の激流のような日々を思い返していた。

学生時代から付き合っていた相手との間に、子供ができたのは夏の終わりだった。
薬局で購入した妊娠検査薬で陽性反応が出たとき、目を疑った。本当にそんなことがあるのかと。でも昔から女としての身体にどこか自信がなかったから、こんな自分でも妊娠できるんだと妙な安堵感に包まれたし、いつか欲しいと思っていた子どもをついに持つことができると、夢がかなったような心地ですらあった。

ただそれは手放しで喜べるようなことではなかった。
問題は、父親である相手とはすでに破局しているということだった。一度終わった関係を、ここから始めることなどできるのか。
妊娠したと知られれば、双方の親をはじめ、いろんな人に順番が違うじゃないかと責め立てられるかもしれない。この先に待ち受ける様々なシナリオが頭を駆け巡った。それならば、いっそのこと相手を説得して、できちゃった婚にできないか。愚かな自分は、妊娠という決定的な事実を告げれば一緒になってくれるのではないかと一縷の望みをもった。
しかし、期待はあっけなく裏切られた。

「父親になることはできない」。相手はその一点張りだった。
時間をかけて説得すれば心変わりするかもしれないと粘ったが、すでに私の身体に宿った命はカウントダウンを始めていた。中絶するなら妊娠22週未満までという法律に追い立てられる。一刻も早く、産むか、産まないかを決断しなくてはならない。どちらにしても、自分の人生が昨日までとは全く違うものに変わってしまう現実があった。

妊娠は一人ではできないのに、女である自分の身体ばかりが変化していく。
黙っていれば、昨日と何ら変わらない日常を生きられる相手と違って、必要な手続きや支援を受けるために、私は自ら勤務先や家族に申し出なくてはいけない。そんな不平等に直面しながらも、産まないという選択肢は湧き上がらなかった。むしろ、婦人科でエコーの写真を見せられるたび、この子に会いたいという気持ちが強くなった。
結婚しないということはシングルマザーになるということで、父親がいないために子どもに悲しい思いをさせるかもしれない。私が努力すれば一緒になれる可能性もあるのだろうか、そう心が揺れ動くこともあった。しかし、理不尽な相手の行いにも我慢して譲歩して、私ばかり傷つくのはどう考えてもおかしい。対等でない関係性の先に幸せがあるとは思えなかった。お腹にいるこの子は、私が守っていく。こうして、私は未婚のひとり親になる道を選んだ。

この身を挺してでも守るべきものができたとき、人は変わる。
それまで中途半端に抱いていた相手への情けは消え失せ、子を養育するために譲れない諸々について、毅然とした態度で交渉を始めた。
面会交流や養育費に関する取り決め、それらを記した公正証書の作成、胎児認知の手続き。
日に日に大きくなっていくお腹を抱えて行うには、体力的にも精神的にもきつい作業だったが、お腹の子の将来のために妥協するまいと踏ん張った。
並行して、妊娠前から志望していた大学院進学の道も諦めないことを誓い、可能な限り受験勉強にも励んだ。およそ妊婦らしからぬハードな日々だったが、自分の意志を貫くこと、自分のやりたいことに正直であることが、困難な状況でも己の尊厳を保つことを可能にした。

受験は見事合格。春に入学することが決まった。その頃には、公正証書の作成が無事に終わり、一時の安堵感を得ていた。母親や職場の同僚など理解してくれる人たちの支えがあり、綱渡りのような十月十日をなんとか乗り越えた。

大学院の入学式を終えて一か月後。ついに、出産のときを迎えた。
立ち合ってくれる夫がいない状況で一人、陣痛に耐える孤独は想像以上に堪えた。
助産師さんが懸命に励ましてくれる声を遠くに聞きながら、私はその手を強く握り、絶叫しながら最後の痛みを乗り越えた。
「16時56分。おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
生まれてきた子は驚くほどに小さくて、真っ白なバスタオルにくるまれたまま、私の胸に抱かれた。たまらず、父親である相手にメッセージを送った。
「産まれました」
その一言と共に、産まれたばかりの娘の写真を一枚だけ送った。
返事はすぐに返ってきた。
「お疲れ様です。おめでとうございます。本当にお疲れ様です。できる限り、しっかり身体を休めてください。写真送ってくれてありがとう」
このメッセージを最後に、相手とは養育費のやりとりのみを交わす関係性となった。

出産という一大事を終えて達成感に包まれていたのも束の間、入院生活が終わると、過酷な新生児との暮らしが始まった。授乳におむつ替えと四六時中、世話に追われ、寝れず食べれず風呂に入れずの修行のような毎日。ようやく寝たと思っても、正常に息をしているだろうかと気が気でなく、ミルクを噴水のように吐き出せば、重大な病気にかかっているのではないかと心配になり、ネット検索する手が止まらない。
夜な夜な授乳をしながら、この宇宙人のような生物は、自分のことを母親と認識しているのだろうかと不安が膨らんでいった。
しかし、乳を飲んでベッドに寝かされているだけだった娘も、やがて寝返りを打ちハイハイを始め、つかまり立ちをし、すってんころりんしながらも、気づけば確実に二足歩行するようになっていく。
生後5カ月を過ぎた頃から、大学院の授業にも参加できるようになった。とはいえ、キャンパスにはほとんど出向けず、オンライン授業で単位を稼ぎ、子供が寝ている時間に課題を済ませた。
大学院2年目からは、育児休業を終えて職場復帰し、仕事と大学院と子育てという、3足の草鞋を履いて駆け抜ける日々だった。保育園に通い始めた子供は頻繁に熱を出し、小児科や耳鼻科に連れて行くことになれば、会社の看護休暇などあっという間に使い果たしてしまう。睡眠不足と貧血で体力は限界を極めたが、昼休憩や電車での通勤時間など、隙間時間を見つけて論文を執筆し、身を削る思いで提出期限までに書き終えた。

入学式から2年が経ち、大学院修了を控えた3月。虎に翼のスピンオフが放送された。そのドラマの主人公は、女性が搾取される社会への尽きない怒りを体現していた。
娘を妊娠してから、この世に女性として生まれることの脆弱さを痛感するようになった。常に性的対象として見られ、一度、貧困に陥れば生活するために身を売らざるを得ない人々が現実にいる。ひとり親である自らも一寸先は闇だと自覚している。世界情勢は混乱を極めており、子供や女性の人権は踏みにじられるばかりだ。自分一人にできることなど何もないと、絶望したくもなる。でもだからこそ私は、自分と娘とこれからの世代のために、その環境がある限り学ぶことを、それによって社会を変えることを諦めないでいたいと思う。
まもなく2歳になる娘と共に、そんな志を胸に抱いて、あの日と同じ桜の木の下で、学位記を受け取った。

私を呼び戻した「いらっしゃいませ」

みずの
まだ夜の名残が残る時間、店のシャッターを開ける。吐く息が白くなるほどの冷たい空気の中で、私は小さく深呼吸をした。店内の明かりをつけ、レジの前に立つ。着慣れない制服の感触が、どこか落ち着かない。

「いらっしゃいませ」

その一言は、思っていたよりも重く、喉の奥に引っかかった。
それでも、その声は、止まっていた私の時間を動かした。

結婚して、子どもが生まれて、夫の転勤で知らない土地に来た。決して特別なことではない、ごく普通の幸せな人生だと思う。けれど気がつけば、私の生活はいつも誰かのためのものだった。家族の予定を優先し、子どもの体調や気持ちに合わせて一日が過ぎていく。自分のことは後回しになるのが当たり前で、それに疑問を持つこともなかった。

子どもが小学生になり、働き始めようと思った矢先、不登校になった。その頃から、家の中の時間が増え、少しずつ重くなっていった。朝になっても部屋から出られない子どもを前に、どう声をかけていいのか分からず、ただ時間だけが過ぎていく。学校へ行けないことよりも、何もしてあげられない自分の無力さの方が、胸に残った。

在宅で仕事をしていたものの、やりとりはほとんどが文字だけ。画面の向こうには誰かがいるはずなのに、声も表情もないやりとりは、どこか現実味がなかった。

一日中、誰とも声を交わさない日もあった。家の中で、家事と仕事と子どもの様子を気にかけることだけで一日が終わる。外に出る理由は減り、家族以外と話す機会も、いつの間にかほとんどなくなっていた。

同じことの繰り返しのような毎日の中で、時間だけが静かに過ぎていく。不自由はないはずなのに、どこか空っぽな感覚が残る。

社会から少しずつ取り残されていくような感覚の中で、ある日、子どもが学校の課題を持ち帰ってきた。将来の夢を書くというものだった。

「母の夢って、なに?」

何気ない調子で聞かれて、言葉に詰まった。すぐに答えられない自分に、戸惑った。少し考えてみても、うまく言葉が出てこない。やりたいことも、なりたい自分も、はっきりと浮かんでこなかった。そのとき初めて、私は「自分が何者なのか」「何をしたいのか」が分からなくなっていることに気づいた。

妻や母親であることは確かでも、それ以外の自分はどこにいるのだろう。私は、本当は誰の役にも立てていないのではないか。

そんな思いが、静かに積もっていった。このまま、ただ日々をこなしていくだけでいいのだろうか。子どもに、生き生きと過ごしている大人の姿を、私は見せられているだろうか。

家族以外の誰かに、必要とされていると感じたかった。自分の手でお金を稼ぎ、社会とつながっていると実感したかった。小さくて、でも切実な願いだった。

ある日、何気なく開いた求人サイトで、家から徒歩二分の場所にある見慣れたコンビニの募集を見つけた。正直に言えば、「近いから」という理由が大きかった。もし何かあってもすぐに帰れる距離。子どもでも駆け込める場所。もし私がいないときでも、この店の明かりが、あの子の居場所になるかもしれないと思った。

それでも、応募ボタンを押したあと、不安はすぐに押し寄せてきた。職場の人はいい人たちだろうか。若い頃苦手だったレジ操作をもう一度覚えられるだろうか。体力が続くだろうか。「外に出て働く自分」を想像することが、どこか現実味を持てなかった。

それでも、「やってみよう」と思ったのは、このまま何も変わらない自分でいることの方が、怖かったからだ。40歳という年齢が、背中を押したのかもしれない。

初日の朝、まだ暗いうちに家を出た。静まり返った道を歩きながら、店はすぐそこに見えているのに、何度も引き返したくなった。それでも足を止めなかったのは、ここで逃げたら、また同じ場所に戻ってしまうと思ったからだった。

「あれ、新人さんだね。朝は大変だろうけど、がんばってね」

レジに立って数日が経った頃、常連らしいお客様に声をかけられた。ほんの一言だったのに、肩の力が抜けた。言われたことをこなすことに必死で、うまくできているかどうかばかり気にしていた私にとって、その言葉は「ここにいていい」と言われたように感じられた。

商品の場所を尋ねられ、うまく案内できずに戸惑った日もある。レジで操作に手間取り、後ろに列を作ってしまったこともある。それでも、お客様が最後に「ありがとう」と言ってくれたとき、胸の奥が静かに温かくなった。

仕事を終えて外に出ると、空が明るくなっていることに気づく。暗かった世界に光が差し込んでくるその瞬間を、以前よりもずっと丁寧に感じ取れるようになった。

ある日、仕事中に見慣れた顔が店に入ってきた。子どもだった。少し照れたようにレジに商品を持ってきて、私の顔を見ると、ぽつりと言った。

「お母さん、頑張ってるじゃん」

思いがけない一言に、胸の奥がじんとした。うまくやれているのか分からず、不安ばかりだった私にとって、その言葉は何よりの励ましだった。

家でひたすらパソコンに向かっている姿とは違い、ここでは誰の目にも分かる形で働いている。その姿を、ちゃんと見てもらえたことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。働くということが、誰かの役に立つだけでなく、子どもにとっても意味のあるものになっていたのだと、そのとき初めて気づいた。

コンビニで働いたから特別に何かが変わった、というわけではないのかもしれない。けれど、ここには確かに自分の役割があった。目の前のお客様に声をかけ、商品を手渡し、「ありがとう」と言葉が返ってくる。そのやりとりの一つひとつが、途切れかけていた社会とのつながりを、もう一度結び直してくれた。家の中では見えにくかった「誰かの役に立っている実感」が、ここにはあった。そしてそれは、子どもにも伝わるかたちで、確かに存在していた。

そうして私は、少しずつ外の世界に自分の居場所を取り戻していった。

冬の間、まだ暗いうちに出勤して、先輩に教わりながら慌ただしく店を開けていた私は、季節が移り変わり、開店時に空が明るくなるころには、一人で店を任されるようになっていた。

はじめて一人で店を任された日、思わず店長に聞いた。
「本当に私なんかに、任せていいんですか?」
「何を言っているの。もう一人前よ」
店長はそう言って、笑った。

私の生活は、大きく変わったわけではない。子どもは今も、学校に行けない日がある。収入も劇的に増えたわけではない。それでも、自分の足で立ち、自分の声で誰かを迎えている今、確かに世界の見え方は変わった。

誰かのために生きてきた時間も、きっと無駄ではなかった。その上に、ようやく「自分としての時間」を重ね始めている。まだ小さな一歩かもしれない。それでも、この一歩が、私の人生を確かに動かした。

あの朝の「いらっしゃいませ」は、誰かに向けた言葉であると同時に、止まっていた自分自身を、呼び起こす声だった。

徒花の咲く季節

柿沼タミィ
手の上に乗せた2粒の錠剤。
ミフェプリストリンとミソプロヒノール。
今日私は、心臓が始まったばかりの命を終わらせる。

子供の頃、性教育の教科書を見るのが好きだった。
女性の体に起きる変化はまるで昔見た魔法少女アニメの変身シーンのようで早くその徴が自分に現れないものかと心待ちにした。
早い話が、おかしな方向に早熟な子供だったのだ。
読書家でなんでも読んだ私は、とある古本屋で出会った小説に衝撃を受けた。
その本にあった性描写を多分に含んだ文章は、小学生の私からすれば未知の領域だったのだ。
成熟した女性の体を持つことは、財産を得ることに等しいと思い込んだ。
そうして気がつけば、電子辞書には性に関する言葉の履歴ばかり残っていった。
私は知識だけある猿に成り果て、膨らみかけている胸や産毛の生え具合に一喜一憂する日々。
初潮が来た時は一人で盆と正月が一気に来たかのような大騒ぎぶりだった。
それが子を成すための機能であるとの実感は正直なところ薄かった。
単純に大人の女性になれるのが嬉しかった。
要は私は、アニメや小説に出てくるカーブのある大人びた少女になりたかったのだ。

大人びた少女になればボーイフレンドができる。アニメの少女たちのように。
そして二人だけの秘密の言語で、キミとボクの世界で、終わらない愛を歌うのだ。
今思うと赤面したくなるような馬鹿馬鹿しさだが、当時は本当にそう信じていた。
はっきり言って、思春期前後の私は孤独だった。
小学校高学年からアメリカに移住したのだが、友達と言える人間は一人もいなかった。
もともと発達特性のある過敏な子供であった私にとって、アメリカの公立校は地獄も同然だった。
アジア人で日本語の本ばかり持ち歩いていてしかも英語を話さない。わかりやすくくマイノリティだ。
そんなこんなで、当時所属していたコミュニティ全般には完全に心を閉ざしていた。
フィクションは現実を麻痺させる麻酔だ。
愛というのはインターコースで育まれる。インターネットに転がっているティーンズラブやBL小説でもそう書いてある。
親の毎朝の日課であるパソコンの履歴チェックを潜り抜けるべく、キャッシュを削除する技は既に会得済みだ。
この頃には読む内容はかなり直接的で過激なものになっていた。
そうして私はそれを早く実践したいと思っていた。

ところが話はそう簡単ではない。
初潮を迎えた身体はホルモンバランスの変化により、ありがたくない副産物もオマケしてくれた。
太り、毛がうねり、ニキビができた。
理想のヒロインの体から乖離した現実を直視しないように、私は膨らんだ胸を強調する服を好んで着るようになる。
するとあら不思議。少しマシに見える。
胸を目立たせると、前は見向きもしてこなかった人たちが近づいてくるようになった。
多くはローカルの男の子たち。たまに私と同じ日本人もいた。
やっぱりいざ致すなら日本人がいいのだろうか。
近づいてきた子一人一人との性交渉を想像する。
これで私はヒロインになれる?この子相手で?本当に?

結局、言い寄ってきた男子の中で一番顔がよくて一番背が高い子とセックスすることに決めた。
理由?なんだかロマンチックな気分になれそうだったから。
主人公の気分を味わえればなんでもいい。
現実世界ではミソッカスなんだから、せめてベッドの中でだけでも夢を見させてくれ。
結果だけ言えば思ったより痛くはないが期待していたような面白い感じにもならなかった。
それでも向こうはまたしたいと言ってきた。
次の日に、付き合うことになった。
人生初の彼氏ができたのは素直にうれしい。
性行為に関しては、この時点でだいぶもうどうでもよくなりつつあった。
良くも悪くも現実が見えたのだ。

彼女としての義務を果たすべく、そう言うことをしていたんだと思う。もちろん彼もあくまで真摯で、ちゃんと行為の際には避妊具をつけていた。
それでもどこかで不手際があったんだろう。コンドームの避妊率は100%ではないのをその時に知った。第6週目。いつもはスイス時計のような正確さでくる生理が遅れて病院に行った時に告げられた。エコーに映された胎児と呼ばれたものはただの影にしか見えない。
この身体にもう一つの小さな心臓があるのが信じられなかった。当然まだ学生だし産むことは考えられない。そして、2錠の薬剤が処方されたのだった。アメリカでは薬で中絶できる。その手軽さはいいことなんだか悪いことなんだかわからなかった。

家に帰った後は同行していた母親に一通り「性についてどう思うか」を説教された。気まずくて今思い出しても消え入りたい。いや、むしろ胸を痛めているのは母親のほうだろう。とんでもないことになった自覚が遅れてじわじわとやってきた。
寝る前に件の薬を飲んだ。こんなわずかな量の薬
であの小さな生き物を排出するのか。最初にミフェプリストン。次の日にミソプロストール。ほどなくして生理痛のような痛みがやってくる。徐々に強くなる波は腹を壊した時のような痛みと判別がつかなくなり、トイレで下着を下ろした瞬間ボタボタと大量の血が滴りおちた。急いで生理用ナプキンを当てようと立ち上がった瞬間、血の塊がずるりと体内からこぼれ出た。床に広がる血の海の中に指の先ほどの青白い塊が浮かんでいた。おそらくこれが6週の胎児なのだと遅れて気づいた。

あの日、私は自分の意思で胎児の命を終わらせた。
私は無知だった。
ファンタジーの身体は孕まないが、私がこの現実の世界で、現実の肉体を持つ限り、生殖の危険とチャンスは常に付きまとう。
女性の身体を持つことの責任。そして、その責任を理解せずに都合のいい場所だけ侵食しようという男性も残念ながらいる。
現在、私は特性のある少女たちを中心とした性教育アドバイザーのボランティアをしている。
発達特性がある子供たちが思春期に向き合うため、私になにができるか日々勉強し続ける日々だ。
この世で一つしかない現実を生きる身体を大事に保つということ。
私は宿った命をひとつ潰したことでその重みをやっと理解した。
数年後、縁あって新しく二人の子供を授かった。
世界に対して心をひらけば、妊娠も出産もなんともないことだった。
体内で育まれるのを完遂した命はこんなにも美しい。
同時に、以前起こったことをただの不幸として消化するつもりは毛頭ない。
宿す機能を持って生まれ、この世界を生きる限りこの矛盾への答えは簡単には出ないだろう。
けれど生きている限り、私はこの身体ごと外へ開かれ続ける。
いつか少女たちにその答えを見せられたらなと思う。

手術室で流せない涙

松沢なほこ
 手術室という場所は、外の世界とは切り離された無菌の箱である。室温は低く保たれ、さまざまな機械が整然と並ぶ。ここでは毎日、大きな決心を抱えた患者を迎え入れている。
 ほとんどの手術は、患者本人だけに対するものであるが、「帝王切開術」「子宮外妊娠手術」は自分以外の「命」が関わる手術である。私が女性だからかもしれないが、この二つはどこか特別な空気を纏っている気がするのである。二人分の命を預かる手術スタッフにもそんな緊張があるのか、手術室の雰囲気は少々異質なものになる。命が誕生する手術。命を手放す手術。どちらも、お母さんの想いはきっと、私たちの想像を遥かに超えるほど大きく、そして複雑なものだろう。
 手術室の入室ホールでは、患者の本人確認と取り外しの確認等を行う。そのお母さんは大きいお腹を抱えてお腹をさすりながら、柔らかな表情で入室された。旦那さんとご両親と一言二言交わされて入室ホールの椅子に腰掛ける。一通りの確認を済ませ、お母さんの緊張を和らげるためにも少々の雑談を交わす。
「もう少しであかちゃんに会えますね」
「前回の出産もここで帝王切開でしたけど、慣れるものではないですね。楽しみだけどやっぱり緊張します」
受付が完了し、共に歩いて手術室へ向かう。入室すると麻酔科医と産婦人科の執刀医たちが出迎え、和やかな雰囲気の中で、雑談しながらも速やかに準備を進める。下半身への麻酔も施し、お母さん側の準備は万端である。お母さんの眼前にかけられた大きなカーテンの向こうではスタッフが皆手を休めることなく動き続けている。清潔野に携わるスタッフ全員がガウンと手袋を装着し、いざ全員手を止めて最終確認である。執刀医が声を出す。
「只今より、〇〇さんの帝王切開術を行います。執刀産婦人科△△です」それに続いて助手の医師、麻酔科医師、手術室看護師が自己紹介を行う。
『よろしくお願いします!』
「メス」
皮膚切開からものの一、二分で胎児が娩出される。本当に一瞬のことだ。
「おめでとうございます!」
産声が上がりすぐに助産師があかちゃんを受け取り、保育器内で小児科医と共に状態を確認する。器械出し看護師は心の中でお祝いしながらも、次の準備でいっぱいいっぱいである。出血を最小限に抑えるため、医師の手技スピードはさらに上がる。子宮をあっという間に縫合してゆく。術野で操作が続いている間にも、待望のあかちゃんとお母さんのご対面である。助産師があかちゃんをお母さんの頭もとに連れてゆく。このとき、お母さんの
「わあ……かわいい。よかった……ありがとうございます、ありがとうございます」
と啜り泣く声が聞こえるのだ。私が器械出しをしているとき毎回涙腺が緩むのだが、自分は清潔野にいる身。涙は不潔である。涙が清潔野に落ちたらその瞬間すべてが不潔になる。絶対に涙なぞこぼしてはならない。無影灯の下で溢れ出る感情を押し殺し、鼻をひと啜りして、医師に縫合糸とハサミを渡してゆく。
 帝王切開術は唯一、生命が誕生する手術である。お母さんの身体にメスを入れ、非常に負担がかかる命がけのお産である。室内がお母さんの喜びと周りの祝福で溢れる手術であり、このような温かい気持ちにさせられる手術は他にない。一方、「子宮外妊娠」の手術はこの対極にあると言ってもよい。進行すると、卵管破裂により激痛・大出血を伴う事態となる。発覚次第、緊急手術が行われることもある。
 三十代のあるお母さんは、不妊治療の末待望の第一子を妊娠したが、腹痛に見舞われ救急搬送された。精査の結果「子宮外妊娠」と診断され、緊急手術が行われることとなった。
お母さんは泣き腫らした目でベッドと共に入室ホールへ運ばれてきた。旦那さんの手を強く握りしめながら。ここへ来るまでに、どれほど泣いたのだろうかと思うほど、その目は赤く腫れていた。言葉を発することも辛い様子で、私は本人確認の後、「はい」「いいえ」で答えられる質問のみを続けた。
「取り外せるものはありませんか」
「アレルギーはありませんか」
そんな当たり障りのない言葉しかかけられない自分に毎回もどかしさを感じる。やはり私も同性だからか、感情移入してしまい込み上げてくるものがあるが、薄っぺらい言葉など何の救いにもならない。付き添いの旦那さんに挨拶をし、私たちはそのまま手術室へ向かう。中では麻酔科医と執刀医ができる限りの準備を終え待っている。すぐにモニターが装着され、酸素マスクをつけられる。あまりの素早さに、お母さんは涙を流しながらもどこか焦ったような表情だ。看護師が手を握り、声を掛ける。
「大丈夫ですよ。そばにいますからね。痛みもすぐに良くなりますよ」
その言葉の数秒後、お母さんは麻酔で静かに眠りにつく。直後、手術室の空気は一変する。指示や確認の声が大きく響き、そこには先ほどまでお母さんに見せていた笑顔も余裕もない。
「カテーテル入れて!」
「糸針足りないよ、持ってきて!」
手術中も機械的で、無機質な雰囲気に包まれている。お母さんの命を守るために、手技が淡々と進められ、三十分程度で終わることも少なくない。
 麻酔から覚めたお母さんに執刀医が声をかける。
「〇〇さん、無事に終わりましたよ。頑張りましたね」
「あ……。私、ああ、そっか……。ありがとうございました」
まだ朦朧としている瞳を見ても、状況を理解できているかはわからない。手術を終えたお母さんと、ベッドを押して退室する医師たちを見送る。私たち手術室看護師の役目はここまでだ。
 私はこれまで、「感情を抑えること」がプロフェッショナルだと思っていた。涙を流さないことが、正しさだと。しかし、この二つの手術を経験する中で、気づくことができた。私たちが向き合っているのは、単なる身体ではない。その人が積み重ねてきた時間や、これから歩むはずだった未来——つまり「人生」そのものなのだと。喜びに満ちた涙も言葉にならない喪失の涙も、どちらも同じように尊いものだ。それでも私は、手術室では涙をこぼすことができない。けれど、目の前の患者を「一つの症例」としてではなく、「一人の人生」として見るようになった。かけられる言葉は相変わらず少ないかもしれない。それでも、せめてその人の時間に、静かに寄り添える存在でありたいと思うようになった。
 手術室の扉の向こうでは、今日も誰かの人生が大きく動いている。
 私はその一場面に立ち会い続ける。
 涙をこぼすことなく。

ジョセイの可能性

ゆきち
「女性部って何をするんですか」
まちの会議室を予約しに行った時のこと。受付の男性が顔をしかめる。それもそのはず。当時女は家にいるものとされ、『女性部』と言ってもピンとこない。
そんな私たちが女性部を立ち上げるきっかけになったのが、町内会の掃除当番。日曜日の朝。手にゴミ袋を持って現れたのは、全員女性。一家に代表者一名とは言え、それは、ない。
「ホント、わたしたち、ゴミみたいな扱いよね」
「そうそう。『おーい』って言うから、何かと思えば、『お茶』だって!あたしは伊藤園じゃないっつーの」
「あはは。それならまだマシよ!うちなんか、『今日(掃除)当番だろ』ってゴミ袋渡してくるんだから」
口々に漏れる不満の数々。
毎年行われるゴルフコンペ、親睦旅行、忘年会は、どれも男性主催。夫が意気揚々と出かける姿を見るたびに、つくづく、しみじみ、うんざりしつつ思う。
「わたしって、なんなの?」
そこで立ち上げた女性部。
しかし、その道のりは前途多難。何せ、まず夫を説得しなければならない。「懇親のため」と言えば「子どもはどうする」と言われ、「連れて行く」と言えば「メシはどうする」と引かない。もはや、子ども以上に手がかかる。隣の家の奥さんは「そんなもんやったら、離婚だぞ」と脅されたらしい。それでもここで引き下がるわけにいかないと言ったら、笑われてしまうだろうか。何が何でも実現させたくなった。
「たとえば盆踊りのお手伝いしたりとか……」
「あとは、忘年会のおつまみを作ったりとか……?」
すると、夫は「お酌係か」と言い、「なら仕方ないな」と承諾。本当に、どこまでも、理解のない夫。私は、呆れふためいた末に、大きくため息をついた。
初めての女性部は、たった六畳の和室で行われた。隣では、将棋サークルが広い多目的室を独占している。その広さが心の狭さ。男性、年寄りには寛容なのに、女性というだけで邪魔者扱い。
「さて、何をしようか」
持ち寄ったクッキーをかじる。
「飲み会は?」
「子どもが寝る時間だしね」
「料理教室は?」
「子どもがいると危ないでしょ。それに場所もないし、お金も、ねぇ。市から助成金でも出ればいいけど」
やりたいことは山ほどあるのに、やれない理由に阻まれる。何だか食べかけのクッキーがほろ苦く感じられた。そんな中、代表の香菜が言った。
「となりの多目的室、なんか昔、調理室だったみたいで、まだ使えるらしいの。ただ、10人以上いないとダメらしくて……」
十名まで、あと四名。私は少し考えた。
室内なら、まだ危険が少ない。
だから。
子どもと作れば食育にもなる。
だから。
たまには他のお母さんとも話したい。
だから。
「みんなでお願いに行こう」
ただし現実は決して甘くなかった。行く先々で、「主人に聞いてみないと」と濁され、「子どもがちいさいから」と断られた。インターフォン越しに「そんなの面倒くさい」と言われた時には、思わず下を向いた。私のしていることは自己満足なのか。やっぱり、女は家にいるものなのか。そう考えては、心も体も、すすんではとまる、のくり返しだった。
そんな中、まちの農家さんから栗を頂いた。
「これ、よかったらあげるよ。意外と野菜と合うんだよ!」
「えっ、本当ですか」
「『びっくり』するくらい美味いからさ、みんなで食べてよ!」
おじさんは茶目っ気たっぷりに笑った。栗のいがのように尖った気持ちが、どこか和らいだ。
調理の日。集まったメンバーで栗ごはんを作った。見切り品の豚バラ。家庭菜園で採れたニンジン。直売所のゴボウ。それらを刻んで、一緒に炊いてみた。
「これ、本当に栗ごはん?すっごく美味しい」
もはや箸も、賛辞も、とまらない。少しお湯でのばせば離乳食にもなる。これが家族にウケないわけがない。
その夜、洗濯物を畳んでいると、キッチンから夫の声がした。
「おーい」
お茶かと思ったらちがった。
「これ、まだある?すげー、うまいんだけど」
見ればさっき作った栗ごはんだった。
「出せばいいじゃん、こういうの」
「え?」
「ほら、今度あるだろ、秋の収穫祭。出店すりゃいいじゃん」
言葉が、耳ではなく、胸に響いた。

こうして迎えた秋の収穫祭。私たちの商品は『びっ栗ごはん』として提供された。はじめての出店、はじめての課外活動。せっかく作った看板は、子どもたちにペンキをこぼされ、見るに耐えないものとなった。それでも「看板娘の私たちがいるから、いらないわ」と笑い合う。
出店に先立ち、団体名もつけた。

WoWoman

驚きをあらわす『WoW』と、女性をあらわす『Woman』を合体させた言葉である。その言葉どおり、私たちの働きぶりを見たお客様は目を丸くした。
「こんなに若いお母さんたちが、店に立っているなんて」
背中に子ども、手に杓文字。次から次に差し出される容器。よそる。渡す。また、よそる。
おかげさまでこの日の100食はたった30分で完売。お腹も、心も、満たされた。
閉店後、看板を撤去していると、ひとりの女性が来た。
「ちょっと、いいですか」
「あ、はい」
「私もこういうのやってみたいんですけど、精神疾患があって……」
私は口をつぐんだ。
「でも、やってみたくて。ここに住んでないとダメですか」
「子どもがいないんですけどいいですか」
「五十をこえててもいいですか」
私は、また、口をつぐんだ。だけど、今度は戸惑ったからではない。嬉しかったのだ。そこまでして入りたいと言ってくれることが、本当に。

あれから30名を越える団体へと成長したWoWoman。今や、シングルマザーから後期高齢者まで、様々な年齢層が集う。もともと『離乳食』から始まった料理教室も、『高齢者』や『こども』へと対象を広げ、まちの胃袋を掴んで離さない。『びっ栗ごはん』から始まったメニューも、贅沢に牛すじを煮込んだ『華麗ライス』や、身体にやさしい『加齢ライス』にレパートリーを増やし、まちの笑顔を彩っている。
そんな今、思う。果たして女性の可能性はどこまで広がるのかと。
たとえば、『助成』として誰かのためにお金を使うもよし、『助勢』として誰かを支えるもよし。性別にとらわれない『除性』として、新しいことに挑むのもいい。
どんな『ジョセイ』も、きっと、誰かを幸せにできる。

「今度はこども食堂をやりたいね」

まもなく初孫が生まれる香菜が言う。
その言葉に、私たちの決意は、さらに、強く、深く、熱くなっている。

「言い訳」をもうひとつ

まよ
チクタクチクタク。
私の中で、時が刻まれる音がする。一度過ぎたら二度と戻れない不可逆のそのリズムは、決して止まることはない。

定期的に会う男友達Y君がいる。高校生のときに出会った彼は、高校ではドイツ留学、大学ではモザンビークに留学に行き、社会人生活を経て、スペインにMBA留学をしたチャレンジ精神の塊のような男である。彼の夢は故郷の市長になること。
久しぶりにあったその日も、彼は饒舌だった。留学でいったドイツやモザンビークの国民性や文化について。一年間のMBAで広がった知見について。この話題の嵐の中に、ドイツ語とスペイン語と大ファンである村上春樹のうんちくを少々混ぜて彼は2時間語り続けた。そして私に問いかけた。「最近真詠はどうよ」、と。

経験も教養も趣味も夢もふんだんに詰まっている彼との会話は楽しい。でも、同時に辛くもある。「社会人6年目でぼちぼち働き、結婚した今では夫との生活が楽しいです」というそんな私の生活のささやかな幸せが急に色あせて取るに足らないものに見えるからだ。「私は変わらずぼちぼちかな。今の生活で満足しているよ」と小さな声で返事をした。心からの本音なのに、自分が夢を諦めたつまらない人間に思えてくるのだ。

私のかつての夢。それはジャーナリストになることだった。高校時代は、高校生新聞の記者をしたり、アメリカへ三週間留学したり、行内外のエッセイコンテストや弁論大会へ出場したり。無我夢中で夢を追いかけた。どうしても行きたい大学があった私は高校卒業後、浪人するという選択をした。浪人生となった春、双極性障害Ⅰ型を発症した。激躁と激鬱。三度の精神科での閉鎖病棟での長期入院。四年間のひきこもり生活と希死念慮。高校時代の勝気で自信にあふれ何にでも挑戦した私は、死んでいった。

それでも、家族や友人に支えられ、私は闘病生活を続けながら回復へ向かった。こんな生活を続けても、やはり大学への憧れがあった私は、両親と相談し受験勉強を再開し、その春志望校から合格通知をもらった。小学生の頃から夢見たジャーナリスト。闘病を続けながらなんとか大学生活を送っていた私は、卒業することが精いっぱいであり、その夢を追う余力がなかった。卒業すること、迷惑をかけ続けた家族へ恩返しすること、脛を齧り続けた生活から経済的に自立すること。それが今の私の夢となった。そしてその夢を叶え、私は一般企業に入社し、社会人となり、ずっと支え続けてくれた恋人と結婚して、ささやかだけれど幸せな毎日を送っている。それこそが私の夢であった、はずだ。

冒頭に戻る。国際派で活動的なY君の夢を追う生活を聞いていると、どうしても思ってしまうのだ。もし、あのとき双極性障害を発症していなかったら、と。私ジャーナリストになれていたのかな。彼の話を聞くたびに、「私はこれで良いのか」と思ってしまう。
私の根っこは変わらず野心家だ。「やりたいことがあるのか」と聞かれればやはり沢山ある。
今の私の夢は兼業エッセイストで、大学に入りなおして、今度は文章を一から学んでみたい。または大学院に入って、卒論で熱中したナチスの政策についてもう一度研究したい。世界中を旅したい。これらはもしかしたらこれから叶えられることなのかもしれない。

それでももう叶わないこともある。私は今年32歳。憧れていたドイツ語圏や英語圏でのワーキングホリデーは叶わない。ピースボートでお得に世界一周することも叶わない。結婚して社会人として働いている私の自由時間は、今ではものすごく限られているし、この先もし子どもを授かり母として生きるのであれば、もっと少なくなっていくだろう。購入した家のローンを考えると安定している今の仕事から簡単に転職はできないし、フリーランスのライターになるという憧れも遠い。私の「もしも」は、かつて夢見ていた小学生のころと比べて、目に見え狭くなっていく。

「なんでも挑戦したらええよ。後悔することは良くない。ほら村上春樹は30歳になってから作家デビューしたし」と言うY君に、私はこう返した。
「Y君はいつもすごいね。でも女性にはバイオロジカルクロックがあるから。」私の口から自分の可能性を限らせるように飛び出たのは、「バイオロジカルクロック」という言葉であった。「生物時計」は、すなわち「妊娠可能な年齢の限度」。私達女性が健康的に妊娠できる年齢を指し、一般的には35歳から38歳までとされる、もし妊娠を、子どもを、と望むなら、まだまだ挑戦したいことにあふれた私に残された時間と選択肢は、あまりない。

ねえY君。と私は心の中で言う。確かにそうだよね、年齢を理由に諦めるのは良くないよね、絶対に。でもさ、あなたがもし女性だったとしようよ。子どもを持つことに具体的なメリットがあるのだと、日に日にそのタイムリミットが近づいてくるこの焦燥感を日々感じながら生きていかないといけないんだよ。家族にはさ、様々な形があると思うけれど、男性はいくつになっても父親になれるけれど、私達はそうでない。男女間でそうした不均衡な力関係があるとき、本当に年齢を理由に諦めることはないって、そう言い切れる?誤解を恐れずに言うね。私たち女性は、夢を諦める「口実」や「言い訳」を男性より一つ多く持って生きている。その「荷物」が、今の私にはたまらなく大きく、そして重い。Y君、その「言い訳」に決して頼らないと言い切れるほど、本当に君は強い?そして私たち女性は、そこまで強くならなくちゃいけないの?

彼にはこの輪郭は伝わらないのかもしれない。でもそれは彼だけの問題ではない気がする。
ばいばい、またね。とY君に手を振りつつ、私は小さく息を吐いた。

今日も帰ったら、家で夫が待っていて、どちらかがご飯を作り、担々麺などを食べながらドラマを見て、食後にテトリスをしながらあーでもないこーでもないと話し合いつつ、お風呂に入って、ベッドに入る。明日は6時半に起きて、身支度をして、満員電車にひいふう言いながら出社する。8時間働いても仕事は終わらず、残業に文句を言いながら18時半に会社を出る。

Y君は、この生活は夢を追っているとは言わないのだろうか。ジャーナリストになりたかった私はこの毎日を肯定してくれるのだろうか。

チクタクチクタクと私の中で音がする。本来時計の指す時間に何の意味もない。15時は、ただ0時から15時間経ったという意味だけを示すもの、ただの「15時」なのだ。それに例えば「おやつの時間だ」と意味を後からつけるのはいつだって人間なのだ。手元の腕時計を見て、18時半を確認する。もう?いやまだ?とすこし逡巡して私は帰りの電車に飛び乗った。

終わらない宿題の効用

みずの
子供のいない三十路過ぎの夫婦にとって、出産、そして子育ては、後回しにして溜まってしまっている夏休みの宿題のように重くのしかかる。都会でせわしなく働く日常の中に、小さな棘のような罪悪感をいつもチクチクと感じてしまうのだ。

SNSを開けば、学生時代の友人のアイコンが、友人に似たり似ていなかったりする子供の写真を投稿している。もはや、彼女たちの顔よりも、会ったことのない彼女らの子供たちの顔のほうが私にとってはなじみ深いものになっているかもしれない。SNSのタイムラインはいまや、夏休みの宿題を無事乗り越えた我が友人たちにより、子育て模様が発信される場所となっている。

会社に行けば、子供を持つ時短勤務の女性たちが、定時までまだかなり間のある時間帯に次々と退勤していく。それを見送りPCに視線を戻すと、メールボックスには降り積もる雪のようにひっきりなしにメールが届く。「今日中にこれこれの資料を…」などの依頼をひたすらこなしていく。横に置いておかれた元の業務は、定時を過ぎたあたりでようやく手が付けられる。私の帰りを待つ子供はいない。家に着くのが遅くなったって平気だ。ご飯なんてコンビニのものを食べればいい。夏休みの宿題を終わらせられていない子供のような大人には、栄養バランスの整った食事なんて大して必要ではない。

そう言い聞かせるように思いながら、少しだけの疑問や疲れを自覚する時がある。
子供を育てることは重労働であり、大切なことだ。それはわかっている。子供をきちんと産み育てる母親たちは、友人も同僚も、より崇高な何かに身を捧げている。
私の日常である満員の通勤電車、取引先との会議、上司からの口頭指示に走り回る時間。
走り回りながらふと、彼女たちが甘い子供のにおいの漂う部屋から在宅勤務をしている時間を思い浮かべてしまう。私には子供はいないから、わからない。わからないけれど、想像されるその光景は、どことなく淡い白色やピンク色がかった神話の時代の絵画のようで、いかにも平和そうだ。

そこで私は母を思い出す。
母はフルタイムで仕事をしながら私と弟の二人を育てた。企業戦士的サラリーマン全盛期の時代にあって、それは当たり前ではなかっただろう。
手に職を持ち、毎朝出勤していく母の背中を誇らしく思っていた。けれどよくよく記憶をたどれば、疲れの刻み込まれた母の横顔が脳裏に浮かぶ。たまに私が風邪を引いた日、母が午前中で仕事を終わらせて帰ってきてくれたことが、たまらなく嬉しかった。

「会社はママさんたちに甘くないですか!?」

出張先の安居酒屋で後輩女子がワイングラスを片手に吠える。私は苦笑する。
その思いは私にも痛いほど理解できる。私たちは、必要とあらばどこへでも出張し、残業し、時に勤務地だって異動する。
けれど、私たちは心のどこかでそれを楽しんでいる。求められることに応える嬉しさ、能力を発揮できていると実感する喜び。
私たちはそれを諦められないのだ。
そして私は知っている。
母が本当に掴みたかったキャリアを諦めたことを。
同級生の友人たちが、新卒で入社してガッツポーズしていた会社を、出産を機に退職せざるを得なかったことを。
そして何より、自分自身が結婚し、かつて一人で食べていたコンビニ飯を夫と食べることになって、働く喜びとはまた別の幸せを、私自身もまた知ったのだ。

ママさん優遇、大いによいではないか。

そう思えた瞬間に、私の宙ぶらりんな人生に意味が見えた気がした。

私は夏休みの宿題を後回しにしているのかもしれない。
でも、後回しにしたからこそ、働くことの喜びと苦しみを知った。
後回しにしたからこそ、先を行く友人たちの母親稼業の背中の美しさを知った。

宙ぶらりんだからこそ見える景色があった。
人生がどうなるかは今もってわからないけれど、この時間が間違っているとは思わない。
これからも私は大いに迷い、後悔し、結論まで遠回りして、たくさんの景色を、感情を経験して、しなやかな女性になっていけるのだ。

ただほんの少しだけ、
私たちにも仕事以外の幸せな時間があることを、こうして迷いながら毎日満員電車に揺られていることを、誰もが忘れずにいてくれると嬉しいと、切に思う。

知と命が出会うとき ――命を宿し、命に育てられた一年――

本心
 2024年の秋、国際学会での発表を前に、私は静かに呼吸を整えていた。
 演壇に立つと、目の前には世界各国から集まった研究者たちの顔が並んでいた。胸の奥で高鳴る鼓動をそっと押さえ込みながら、私はいつものように、落ち着いて発表テーマについて語り始めた。
 その、まさに話し始めた瞬間だった。
 それまで感じたことのないほど強い衝撃が、突然、腹部を駆け抜けた。
 胎内からの、思わず息をのむほど力強い一蹴りだった。

 それまで私は、研究者として「女性」や「母性」という言葉を、文献や理論を通して理解しようとしてきた。女性の権利、母体保護、家庭と社会のあり方――そうした問題を知的に読み解き、言葉として整理することが、私の仕事だった。
 けれど、その日初めて、私の心の中にあった見えない扉が、ひとつ、静かにひらいた気がした。
 
 2024年3月25日、私は博士号を取得した。
 長い年月をかけて向き合ってきた研究が、ようやくひとつのかたちになった瞬間だった。指導教員や家族、友人たちへの感謝の思いとともに、大きな達成感に包まれた。
 けれど、その時すでに、私の身体の中では、もうひとつの時間が静かに流れ始めていた。
 新しい命が、私の内側で小さく息づいていたのだ。
 そうである。私は、研究者として新たな一歩を踏み出す日と、母として新しい命を迎える日とを、同時に迎えたのだ。
 
 これには戸惑いもあった。何よりもまず、それは体調の変化となって現れた。
 博士論文を終えた後の研究準備を進めるなかで、急に襲ってくる強い眠気に抗えないことがあった。これまで当たり前のようにできていたことが思うように進まなくなるたび、自分の弱さに落ち込み、情けなく思うこともあった。
 だが、夜、すべての音が静まった部屋で、そっとお腹に手を当てると、不思議と心が落ち着いた。そこには、まだ言葉を持たないけれど、確かに息づいている小さな命があった。
 私は一人ではない――その感覚は、それまで味わったことのない、深く静かな安心を私にもたらした。まだこの世に生まれてもいないその小さな命のぬくもりは、すでに私の心をそっと支えてくれているかのようだった。
 博士号取得後、私は大学で研究を続けながら、国際学術シンポジウムの企画・運営に携わった。
 準備は想像以上に忙しく、海外研究者とのやり取りや資料作成、翻訳、会場設営に追われるうちに、毎日があっという間に過ぎていった。
 それでも、私は弱音を吐かなかった。
 その頃、すでに妊娠後期に入っていたが、「研究者として、自分に託された責任はきちんと果たしたい」という思いが、私を支えていた。そして自分の身体を気遣わなければならないと分かっていながらも、「周囲に迷惑をかけたくない」「ここで立ち止まりたくない」という気持ちが、私を前へ、前へと突き動かしていた。

 そして迎えたシンポジウム当日。
 自分の発表を行っていた、まさにその最中、突然、胎内の子がこれまでにないほど強く私を蹴ったのだ。
 一瞬、言葉が途切れそうになった。驚きとともに、胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じた。
 まるで、緊張する私に向かって、「お母さん、大丈夫。私はここにいるよ」と、小さな命がそっと励ましてくれたようだった。
 その時、私は異なる二つの驚きを覚えた。
 ひとつは、自分の中に、こんなにも心強い味方がいてくれたこと。
 そしてもうひとつは、それまでどこか別々のものとして存在していた「研究」と「命」が、そのとき初めて、一本の線でつながったことだった。
 
 私はこれまで、中国の女性思想を研究し、「女性の権利」や「母体保護」といった言葉に、何度も向き合ってきた。近代の知識人たちが、女性の生き方や尊厳、家庭と社会のあり方について、どのような葛藤を抱え、どのような未来を模索していたのか――そうした問題を、文献を読み解き、自分なりの言葉で論文の中に書き記してきた。

 けれど、その日初めて、それらの言葉が、紙の上に並ぶ抽象的な概念ではなくなったのだ。
 そして女性の身体とは何か、命を宿すとはどういうことか、誰かを守りたいと願う気持ちはどこから生まれるのか――そうした問いの一つひとつが、頭の中ではなく、私の身体の内側から、確かな重みをもって迫ってきたのである。
 私はそのとき初めて、学問とは、世界を知るためだけのものではなく、自分自身の生を通して、その意味を引き受けていく営みでもあるのだと、身をもって知ることができたのだ。

 そしてその年の12月、私は出産を迎えた。
 陣痛の波は、容赦なく何度も押し寄せてきた。
 痛みが来るたびに、身体の奥深くから何かが引き裂かれるようで、思うように息を吸うことさえできなかった。
 次はいつ痛みが来るのか、その終わりは本当に訪れるのか――先の見えない時間の中で、私は何度も不安にのみ込まれそうになった。
 「ちゃんとこの子は産まれてくるのだろうか」
 そんな弱い声が、痛みの合間ごとに湧き上がってくる。
 心が折れそう。自分の小ささを思い知らされる。

 けれど、そのとき私は、痛みの向こうに不思議な感覚があることに気づいた。
 それは恐怖ではなかった。むしろ、これから初めてわが子に会えるという、胸の奥から静かにこみ上げてくるような高揚感だった。
 この苦しみの先に、ずっと会いたかった命がいる。
 今、お腹の中で懸命に生きているこの子も、きっと私と同じように、必死にこの時間を越えようとしている。そう思うたびに、私は涙をこらえながら、もう一度ゆっくりと呼吸を整えた。苦しさにのみ込まれそうになるたび、「あと少し」と自分に言い聞かせ、何度でも前を向いた。
 あの時間は、痛みと恐怖の中で、それでもなお愛するもののために立ち上がる強さを、私に教えてくれた時間だった。
 そして、長い時間を経て、初めてわが子を胸に抱いた。
 私は、そのあまりの小ささに、思わず涙があふれた。
 小さな身体。やわらかな頬。頼りないほど細い指。こんなにもか弱く、こんなにも愛おしい存在が、この世界にいるのかと思った。そしてその指が、私の指をぎゅっと握り返したとき胸の奥で長く張りつめていたものが、静かにゆるんでいくのを感じた。
 それは、これまで見過ごしてきた大切なものに、ようやく手が届いたような感覚だった。
――守りたい。
 その思いは、理屈ではなく、ごく自然に、まるで最初からそこにあったもののように、私の全身を満たしていった。
 その瞬間、私は母になったのだと、心の底から実感した。
 
 今、私は大学で研究に携わりながら、母としての日々を重ねている。
 かつての私は、成果を積み上げることに夢中だった。自分の限界を少しでも超えようと、ひたすら前だけを見て走り続けていた。
 けれど今の私は違う。研究で向き合う問いにも、以前よりずっと、体温のようなものを感じるようになった。
 知ることは、ただ理解することではない。
 私は、母になって初めて、そのことを心の底から知ったのだ。

私の人生を変えた手紙

chako
「お昼何食う?」

車のハンドルを握った夫が面倒くさそうに助手席の私に尋ねた。
私はこの質問が大嫌いだ。

(夫が今食べたいものは何なのか…)

心臓をバクバクさせながら頭を必死に回転させて考える。
顔が緊張で強張り脇下が汗が滲むのを感じながら重い口を開いて答えた。
「や…焼肉ランチとか?」
夫の顔色がサッと一瞬で変わったのを認識した。

────あ、どうしよう、間違えた。

背筋が凍る。

「チッ!」

イライラを抑え切れずアクセルを全開に踏み込み、前方の車両をギュンギュン交わす。
荒っぽい運転で体がよろめき、思わず左手で車体の手すりを掴んだ。

「あ、ごめんごめん!」
「焼肉屋さん、少し遠いし反対車線だしね。少し行った先にお蕎麦屋さんがあるからそこにしよう。」

────夫が食べたいものは焼肉ではなく冷たいお蕎麦かもしれない…
一縷の望みをかけ祈るような気持ちで夫の顔色を伺う。
気に入らないと言わんばかりのオーラを全開にしながらも、お蕎麦屋さんの駐車場が見えてくるとハンドルを切って中へ入った。

ホッとする。

────よ、良かった。

美味しそうに冷たいお蕎麦を頬ばる夫を見て、私はまた心の中で自分を責める。
夫が食べたいものを当てられなかった駄目な私。
沈んだ気持ちで蕎麦をすすっても何も味がしなかった。
「美味いやろ?」 
突然夫が口を開いた。
「う、うん」
ハァとため息をつきながら夫はこう言った。
「お前さぁ」
「もっと美味そうに飯が食えないの?お前の顔見てると飯が不味くなるわマジで」
「気分悪くなった。タバコ吸ってくる」
吐き捨てるようにそう言うと、夫は席を立った。

いつからだろう?

結婚生活二十五年、いや、いつからではない。ずっとこうだ。
夫の機嫌が悪くなるのは全部自分が悪い。
もっとしっかりした嫁にならないと。
捨てられないように。

────それから三週間ほど経ったある日のことだった。

最近、夫は毎週末家に帰って来なくなった。

私以外の他の女性の影が散らつき始めたが、見て見ぬ振りをしながらワンオペで家事をこなし、日中は気晴らしにパートに出て、そうやって毎日をやり過ごしていた。
拭えないモヤモヤとした気持ち。
だけど原因は自分にある。自分が不甲斐ないからだ。
掃除機をかけながら私はふとリビングのテーブルにポツリと置いてある、茶色の皮のシステム手帳に目がとまった。

夫が忘れていったのか…

いつもはスルーするはずが、そのときは何故か魔が差した。
手帳を手に取ったのである。
経年劣化でヴィンテージ感を醸し出しているこの手帳は、長年に渡り夫の仕事の相棒として大切にされ存在していることを知っている。

────パサっ

手帳の中から何かが滑り落ちた。
「…ん?何これ?」
透き通る空のような、あさぎ色をした封筒…

────手紙だ。

心臓の鼓動がどんどん速くなり手のひらがじっとりと湿ってくるのがわかる。
既に開封済みの封筒の中から出てきた白い便箋のその手紙は二枚に渡っていた。
ワナワナと震える両手で掴み、上下二つ折りになっていた手紙をそぉっと開いていく。

<ヤスくんへ♡>
とても綺麗で見慣れない丁寧な文字。明らかに女性が書いたであろう文面だ。
呼吸を整え、そのまま読み進めていく。

<いつもラインだけど今日は手紙を書いてみました>
<うち、ほんまにヤスくんのこと大好き。こんなに胸がドキドキして一緒にいたいって思った人は今まで出会ったことがないよ>

読み進めながら自分が意外なほど冷静なのに驚いた。
<ただヤスくんには嫁がいる。それは我慢しなくちゃいけないんだけど、うちはワガママだから>
<ヤスくんを独り占めしたい。ずっと一緒にいたい。帰らんとってほしい。横で寝ててほしいよ…>

最後はこう締め括っていた。
<一生一緒にいようね♡ ナオより>

「…ナオ」

そこに書かれていたのは、あまりにも率直で、あまりにも親密な言葉だった。疑いようもなく、それは夫とナオと名乗るその女性との関係を示していた。
曖昧さなどどこにもなかった。むしろ、あまりに真っ直ぐで、言い逃れのできない形で、私の目の前に突きつけられた。
夫は私ではなく、このナオという女性を選んだ。
家庭を壊したくないのであれば、この手紙を破り捨て絶対に妻である私の目に触れないようにしたはずだ。

「ああ、そういうことだったのか…」

頭をハンマーで殴られ、目が覚めた。

その瞬間、私は決めていた。

────離婚しよう。

ずっと間違っていた。
夫に尽くすことが自分の幸せで、必要とされることが自分の存在価値なんだと。
夫と娘を大切にすることが生き甲斐で、自分を大切にすることなど忘れていた。
その結果がコレだ。
「私、嫁じゃなくて単なる奴隷だったんだ…」
惨めな想いでいっぱいになり目の前が涙で霞んだ。

壊さないように、壊さないように。
この””大切な家庭””という名の城を壊さないように。
グラスに愛情という名のシャンパンを注ぎ、そぉっと下から順番に積み上げ、二十五年という長い年月をかけて立派なシャンパンタワーを完成させたと思っていたのに。
それはあまりに不安定で脆く儚く、たった今、目の前でガチャーンと音をたて崩れ去った瞬間だった。

────それから一年後

「chako さん、何食べたい?」

今日は久しぶりに会った友人とのランチ。
「う〜ん…」
悪いクセだ。
また一瞬、頭によぎってしまった。
(この子、何食べたいんだろう?)
もう、やめにしよう。
素直に自分の今、食べたいものを言うんだ。

「中華が食べたい、野菜たっぷりなやつ」
「おぉ、いいね!」
「この先ちょっと行ったところに先輩お勧めの飲茶ランチのお店があるよ」

店内は日曜日にも関わらず意外に空いていて、順番待ちですぐに呼ばれた。
運ばれてきた、せいろ蒸しの小籠包と野菜たっぷりのあんかけ焼きそばに舌鼓を打ちながら友人が聞いた。
「しかし離婚してから垢抜けたよね、chako さん」
「そう?今はね、自分をすごく大切に出来ているからね」
「どういう風に?」
「朝起きて自分のためだけにコーヒーを淹れるとか自分の好きなものを食べるとか、行きたいところへ車走らせて行くとかね」
「それ普通じゃないの?」
「それがさ、結婚している時は普通じゃなかったんよ」

あれから夫との話し合いは淡々と進み、驚くほど呆気なく二十五年の結婚生活に幕を閉じることになった。

────離婚後はやりたかった事を全部やる。

そう決めた。

私は不甲斐なくなんてない。

ゴミ屋敷だった実家を全部片付けてお洒落にリフォーム。
ペーパードライバーだった私が少し遠出で温泉ドライブ旅行。
猛勉強して国家資格を取得。
人と話すことが好きなので仕事は窓口業務。
文章を書くことが好きな私は今、エッセイを書いている。

離婚前は出来なかったことを次々叶えていく自分がどんどん好きになっていく。
底辺だった自己肯定感がみるみる上がっていくのを感じる毎日だ。

「今、幸せ?」
友人が尋ね、とびっきりの笑顔で答える。

「もう、サイッコーーーに幸せ!」

鼓動がリズムに変わる時 ~医ケア児の息子と歩んだ、家族の旋律~

真島 瞳
【プロローグ:震えるホールの空気】

​「トントトン」

​小さな息子が奏でる、軽やかで迷いのないリズムがホールに響き渡った。

その瞬間、会場の空気がわずかに震えた。ステージの上でスポットライトを浴び、ドラムセットの前に座る次男・健太。母である私に体を預けながらも、その手にはしっかりとスティックが握られている。

​彼の背中を支えながら、私の脳裏には過去の景色が駆け巡っていた。

タイのじっとりとした湿った風。長野の膝まで積もる深い雪。そして、かつて無機質な病室で、ただ命を繋ぎ止めるためだけに鳴り響いていたモニターの「ピッ、ピッ」という孤独なリズム。

​あのアラーム音に怯えていた日々が、今、力強い音楽へと書き換えられていく。次男は、医療的ケアが必要な「医ケア児」としてこの世に生を受けた。ここまでの道のりは、決してこのドラムの音のように軽やかなリズムばかりではなかった。

​【異国の孤独、予期せぬ宣告】

​物語の始まりは、タイのバンコクだった。夫の転勤に伴い、三歳と一歳の上の子を連れての異国生活。慣れない環境でのワンオペ育児に心身ともに限界を感じていた二年目、三人目の妊娠が発覚した。

​喜びよりも先に不安が押し寄せた。上二人の時とは違う凄まじいつわり。現地の病院で「赤ちゃんは大丈夫か」と問いかけても、返ってくるのは形式的な言葉だけだった。

​不安を抱えたまま、熊本の実家へ里帰りした。出産まで一ヶ月を切った健診の日、医師の口から出たのは予想だにしない言葉だった。

「今、数日間、お腹の赤ちゃんに全く栄養がいっていません」

​頭が真っ白になった。実家には高齢の祖母と多忙な母。夫は長野へ一人赴任した直後。「どうして、今なの」

絶望の中、私は緊急入院となった。一晩中続いた処置の激痛、低下していく母子の心音。最終的には緊急帝王切開となった。意識が朦朧とする私に届いたのは、元気な産声ではなく、命を繋ぐための「ピッ、ピッ」という電子音だった。

​【孤軍奮闘の「生かす」日々】

​息子はNICU(新生児集中治療室)へ。熊本での二度の手術を経て、ようやく退院できたのは一歳の誕生日だった。熊本から長野へ、保育器と共に新幹線を乗り継ぐ命がけの移動だった。

​長野での生活は、まさに孤軍奮闘。知らない土地、厳しい寒さ。二十四時間止まることのない吸引機と経管栄養の音。私にとって息子の鼓動は「いつ消えてしまうかわからない危ういもの」でしかなかった。

​長女と長男はまだ幼い。弟中心の生活で、どれほど我慢をさせてしまったか。通院のたびに「私のせいでこうなったのか」と自分を責め、どこに向かっているのか分からない暗闇の中を歩いているようだった。息子の「個性」を愛でる余裕など、当時の私には一ミリもなかった。

​【覚悟の反抗と、一筋の光】

​そんな中、再び夫に「岡山への転勤」が告げられた。

その時、私の中で何かが弾けた。

「もう無理。私は熊本に帰る。この子を、ちゃんと育てられる場所へ」

​初めて夫に強く反抗した。それは家族がバラバラになる恐怖よりも、このままでは自分が壊れてしまうという生存本能だった。藁にもすがる思いで電話をかけた在宅児支援センターで、ソーシャルワーカーさんが言ってくれた。

「熊本には、素晴らしい支援学校がありますよ」

その言葉が、暗闇に差し込んだ最初の一筋の光だった。

​【「患者」から「生徒」へ】

​ようやく辿り着いた支援学校。そこで私は、目から鱗が落ちるような経験をする。

そこでは息子が、ケアの対象である「患者」ではなく、一人の「生徒」として迎え入れられたのだ。先生方は障がいではなく、彼が何に興味を持ち、何に笑うのかという「人間性」を見つめてくれた。

​学校に通い始めてからの変化は劇的だった。虚空を見つめていた瞳に意志が宿り、世界への好奇心が溢れ出した。そして、彼の中に眠っていた「音を楽しむ心」が、音楽療法を通じて花開いた。一歳の頃から経管チューブを触りながらリズムを取っていたあの動作は、彼なりの自己表現だったのだと気づかされた。

​【鼓動が音楽に変わる瞬間】

​支援学校一年生として過ごし、驚くほど成長した息子。集大成として迎えたスプリングコンサート。曲は「おどるぽんぽこりん」。
私が後ろで支え、音楽療法の先生がピアノを弾く。

​『トントトン』

ピアノが始まる前から、静まり返ったホールにドラムの音が響いた。すぐ後ろで支える私には、彼の誇らしげな表情が見える。客席には、夫と上の子たち、そして支援学校の先生方の温かい笑顔が広がっていた。

​かつて病院のモニターで必死に聞いていた、あの無機質な「心音」。それが今、多くの人の心を震わせる「音楽」へと変わっている。私は胸がいっぱいになった。

​演奏を終え、満足げに微笑む息子に、支援学校の先生が優しく声をかけてくれた。

「健太くん、次は二年生だね」

​そうだ、私たちは「今」を生きている。そして「次」がある。

医ケア児という枠組みを超えて、彼は今、自分自身の人生というリズムを刻み始めたのだ。
春の温かな光の中で、私たちは今、確かな一歩を踏み出している。全ての経験がこの一打に繋がっていた。私たちの家族の合奏は、まだ始まったばかりだ。

woolが言えなかったあの瞬間から

テル
18歳の春、私はハワイにいた。
高校卒業後の進学先が、そこにあった。日本の外国語大学が持つ海外キャンパス。そのカレッジは、確か準学士号が取得できるアメリカの2年制大学だったと記憶している。
中学時代、私の推しはリヴァー・フェニックスだった。彼の端正な顔立ちに心を奪われ、雑誌『ROADSHOW』を買っては、目をハートにしてうっとりと眺めていた。ネットもスマホもない時代、限られた情報を推し友と共有する時間は、中学生なりの精いっぱいの「推し活」だった。洋画を通じて芽生えた英語への興味は、アメリカから転校してきた帰国子女の友達との出会いで、さらに深まっていく。
「私も英語をペラペラに話し、スラスラと書き綴りたい!」
紹介してもらった洋楽を聴いては、耳に届いた音をでたらめなカタカナに変換し、全力で歌い上げた。意味なんて二の次だ。それだけではない。漫画雑誌の後ろに掲載されていた「ペンパル紹介」に応募し、切手を送り、ギリシャの女の子と文通を始めた。辞書と格闘しながら英語の手紙を書く。帰国子女の彼女のように英語を使いこなす自分を夢見て、外国語学部への進学を志すようになった。
夢見てはいたものの、部活一色の高校生活で、英語だけでなく学力はいまひとつ。準備不足のまま受験生になり、何から手をつけていいか分からず途方に暮れていた。そんな時、オープンキャンパスで持ち帰った資料の中に、ステープラーで留められただけの過去問があった。見たこともないTOEFL形式の英語。何をすればいいのか分からなかったのが、かえってよかったのだろう。ひたすらその問題に取り組んだ。
するとどうだろう。本番の試験用紙をめくった瞬間、私は心の中でガッツポーズを決めていた。
「棚から牡丹餅」の合格。先生も「……え、あなたが?」と驚くような奇跡だった。実力不足は明らかだったが、私は浮かれていた。親が心配して通わせてくれた週一度の英会話教室の先生も気にかけてくださっていたが、海外とはいえ日本人向けのカレッジで、周りは日本人ばかりだ。「どうにかなる」と思い込んでいた。
そして、私はハワイで打ちのめされた。
先生の言っていることが、まったく分からない。ほかの学生も戸惑ってはいたが、それでも何となくは理解しているように見えた。
最大の難関は、基礎的な英語コミュニケーションの授業だった。
「w、w、wool」
先生が一人一人の発音を確認していく。
少しずつ、確実に、私に順番が近づいてくる。
そして、私の番。
「w、w、wool」
「No, w, again」
「w、w、wool」
「No, w」
唇の形を変えてみる。空気の吐き出し方も変えてみる。けれど、何度繰り返しても正解には届かない。そもそも何が正解なのかが分かっていないのだ。私はただ、闇雲に発音を繰り返すしかなかった。
周りの視線が気になる。時間だけが無情に過ぎていく。頭の中が真っ白になる。焦る。焦る。焦る。
「w、w、wool」
「Next」
その一言で、終わった。
先生の冷ややかなまなざしが刺さる。
ちゃんと英語を勉強していたら……英会話の先生の言葉にもっと耳を傾けていれば……と、過去の自分を悔やんだ。しかし、悔やんでいる暇はない。ここでやらなければ、私の人生は「詰む」のだ。成績不良で強制送還など笑えない。しかも私の目標は「日本の姉妹大学への編入」だった。編入に必要な基準評価を手に入れるには、やるしかない。
そこでようやく、「努力」という言葉の意味を理解した。自ら動き、自らの道を切り開く。そうして3年次編入を果たし、小さな会社ではあったが、働きたい業界で社会人生活をスタートさせた。
そして、私は今、世界をあちこち飛び回る生活をしている。
と書けたら、きれいだったかもしれない。しかし、実際の私は今、地方都市で週5日のパートタイムと副業の在宅ワークを掛け持ちしながら、二児の母として日々を過ごしている。
確かに、憧れの業界の端っこで社会人生活をスタートさせた。けれど、そこには「夢」だけでは生きていけない過酷な現実があった。残業代も出ない小さな会社。同期が辞め、先輩が去り、「次は誰だ」とささやき合うのではなく、声に出して辞める時期を相談するような異様な空気が流れていた。私の心は、3年目を迎える前にポキリと折れてしまった。
その後、地元の公共機関での勤務を経て、縁あって結婚。慣れ親しんだ土地を離れ、今の生活にたどり着いた。家事と仕事と育児。育児といっても、思春期まっただ中の子どもたちは部屋にこもり、手がかかるような、かからないような距離にいる。私は静かなリビングの隅でパソコンを叩き、在宅ワークをこなす。
疲れがたまった夜、「もし、別の道を選んでいたら」と「たら・れば」を考えることはある。しかし、私は知っている。「たら・れば」では、一ミリも人生は動かない。だから今の私にとってそれは、ただ空想を楽しむための遊びにすぎない。
あの頃夢見ていた自分の姿は、どこにもない。それでも私は、その都度、自分で選んだ道を歩いてきた。あの時に努力して身につけた英語は、今もささやかに仕事を助けてくれている。
あの日歌い上げたでたらめな英語も、辞書と格闘して綴ったギリシャの女の子への手紙も、あのラッキーな合格も、すべてが今につながっている。
AIに取って代わられる未来はすぐそこにあるかもしれない。それでも、画面上の英文と向き合うたび、かつての私が確かに私を支えていると感じる。
今日も私はこの街で、かつての自分が手にした小さなかけらを握りしめながら、ただ自分の道を踏みしめている。

ど根性で咲く花があっても、いいと思う。

葉菜
葉菜。私の名前。

名前の漢字を説明する時は「葉っぱの葉に、菜っぱの菜です」って言う。植物すぎる。苗字もわりと植物的な名前だから、すっごくネイチャーな私である。さて、私は生まれた時からこの名前と生きてきてるわけだけど、この名前にどうもしっくりきていなかった。それは、気に入っていないとか好きじゃないとかではなく、むしろ良い名前だと沢山人から褒められることも多かったし、同級生に同じ名前もいなくてよく覚えてもらえたし、可愛い名前だと思う。

問題はそこ。可愛すぎる。
「はな」と言われるとまず浮かぶのは「花」で、その「花」はチューリップや桜、かすみ草みたいに繊細だったり、バラや椿やダリアのように豪華絢爛で華やかだったりを想像する。色で言えばピンクだし(大した偏見だけど)、音で言えばふわりとかゆらりとかがよく似合う。大切なお祝いや、誰かに思いを伝えるとき、それからただ部屋にあるだけでも心を明るくするような前向きさに溢れたもの。

・・・私はどうだろう。A型だけどO型と言われることが圧倒的に多い。ガサツで、めちゃめちゃ負けず嫌いで我慢強い。3秒ルールはゆーっくり数えて実質10秒くらいまで余裕。小さい時は年1で骨折していたし(それはガサツというよりドン臭いか)、ちょっとしたことをモヤモヤ考えてしまう。好きな食べ物はパクチー、生姜、大葉。最近ハマってるのはインド料理。好きな色は小さい頃から、みずいろ→むらさき→みどりの順で寒色と寒色の間を変遷してきた。私の「花」らしいところと言えば、太陽の下にいると元気が出てくるところだろうか。そう、あまり「はな」と言う名前が想定するところの「花」らしくは、ないのである。

むしろ、逆だろうか?「花」がもつ、ある意味で形式化された女性的なイメージに抗うように、私は生きてきたのかもしれない。花を添えるという言葉のように、飾りとしての自分になるのが嫌で、ただその場を華やかにする存在ではありたくない、何となくそう感じることが多かったから、あえてド根性じみた生き方を選択して、私があるのかもしれない。

そんな私の大学4年生の夏。就活も終わり、大学の単位もほぼ取り終わって暇を持て余した私は花屋でバイトを始めた。あんまり深い理由はなくて「はなって名前なんで花屋で働いてました!」って自己紹介ネタでウケそうだなくらいの勢い。花の種類も正直働くまで全然知らず、「花」の解像度だって可愛いものみたいなところのまま。ノリで始めたもんだから、花屋の重労働具合には驚いた。朝は早いし、大量の花と水が入ったバケツを持って行ったり来たり。百貨店の中の花屋だったから、いかにもマダムのような人が平日のお昼に来てお話をするというのも一つの仕事だった。

私は働く中で、花についていろんなことを知った。水を吸う力をつけるために準備が必要だということ。1日1cmでも茎を切ってあげると長持ちすること。同じ種類の花でも全然違う形をしていること。緑のバラや、青のガーベラがあること。季節が変わると出会える花が変わること。私が想像していたよりもずっと、花は自由だった。気づいたら花屋にハマっていて、毎回違う花に出会える神バイト。行くたびに、どれもみんな、きれいだな〜。と思いながらナチュラルに「世界に一つだけの花」じゃんってなったりした。

その中で出会った、一つの花が私の人生を変えた。ピンクッション。名前の通り、針山にそっくりの形で、小さな細いトゲトゲが沢山連なってまあるくなっている。茎は枝のように硬くて太く、花自体も(どこを花と呼んでいいか少し迷うような見た目で)力強く立っていた。咲いているというより立っているという表現の方が合ってる気がする。南アフリカ原産のワイルドフラワーの一つと言われるその花は、お世辞にも「可愛い」そのものではなかった。お客さんはあまり手にしない花だったけど、私はその魅力にやられてしまった…。「かっこいい」花を見て、私は初めて「かっこいい」と思ったのだ。乾燥地帯生まれのピンクッションは、厳しい環境の中で力強く咲くそうだ。私がそれまで知っていた花のように、きれいな花びらが繊細に咲いていないし、トゲトゲした見た目が明らかにいびつ。私がもし蜂だったら、この花から蜜を吸おうと思えるのは、ウニを初めて食べた人間くらいすごいことだ。
でも、だけど、そんないわゆる花からかけ離れていながらも、私は花だよ!どう、きれいでしょ?と何の疑いもなく佇む姿が、私の心を掴んだ。ピンクッションが花で居てくれるのだから、私だって私なりのちゃんと花じゃん、と。いわゆるじゃなくてもそれも唯一の美しさなんじゃないか、と。また「世界に一つだけの花」が脳裏を掠めながらも「はな」という名前とずっと過ごしてきた私にとっては、その当たり前の気づきがひどく衝撃的だった。自分の名前が「はな」と読むことも、花ではなく「葉っぱと菜っぱ」からできていることも、そのとき急に腑に落ちた。私はちゃんとこの名前で生きてきたんだ。

それは、名前だけの気づきじゃなく、私の生き方のひとつの指針にもなった。違うことを恐れずに生きていきたい。私らしくありたい。そしてその姿を見て、きれいだと感じてくれる人を大切にしたい。ピンクッションのように、ありったけのど根性を引っさげて、私なりの花であるんだ。そう思うと自分をちょっと愛せた。お母さんはもしかしてそんな願いを込めてこの名前を私にくれたのかもしれないな。名前に恥じない生き方がしようと心に決めて、私は今日も思いっきり「葉菜」として生きていく。

スパルタ英語学校で目覚めた雑草魂

まこ
 18歳の時だから38年も前になる。大学にことごとく落ち、浪人するなら就職だと親に言われ、まだ働く覚悟もなかった私はしかたなく専門学校へ。将来何になりたいのか、何を極めたいのか、志はまったくなく、まだバブルの当時、自分も楽しいキャンパスライフを送るものだと思っていただけ。そんな気持ちを見透かされたのか、「だらしがないあなたには厳しいぐらいの環境が合う」と親と高校の担任に勧められたのは、スパルタで有名な英語の専門学校。渋谷という華やかな立地ながら、校舎は狭くて雑然としていて、校内及び近辺では日本語禁止。うっかりだろうが故意だろうが、日本語でしゃべったら罰金千円。今だったら完全アウトの厳罰が課せられるウルトラ厳しい学校だった。ごく一例を挙げると、出席確認で名前を呼ばれて、「はい!」と答えた生徒が千円取られるぐらいのえげつなさだ。
 とりあえず、学校見学に向かった。この学校の前に見学したトラベル系の専門学校は、カフェテリアみたいなスペースもあり、それなりにきれいで「いいな」と思っていた。しかし。渋谷・宮益坂の坂の上あたりにある英語専門学校は、7階建ての細長い建物が校舎で、なんだか薄汚い。狭くて雑然としたロビーでは、在校生たちが渋谷に似つかわしくないラフな格好で英文タイプを打っていた。カフェテリアなんて……ない。そんな光景を見て、「あんな学校絶対にいやだ!」と抵抗したものの、スポンサー(出金元)には逆らえず、今はなき東京松本英語専門学校に押し込められることになったのだ。イヤイヤだったが、それが私の世界を変える2年間になるとは、人生本当に分からない。
 具体的に何をどう変えられたのか。ざっくりいえばものすごく鍛えられた。高校卒業したての18歳なんて世間を知らないあまちゃんだが、英語はもちろん精神力をがっつりしごき上げられた。授業は朝から夕方までびっしりで、終業後も学校に残って同級生たちと課題をこなす。学校に泊まり込むこともあり、ほぼ1日を英語で過ごす。1年生のはじめはほとんどの生徒が英語を上手に操れないから、カタコトで意思を伝えようと必死。みんながぎこちない英語だから、“恥ずかしい”なんて気持ちもなくなり、先生や先輩の上手な英語を真似しながら、夏のハワイ合宿を終える頃には言いたいことをそこそこ英語で言えるようになった。
 そして、この学校のすごいところは、恥を捨てさせてくれたこと。恥ずかしがってて英語なんか習得できるかという理論で、当時、渋谷公会堂付近にあった街の騒音を図る騒音計の前で演説をさせられる。もちろん英語で。デシベルが上がるまで、全員で大きな声を出すという相当頭のおかしいことをやらされた。しかも、その演説がケネディの有名なセリフ「I do not shrink from this responsibility──I welcome it」。これを何十回も言わせられれば、「私だってこの困難に負けない!」とその気になるわけだ。暗示ってこわい。
 1年次の必修科目でもあるハワイ合宿でも恥を捨てさせられた。観光客だらけの浮かれたワイキキビーチに繰り出し、課題のためのアンケートを取る。もちろん英語しかしゃべれないルールだから、現地のアメリカ人から見たら、日本人同士がなぜカタコト英語でしゃべり合ってるんだろうと奇妙な光景に映ったことだろう。
 ほかにもぶっ飛んだルールが多々存在。校舎にはエレベーターが1台あるが、学生の分際でエレベーターを使うのは100年早いと7階まで階段を使って上る(体力がつく)。グループ学習で一人でも落第したら連帯責任。グループリーダーが付き添った上で、日曜日の早朝に先生の住む街まで再テストを受けに行く(責任感が生まれる)。当時は理不尽だと思うこともたくさんあったが、今思えば、それらの厳しい掟にはそれなりの理由があったのだと理解できる。
 そして、この学校で得られた一番大きな収穫は、今でも家族のような付き合いのある友人たちとの出会い。人生のたった2年間だけど、当時は家族よりも長い時間を共に過ごした。しかも、仲間同士で支え合わないとサバイバルできない環境だったから、否応にも結束力が生まれる。すべて“今思えば”の話だが、本当にありがたいことだ。
 もちろん、英語の力もめきめきつく。当然ながら生徒間で実力の差はあるが、学内では下位の成績の生徒でもある程度“話せる”英語が身についてはいた。一方、トップクラスの生徒は、「留学経験があるんだね」と言われるぐらいの力をつける。アルバイトで英会話学校の講師をする先輩もいたぐらいだ。
 クラスは学力によって学力によって4つに分けられて、万年3番目のクラスだった私ですら海外旅行に行って困らないレベルにはなれた。アメリカ出張でも簡単な通訳はできたし、たった2年間でここまでの英語力をつけさせる学校はおそらく今もないのではなかろうか。だから私は新たに違う外国語を勉強しようとは思わないのだ。あの2年間のような試練を乗り切る自信は……ない。日本にいながら外国語を習得することは生半可じゃないことを今でも頭と体が覚えているのだな。
 充実した2年間を送ったとはいえ、私も一応は大学を志た身ではあった。だから、2歳下の妹が大学に入った時、「羨ましいと思うんだろうな」と思っていた。ところがどっこい、そんな気持ちは1ミリも起きなかったのには自分でも驚いた。それでも社会に出て、「大学を出てたらもっと選択肢は広がったかな」と思うことはある。就職する際、四大卒が条件の会社は門前払いになるわけだし、同じ大学を出たというだけで、年次的にも学部もかぶっていない上司や先輩にかわいがってもらえることもある。でも、そういった“損”すら「ま、いっか」でスルーできる精神力を鍛えてくれたのも松本だった。「やりたいことがあるなら自分の手でつかみとればいいんだもんね」という、ウルトラポジティブな心を授けてくれた、これは長い人生において相当に大きい。
 それにやっぱり英語。英語圏に放り出されても自分のことはなんとかできるくらいの英語は今でも使える。大卒ではないことが劣等感にならなかったのは、「英文科出てる友達より私のほうが英語がしゃべれるもんね」という小さな自尊心があったからで、自分にとってかなり大きなな自信につながっている。
 そして……。いちばん大きかったのは、自分の資質を教えてくれたのが松本だったこと。私は高校時代まで、どちらかというと目立ちたがりだった。でも、英語がヘタクソだから目立てない。必修科目の英語劇で、主役じゃないなら裏方をやろうと音楽の担当をしたらこれが性に合っていて、担当の先生から「うちのクラスの劇が成功したのはキミの音楽のおかげ。一番の功労者だよ」と言ってもらえてすっかりその気になりレコード会社に入社。それから紆余曲折はありつつも、今の仕事につながっていったのだから、あの2年間はまさに、“私の人生を変えた日々”だと断言できる。ひとつひとつの瞬間が、自分の知らない自分を教えてくれたとなったのだ。
 その後も、大好きな仕事に就いてたくさんの経験を積み、これまでに何度も“人生を変えてくれた瞬間”につながる出会いや出来事にも恵まれた。その話は、また今度、機会があれば綴ってみます。

人生を変えた抱擁(ハグ)

たんぽぽ。
あなたは、人生を変える抱擁(ハグ)を経験したことがありますか。

中学二年生。十五歳の初夏。

「最低でも県内の進学校へ」それが母の口癖であり、私の行く先にはいつも、母が生きられなかった「もう一つの人生」というレールが敷かれていました。

振り返れば、十代の私は、いつも「女性特有の心身のリズム」に翻弄される母の影に怯えていました。排卵期になると、母は不安を打ち消すように一心不乱に床を磨き、夜になれば酒の力を借りて、その不安を「支配」へと変貌させました。真夜中に突如響く罵声と、私たち姉妹に向けられる暴力。

「ママを不安にさせたお前が悪い」

という言葉を浴びるたび、私は母の情緒の責任を全て背負わされ、自分が存在するだけで誰かを傷つけてしまうような罪悪感に苛まれました。

一方で酒の切れた母は、「世界中を敵に回しても娘を守る」と抱擁し、過剰なまでの母性を語るのです。その極端な揺らぎの中で、私は母が抱える「愛の渇望」や「女ゆえに夢を断たれた理不尽さ」を自分のことのように引き受けていきました。母を狂わせる「女としての波」は、やがて私自身の重たい生理や情緒の不安定さとしても現れ、女性として生きることは、制御不能の嵐を宿し、誰かを傷つけ、耐え忍ぶことなのだと思うようになったのです。

受験が視野に入る頃、塾の競争に馴染めず成績が落ち始めた私は、足元が崩れるような恐怖に怯えるようになります。自分の限界か、体調不良のせいか。出口のない自問自答の日々。

そんなある日の国語の授業中のことです。
教室には思春期特有の刺々しく不安定な気配が充満し、級友たちの冷笑が私の感覚を侵食していました。その日、教科書には松尾芭蕉の俳句。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」
静寂に響く水の音。その崇高さをなぞる授業とは裏腹に、級友たちの私語や鉛筆の音、先生の苛立ちが耐え難い濁流となって私を飲み込もうとした、その時。

「ブツッ」

何かが音を立てて切れました。
長い間、無理をして張り詰めていたロープが、限界を迎えて弾け飛んだ音。その瞬間、世界から音と色彩が失われ、すべてが灰色に染まりました。膜がかかったような鈍い感覚に包まれ、私自身が「無」になったようでした。身体の中心から力が消え、机に突っ伏したまま動けない私を、先生たちは保健室へと運びました。
その日から、数ヶ月に及ぶ保健室登校が始まります。

静まり返った校舎。世界のどこにも安心して休める居場所がない孤独。

「なぜ、みんなと同じようにできないんだろう」

自分だけがどこにも辿り着けない気がして、情けなくて、消えてしまいたかった。

検査を重ねても、結果はいつも「異常なし」という無機質な四文字。医学的な「白」は、治し方のわからない暗闇への宣告でした。母の期待に応えられない申し訳なさと、人生が詰む恐怖。夜が来るとパニックで泣き叫び、壁を叩き、自分を呪いました。暗闇の中で、明日が来なければいいと何度願ったかわかりません。空が白む頃にようやく眠り、重たい身体を引きずって午前十時の保健室へ向かう。それが十五歳の私のすべてでした。

そんなある日。教室の扉の前で足がすくむ私に、「甘えてるだけ」という友人の言葉が呪文のように繰り返されます。サボっていると思われているのではないか。冷たい視線が怖くて、結局、扉を開ける勇気は出ませんでした。

自己嫌悪に涙がこぼれました。誰にも見つかりたくない。だけど、本当は誰かに見つけてほしい。矛盾した叫びを胸に、泣きながら廊下をとぼとぼと歩いていた、その時です。

廊下の向こうから歩いてくる人影。それは、私が懐いていたALTのエイミーでした。

七歳まで海外で過ごした私にとって、エイミーと英語で話す時間は何よりの「お守り」でした。日本語では届かない場所へ連れて行ってくれる彼女の言葉と、周りの子が持っていない経験。それは自分を嫌いになりそうな私を繋ぎ止める、歪で唯一の自尊心だったのかもしれません。

彼女は背が高く、柔らかなブロンドの髪に青い瞳、ピンクの頬には可愛らしいそばかすがありました。涙を流す私を見つけた瞬間、エイミーはただ、破顔して微笑みました。

「あらあら、どうしたの」

理由は聞かず、私の名前を呼び、長い両腕を広げて力強く抱きしめてくれました。あんなに無条件で温かい抱擁(ハグ)を私は知りませんでした。

エイミーの大きなピンクのTシャツが、私の涙と鼻水で色を変えていく。海外の洗剤のような甘い香りと、圧倒的な体温。その温もりが、凍りついていた私の心をじわじわと溶かしていくのを感じました。

そのハグこそが、出口のない暗闇でもがいていた私が、何よりも欲していた救いでした。

「誰かに見つけてほしい」

喉の奥に入って仕舞い込んでいた本当の願いを、泣きながら彷徨っていた迷子の私を、エイミーが偶然、見つけてくれたのです。大好きな彼女がその願いを叶えてくれた奇跡に、私は溢れる涙を止めることができませんでした。

あの日を境に、私のなかで凍りついていた何かがゆっくりと溶け出しました。英語という鍵が、閉ざされていた未来を開けてくれたのです。

その後、一度は「正社員」という型に自分を嵌めてみました。しかし、拭いきれない違和感に再び身動きが取れなくなります。そんな中、導かれるように出会った、セラピストという職業。しかし、本当の意味で覚悟を決めたのは、その後のオーストラリアでの経験です。

二十九歳、私は年齢制限ギリギリで、自らの意志でワーキングホリデーの扉を叩きました。現地のサロンで働き、たどたどしい英語ながらも必死に目の前の人と向き合いました。ある日の施術後、慈愛に満ちた目をした女性のお客さまが私の手を包み、言いました。

「あなたの手は、まるで魔法みたいね」

そのお客さまとハグを交わしたとき、身体中に電流が走るような多幸感とともに、あの日の廊下の光景が鮮明に蘇りました。それまでの迷いや、自分を責めていた日々が全て報われた気がしました。

かつての私を苦しめたのは、祖母や母から知らず知らずのうちに引き継いでいた「女性としての生き方」への迷いや、自分では制御しきれない心身の不調でした。けれど、人生の節目で、言葉を超えて救いの手を差し伸べてくれたのもまた、同じ痛みを知る女性たちだったのです。

あの日、エイミーがくれたのは「あなたは、あなたのままで、ここにいていいんだよ」という、存在への全肯定でした。人種も言葉も超えて伝わる温もりが、私を救い、生かしてくれた。

「今度は私が、誰かにとってのエイミーになるんだ。」

あの日から眠っていた願いが、時を超え、海を超えて「使命」に変わった瞬間でした。あの日受け取った温もりを、今度は自分の手で誰かに届けると決めたとき、私は本当の意味で、セラピストとしての第一歩を踏み出せたのです。

今、私はセラピストとして、誰かの背中にそっと手を置いています。この手のひらから伝わる体温は、私が行なう「手を通した抱擁(ハグ)」です。かつての私のように暗闇で震えている誰かの支えになりますように、と願いを込めて。私は今日も、手を通した抱擁(ハグ)を届け続けています。あの日のエイミーが、私を丸ごと包み込んでくれたように。

思い出真空冷凍保存

888rn
人生が変わる瞬間は本当にある。言えばただの比喩表現で、大袈裟なだけなので人に話す時はやたらと身振り手振り加えて伝えてしまう。2017年9月私は26歳だった。生涯を共にすると確信していた人とお別れした。恋に落ちた勢いで1年半ほど半同棲生活を送っていたが、お互い不定休で当直勤務もあり職場での立場も上がるにつれ多忙な日々だった。同じ家に帰るのに会えない日が続き、連絡すら取らなかった。それでも彼への気持ちは変わらず、仕事が落ち着けば結婚するつもりでいた。ただそれまで、もう一度独身生活をそれぞれで過ごさないかと提案した私に彼は「これがタイミングやと思う。終わりにしよう。」と言う。藪から棒?青天の霹靂?何にも例えようのない心臓が大きく音を立てて砕ける悍ましい感覚だった。泣き喚こうが縋りつこうが彼の気を引くことはもうできず、恨みすら覚え暗闇に堕ちた。それでも仕事の日は来るし朝も夜も何食わぬ顔してやってくるので辛うじてルーティン作業で生きていた。飲めず食えず寝れず泣き続けたが、別れて3日経った当直明けの朝お腹がすいてサンドイッチを買って食べた。5日目、昏睡の如く寝た。1週間経つと涙が止まった。泣きたいのに溢れるほどの涙は残っていなくて、気持ちと身体に差異ができ戸惑った。悲しいんだから泣かせてほしい、「もう泣き止んでるじゃないか」と思われそうで悔しくて、暗闇から抜け出せないままでいれば彼がいないと生きていけないことを証明できそうで這い上がる勇気がなかった。だけど私は友達や同僚の支えあって着実に復活していく。10日経って仲の良い友人たちとファミレスで集まった際、「結婚しやんと思ってたよ。あの人じゃないって言ったやん。」と言われた時は声を出して笑った。久しぶりに笑えたと同時に友達の偉大さに気づき嬉し泣きした。しょっちゅう飲み歩いてた友人の言葉にすら耳を傾けていなかったのかと信じられない気持ちもあったが、恋は盲目とはこういうことなのかと体感した。と同時にこの一連の失恋を俯瞰して見えた自分がいた。ここで一度、私は全て封印することにした。彼への思いも今の感情も写真も匂いも暖かさも恋しさも、全て。心の中に冷凍庫を置いて思い出を真空パックにして腐らぬよう大切に保存した。この先一生結婚への期待も捨て、これほど愛した人を越える出会いはありえないと自ら心に深く刻んで。ここから人生第二章が始まる。それから間も無くして職場恋愛で結婚した先輩の結婚式に参列した。胸が苦しくなる瞬間もぐっと堪えどうにか笑顔で過ごしていたが、エンドロールでダム崩壊レベルに号泣して同僚をドン引きさせた。しかし、この結婚式をきっかけに同僚とその後輩と飲みに行くことになったのだが、その後輩と意気投合することになる。自分が一番信じられなかったけど、元彼にはない魅力と私の知らない世界を見せてくれる人だった。お付き合いすることにはならなかったけど、その彼とも一年半ほどお互いの家を行き来する緩く穏やかな関係を築いていた。クロスバイクで大阪城公園の桜をくぐったり、スノボに連れて行ってくれたり、真夜中に銭湯集合銭湯解散したり、レイトショーの帰り自転車で競争したり、マンションの屋上に忍び込んで花火を見たり。好き嫌いだとかそういう次元ではなく、こんなに楽しい世界を教えてくれる彼にとても感謝していた。彼と過ごす時間は挑戦することへの意欲を掻き立て、見たことのない世界を見てみたい、出会いに貪欲でありたいと思うようになった。そして同じ職場を同じタイミングで退職することになった私たちは全く別の道へ進むのだが、お互い新たな挑戦をすることだけは一緒だった。そして私は海外へ旅に出る。人も街も空気も食べ物も全てが刺激的で新鮮で出会いの連続だった。恐怖心もあったし怖気付いて空港で泣いたこともあるが、それでも私を旅へ駆り立てたのは元彼への強い反骨精神だったのだと思う。また会う日が来たら、もし偶然出くわしたらその時は彼より広い世界を見た自分でいたい、強くて逞しくて彼なしでも生きていけるんだと、ひとりで世界を旅できるんだかっこいいだろうと胸を張って言える自分になりたかった。あの後輩に言ったらまた鼻で笑われるだろう強がりだったが、知らない世界を経験するには必要な火種だった。結局コロナ流行で途中帰国することになったけれど、心身ともに鍛えられたのは間違いない。そして自分でも驚いたのが、帰国した時には元カレのことなどすっかり忘れていたことだった。ふと心の冷凍庫を開けてみたくなり、元カレの思い出に耽ってみたがもうなんの感情も湧いてこなかった。その瞬間自分の弱さに勝てたんだと嬉しさと感慨深い気持ちになった。出会いと旅は私を大きく成長させてくれたけれど、「あの人以上に結婚したいと思える人とは出会えない」と固く結んだ誓いは月日を重ねて呪縛のようになり、あれから誰とも付き合うことはなかった。だけど、多分、ついに、きっと、この人なのかもしれないと思う人と最近出会ったと思う。私の1/2のスピード感で生きていてとても穏やかで、この情報社会にも日々にも急かされることなく自分の時間軸を持ってやりたいことに向き合っている人。職場と家の往復の日々で休日もジムに買い物という変わり映えない日常を過ごす私に「明日はどんな日になるかなー」と電話越しに呟くような人。大阪生まれ大阪育ち、一年と少しをバタバタと世界一周(中断)し、その後目まぐるしい東京生活の私にはできっこないスローライフに感じた。生き急ぐ私にそっとコーヒーを出して一緒に休憩してくれるような存在でいてくれる。結んだ誓いが呪縛になっても、原動力になってくれた日々があったのは事実。だけどいつからか、あの決意を運命の人と出会えなかった時の保険にしてたんじゃないかと思う。今の彼と今後どういう経路を辿るかわからないし、やっぱりせかせかしてる方が落ち着く可能性もある。だから、絶対とか運命とかそんな概念をこじつけず、彼との出会いも生活も第二章の一つの演目として楽しめたらと思う。第一章が幕を閉じたあの日のことを鮮明に思い出せるけれど、もう冷凍庫の中には何も入ってはいない。第一章として引き出しにしまうことにした。恋愛以上の出会い、旅の経験は確実に私を成長させ、新しい世界はさらに先の世界が待っていることを知らせてくれる。好奇心が風船のように膨らむ感覚がここで終わりじゃないとまた一歩先に私を進めてくれる。動けば風が吹き、歩めば出会い、別れれば学びがある。つらいことにひたひたと浸かり続けず、思い出冷凍保存作戦という選択を取ったあの日の自分をかっこいいと思えるようになった。そんな一章も二章もまるっと抱きしめてくれる今の彼と今日の献立であーだこーだ言いながら過ごしていこうと思う。結婚はさておき、人生を変えたあの日の自分に言いたい。「人生捨てたもんちゃうで。」

返信できなかった一通

ひきわり
その連絡は、返そうと思えば、いつでも返せた。

画面の上に表示された短いメッセージを、私は何度も見ていた。「今度、少し話せる?」と、それだけの言葉だった。送り主の名前を見て、少しだけ懐かしさが込み上げたけれど、同時に、どこか気まずさもあった。

大学に入ってから、私たちはほとんど連絡を取っていなかった。高校時代は、くだらないことで笑い合い、帰り道をわざと遠回りするような関係だったのに、進学先が分かれた途端、自然と距離ができてしまった。理由は特別なことではない。ただ、忙しさと、ほんの少しの遠慮と、タイミングのズレ。それだけで、人はこんなにも簡単に離れてしまうのだと、そのときはまだ深く考えていなかった。

「あとで返そう」

そう思って、スマートフォンを伏せた。

講義が始まる時間が迫っていた。課題も溜まっていたし、アルバイトのシフトも詰まっていた。今じゃなくてもいい。落ち着いたときに、ちゃんと返せばいい。そうやって、自分の中で優先順位をつけた。

その「あとで」は、結局、来なかった。

数日後、その人が亡くなったと知らされた。

最初は意味が分からなかった。誰かの聞き間違いかと思ったし、冗談であってほしいとさえ思った。けれど、現実は淡々とした言葉で告げられた。事故だったらしい、という曖昧な情報だけが、私の中に残った。

スマートフォンを開いて、あのメッセージをもう一度見た。未読のままではなかった。既読はついていた。私は、確かに読んでいた。それなのに、何も返していない。

指先が震えた。

たった一言でよかったはずだ。「どうしたの?」でも、「久しぶりだね」でも、何でもよかった。それだけで、もしかしたら何かが違っていたのかもしれない。そんなこと、分かるはずもないのに、考えずにはいられなかった。

葬儀に向かう電車の中で、私はずっと画面を見つめていた。返信欄は空白のまま、何度も開いては閉じた。今さら言葉を打ち込んでも、もう届かない。送信ボタンを押す意味はどこにもない。それでも、何かを書かずにはいられなかった。

「ごめん」

たったそれだけの文字を打って、私は指を止めた。送れないメッセージほど、重いものはなかった。

会場で見たその人の顔は、驚くほど穏やかだった。まるで、またいつものように「久しぶり」と笑いかけてきそうな気さえした。その現実感のなさが、逆に、すべてを突きつけてきた。

私は、間に合わなかったのだ。

何に対して、間に合わなかったのかは、最後まで分からない。ただ確かなのは、「あとで」と先延ばしにした時間が、もう取り戻せないということだった。

それからしばらくの間、私は何をしていても、その未送信の言葉に引き戻された。講義中も、食事中も、ふとした瞬間に、あの短いメッセージが頭に浮かんだ。「今度、少し話せる?」――あのとき、私は何を優先していたのだろう。

大したことではない課題。すぐに終わるはずだったアルバイト。あとでいくらでもできるはずのことばかりだった。それなのに、私は「今じゃなくてもいい」と判断した。

あの日以来、私は「あとで」という言葉を簡単には使えなくなった。

連絡をもらったら、できるだけその場で返す。会いたいと思った人には、自分から連絡をする。たとえ短い時間でも、顔を見て話す機会をつくる。そんなことは、特別な努力でも何でもないのかもしれない。でも、以前の私にはできていなかったことだった。

すぐに返せないときもある。忙しい日もあるし、気持ちに余裕がないときもある。それでも、「あとで」に逃げるのではなく、「今できる形で」応えるようにしている。

一言だけでもいい。スタンプ一つでもいい。それだけで、途切れずに済む関係があるのだと、私はようやく知った。

あのメッセージの本当の意味は、今でも分からない。何を話したかったのか、どうして私に連絡をくれたのか、確かめることはもうできない。

それでも、あの一通は、確かに私の人生を変えた。

私はもう、「いつでもできる」と思って、人との関わりを後回しにはしない。完璧な返事でなくてもいい。気の利いた言葉でなくてもいい。大切なのは、「今」応えることだと、あの日を境に知ったからだ。

スマートフォンの画面に残ったままの、あの未送信の言葉は、これからも消えないだろう。消してしまうこともできるのに、私はそれをしていない。

それは、後悔を忘れないためではない。

あの日、間に合わなかった私が、これから誰かに対して「間に合う側」でいるための、小さな約束のようなものだ。

そして今、私は「あとで」という言葉で人との関係を先延ばしにすることを、やめた。

課題よりも、予定よりも、評価よりも、誰かの「今」に応えることを選ぶようになった。以前の私なら、迷わず後回しにしていたはずの時間を、私はためらわず差し出すようになった。

その分、失ったものもある。効率よくこなせたはずのことや、完璧に仕上げられたはずの成果。けれど、それでもいいと思えるようになった。

一度失ったものは、もう戻らない。
だからこそ、まだ失っていないものに対して、私はもう迷わない。

あの一通に、私は最後まで間に合わなかった。
その事実は、これからも消えることはない。

それでも――

次に誰かが差し出してくれた「今」には、私は必ず間に合う。
そうやって生きると決めたあの日から、私の時間の使い方は、確かに変わった。

やさしい風が吹いたなら

浜辺とまり
「文章、素敵だね」
「いいもの作ったね」
そう言われるたび、私はいつも戸惑っていた。
それはきっと、その言葉が、本当の自分に向けられたものではないと、どこかで感じていたからだ。

これまでの私にとって、「書く」という行為は、自分のためではなく、誰かのためのものだった。
新卒で入った会社で、私は取材記事やドキュメンタリーを作る仕事をしていた。
誰かの言葉や想いを掬い取り、整理し、伝わりやすい形に整える。正確で、誤解のない文章を書くこと。ひとつの美しい物語として着地させること。それが求められ、それに応えることが仕事だった。
優等生めいた文章を書くことは、昔からそこそこ得意だったように思う。けれど、その文章や紡ぐ物語は、誰かのためのもので、そこに「私」はいなかった。自分を消すことは、当たり前のこととして受け止めていた。仕事以外で、自分のために書く時間を持つ余裕はなかったし、持とうとも思わなかった。

その頃、一緒に暮らしていた年上の交際相手がいた。
彼はことあるごとに、私の容姿に対して色々と口を出してきた。

「メイク、もっとこうしろって言ったじゃん」
「今の髪型微妙」
「何でピアス付けてないの?せっかくあげたのに」

きちんと身なりを整えていないと必ず何か言われるし、彼の趣味に合う服装の時は、気持ちが悪いくらい褒められる。相手に悪気がないことは分かっていたし、私のことを好きなのも分かっていた。だけど、「私のうわべだけを見ているんじゃないか」という不信感が、ずっと胸の底で渦巻いていた。
社会人としては中堅にさしかかり、親の介護や子どものことを考えていた彼と、社会人になったばかりで、寝る間もなく仕事に追われていた私。その間には、埋まらない溝もあった。

「今は結婚したくないってどういうこと?まだ他の男と遊びたいの?」

その言葉を聞いたとき、悟った。
可愛い年下の女。彼の暮らしのお世話係。子どもを産むための道具。親の介護要員。
彼が欲しているのは“私”ではなく、“彼が求める役割をこなす女”なのだと感じてしまった。
でも、私は何も言えなかった。
彼が日々発する何気ない言葉が、皮膚に張り付くようにまとわりついて、剥がれなくなっていた。それは少しずつ重石のように積もっていき、私の心は、粘土のような沼にゆっくりと沈んでいった。疲れていたのだ。
月日が経ち、私はいつの間にかプロポーズを受け入れていた。消えない違和感は、見ないふりをしてごまかした。仕事以外のことを考える余裕もなく、ただ流れに身を任せたかった。
でも、やっぱり無理だった。やがて限界を迎え、関係は壊れた。婚約は解消し、仕事も辞めた。
あのころ、仕事においても、恋愛においても、そこに「私」はいなかった。
どれだけ自分を出さずに生きてきたのか、離れて初めて気づいた。

その後、体調の問題も重なり、職場や働き方を変えたころ。
仕事を通じて、ある男性と出会った。

私が書いたある文章を読んで、彼は言った。
「読みやすいね。空気感がすごく好きだよ。やさしい風が吹いてる感じがする」

それは、それまで言われてきた言葉と似ているようで、まったく違っていた。
曖昧で、輪郭もないけれど、純粋なものだった。

「僕、あなたの文章好きだな」

その一言は、不思議なくらいまっすぐに、私の中に入ってきた。
「可愛いね」とか、「文章上手いね」とか。そんな言葉はこれまでももらってきたけれど、私の書いたものを、ただただ愛おしそうに読んでもらったことはなかった。そのとき初めて、自分を見つけてもらえた気がした。

その言葉をもらってから、数か月後。
私は、生まれて初めて短編小説の執筆に取り組んでいた。
仕事から離れて文章を書くこと、ましてや創作の領域に踏み込むこと。
私とは縁がないものだと思っていたが、彼や知人の後押しでやってみることにした。
キャラクターや物語の中には、自分の性格や過去を少しずつ投影していたので、必然的に自分を見つめ直すことになる。自分自身と向き合う作業は、思っていた以上に苦しかった。思い出したくないことや、言葉にできない感情が次々と浮かび、自分がどんな人間なのかを、まざまざと見せつけられる。でも、これは避けては通れない時間だと思った。

締め切りの前日、初めての作品が完成した。最初の読者になったのは、彼だった。
無言で読み進める彼の背中を、私はじっと見つめていた。仕事のときとはまったく違う緊張感が、そこにあった。最後まで読み終えた彼は、顔を上げて言った。

「僕、あなたの文章のファンです」

賞を取ることはできなかったけれど、その言葉だけで十分だった。
少しだけ息がしやすくなった気がした。

短編小説を執筆した後、仕事の合間に書いたものを、二つほど公募に出してみた。作品が自分の手を離れ、結果を待つことしかできない日々は、そわそわするものだと初めて知った。
結果はもちろん気になるけれど、不思議とすでに満たされていた。それはやっぱり、「自分のために書く」ことができたからだと思う。

「文章、素敵だね」
「良い世界観持ってるね」
そんな言葉を、嬉しく思えない頃があった。
仕事で書いたもの。私的に書いたもの。
今は、どちらに対しての言葉も、素直に受け取ることができる。

まだ私は、何者でもないけれど。
それでもいいと思えている。

私の書いた文章を読むたび、彼はこう言ってくれる。
「俺、あなたの文章のファンだよ」

すぐ隣でその声を聞きながら、私はふっと笑う。
私と彼との間には、今日もやさしい風が吹いている。

『お前もな』が聞きたくて…

どいのり
父に限って…
うそだ!

昨年の年の瀬。
残すところあと10日あまりを慌ただしくすごしていたある日。

「電話で話せる?」 姉からのLINE。

───このLINEが届く時は、大抵大きな壁にぶち当たってどうにもならない時だ。

姉は、25年ほど前に離婚し、当時幼なかった子どもを連れて実家に戻っている。
現在は仕事を辞め両親の世話、介護をしている。

私は家事を一通り終わらせて、 「いつでも大丈夫よ」 とメッセージを送った。

メッセージを待ち構えていたのだろう、既読がついたと同時に

リーン リーン!!

いつもとは違う、悲痛に聞こえてくる電話の呼び出し音。

「じじ(父)のことなんじゃけど…」 電話の呼び出し音とは対照的な、限りなく弱々しい低いトーンの姉の声。

「じじがどうしたん?」 私の問いかけに、姉は堰を切ったようにそれまでの思いを吐き出した。

「先月から、じじの様子がおかしい」 時折言葉をつまらせながら話す姉。

この前から立て続けに、銀行から父のキャッシュカードが届いた。
暗証番号が分からなくなり、その都度カードを再発行していたらしい。

20年前に胃癌で胃を全摘している父は、合併症もあり何種類もの薬を服用している。
その薬をラムネのごとく飲んでいた。

鍵も持たずに車のエンジンをかけようとする。 「なんでエンジンがかからないのか!?」
ワイパーを動かしてみたり、
クラクションを鳴らしてみたり…

私はそこまで聞くと、耳を塞ぎたくなった。
受け入れられなかった。
電話の向こうの姉の声が遠のいていった。

その頃、同じタイミングで姉の息子が仕事を辞め、親代わりである父はショックをうけていた。

姉は、私が心配するからと、すぐには連絡をせず様子を見ていたと言う。

もしかしたら、薬のせい?
息子の再就職が決まれば安堵して元に戻るのでは?

しかし、症状は一時的なものではなく、日に日に進んでいった。

「ゴルフは?温泉は?」
   「行ってない」

「相撲は?時代劇は?」
   「見てない」

「畑仕事は?」
   「してない」

父はすっかり食が細くなり、一日中寝ている事が多くなった。
這うように隣の部屋に移動していると話す姉。

「病院に行こう!?」 姉が父に言う。

「病院行ったって変わらん。お前はわしをボケ扱いするんか!!」 大声をあげ、姉をバカだアホだと罵る父。

姉は憔悴しきっていた。

『…今日まで誰にも相談できずに辛かったね。 』

その日の夜───

私はシャワーを顔に当て続けた。
シャワーの音はむせび泣く私の声を掻き消してくれた。
涙も洗い流してくれた。

真っ暗だった。
瞼の裏に元気だった頃の父が現れた…
…かと思うと、現在の父が現れた。

───翌朝、目が覚めた私は、すぐに布団から起き上がることが出来なかった。

昨日のことは夢だったのだろうか。

私は家族のお弁当を作らなければならない。

時間になれば仕事に行かなくてはならない。

これが現実だった。日常が待っていた。

仕事中も父のことで頭がいっぱい。

瞳に溜まった雫が頬を伝いポトリ。
小さな水輪となり書類をにじませた。

父に…会いたい…

───翌日、私は気持ちを落ち着かせ、父に電話をした。

『もしかしたら、もう私のことは分からないかも…』

「おぉお前かー」 少し弱々しいが、父の声だ。

『あぁ私のことを分かってくれた』

話す言葉に違和感を感じたが、素直に嬉しかった。

「元気にしてる?」 差し障りない問いかけをする私。

わずか数分のたわいもない話。

「寒いから無理せんようにね」 私の言葉に

「お前も無理するなよ」 その言葉を聞いて電話を切るつもりでいた私。

ブチッ!!

その静寂に時間が止まった。

私の気持ちは置いてきぼりをくらった。

やっぱりおかしい。
いつもの父ではない。

慌ただしい年末年始を過ごした私たち家族。
1月の終わり、家族全員で父に会いに行くことにした。

毎日、雀の涙ほどの食事しか摂れていない父。
もしや、好物のちらし寿司なら食べれるかも!?
父が喜ぶ顔を思い浮かべながら、私はちらし寿司を作った。

穴子専門店のふっくら柔らかいあなご。
プリプリのがらえび。
シャキシャキのれんこんと人参。
干し椎茸を戻して甘辛く炊く。
酢めしの甘酸っぱい香りがキッチンを包んだ。

翌朝、岡山から車で3時間高速を走らせ、父の待つ山口に向かった。

「おーよう来たな」 父は満面の笑顔で私たちを迎えてくれた。

「あれ!?全然ふつうじゃん!」
挨拶もろくすっぽ終わらないうちに。
主人が父に声をかけた。

「今から唐戸市場(下関)に行ってくるから」

「鯨肉買ってくるから楽しみに待っといて」

山口は鯨肉を食べる習慣のある土地柄。

主人は父の好物を知っていた。

どうしても父に鯨肉を食べさせたかったのだ。

「わしも行ってみよう」 父はまるで遠足にでも行く子どものように嬉しそうに答えた。

「ダメダメ遠すぎる。行ったって歩けんし、どうするん?」 家事の手を止め、姉がすかさず口を挟んだ。

「わしが付いとるから大丈夫じゃ!!」 父の気持ちを察して、主人は父の付き添いを引き受けてくれたのだ。

道中、何事もないように祈る思いで…
父を主人と子どもたちに託して…

私は姉と甥っ子と買い物に出かけた。
「久しぶりにじじを監視せんですむ…」 姉は車の窓から遠くを見つめ静かに呟いた。

それはまさに、父を案ずる気持ちと少しの解放感の入り混じった姉の本音だった。

目を離すと何をしでかすか分からない。
常に見張りをしていないとならない。

遠く離れて暮らしている私には到底理解できることではない。
いや、頭では理解できても気持ちがついていかない。

私たちが買い物を済ませ家に帰ると、しばらくして主人と子どもたち、父が帰って来た。

『あぁ無事に帰ってきてくれた』
好物の鯨肉を嬉しそうに抱えて。

その夜、父の好きな魚を煮付け、ほんの少しのちらし寿司をよそった。
そして鯨肉。

「うまいのぉ」 父は驚くほど食べてくれた。

「こんなに食べたのは久しぶり。」 姉は父の食べっぷりに目を丸くしたり細めたり。

───翌日、私たち家族は山口を後にし岡山へ戻った。

そしてまた日常が始まった。

慌ただしい日々を過ごす中、私は父に電話をした。

「元気にしてる?」
いつもの数分間のたわいもない話。

「じゃあ元気でね」 電話の最後に私は言う。

「お前もな」
もう聞けないと諦めていた 『お前もな』

確かに父は言ってくれた。

あの頃のままの父だ。

とめどなくあふれ出す涙。。。

いつまでも、私がめそめそしていたら、父や姉を励ますことはできない。
父もそれを望んではいないはず。

私は父の認知症を受け入れた。

離れて暮らす私には直接的に介護をすることはできない。

姉を手助けすることもできない。

だけど、気持ちを伝えることはできる。
私が出来ることは、元気でいること、笑顔でいること。

そしてまた私は日常を淡々と過ごす。

『お前もな』が聞きたくて…。

言葉が届いたとき

aako
「ここは俺の家だ。嫌なら出ていけ!」

その一言で、会話は終わる。
──あぁ、またこれだ。この人とは、わかり合えない。
それ以上、言葉は続かない。
そう、私は、父に何かを伝えることを、少しずつやめていった。

父がいると、家の中の空気がぴんと張りつめる。
ふざけたり、音を立ててはいけないような気がして、自然と背筋が伸びる。
「今日、こんなことがあってね」と話したいことはやまほどあるのに……。
家が一番癒される空間のはずなのに、父がいると思うだけで家に向かう足取りが重くなる。

夕食の時間。
「いただきます」と手を合わせたあと、部屋にはテレビの音だけが流れていた。
ニュースか、野球か、相撲。
さっきまで見ていたバラエティ番組の笑い声は、もう聴こえない。

湯気の立つみそ汁の香りが、ふわっと鼻を刺激する。
春巻きの皮がパリッと音を立て、それを口にほおばる。
焼き魚の骨がお皿に飛び散る。
楽しいはずの食卓なのに、早く終わらないかと、そればかり考えていた。

母も姉も弟も、何も言わずにテレビの画面を見ている。
リモコンを持つ父の手元を、私は横目でちらりと見る。
その指先が動くたびに、かすかに期待をしてしまう。

私はその様子を横目で見ながら、何度も口を開きかけては閉じていた。
__チャンネル変えて!
この空気の中で、声を出していいのか。
言いたいのに、私の口からその言葉は出ない。
結局、何も言えないまま食事が終わる。

__早く書斎に行ってくれないかな。そしたら、好きな番組が見れるのに。

父の書斎。
書斎の本棚は、両側にところ狭しせましと天井から床まで本が並んでいる。
ラジオの音と、部屋中に黙々と漂うタバコの煙。
タバコの匂いが部屋の外まで流れている。
ちびた赤鉛筆や消しゴムが机いっぱいに置かれた机。
たくさんの本を広げ、今にも崩れそうな書類の束が、顔が見えないほど積まれている。

その中で、カリカリとペンを動かす音だけが、ラジオの音に交じって聞こえてくる。
父は机に向かったまま、ほとんど顔を上げない。
この場所に私が入るのは、決まって怒られるとき。
子どもの私には怖い場所でしかなかった。

勉強しなさいと怒られることはなかった。
人としてや生き方を理路整然と話されるたび、私は余計に感情的になる。
「そんなのわかってるよ」
できてないのに、顔を真っ赤にして、涙ながらに言い返したこともあった。
感情に任せて言い返すと、げんこつが待っている。
今では、問題になるかもしれないが、当時の頑固おやじは、どこもそうだった気がする。

そんな父だが、なぜか、家にはいつも人の気配があった。
「今日も誰かお兄ちゃんが来てるんだな」とわかる。
物心ついた頃から、父の教え子のお兄ちゃんたちが当たり前のように出入りしていた。

「ただいま~」
と声をかけると、お兄ちゃんの
「おかえり~」
の声が迎えてくれる。

書斎ではなく、居間のほうからテレビの音とともに聞こえてくる声。
振り返ると、高校生のお兄ちゃん、NくんやKちゃんが、笑顔で迎えてくれる。
その日によって違う顔ぶれが座っている。
誰かしらが、いつもそこにいた。

母が呼ぶように、10歳以上年上の父の教え子をKちゃん、Nくんと呼んでいた。
「今日、何して遊ぶ?」
ランドセルを下ろすより先に、そんな声が飛んでくる。
「トランプ!」
ランドセルを放るように置きながら、私はおにいちゃんのそばに行く。
お兄ちゃんがいるときは、 自然に笑顔になった。
言葉に詰まることもなく、考えなくても会話が続く。
誰かが冗談を言えば、すぐに笑い声が広がる。
__お父さんは、わからずやなのに、なんでお兄ちゃんたちはうちに遊びに来るんだろう?

父がいなくても、しょっちゅうお兄ちゃんは、うちに来ていた。
私にとっては、優しいお兄ちゃんがいることが、何よりうれしかった。

けれど、家族だけの時は、同じ場所とは思えないくらい空気が重かった。
小、中、高と成長するにつれて、その違和感は少しずつ大きくなっていった。
母も姉も弟も父の様子を感じ取りながら、話をする。
私は、それができなかった。 家族の中で、自分だけが浮いているような気がした。

門限を遅くしてほしくて、お願いした時もそうだった。
「部活の後、友達と少し話したりする時間がほしいから遅くして」
と頼むと、
「日曜に話せばいいだろ、門限は変えない!」
「部活帰りにみんなでかき氷やタイ焼きを食べてきたいの。30分でいいから遅くして」
どんなに頼んでも最後は、
「ここは俺の家だ。嫌なら出ていけ」

__高校生の気持がわからないのに、よく教師なんてやってるなあ。

行き場を失った私の声は、そのまま沈んでいった。

そんな父が2年前に亡くなった。
訃報を聞きつけ、お兄ちゃんたちは最初から最後までずっとそばにいてくれた。
お兄ちゃんたちは、私たちに優しく声をかけてくれた。
「何か困ったらいつでも相談においで。
 先生には、ほんとにお世話になったから」

お別れの会を終えても、他の教え子さんたちが自宅を弔問に訪れた。
__こんなに慕われていたの?
__こんなわからずやのどこがいいの?

父が遺言として遺したカセットテープ。
それは、家族だけではなく、今までかかわってきた人みんなへの感謝と自分の人生に悔いはないとのメッセージだった。
お別れの会で聞いてもらったその遺言テープを、また聞きたいと教え子さんたちが我が家にやってきていた。
遺影を見ながらじっと聞く人。
涙が流れるのを気にもせず、目を閉じて聞く人。

父はたしかにここにいる!

部屋中を見渡しながら、私は、その光景から目を離せなかった。

__この人は、こんなふうに誰かの中に残る人だったんだ。

聞き終わってからも、遺影の前で女子会のように、笑顔で思い出を語る教え子さんたち。
ここには、私が全然知らない父がいた。

__私はお父さんの何を見ていたんだろう?
__もっと、話しておけばよかった。

その夜、来れなかった教え子さんからのLINEが鳴った。
「先生は、私の人生の南十字星なんです。
 つまづいたとき、先生ならどうするかな?っていつも考えています。
 それはこれからも変わりません」

そのメッセージを、何度も読み返した。
画面に表示されたその文字は、私に語りかけているようだった。
指先でスクロールしては戻し、 同じ一文を何度もなぞる。
読み返すたびに、 胸の奥に小さく引っかかっていたものが、 少しずつやわらいでいく。

──あぁ、そうか。私は、お父さんの言葉を受け取ろうとしていなかったのかもしれない。
私は、自分の思いだけをぶつけていた。

それからだ。
迷ったとき、立ち止まったとき、 私はあれほど苦手だった父の書斎に自然と足が向く。

父なら、どうするだろうか。
気がつけば、苦手だと思っていた父を誇りに思っている私がいる。
父は、私の人生の南十字星だったのだと、ようやく気づいた。
これから、私は父に問いかけながら、自分の答えを出していくのだろう。

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