作品一覧
- なんでもない日の分岐点 / AKO
- 帰りたい場所 / まどか
- 出産 / けいこけい
- 今年の歩み / まりん
- 私の人生が変わった瞬間 / あや
- 死を前にして、私は本当の意味で生き始めた / 常夏みゆう
- 他人の人生から降りた日 / お千代ちゃん
- やるしかないなら進むだけ。 / かやぼん
- トルコには結局行かなかった / 桂しょう子
- 土に触れる / 田畑千寿
- スポーツキャップとピンクのハット / ゆき
- 遠回りの縁 / 山田 真瑚
- 光のような人 / 津田ひつじ
- 忘れられない風景 / えんどうみわ
- 子どもが教えてくれた”今” / ひーらん
- 涙と教訓 / Sammy
- 人生を変えた推し活 / 徒子
- 母の憧れ、私の足跡 / 那須田 心
- 私を変えた、小さな掌(てのひら) / リリー
- 愛す! / さっちー
- 再び目指してみようかな / みみこ
- ただの苦労話では終わらせません! / 楽地みどり
- 還暦前に思うこと / 一期一会
- 私の人生が変わった瞬間「私」は変わらなかった / らな
- 3LDKの台所から / 味島ちえ美(あじしま・ちえみ)
- 更年期じゃないと、気づいていた私 / 林栄子
- 母になった夜 / 岡えり
- 嵐、のち春 / 卯月ことは
- 気づけば陥っている / 奈美
- 娘と私の分岐点 / 井上石蒜
- 「良い結婚」 / うめちゃん
- 「叔母の残り香」 / 広沢幸乃
- 私の命から / 石橋いづみ
- 新しい風 / れこまま
- 気づいた時には / MISATO
- おだやかな人 / 石川火星
なんでもない日の分岐点
帰りたい場所
怒りに任せて家を飛び出した夜、冷たい空気に触れた瞬間、ふと足が止まった。
私は、どこへ帰ろうとしているのだろう。
思い浮かんだのは実家ではなく、散らかったリビングと家族の姿だった。
帰りたいのは場所ではなく、「わかってほしい」という気持ちだったのだと、そのとき気づいた。
夫婦は鏡。
相手の態度に腹を立てながら、私は自分の姿を見ていた。
あの夜から、相手を責める前に自分を見つめるようになった。
帰る場所は建物ではない。心を戻せる場所のことだ。
あの瞬間、私の人生は静かに向きを変えた。
出産
今年の歩み
私の人生が変わった瞬間
私は数十年前、人生の迷子になっていました。
子供の頃から見たいと思ってもいないモノが見えたり聴きたいと思ってもいない事が聞こえたり…神様は何故わたしに辛い思いばかりさせるのか?とか神様なんていないんじゃないのか?とか思っていた私は私と同様に子供の頃から苦労していた江原啓之さんの書いた本を読んだ時、私は本に書いてある事を鵜呑みにしたりしない疑り深い人なのでほんまかいなと思いました。
その後、悪夢を見ない方法が書いてある江原さんの本を見つけ本当に悪夢を見なくなるか?検証しました。
結果は事実…でした。それから私は江原さんを信じ尊敬する様になると共に人生の迷子から脱却しました。
ので人生の迷子になっている方々へ
江原さんの本を読んだりする事をオススメします。
死を前にして、私は本当の意味で生き始めた
白い診察室でそう告げられたとき、頭では言葉の意味を理解しているつもりでも、現実感がなかった。
24歳、人生はこれからだと思っていた。死という言葉が具体性を帯び、視界を覆うようにぶら下がる。
それまでの私はどこか社会から外れた存在の自分に対し、劣等感や嫌悪感を抱いていた。別に、いつこの世を離れてもいいと思ったこともあった。
だが実際に宣告されてみると、なぜか強く生きたいと思った。
中学校に入学して少し経った頃、いじめに遭った。うつ病と人間不信になり、卒業まで学校へ行かなかった。教室という空間は、私にとっては戦場のように戦々恐々とした場所だった。
通信制高校を経て短大に進学したものの、今度は摂食障害に罹患し、休学ののち退学。体重を減らすことで、自分をコントロールできることが何よりも快感だった。
そのときも精神科の主治医に「命が危ない」と言われた。しかし身体は自ずと過食に転じ、どんどん増えていく数字に絶望した。
当時の私は体重計の数字で自分の価値を推しはかっていたのだろう。
その後、時間はかかったがようやく心身が落ち着いてきた。やっと私も働くことができると思った矢先に、難病が見つかった。
首から腹部にかけての血管に、ひどい炎症が広がっていると言われた。入院と強い薬での治療が必要だった。
副作用で顔に脂肪がついて、顔つきが変わるかもしれないと聞いたとき、正直命を失うことよりもそちらの方が怖く思えた。
自分の外見に執着してきた年月がそれだけ長かった私にとっては、生きながらにして死ぬことと同じだった。
だが、医師の「命を落とす」という言葉の真剣なトーンはそれまでの価値観を一瞬で吹き飛ばした。
入院して治療をすれば寛解するとは言われたものの、もし本当に死ぬとしたら私は何を残せるだろうと思った。
病室の天井を見つめながら、初めてそう考えた。それまでの私は生き延びることに必死で、ただ周囲に追いつけない自分を恥じ、経歴も肩書きもない過去を曖昧にごまかしてきた。
けれど死を意識したとき、不思議と熱い感情が湧いた。私にだって何かできるはずじゃない?
その問いが、私を執筆に向かわせた。震災、不登校、摂食障害、難病。思い返すと色々あったが、それらは確かに私だけが通ることのできた道だった。
摂食障害の症状がひどかったときからウェブでエッセイを投稿し、掲載してもらっていた。だから言葉にして残すのがいいと思った。
別にバズらなくてもいいし、読まれなくてもいい。ただ、自分から見えた景色や人生を記録して共有したかったのだ。
書いている間は余計な心配や悩みが生じないので、軽い気分転換にもなった。
苦しみはただの不運ではなく、一つの物語の素材になるということにも気がついた。絶望だと思っていた日々も、文章にしてみるとなかなか味わいがある。
ずっと私は、社会の中で価値を生み出せない人間だと思っていた。SNSを見れば就職や結婚・出産など、同年代はどんどん前に進んでいて、私だけが取り残されている気がした。
しかし記事がサイトのランキングに浮上すると、「私もこう思っていた」「共感する」など反応があり、誰かの気持ちを少しでも軽くできているのだと小さな自信がついた。
現在、難病の薬の量は徐々に減っていっている。顔の膨らみも、少しずつしぼんできた。体調は安定しているが、たまに一日中寝込む日もある。
だが、ベッドの中でも書くことだけはやめなかった。体調が悪い日は短歌や俳句を、少し元気な日はエッセイを。気づけば、小説や詩にも挑戦していた。
公募に応募し、いくつかの作品が評価された。賞状を手にしたとき、嬉しさよりも先に湧いたのは安堵と少しの罪悪感だった。この世に生きていてもいいのだという気持ちと、私なんかが賞を貰っていいのかという気持ちだ。
作家と名乗るにはまだ早いと感じる。それで生計を立てているわけでもなければ、まだ広く知られているわけでもない。
でも死を告げられたあの日から、私の人生の軸は確実に変わった。生き延びるだけの人生から書くための人生へと、着実に変化している。
27歳になった今、結婚の予定がある。生活はまた様々な形に変わっていくだろう。それでも過去に抱いた感情は、きっと私の中にあり続けるはずだ。
人生を変えた瞬間は、死を告げられたときだった。だが本当に変わったのは、その後自分のことを言葉にすると決めた瞬間かもしれない。
生きることに必死だった私が、生きた証を記し始めた。今でも「書けなくなったらどうしよう」と不安になる時もある。それも含めて、私の人生はようやく私のものになったと言えるだろう。
他人の人生から降りた日
取り残されている気がして、周りが結婚しているからとか、もうこんな年齢だからとか、そんな理由で「結婚しなければいけない」と思い込んで、焦ってしまっていないだろうか。周りと自分は切り離して考えたらいいし、結婚はしなければいけないものではない。
私も、恋人やパートナーをつくりたい気持ちになったことはある。そして、マッチングアプリをやって、2回お付き合いをさせてもらったけれど、どちらも付き合ってばかりの頃は楽しく幸せなんだ。しかし、付き合って少し経つと、私はお付き合いをやめたくなって、最後は自然消滅したり、突き放して別れていた。私は、子供を希望しないし、それは相手にも伝えていた。しかし、付き合うとセックスという行為が出てきて、気持ち悪さを感じることもあった。正直、セックスは、愛情表現でもあり、子供をつくる行為でもあり、複雑なものだ。しかし、パイプカットのような避妊手術もせずに、避妊具だけでセックスをするのは、妊娠の危険をともなうため、私はとてもセックスが不安で頑なに断ったりもした。妊娠したくないという強い気持ちを、きちんと自分で守りきった。望まぬ妊娠なんて、大変で慌てるに違いないのだから。そして、子供を希望しないのに、下半身を出し合ってセックスをするといった行動が、気持ち悪く感じ、相手の欲求解消に付き合っているだけのような気持ちにさせられた。私は、セックスに消極的になった。
恋人同士での楽しみ方や愛情表現は、セックス以外に沢山あると思うんだ。会話をしたり、散歩したり、お出かけしたり、一緒に何かを作ったり…。別れてから、一人になって、性的な欲求不満が表れることもあるけど、そんな欲求不満は、自分で解消だってできるんだ!生活面では、一人より二人のほうが色々なことを共有して楽しめて、満たされやすいかもしれないけれど、一人でしか楽しめないようなことや、一人だから楽しいことだってあるだろう。
結婚は、子供が欲しい人や夫婦の家庭を持ちたい人はしたらいいと思う。結婚とは、虹のように華やかで手の届きにくいものに思える。しかし、実際に結婚をしたら、楽しいことばかりでなく、大変なことも沢山あるだろう。それらを、パートナーである相手と乗り越えられるかどうかも、考えなければいけないと思うし、大切だと思うんだ。
子供を希望しないが事実婚など少し考えていた私は、異性とお付き合いさせてもらって、異性とのセックスが苦手で気持ち悪く感じることや、コミュニケーションや関わりが上手くいかないことなどを経験して、それらが深く心に残っている。
正直、ここまでくると、異性とお付き合いすることは懲り懲りだ…と言いたいくらいだ。これは、私の経験であり私の気持ち。「さみしく一生一人で生きていきな」といわれたって、他人の言葉を真に受ける必要はない。
まだ私の人生は先があり、今は、家族のように思えるぬいぐるみ達と一緒に暮らしている。
現実では、同性を好きになる人もいれば、二次元のキャラクターを好きになる人や、物を好きになる対物性愛者など様々だ。それらの多様性は、自分は自分であるということを意識させてくれる。
私は、異性とお付き合いするのは、今は懲り懲りで、気が向かなかったりする。ぬいぐるみに癒され、自分で自分を愛し、自分で自分を楽しませてあげるということを意識して、一人でもかっこよく過ごしていきたいと思うんだ。
SNSをやっていて、作詩や作詞をしたり、AIで楽曲づくりをして投稿したりもしていて、それらは、今の私の余暇活動であり、私の生き方だ。何に力を注ぎたいか、自分に問いかけてみることもいいのではないだろうか。
これから先、ひょっとしたら、異性とまたお付き合いすることや結婚することもあるかもしれない。しかし、今はあまり夢見ることなく、目の前を見てひたすら生きている。
繊細な女性は沢山いると思う。子供を希望しない女性も沢山いると思う。結婚や異性に振り回されないでほしい。強く格好良く、今を生きてみませんか。
やるしかないなら進むだけ。
けれど、「後ろを振り返らないのか?」と聞かれたら、それは違う。反省や自省は大切だ。同じ失敗ばかり繰り返していたら、ちっとも前に進めない。前向きであることと、過去を振り返ることは、きっと両立できるものだと信じている。
さて、「私の人生が変わった瞬間」である。
今年で46歳になる。
それなりにまあまあ人生を歩んできたから、それなりに「人生のタイミング」のようなものは必然的に生まれる。それでもやはり一番大きいものは、一昨年、夫が急逝したことだろう。
子どもの小学校の入学式を「一番人生でしあわせな日だ」と笑って、校門の前の立て看板の前で私と娘と三人、写真を撮った。それがまさか遺影になるなんて思いもしなかった。これから一緒に子どもの成長を見守り、思春期や反抗期にどう向き合うか考え、いよいよ巣立ったら寂しいと思うんだろうね、などと隣で話すはずの相手が突然亡くなった。まだ子どもは小学一年生なのに。
小説やドラマの中だけだと思っていたような事が、自分にも起こる。そう実感した。けれど、ふと周りを少し見渡せば、死別だけに限らず、様々な理由で一人で子育てをしている人はたくさんいる。誰かに起こることは、自分にも起こるのだ。
昨日まで「妻」であった私は「喪主」となり、悲しみに浸る暇もなく怒涛の通夜と葬儀を終えた。
その翌日、私は娘と動物園にいた。娘が行きたいと言ったからである。
晴れた空の下、手を繋ぎ、しまうまやライオン、キリンや象を見て歩く。
「パパがいなくなって寂しいけれど、ママと2人、楽しいことも沢山あるよね」。頷いて聞いていた娘が、その言葉をどれほど理解していたのかはわからない。けれど、あの時の私は、娘に話しかけるふりをして、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
そうして1年が過ぎ、2年目をもうすぐ迎える。
一番夫のことを思い出し、胸がつまる瞬間は、娘の成長を分かち合えないことだ。スイミングの昇級試験に受かったと、うれしそうにワッペンを握りしめて走ってくる姿を、もうあなたは、見られないのかと思うと、涙がこみあげてくる。
けれど、その悲しみは同時に、娘の成長の喜びでもあるのだ。
不安が無いと言えば嘘になる。けれど。誰の人生にも悲しいこと、つらいこと、思いもしなかったようなことが起こる。でも、人生は止まってはくれない。どんな時も、前へ前へと進むしかないのだ。
私の歩く姿を、娘は見ている。前に進みながら、後ろを振り返り、娘を見る。娘が見る私の背中が、これからの彼女を導く。その背中には、私と夫、二人分の光が重なって彼女の目に映っていたらいいなと心から願いながら、私は今日も前に進むのだ。
トルコには結局行かなかった
勉強と落書きだけの世界に生きていた私は、雷に打たれたみたいに思った。
あ、私トルコ行きたい。
大学ではトルコ語を学ぼう、と。
それまで私は、地元大学の経済学部を受けるつもりでいた。特にやりたいこともなく、親からも家から通える大学にしなさいと言われていたからだ。姉もそうしていた。私もそうするつもりだった。
家を出たい気持ちはあった。
当時、いろいろと過激な母とは共依存のような関係になっていて、母の助けになることが私のすべてだった。ぼんやり目指していた経済学部も「お金持ちになれば母を助けてあげられる」と思っていたくらいだ。
同時に、母を心の底から憎んでいた。この関係をどこかで終わらせなくてはいけない。ずっと一緒ではいけないという思いは、ずっと抱いていた。
イスタンブールの雷の日から、日本にはトルコ語を専攻できる大学がふたつしかないことを知り、そのうちひとつは受験科目の関係でそもそも受けることすらできないことも分かった。
もうひとつの大学は、大阪大学。
2次試験は国語と英語と数学だけで受験できる。
「それならいけるかも」なんて当時は思っていた(もちろんそんなことはなく、そのあと受験勉強地獄がはじまる)。家を出たかった私にとって「大阪大学」というのも都合がよかった。さすがに両親もこのビッグネームには反対できなかったようで、あっさり受験を許してくれた。
今思えば、この打算を含んだ思いつきが、私の人生最大の転機だった。
晴れでも雨でも曇りでも、とにかく机にかじりつく毎日を経て、なんとかセンター試験ではまあまあの点数を取り、満を辞して私は阪大受験のために大阪に向かった。ひとりで行くのは心配だからと、父が着いてきてくれた。前日の夜ごはんにはふたりでインドカレーを食べた。緊張で味なんてよく分からないのに「おいしいねえ」なんてしゃべった。父はいつもの様子でビールをあおいでいた。
受験会場にいる人たちはみんな頭がよさそうに見えた。
そして試験は言い表せないほど難しかった。
試験会場の外で待っていた父に「終わったわ」と私は首を振った。父も「そうかあ」とだけ言った。家に帰り着くまでどんな会話をしたかも覚えていない。
すっかり気が抜けて、中期・後期試験の勉強も身が入らず、あっという間に合格発表の日が来た。ドラマでよく観るみたいに、受験番号が学校の外に貼り出されるわけでもなく、家族みんなでネットの合格発表を見た。
ノートパソコンの小さな画面を、家族全員で身を寄せあって凝視した。
発表の時間になり、確か結果の画面をクリックしたのは私だった。
「あった、あったよ!」
合格していた。
少し泣いて、母と抱きあった。
あれよあれよという間に、入学手続きが終わり、大学の寮に住むことが決まり、私の肩書きは「大阪大学 外国語学部 外国語学科 トルコ語専攻」になった。
入学してから気付いたが、私は語学が苦手だった。何より文法と単語が覚えられない。教授の質問にしどろもどろに答えていた私を見る、「お前は何を言っているんだ」という視線が目に焼き付いている。
トルコ語は日本語と似た構造だとよく言われるが、やはり細かい部分は違う。発音だって全然違う。とにかくこんがらがった。
寮生活にだって夢を見ていた。実家では姉との二人部屋で、自分だけの部屋はなかった。あの6畳しかない小さな部屋が私の城だった。私は束の間の城主になったのだ。
そして家から出て生活をしたことのない私は、女子寮といえば夜な夜な女子会をしたりするもんだと思っていたが、学生は意外と忙しく、そんなイベントはほとんど起こらなかった。
何度も留年に片足を突っ込みながら、なんとかストレートでの卒業にこぎつけた。学生生活はほとんど専攻以外のおもしろい講義の勉強とサークル活動に費やした。4回生の頃には「トルコ語をしゃべれるようになること」にはすっかり興味を失い、「トルコ語とカラチャイ語の比較」をテーマにした論文に情熱を注ぐようになっていた。
語学専攻者は大抵3回生が終わるとその国に留学に行ったが、私は行かなかった。
本心を言えば行きたかった。生のトルコ語に触れてみたかった。トルコ語で「日本でトルコ語勉強してます〜」なんて言ってチヤホヤされることを夢に見た。
「うち来週からトルコ留学やねん」という同期を何人も見送った。
これは言い訳だが、当時中東は情勢が悪く、トルコに行くなら縁を切ると親に言われた。何せ学生は金がない。親の援助を受けられないならやめておくかと、日本でのびのび過ごした。
遊んでいたら就活もギリギリになり、地元から少し離れた場所にある小さなイベント会社に内定をもらった。もちろんそこでトルコ語を使うことはなかった。あんなに出て行きたかった地元に戻ることになって少しバツが悪かった。
トルコには結局行かなかった。
もしかしたらトルコに行ってたら、人生が変わっていたんじゃないかと思う。トルコでなにかすごい経験をして、NPO法人なんて立ち上げて代表をしていたかも。トルコ人のイケメンにみそめられて大家族を築いていたかも。
31歳になった私はフツーの会社員だ。仕事つまんないなあと思いながら毎日の晩酌を楽しみにする、どこにでもいるなんの変哲もない会社員になった。
勉強なんて今でも大嫌いだ。
でもやっぱり、もしあの日「トルコ語専攻を目指すか?」と言われたら、私は何度でも「そうする」と答えると思う。
あの日、イスタンブールの雷に打たれた日が、私の人生の風向きを変えた。
あれが人生の最大の転機だった。
土に触れる
その上に舅となる人は早くに亡くなり、後家さんとなったお母さんと舅の姉がいた。
若かったせいもあり、あまり深く考えずに彼と一緒になった私の苦しさの原点のような始まりとなった。
鍬のひとつも持ったことが無い私は、2人の血の繋がらない女たちの後に付いて、土の上を這うようにして歩き回り、土だらけで汗だらけの一日の始まりとなった。
子供が出来てからも、「長男の嫁なんだから」と、姑に言われ乳母車に子供を乗せて鍬を振った。辛かった。早く作業を終わらせて、子供と共に日がまともに当たらない家の中であやしながら夫の帰りを待っていたかった。
そんな気持ちが強くなり、がむしゃらに作業の向こうが見えるまでと、踏ん張った。
農に従事して50年以上になる。30年近くは生産者として自信をもってお米を作り、供出していた。けれど、夫が体を悪くしてからは私一人で、季節きせつの野菜を小さな畑で作り続けていた。お米は人様に任せて。
姑と伯母が亡くなった四半世紀前に、農を止めることは出来たはずだが、止めずに続けたのは、土が持つ力強さと柔らかさを知ったからだ。さらに言えば、育てる楽しみに触れ、一日が充実していることから離れられなくなっていたからだ。
野菜やお米などを育てることは、子育てに似ている。根元に肥料をやりすぎず、根を張らせるために暑い夏にもあまり水をやらない事。日を浴び、自分の力で土の中に根を深く張り続け強くなることで、しっかりとした根が育つことを覚えもした。そして何よりも、「待つ」と言う行為が大切だと知ったのだ。
けれど、人生何があるか分からない。生き地獄のような事をこの年になって経験した。
「何物にもならなくていい。元気でさえいれば」。そんな私の思いがぶち壊れた。
長女が令和6年の末に逝ってしまった。4人の子供を残し47歳で逝ったのだ。
もう、笑うことなど罪のような気になり、暗い思いで日々暮らす私に季節の風が、匂いが、季節の野菜の時期だと教え、その気など無かったのに、庭に畝を作り夏野菜の種を蒔き始めていた。畑での栽培までもする気が無くなり、ここも人様に任せたのだ。
娘が好きだった無農薬の野菜。娘の声が、娘の笑う顔が揺れる緑の風に葉に感じ、見える気がするのだ。
若い頃は嫌でいやで、止めたかった農作業を続けることでいつの間にか私は、逞しさと力強さを学んでいたのだ。
私を救ってくれるのは紛れもなく、鍬であり土の感触と匂いである。
続けることで、実りあるモノが手に入っていたのだ。
激しく吹く春一番に耐える豆の枝。揺れるたびに、娘の声が聞こえる。娘の匂いがする。
土が亡くなった娘との絆となっている。
ゆっくりと、焦らず、娘に触れるように、これからも土と関わっていきたいと、思う。
スポーツキャップとピンクのハット
理由は多分、特別なものじゃない。
ただ、そう思っていた。
私には二つ上の兄がいる。
兄はまさに兄らしい人で、私にとってはお手本のような存在だった。
私が羨ましかったのは、兄の帽子だった。
私は母が買ってくれたであろうピンクのハットを被っていた。兄は白いスポーツメーカーのキャップだった。
そのキャップがどうしても羨ましくて、兄にピンクのハットを被せ、私はそのキャップをよく被っていた。
髪も短くしたかった。
トイレも立ってしてみたかった。
バレンタインには女の子からチョコをいっぱいもらいたかった。
でもその頃の私は、それは「男の子になりたい」という言葉で考えたことはなかった。
ある日、兄の女の子の友達が家に来た。
兄は不在で、私が玄関に出た。
その子の要件は覚えていない。
でも、一つだけ覚えている言葉がある。
「男になりたいの?」
その一言だった。
驚いたのか、戸惑ったのか、そのときの感情は覚えていない。
ただ、その言葉は幼い私の心に残った。
ああ、私は男の子になりたいんだ。
多分、その時初めて自覚した。
小学生になると、なかなか友達ができなかった。学校でよく兄とその友達と遊んでいた。
鬼ごっこをしたり、宿題を教えてもらったりした。
三年生の時、私は髪を短くしたいと強く思った。美容院で短く切ってもらったとき、少し自分らしくなれた気がした。
でも四年生のある日、クラスの端で話す女の子たちの声が聞こえた。
「ゆきって、ナルシストだよね」
それが私のことだとわかった時、胸がぎゅっと縮こまった。
私はただ、好きな服を着ていただけだった。
好きな髪型でいただけだった。
上下柄の服を着ていたこともある。
今思えば、かなり自由だったと思う。
でもその日から、私は少し変わった。
もしかしたら私は、世間から少しずれているのかもしれない。
そう思うようになった。
小学校の卒業式の日、私はリボンをつけた。
好きではなかったけど、これが当たり前なのだろうと思った。
中学生になり、制服を着た。
履きなれないスカート。
気に入らないリボン。
ヘアアレンジもできなくて、母に前髪を結んでもらっていた。
二年生の時、スマホを買ってもらった。
SNSを見ていると、ボーイッシュなインフルエンサーを見つけた。
それは、私がなりたいと思っていた姿そのものだった。
なぜか、認められたような気持ちになった。
美容院に行き、初めて後ろを刈り上げてもらった。すごく気に入った。
服装も真似するようになった。
毎日が少し楽しかった。
高校生になり、好きな男の子ができた。
でも私は思った。
男の子が好きになる女の子は、きっとこういう子なんだろう。
髪はボブくらいで、服装もどこか女の子らしさがある。
高校二年生の頃、私はまた少しずつ周りに合わせていった。
メイクを始める子が増え、私も母にメイク用品を買ってもらった。
髪を伸ばして、ボブにした。
最初はただ、みんなの真似だった。
でもある日、ふと気づいた。
メイクが、楽しい。
前髪をどうするか考えるのも、似合う色を探すのも楽しい。
その時思った。
私はただ、自分らしくいられる形を探していただけだったのかもしれない。
高校を卒業し、私は一人暮らしを始めた。
ネットで服をたくさん買った。
三十二ミリのコテも買った。
色んな服を着るのが楽しかった。
振り返ると、私は世間の目によって変わってきた。
苦しかった時もあった。
でも、その中で楽しくなった時もあった。
確かに私は、男の子になりたかった。
でも同時に、女の子でいる楽しさも知った。
それはこれからもきっと変わっていく。
世間の目の中で。
そしてその中で、少しずつ自分らしい形を見つけながら、生きていくのだと思う。
遠回りの縁
私は一度結婚に失敗している。そして四十代になった頃にはもう二度と結婚は無いだろうと思っていた。だから、今の夫と結婚することになるとは、当時の私は想像もしていなかった。
結婚というものは相手によって人生を大きく変えてしまうものなのだと、私は自分の経験で知った。
しかし世の中そううまくは行かないことも多く、なかなか一回の結婚で一生の幸せを手に入れられる女性ばかりではないことも事実だ。かくいう私も実は現在の夫は再婚である。
私は今五十代半ばに差し掛かるが、三十代の前半に結婚と離婚を経験している。
私が最初に結婚に求めた条件は、とにかく「優しい人」ということであった。初婚の相手はまさにそれを絵に描いたようなとても優しい男性であった。ではなぜ離婚することになってしまったのか。その理由もやはり「優しい人」ということになる。
つまり、その男性は私にとても優しかったが、自分の母親にも従順で優しかったのだ。そのため、私が物理的に義母と距離を置く必要が出た時、一時でも構わないから二人の生活を望んでいた私の気持ちは彼には届かず、彼は母親を選ぶこととなり、程なくして結婚生活は終わりを迎えたのだ。
実家に戻って一年を過ぎた頃、一番心の拠り所にしていた母が突然介護の必要な体になってしまった。私は一人っ子で頼ることが出来る兄弟も無く、父は家のために働かなくてはならず、母の介護をする人間は必然的に私ということになったのである。母が最終的に施設に入所するまでおよそ五年近くは介護に追われる日々が続いた。そんなことをしているうちにいつしか私は四十代に足を踏み入れていた。さすがに四十代になった私は結婚することは半ば諦め、おひとりさまになる老後の心配をし始めていた。
そして四十代も半ばに差し掛かろうとしていた私は、誰にでもあるような自然な形で現在の夫と出会った。もちろん最初からビビッと来た訳でもなく、お見合いや紹介をという結婚を前提にした出会いでもない。そして何より私は初婚の時とは異なり、結婚の条件などということは考えてもいなかった。まあ結婚を半ば諦めていたのだから当然かもしれないが・・・
私はある介護施設で介護士補助として働いていた。そんなある日その施設に新しい介護士が入職してきた。その人こそ紛れもない現在の夫である。このまま職場恋愛で結婚すればよくあるおめでたい話なのだが、私たちは違っていた。確かに話をしていて楽しかったし、お互いに好感は持っていた。でもそれはあくまで良い同僚としての気持ちで、恋愛感情ではなかった。その後半年ほどそのような関係は続いたが、私が体を壊して退職することとなった。もちろん連絡先の交換などはない。普通であればこれで終わってしまう話だ。
四カ月ほどの月日が流れ私はある病院で働いていた。その日もいつも通り業務をこなしていたのだが、ふと気づくと何とあの彼が来院しているではないか。待合室の椅子に座っているのは、あの彼だった。私は頬が紅潮し、鼓動が早くなるのを感じた。そう、私は彼と別れてそして再会し、彼に恋をしていたことにやっと気が付いたのだ。再会した二人がこのまま結ばれれば、赤い糸で結ばれた二人がハッピーエンドになる話だが・・・
彼と再会し、自分の気持ちに気が付いたのが六月頃、私は夏の終わりも近づいたある日、彼に気持ちを伝えた。彼の返事は「元同僚のままでいましょう」だった。夏が終わると同時に私の恋もあっけなく終わりを告げた。私は今度こそ「終わったな」と思い、ますます結婚に諦め感を募らしていった。
相変わらず忙しい業務に追われながら秋が過ぎ、またひとつ年齢を重ねて新年を迎えた。ここで私はある行動に出た。彼に断られてからは何の行動も起こさなかった私だが、何となく気になり、彼に「あけましておめでとう」メールを送ったのである。返事など来るはずがない。一方通行でもいいと思って送った挨拶的なメールである。それから三週間程経ったある日、何の気なしにメールの着信を見た私は目を疑った。何と彼から返事が来ていたのだ。しかも半月も前に。私は失礼なことに半月も放っておいてしまったのだ。まあ返事など来るはずないと思っていたから仕方がないかもしれない。さて、その返事の内容であるが、何とも優しいお茶の誘いのメールであった。
彼の話によると、昨年の夏は余りにも体調が悪く、仕事にも行けずにいた程で、とても私のことを考えている余裕などは無かったらしい。しかし、体調も仕事も落ち着いてきた秋から冬にかけて、断ってはみたものの、私のことを気にして真剣に考えてくれたのだ。そして最後の決め手、そう、私の「あけましておめでとう」メールが彼の背中を押したということだそうだ。そしてその年の六月、私たちはついに入籍をした。私は初婚の時には全く感じていなかった、運命というか「縁」のようなものをその時確かに感じていた。それは彼も同じであったそうだ。
今年で結婚して九年が経つが、夫の存在は私にとって大きな支えになっている。例えば私には兄弟がいない。相談できる相手がいなかったのだ。母の介護の時も自分で考え、決めて行動していた。現在では病気の父を支えなくてはいけない状況なのだが、もしこれが一人であったらと考えると、父と共倒れになっていたのではないかというところに行きついてしまう。夫は既に実の両親の介護経験があり、両親を見送っている。それは今後父を見送らなければいけない私にとって非常に心強いことである。
夫の意見としては、長男として家を支えていかなければならないと考えている夫にとって、歳を取れば歳を取るほど、それが体力的にも精神的にも大変になってくるときに、妻という存在は良い支えとして大きくなってきているということである。
私も夫もこれから何年生き続けるかは分からないが、これからもお互いを支え合いながら生きていきたいと思う。
光のような人
背が高く、授業参観でも見に来ているのが、いつもすぐにわかった。私の同級生の間ではよく知られているのか、ちょっと有名人のようなところもある母だ。
昔勤めていた会社の人たちとの旅行の話は、今でも語りたがる。また必ず行きたいと言っているのはアメリカの「グランドキャニオン」だ。もう三十年ほど昔の話ではあるが、アメリカ旅行の思い出を語るときは、今でも目がキラキラと輝かせている。旅行から帰ってくる日に、家族で県内の一番大きな駅まで迎えに行ったことは、今でも覚えている。やっと会えると思った。お土産も楽しみだったけれど、何よりも「お母さん」という大好きな人が帰ってくるのが楽しみだった。
小学三年生の夏休み。祖父母との同居などの家庭環境から、堪忍袋の尾が切れた母は、大きなカバンを背負って、私を連れて自宅から出た。三週間ほどだっただろうか。隣町の母の実家に家出した。一緒に遊んでくれる人は誰もいなく、退屈で、寂しくて、仕方がなかった。大好きな父にもずっと会えなかった。家出中、兄を連れて母と三人でディズニーランドへ行ったが、面白いわけがない。自宅で家族揃ってトランプしていた方がよっぽど良かったのではないだろうか。
そして家出が最後の日になったのは、私の心の言葉だった。
「もう帰りたい・・・。」
と、私は、小さな自動車の中で母と二人で話していた時に、涙を流して訴えた。
「じゃあ、帰ろうか!」
そう言って、母と私は自宅へ帰ったのだった。未だに謝罪はない。
でも、私の一言で自宅に帰った母は、勇敢な母親だったからだろう。
後で聞いたのは、帰ってからも相変わらず家庭の状況は戦争状態だったとのことだった。わずか三週間では、地獄絵図が極楽浄土に変わるわけがないのだ。
思春期にもなると、私は中学生の頃から母が嫌いだった。
中学一年生の頃、
「どうして体育で柔道を選択したの!柔道着は高いし、剣道を選べば竹刀を買えば済んだから、安かったのに!兄ちゃんはいいの。柔道を選んでも。小学生の頃に経験したから・・・。」
と、母は激怒した。節約が大事なのは、もしかしたらこのようなところできっと叩き込まれたのだろうか。納得いかなかった。物を買うときの母の怒りは、この時だけではなく、兄も被害を受けたことがあったようだ。
中学三年生の冬のこと。県立高校の受験も、「ギリギリ」と担任に言われた高校を受けるように母に言われ、あまり納得していなかったが、大して反発もせずに受験し、失敗。この後、ずっと悔やみ続け、数年間は受験の夢を見ることが多かった。
滑り止めで入学した私立高校は、中学校までと違い、入学当初は知らない人ばかりで、皆大人びている。まずはそこで驚いた。入学してしばらくの間は、昼食の弁当には、母の手で書かれた励ましの手紙が必ず入っていた。受験失敗で頭がいっぱいになっていた私に対する心遣いであることは、後で母から聞いたのだった。
この三年間は、思い出深い楽しいこともあり、そして、辛いこともあったかと思う。おそらく、この三年間で私は親の期待通りの子供にはなれなかったのだと思う。それでも私にとっては、自分の「素」が試されたのだと思う。そしてそれは私の魂に深く刻まれているのだと私は信じている。
母は今でも時々嘆くことがある。
「順調だと思っていたのにね。」
と。耳が痛い。確かに私は中学生までは割と優等生だった。でも、親が希望する人生なんて歩んでいられないものではないか。誰でもあるような親への反発は、私にもある。
私が成人してからだったと思う。ちょっとした話の流れだったと思う。母の心を垣間見るときがあった。
「私は本当に根暗い。でも、お父さんは明るい人だから、そうやって夫婦のバランスをとっているの。」
「お母さん!私はお母さんって明るい人だと思っていたよ。」
とのやりとりだった。今まで明るい人だと思っていたから、本当に衝撃的だった。
世の中に転がる「人の見る目」なんて言葉は、どの程度信頼できるものなのか、私は知らない。そんな中で、人の心はわからないと言うことをこのときから思うようになった。私は自分でも思っていることがよくわからない時があるから、尚更だと思う。
私は「母が嫌い」と言うことに対しては、自分自身が未熟であることが根本にあるからだと気付いていた。いつになったら解決するのだろうか。ずっと悩んでいた。
ところが、もう四十代に差し掛かっている、ごく最近のこと。そんな厳しい母への感情がひっくり返ることがあったのだ。それは、転職活動をしている時期だった。先に退職願を出した会社に対しては、
「良薬口に苦し、と言える職場だったなぁ。」
が、率直な感想だ。倉庫内での仕事だった。真夏は暑く、真冬は寒い。外の気温と大して変わらないような、四季を感じる職場環境だった。重いものを持ち、たくさん歩く仕事でもあった。辛いと思うことも多かった。
だからこそ、私は次につながる体力・筋力が身についたのだと思っている。私はそんな職場には深く感謝している。
退職願を出した後の転職活動中は、忙しい反面、心のどこかに余裕ができる。緊張が緩んだせいか、久しぶりに風邪をひいてしまった。
そんなときに気付いたのは、
「良薬口に苦し。この言葉って、経験だけではなく、世の中の何に対しても当て嵌めていいに違いない!」
と言うことだった。
その瞬間、今まで嫌いで、憎くてならなかった母に対しては、
「本当は、私にとって『光のような人』なんだ。いつも私の歩む道を示してくれる。辛くてならなかった日々でさえ、いつも厳しい態度で諭してくれた。」
と、感謝の気持ちが込み上げてきたのだ。
「順調だと思っていたのにね」と言われたことが、何より悔しくて仕方がなかったのは私である。母は私よりも年をとっているわけで、何も悔しがらせようと思って言っていたのではないのだと思うようになった。
側から見たら、母にも眠れないほどの苦労はたくさんあったと思う。「順調だと思っていたのにね」の言葉の裏には、「それでも受け入れているよ」との気持ちがあると思うのだ。母の思い描いていたような人生を歩んでいない私だからと、決して母に見限られたわけではないのだから。
私には二人の子供がいる。子供たちはこれから長い人生を歩んでいくことになる。親子共々、明日の日を思うと辛くて仕方がない日が来ることもあるかもしれない。それでも、私も自分の母のように、立派に母親としての役割を果たせるのだろうか。
母がもう一度行きたいと言っている異国の地、アメリカの「グランドキャニオン」へは、今度は是非、私と行ってくれないだろうかと思う。私ができる、母に対する恩返しとして。親孝行なんて照れくさいから、「恩返し」でいいじゃない!いろんな話ができそうで、良い時間を過ごせそうだ。
きっと叶うと信じて、私の望みに乾杯!
忘れられない風景
誰でも一つくらいあるのではないだろうか。
私にも、ある。
あれは離婚して実家に戻った頃だから、20年以上前か。
たまたま紹介された仕事で、福島に行ったことがある。
私が住んでいるところからさほど遠くない場所なのに、町の名前を思い出せない。
何度か調べたが分からないので、調べるのをやめた。
有り体に言えば、あれが現実だったのかどうか、あやふやなままにしておきたかったのだと思う。
あの日は自分の運転で福島へ向かい、午前中には仕事が一件片付いた。
私はお昼のお弁当をどこで食べようかと、適当に車を走らせた。
すると、前方に小高い丘が見え、桜が咲いていた。
「一人お花見しようっと」
職場の飲み会の夜桜見物で、寒さにブルブル震えた思い出しかない私は、それ以来まともに花見をしたことがなかった。
割と急な坂を登り、桜の樹の下のちょっとしたスペースに軽自動車を停めた。
私は窓もドアも開け放ち、満開の桜を見上げながらお弁当を頬張った。
その時、ビューっと風が強く吹いた。
たくさんの花びらたちが、サワサワサワと降ってきて、私の髪の毛や顔を撫でた。
そして車は、真っ白な花びらで埋め尽くされた。
空はよく晴れて暖かく、私は幸せに包まれていた。
何故だろう。
あの光景を思い浮かべると、鼻の奥がツンとなって、涙が出そうになる。
私は嫁ぐ前からお酒が手放せず、精神的にとても不安定だった。
結婚したのも束の間、自分の手でそれを壊した。
さらに追い討ちを掛けるように、可愛がっていた猫まで死んでしまった。
実家に戻ったが、幾日も幾日もベッドから起き上がれない日々が続いた。
そして、ようやく働けるようになり、車で移動する仕事を紹介された。
あの泣けるほど優しい桜は、神様が見せて下さったのではないか、と思っている。
だから、私はその場所を探さない。
心にそっとしまっておく。
私の人生が、ほんの少しだけ変わったと思える瞬間だったから。
今年も、もうすぐ咲くだろう。
福島の何処かで。
子どもが教えてくれた”今”
毎日、仕事と子育てに追われている。朝は慌ただしく始まり、気がつけば夜になっている。今日もやることがたくさんあったはずなのに、振り返ると、あっという間に一日が終わっている。
嬉しいこともある。けれど、思うようにいかずイライラすることも多い。子どもたちの声、家事、仕事のこと。いろいろな感情が押し寄せてきて、夜になるころにはどっと疲れてしまう。そんな毎日を、私は当たり前のように過ごしていた。
ある日、一冊の本に出会った。
そこには「今を生きる」と書かれていた。
その言葉を読んだとき、なぜか胸の奥に小さく引っかかるものを感じた。
私は本当に「今」を生きているのだろうか。
そう考えてみると、思い当たることがいくつもあった。私はいつも、少し先のことを心配していた。明日の予定、来週の仕事、子どもたちの将来。あるいは、過ぎてしまった出来事を思い返しては、「あのときこうすればよかった」と考えていた。
頭の中はいつも忙しく、気持ちは未来か過去に向いている。
肝心の「今」は、どこかに置き去りになっていたのかもしれない。
だから私は、ほんの少しだけ「今」を意識してみることにした。
今、私はどうしたいのだろう。
そう自分に問いかけてみる。
今は動きたくない。
今は座ってコーヒーを飲みたい。
今はゆっくりお風呂に入りたい。
そんな小さな気持ちが、ぽつぽつと浮かんでくる。今まで私は、やるべきことばかりを優先して、自分の気持ちを後回しにしていたのかもしれない。
全部を叶えることはできない。けれど、できることを少しずつやってみようと思った。それだけで、ほんの少し呼吸がしやすくなった気がした。
ある日の夕方のことだった。
夕ご飯の準備をしたい時間なのに、娘の外遊びがなかなか終わらない。私は何度も声をかける。
「もう帰るよ」
「そろそろご飯作らないと」
けれど娘は夢中で、なかなか動こうとしない。
時計を見る。
夕飯の時間が遅くなる。
やることがまだ残っている。
私はだんだん焦り、そしてイライラしてきた。
そのとき、ふと立ち止まってみた。
そして、今の外の空気を感じてみた。
空を見上げると、青空が広がっている。どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。夕方の光が背中に当たり、ぽかぽかとあたたかい。風が吹き、草花がゆらゆらと揺れている。
その景色を見ていると、胸の奥に、なんとも言えない愛おしさが広がっていった。
ふと娘のほうを見る。
土で汚れた服。
靴を脱ぎ捨て、裸足のまま地面を踏みしめている。
顔いっぱいに笑顔を広げ、楽しそうに遊んでいる。
その姿を見て、思わず「ふふっ」と笑ってしまった。
ああ、この瞬間にイライラしていたら、もったいないな。
そう思った。
せっかくのこの時間を、怒りながら過ごすより、一緒に味わえたらいい。
子どもたちは、いつも「今」を生きている。明日のことも、昨日のことも考えず、目の前の時間をまるごと楽しんでいる。
その姿は、まっすぐで、自由で、そしてどこか眩しい。
私は、いつの間にかその感覚を忘れてしまっていたのかもしれない。
私も、そんなふうに生きていけたらいい。
「今」を大切にして、自分の気持ちにもそっと耳を傾けながら過ごしていく。そうすれば、きっと私はもう少し穏やかでいられる気がする。
そしてその穏やかさが、家族の時間をやさしく包むものになるのかもしれない。
できるだけ。
やれるだけ。
私はこれからも、「今」を大切にする練習を続けていきたい。忙しい毎日の中でも、ふと空を見上げたり、風を感じたり、子どもたちの笑顔をゆっくり見つめたりしながら。
そうやって自分を大切にすることが、きっと家族を大切にすることにもつながっていく。
今日もまた、私は「今」を生きる練習をしている。
子どもたちの隣で、同じ時間を感じながら。
涙と教訓
振り返ってみると、人生が変わった瞬間はいくつかある。
私の人生が変わった一番の瞬間は、母が病気で倒れた時だ。親が生きるか死ぬかの瀬戸際は、自分の中で最も衝撃的だった。元気で100歳までは生きると言っていた母が。突然の予期せぬことに、家族中が深い悲しみに暮れ、悲観的になった。もちろん私もだ。でも娘だけは違った。みんなが悲しんで沈んでいる時に、1人だけ弱音も言わず泣くこともせず、ずっと頑張ろうとしていた。母の話を避けたりはしなかった。でも見ていればわかる。娘はつらい気持ちを我慢していた。絶対に泣かないと頑張る人を見るのは、つらいものがある。
私は愛娘に言いたい。
あなたの大好きなおじいちゃんおばあちゃん、父母はだんだん老いて弱り、やがてなくなる。悲しいけれどそういうもの。命あるものいつか必ず皆なくなる。
家族は悲しみに包まれ、悲観的になるでしょう。
そんな時、あなたは悲しくても自分だけは泣かないと頑張ろうとするかもしれない。
でも1度、思うままに泣こう。受け入れたくないことをそのままそこへ置いて泣こう。
楽しかった思い出を想って泣いて、涙が枯れるまで泣いて、泣いて。
誰しもいつ終わるかわからない命だからこそ、毎日を楽しむ工夫をし、面白く生きよう。
大丈夫。
あなたにはそこから這い上がる力がある。
今をめいいっぱい楽しめるあなただから。
これはきっと自分自身にも言い聞かせているのだろう。私の人生を変えた母からの教訓である。
人生を変えた推し活
私の好きだった推しのグループが解散する。それも何故解散するかはわからない。メディアは嬉々として、不仲だの何だの、好き勝手言って報道している。
私の知っている彼らは、不仲などつまらない理由で解散するような人達ではない。けれど本人達の家族や友達でもない以上、それは本当の姿なのか、人前での姿なのか、ただのファンである私にわかるはずもない。
私はこの何故解散するのかという答えを、少しでも知りたくて、その勢いでSNSを始めた。そこには同じような境遇のファンがたくさんいた。そうしたファン達と協力して、CDの購買運動や、解散反対の署名などをした。
結局このグループは解散してしまったが、この一連の解散騒動からの推し活は、劇的な変化を持ったと言えると思う。
元々私は1人で細々応援していた、所謂お茶の間ファンだった。コンサートに行くでもないし、CDも買うわけではない。数年前には子供も産まれて、正直なところ日々精一杯で、推し活という推し活はテレビで彼らを見る事ぐらいだった。
それがどうだ。解散騒動からはオフ会にも参加しだし、彼らの結成周年お祝いなども参加した。
メンバーの一部が集まり、ファンサイトを立ち上げれば即刻入会し、ファンミーティングをやるとなれば即参加申し込みし、彼らが久々にテレビに出た日には、そのテレビ局のご意見サイトに「出していただきありがとうございます!またお願いします!!」と書き込みすらする始末である。
本当に世界が広がったようだった。
皆んなただ推しが好きというだけで、歓喜したり、涙を流したり、行ったこともない土地へ行ったりできるのだ。
こんな世界があるのだと、私は知っていたようで全く知らなかったのだ。
好きというパワーは、何て強く、とんでもない力を持ってるんだろう。
私は本当に心の底から、この好きというパワーが、ありとあらゆるパワーのなかで1番強いのではないかと思っている。
毎日楽しくて、彼らの頑張りを見て、「私も頑張ろう!」と元気になるし、新しい事を始めたなら、私もやってみたかった事をやってみようかと、一歩踏み出す力を与えてくれる。
憎しみとか恨みとかでは到底敵わない、強くて、美しい力。
間違いなくあの解散騒動がなければ、こんな素晴らしいパワーがある事を知らなかっただろう。
こんな素敵な世界があることを知らずに、一生を終えていたかもしれない。
そしてまだまだ私の知らない「好き」が、「世界」が、あるに違いないとも思う。
私は今40半ばだが、一生終えるまでにあとどのくらいその「好き」を増やせるだろうか。
今は子育て中の身なので、現実維持で精一杯だが、未知の楽しい世界がまだまだたくさんある。そう思うだけで、ワクワクしてくるし、子育てが終わった際の楽しみとして、取っておきたいなと思う。
母の憧れ、私の足跡
テーブルの向こうで、昔の友人が笑う。
彼女は、やりたいことを次々と叶え、都会で自立した生活を送っている。
十数年ぶりに会った彼女の目には、努力と自由が溢れていた。
ふと、思う。
母も、こうした人生を望んでいたのではないか、と。
学ぶこと、未知に挑むこと、心が動くままに生きること。
きっと、母はその自由を追いかけたかったのだろう。
でも、現実に縛られ、苦しみの中で私を育てるしかなかった。
幼少期、母の手は時に冷たく、時に重かった。
私の涙や怒りは、母の苦しみと混ざり合っていた。
母もまた、自分の夢を叶えられず、手の届かない憧れの中でイライラしていた。
私は今、都会で子どもを産み、時々友人たちとお茶をしながら生きている。
母が叶えられなかった世界の端に、私の足は触れていた。
学歴や名声ではない。
自由に選んだ道で、生活を立て、自分で決め、笑うことができる世界。
母の夢は、私の中で少しずつ形を変えながら生きている。
私は母を超えたわけではない。
ただ、母が追いかけた光を、私の足で歩いている。
窓の向こう、恵比寿の街が夕暮れに染まる。
光と影が静かに交わるその風景の中で、私は小さな声で心に告げる。
「母さん、見てるかな?母さんの願いも、私の願いも、生きてるよ。」
友人の笑顔を見ながら、私は深く息をつく。
田舎で孤独だった十七歳の少女が抱いたか細い火は、今、私の中で静かに燃え続けている。
あの火は消えず、母と私をつなぐ小さな光になったのだ。
私を変えた、小さな掌(てのひら)
結果が出るまでの一分が、人生でいちばん長く感じられた。 やがて二本の線が、じんわりと浮かび上がってきた。
その瞬間、私の頭は真っ白になり、まるで時が止まったように感じた。
最初に浮かんだのは、母のことだった。 母は、私と兄を女手ひとつで育ててくれた人だ。
このことを隠し通せるのか、それとも話すべきなのか。 私はどうすればいいのか分からず、迷い続けていた。
けれど、そんな私の小さな違和感に、母は私よりも先に気づいていた。 生理が来ていないことを悟った母が、「一度検査してみたら」と私に言った。
けれど、このやり取りは初めてではなかった。
高校三年生のときにも、私は一度、妊娠検査薬で陽性反応を見たことがある。 そのときの私は、まだ将来やりたいことがはっきりと決まっていた。悩んだ末に、私はその命を産まないという選択をした。
後悔がなかったわけではない。 涙を流した日もあった。
だからこそ、二度目に現れたこの結果は、私にとって余計に怖いものだった。
検査薬を握りしめたまま、私はしばらく動けずにいた。 けれど、いつまでも隠し通せるわけではない。自分の気持ちも、このままではきっと耐えられないと思った。
意を決して、母のいるリビングへ向かった。
「どうだった?」
母が静かに聞いた。
私はしばらく言葉が出ず、やっとの思いで重い口を開いた。
「陽性だった」
私がそう伝えると、母は少しだけ間を置いてから 「これからどうするの?」と静かに聞いた。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にいろいろな思いが押し寄せてきた。
高校三年生のときに経験した後悔や、消えることのなかった罪悪感。 あのとき流した涙を、もう一度味わうのは嫌だった。
そして何より、母に嫌われたくなかった。
いろいろな思いが頭の中を巡った末に、私は「産む」と決断した。
私と同じくらい、もしかするとそれ以上に、母も不安や心配を抱えていたと思う。 母もまた、若くして兄と私を産んでいる。だからこそ、私の気持ちを誰よりも分かってくれていたのかもしれない。
母はゆっくりと私の隣に来て、静かに寄り添ってくれた。 そして、私の決断を優しく受け止め、背中を押してくれた。
それでも、不安が消えたわけではなかった。
兄弟や親戚にこのことを伝える怖さもあったし、友達にも打ち明けなければならないという緊張もあった。
みんなはどう思うのだろう。 応援してくれるのか、それとも違う反応が返ってくるのか。そんなことばかり考えてしまった。
それでも、このまま黙っているわけにはいかない。 いつかは伝えなければならないことだと分かっていた。
勇気を出して、少しずつ身近な人たちに話していった。
最初はとても緊張して、言葉を選びながらゆっくりと伝えた。 すると、
「大丈夫?」 と優しく声をかけてくれる人や、 「応援するよ」 と言ってくれる人もいた。
もちろん驚かれることもあったけれど、それでも多くの人が私のことを心配し、気にかけてくれた。
その言葉に、少しだけ心が軽くなった気がした。
それでも、これから先のことを考えると、不安が完全になくなったわけではなかった。
自分がちゃんと母親になれるのか。 この子をしっかり守っていけるのか。
そんなことを考えては、不安になる日もあった。
けれど、お腹の中の赤ちゃんは、そんな私の気持ちとは関係なく、少しずつ大きくなっていった。
ふとした瞬間にお腹が動くたびに、「ここに命があるんだ」と実感するようになった。 不思議なことに、その小さな動きを感じるたび、少しだけ勇気をもらっている気がした。
検診に行くたびに、画面の中で動く小さな姿を見ると、不思議な気持ちになった。 まだ実感が湧かないような、でも確かにここに命があるという感覚。
そのたびに、「私が守らなきゃいけないんだ」と少しずつ思うようになった。
そして、ついに出産の日がやってきた。
最初は今まで感じたことのない痛みで、正直とても怖かった。 本当に産めるのだろうかと、不安な気持ちでいっぱいだった。
時間が経つにつれて痛みはどんどん強くなり、余裕なんてまったくなかった。 それでも、「もうすぐ会える」という気持ちだけを支えに必死だった。
長い時間を経て、ようやく赤ちゃんが生まれた。
赤ちゃんの泣き声が聞こえた瞬間、ほっとしたのと同時に 「早く顔が見たい」 と強く思った。
顔を見た瞬間、真っ先に思ったのは
「私に似てる」
ということだった。
不思議なくらい、その一言が自然と口から出た。 それと同時に、小さなその顔を見て「愛おしい」という気持ちが胸いっぱいに広がった。
それまで感じていた痛みも、その瞬間だけは少し忘れてしまうくらいだった。
小さな体を抱いたとき、これからこの子を守っていくのは私なんだという責任を初めて強く感じた。
まだ頼りない腕の中で、小さな命は静かに眠っていた。 その温もりを感じながら、私は「この子の母親なんだ」と少しずつ実感していった。
十八歳だった私は、まだ子どもだったのかもしれない。 それでも、この小さな命は確実に私を変えてくれた。
生活は大きく変わり、簡単なことばかりではなかった。 けれど、その中で一番大きく変わったのは私の気持ちだった。
子どもを育てるようになって、母がどれだけの思いで私たちを育ててくれていたのかを、初めて実感するようになった。
当たり前だと思っていた日々が、どれほど大変で、どれほど愛情のこもったものだったのか。
今は、母への感謝の気持ちでいっぱいだ。
若くして母になったことに、不安や迷いがなかったわけではない。 それでも、この子に出会えたことで、私は少しだけ強くなれた気がする。
私の人生を変えてくれたこの小さな命を、これからも大切に守っていきたい。
愛す!
墓場まで持っていく秘密という言葉がありますよね、私にとってのそれがこの瞬間です。誰にも話すことはないし、話すこともできないし。自分自身ですら向き合うことにとても勇気がいるのです。
その瞬間はいつだったのか分からないけれど、絶対にあって人生が変わったのはここだ!と言えるくらい、私にとって大きな出来事だったのかなと思います。そして私の最大の秘密となってしまいました。
この秘密を誰かに話すことができるなら、私はきっと楽になれる。そう分かっているのにできないんです。同じような悩みや出来事を話している人をごまんと見てきたのに私には絶対にできない。そんな自分はなんて小心者なんだろうと悲しくなります。
コンプレックスの塊のような人生です。
いつかこの秘密を知っていてほしいと思える人に出会えること夢見ています。
あの時どうすればよかったのか分からないし、今どういう言葉がほしいのかも分からない。どうしてほしかったのか、どうしてほしいのかも分からない。こんな話を聞かされたらきっと聞かされた人は反応に困るだろうなと思うから言えません。
笑われてしまうくらいしょうもないことかもしれないけれど、私にとってはこんなにモジモジ、ダラダラしてしまう案件なのです。
「自分を愛せない人は誰かを愛すこともできない」この類の言葉が怖いです。
歳を重ねれば、この人生が変わった瞬間を徐々に受け入れ、自分を愛すことができるのでしょうか。
私はこの瞬間からずっと誰かに助けてほしいのだと思います。
そろそろ、ちゃんと向き合いたい。
まだ世間知らずで色々と未熟な私ですが苦しんでいるあなたに叫びたい。人には人の地獄があるからあなたの傷は立派な傷ということです。私はあなたの苦しみを認めます。
一緒に闘いたい。愛しています。
再び目指してみようかな
子供がお腹にいたとき、発育不良で1ヶ月間ほど入院したのち、帝王切開で未熟児の子供が生まれた。
私が退院したあとも、子供は一か月半病院へ入院し、毎日搾乳した母乳を入院先まで届ける生活を1か月半ほど続けた。
元々ナースであった私は、しばらく職から離れていたため、ブランクもあるし、もうこの仕事にはつくのは無理かなと考えていた。
病院のナースさんたちに付いて子供の授乳、オムツ交換、沐浴などを教わったが、看護学校の実習を思い出し、ドキドキ緊張するも楽しい毎日を送っていた。
また、同じ子供をもち、私と同じような状況のお母さんの話を聞いたり、一緒に過ごしたりもして励ましあったりすることもあった。
通常の体重で生まれてくることは、とても素晴らしく、喜ばしいけれど、子供のように小さく生まれた子も、その大きさには意味があって、小さいなりに頑張っている子供が一番大変なんだろうなと思った。
そして、いつも子供を見てくれている人々の存在もとてもありがたいと思った。
いつしか私もいつか現場に戻って、昔みたいに働きたい、再びナースを目指してみようかなとふと心に思った。
ただの苦労話では終わらせません!
会社勤めをしていましたが、会社の人たちも皆いい人で「産むギリギリまで働けばいい」なんて言ってくれていました。実際、会社と自宅が徒歩圏内だったんです。
仕事の後に、定期的に会っていた大学時代の友人たちとの食事会で祝ってもらい、私は「まだつわりが全然ないの。逆に不安」なんて言っていました。それがいけなかったのでしょうか?
帰りの電車で突然の吐き気に襲われて、乗り換えの駅のトイレに駆け込むも、私の服と日傘は最後に飲んだグレープジュース色に染まりました。そこから動くことができなくなり、夫に連絡。駅まで迎えに来てもらうことになりました。
その間、駅員には「妊婦が夜遅くまで遊んでいるからだ」と叱られ、酔っ払いにはしつこくナンパされ、まさか今つわりが始まるなんて予想してなかったんだものと落ち込みました。そんな中、お水を買ってきてくれて大丈夫ですよ、私も経験がありますと親切にしてくれた若い女性がいらっしゃいました。私はその時から今でも、妊婦さんには全面的に親切にしようと心に誓いました。
夫と合流できてタクシーで家に向かう時にもタクシー運転手に軽い嫌味を言われました。妊婦は外出してはいけないのでしょうか。私は会社帰りに食事と報告がてら友人と会っただけなのに。
……なんて文句を言う余裕もその日からなくなりました。立ち上がっては吐き、トイレに行っては吐き、お風呂に入っては吐き、徒歩で行ける会社にさえ行けなくなりました。頑張って行った日もトイレから出ることができずに、仕事の引き継ぎもろくにできないまま退社しました。親切にしていただいた会社に不義理を働いてしまい落ち込みました。1人で産婦人科へ行くこともできず、いつも夫と一緒。今のようになんでもネットで調べれば解決する時代ではありませんでしたが、探してみたところ私と同じようなつわりの方の集まりがありました。私のつわりは当時よだれづわりなどと呼ばれていたもので、経験者の出産2日後まで吐き気が終わらなかったと言う話を読んで恐怖に震えたものです。某妊婦のための有名雑誌を睨むように毎日読んでいました。「4ヵ月〜6ヶ月にはつわりはおさまります」の一文を泣きながら毎日睨んでいました。もう6ヶ月なんてとっくに過ぎていましたから。
それでもお腹の子はすくすく育ってくれていました。安定期に入った頃、従姉妹の結婚式が遠方で行われることになり招待されたのですが、とても行けそうにありませんでした。しかし、私の母はつわりがないまま私たち姉妹を産んだため、無理だと言う私に「旦那さんに甘えすぎだからだ」と言い放ちました。元々母とはとても仲が良かったのですが、その時私は「赤ちゃん産んでも抱っこさせてあげない!」なんて思いました。
しかし、何も食べずに泣きながら胃液を吐いている私を実際に見て、流石に母もこれは無理だと判断したようです。結局私だけ欠席にしてくれました。そして、産後はしっかり休めるようにご飯作りに来るからね、と言ってくれました。赤ちゃん抱いてもらおうと思いました。
ちなみに産婦人科の先生には「なにそれ、そんなつわりあるの」なんて半笑いで言われました。今はもうないその病院、当然です。つわりのことは産婦人科にしか頼れないと思っていたあの頃、もっと色々調べることができれば他の科で軽くすることが出来たかもしれない、今だったらきっと違っただろうなと思います。やり直せるならそのへんを変えたいです。
そして、出産もすんなりとは行きませんでした。予定日から5日たってやっと破水し入院しました。予定通りだんだん強くなっていく陣痛に耐えながら、やっとここまできたと、やはり吐き気と闘いながら思いました。
しかし、あれ?陣痛があるにはあるけどある程度以上強くならない?夕方に入院してそのまま朝になってしまいました。
そして、破水して時間が経ってしまったため、血液検査で感染症の疑いが私に出てしまい、帝王切開に移行しました。
もちろん、仕方がないと思いました。陣痛の合間に服を脱いで、次の陣痛の合間にベッドにやじ登り、麻酔を入れられ手術となりました。部分麻酔のため手を縛られ起きてるのに動くことが出来きないし、結局痛いし、生まれた赤ちゃんは見せてももらえずにどこかへ連れて行かれました。もちろん、赤ちゃんのための処置なのでしょう。初乳をあげないといけないと思い込んでいたのでちょっとショックでした。
当日も翌日も痛み止めの点滴が切れると激痛に襲われます。お腹を切っているため、普通に座るだけでも痛い。赤ちゃんを連れてきましたよーとだっこさせてもらいましたが、痛すぎて「はい、ありがとうございました」とすぐに引き取ってもらっちゃいました。
退院してからも痛みは付き纏い、子供はものすごく可愛いのでいつまでも見ていられましたが、2人目は無理だなーなんて思っていました。
しかし、喉元過ぎれば熱さ忘れる。2年後に2人目を授かりました。また同じことを繰り返すんだとかなり不安になりましたが、6ヶ月を迎えたその日、つわりがぴたりと止まりました。子供によって違うんですかね。つわりがないとこんなにも普通に毎日が過ごせて、お腹いっぱいご飯を食べても吐かないんだ、と驚きました。
しかし、また帝王切開。前回よりも手術中から痛みが酷くて泣き叫びました。外にいる夫はどうなっているんだと思ったそうです。
で、2人の子育てをしながらも私の体力はなかなか戻りませんでした。何をしてもすぐにへとへとになり、幼稚園のイベントも私は嫌で仕方がありませんでした。子供のためですから全部出席しましたが。
小学校も中高も、役員だの委員会だの親の仕事は結構あります。ママ友がいたから乗り越えられました。ランチをするために。
元々の私は大学時代に4か所アルバイト掛け持ちして、スポーツクラブに行くほどには元気でした。すごく体力があったわけではないのですが、若かったし、ごく普通にこなせていました。それが、産後には少しも出来ない自分が情けなくて落ち込むことが増えました。
そして、そのまま21年経ち、子供たちは2人とも成人しました。私はすぐ疲れたと言い、手抜きの多いあまり良いお母さんではなかったかもしれません。
更に数年前からパニック障害の症状も出て、地元から出られないプチ引きこもりのお母さんです。
でも家族はとても仲良しだし、子供達を産んだことに後悔はありません。お腹の傷が酷くケロイド化して温泉に行くのも嫌な時もありました。その除去手術もしましたが、全身麻酔で数時間かかるもので、結構大変でした。
ここまでずっと、ネガティブな妊娠日記になっているかもしれません。でも、私がリアルに変わった瞬間なのです。
夫との関係も、恋人から夫へ、そして一緒に子供を育てる同志にと移り変わりました。やり直したい部分は正直たくさんあるものの、後悔はない。辛かったことはネタにして生きていくと言う強さを手に入れました。ええ、妊娠出産の話ならいくらでもできますから!
還暦前に思うこと
私は小さく生まれ虚弱体質のまま育ち幼稚園、小学生の頃はよく風邪を引き診療所に連れて行かれた記憶があります。運動能力も低く一生懸命に走ってもみんなに追いつけない。水泳も潜るとすぐ息苦しくなり体育の時間は大っ嫌いでした。中学生になると思春期に入り身体がだるくめまいや立ちくらみなどで栄養注射や点滴を受けた事も何度かありました。「寝不足はあかん!睡眠が一番大事やで!」と母は常々心配をしてくれていて母の言う通りに高校短大への進学を決めました。幼い頃から「母ちゃん死んだら私も死ぬよ!」が口癖だった私の側にはいつも竹を割ったような明るい性格の母がいてくれました。
23歳で青年団で知り合った主人と結婚、翌年長女を出産し守るべき存在が出来きました。またその翌年長男を出産し私は幸せの絶頂を感じていた矢先に青天の霹靂で2ヶ月後に最愛の母を亡くすことに・・・。病名はスキルス性胃癌享年56歳の若さです。天から突き落とされた気分は後先にはありません。
そんな母との突然の別れの寂しさから私を救ってくれたのは1歳5ヶ月の長女と生後2ヶ月の長男の育児慌ただしい日々でした。嫁ぎ先は自営業、義理父義理母とひとつ屋根の同居暮らし主人は職業辛いマイペースで頑固!(結婚してからわかる事もあるもので・・・)家事育児は私の仕事でした。
その後2人の男の子を授かり幸せを感じつつでも休日にも家族6人の時間が取れない不満が芽生えストレスを感じる日々を過ごす中、ある日心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じ循環器科を受診し〝先天性心房中隔欠損症〟との病名をうけました。つまり心臓の壁に500円程の穴が空いているとのこと!2度目の晴天の霹靂です。「このままでは50を過ぎると寝込む事になりますよ。現在、心肥大も見られて肺が圧迫され息苦しくないですか⁉︎幼い頃からの虚弱体質はこれが原因かと!今は若いので体力もあるので手術をお勧めしますが?」と説明を受け滋賀医科大学で開胸手術を受け現在に至っております。おかげで低血圧もなくなり息苦しさも感じる事もなく多少の寝不足でも疲れを感じることも減りました。術後2ヶ月後には〝世の中ってこんなに楽なんだ!〟と思ったほどです。心臓が生まれ変わった36歳の出来事は私の心をパワーアップしポジティブ思考に導いてくれる事になっていきます。
その後も主人のマイペースさは続き子供の相談や話さえする空間もなく小学高学年になりジュニアテニスクラブに入会しましたが送迎の手助けもなく試合の応援も共有出来ず私は寂しさより怒りが芽生え始めていました。中学高校では文武両道を目指す子供達。近畿大会やインターハイにも出場できても主人は無関心。子供達の活躍さえ一緒に喜べませんでした。子供の話題をすると不機嫌になる主人が信じられなくなっていました。義理母義理父と主人グループと私と4人のグループが同居しているだけの虚しさに限界を感じ末っ子が成人式を迎えた2月に5人で家を出て新しい生活を始めたのは52歳の決心でした。
2年が過ぎた頃、娘が結婚したいと言い出しいつかは来るだろうと恐れていた現実がやって来た気分でした。4人姉弟の長子で育った娘は面倒見が良く冷静で大した反抗期もないまま人の気持ちを優先し優しく家族にとって頼りになる存在となっていました。どんな形であろうと娘と一緒に暮らしていけるだろうと思い込んでいた私は正直ショックを受けました。「これまで色々と我慢して来た事わかってくれてる?今回だけは私の思い通りにさせてもらうから。」などいう娘は別人のように感じ返す言葉もなく涙が溢れました。娘には私とは違う幸せな家族を作って欲しいと願う気持ちとでも離れる事は寂しい怖い気持ちが葛藤し娘との険悪な空気は1週間程続きました。ある月曜の朝、食卓の上には「この間は酷い事を言ってごめんなさい。何処にいても離れていてもお母さんは私にとってたった1人のお母さんだから・・・」との手紙とマフラーが置かれていて私はこれ以上娘を苦しめる事はできないと思い結婚を受けとめることにしました。
娘が家を出る1ヶ月程前にはやっぱり寂しい思いが募って来て〝このまんま娘ロスに陥ったら私自身はつぶれてしまう!何か始めなきゃ〟と思い始めていた矢先にたまたま娘と観ていたダイエット特番のテレビに刺激されスイッチが入り翌朝ダイエット本をネット購入しチャレンジスタートしました。当初は〝5キロ痩せたらオッケー〟と緩い気持ちで少し食事にも気を遣いダイエット本通りに朝10分夜15分程の体操を欠かさず続けた2週間後には1.5キロ減となり娘が家を出る師走には3キロ減となっていて笑顔で娘を送り出せた自分自身が不思議でした。
年が明け1日20分のウォーキングを再開しいつの間にか体操とウォーキングが日課となっていました。その結果、7ヶ月後の会社での健康診断では12キロも減っていてびっくりでした。まさかの中学生の頃の体型に戻るとは思ってもいませんでした。元々、お米1俵分の体重だった私。洋服のサイズは13号が9号にウエストは10センチ程締まっていました。見た目の変化だけではなくコレステロール値も下がり肝脂肪の値も改善されて内臓も良くなりました。また痩せた事で少し自信がつき毎日の生活が楽しくなっている事にも気付きました。(第3の青天の霹靂⁉︎)
現在、旦那様は定年退職で日々の暮らしに余裕がある友達を正直少し羨ましく思う時もあります。しかし、子供達が成人するまではと守るべきものを1番に考え生活をしてきた29年間とは違った何かしら心が弾むような感覚は今だから感じられます。離婚をし新生活が落ち着き始めた頃、50年来の付き合いになる親友が「色々悩んでたけど世の中はタイミングだよね!良かった、良かった。」と言ってくれたエールはずっと悩んでた私を見守っていてくれた彼女だからこそ言える一言です。ありがたい存在です。
これから何が起こるかわかりません。でも何故かいい事しか考えられない私は「いつも楽しそうで良いなぁー」とたまに同僚から言われます。(いいのかわるいのかー?)健康で暮らしている事に感謝しつつ、さーまた明日からも頑張り過ぎずでもやっぱり頑張ってまいりましょう!そう思える日々を過ごしています。
私の人生が変わった瞬間「私」は変わらなかった
そしたら変わると思っていた。ことちーのように。
妊娠をした。
私の中に新しい命が宿った。それでも母になる実感はなかった。
身体的変化、つわりやお腹が大きくなる、胎動を感じることはお構いなしにどんどん起こっていった。
けれど「人間がお腹の中にいる」その実感は結局、生まれるまでほとんど感じることはなかった。
出産し、母になった。
娘が生まれてからは生活が大きく捻じ曲げられて、娘が私の生活に割り込んでくるような感覚だった。
寝たい時に寝られない、食べたい時に食べられない。やりたいことができない。待ったがない24時間育児はどんどん進んでいく。
そして娘はどんどん育っていく。
体重はすぐに生まれた時の2倍、3倍になり、食事もミルクから離乳食、大人と同じようなものに。
寝返りをしてハイハイをして、つかまり立ち、1人歩きをするように。
1年3ヶ月の間にめまぐるしい変化だった。
初めの頃は責任の大きさをひしひしと感じた。
「私しかこの子を守れない」
全責任が私1人に乗るのを感じた。
娘が寝ても寝られなかった。娘の寝息を何度も確認した。
夫が帰ってくるまで肩の力が入りっぱなしだった。
私の生活も大きく変化した。
寝る時間、起きる時間などの生活リズムから1日の過ごし方。スマホをいじる時間、家事をやる時間。行くところなど。
生まれる前には全く想像できなかった生活がそこにあった。
そして、その日々を過ごしている。
私は、娘を妊娠した時、出産した時に大きく変わったのだろうか。
妊娠する前にこんなことがあった。
いつもの集まりに生まれたばかりの子供を連れてきたことちーはどこか違っていた。
高校時代からの友人の集まりで、ただおしゃべりしてくだらない話をしていたのに、そこでことちーはおっぱいをあげたりおむつを変えたり。
「母」として行動していた。
そのあとも年に一回は集まっていたけれど、毎回そんな感じ。
いつでも集まればあの時の私たちに戻れたのに、子供がいるから話の流れも止まるし、もうあの時の私たちじゃないと感じた。
人の命を育てている。母になったことちーは1回りも2回りも立派になって、別人になってしまった。どこか遠くに行ってしまったように感じていた。
実際私はどうだったか。
「私」は何も変わらなかった。
食べることは大好きだし、好きなYouTubeチャンネルも変わらない。
「私」の生活は大きく変化し、「母」という大きな役割を与えられたけれど「私」は私のままだった。
ちゃんと妊娠前から出産後まで地続きのところに私がいる。
もしかしたらことちーも何も変わっていなかったのかもしれない。
ただ私が「母」というレッテルを貼ってことちーを見てしまっていただけかもしれない。
それだけ「母」というレッテルは強い。
そんな私も、生活の中で「母」でいる時間がとても長くなった。
娘のことを考え、テレビは見過ぎてないか、何をどれだけ食べさせるか、うんちがでてるか、日々悩んでいる。
それは間違いなく「母」としての私である。
支援センターに行けば〇〇ちゃんママと呼ばれる。
娘が生まれた瞬間から私の「人生」は変わった。
だからこそ私は「私」を大切にしたい。変わりゆく人生の中で「私」を見失ってしまわないように。
3LDKの台所から
大人ぶっていた33才の時、興味本位から実家を出てみたくなったわたしは、両親に提案をしてみることにした。
母の顔はすぐにくもり、居合わせた父の眉間はシワでぐちゃぐちゃになった。
父は放った。「東京に実家がある者が、わざわざ外に家をかりるのはバカ者だろ。乞食になるのか。給料いくらなの。」
実家にいて、お金をためるほうが賢明だといわんばかりに、説得にかかった。
わたしはその頃、出版業界に身を置いていたが、手取りは20万円以下だった。
「お金がないって、精神的によくないよ」相談をした先輩も言った。
内心はクサクサしながらも、まっとうすぎるアドバイスに思われ、目的もないままに東京内を移動するこころみは無謀と思われ、とりたてて抵抗することもなく、やめた。
そこからまた。7年。かわらず安月給の出版系で激務を続けながら、淡々と毎日を送った。40才になっていた。
きっかけがあり、転職を考え激務の荷を静かに下ろした1年後、「結婚」がにわかに浮上した。
思わず検索した。AIによると、40代の未婚者が同年代と結婚する確率は、
1~3%、らしい。なんなら、我々はしかも恋愛結婚をしようとしている。
なんだか、国のデータに貢献感もあるし、
これは…のらない手はない、と思った。
相手は兵庫県の最北、但馬とよばれる地方に暮らしていた。山陰で山山山だ。いわゆる、なかなかの、田舎にあたるだろう。
住居を定めるにあたっては、わたしが但馬に身を寄せる選択をもちかけた。
そうしてみたかった、のだとも思う。
決めてからは至極あっさりと、退職手続きをすませ、人生で初めて東京を出た。
東京を、出たのだ。
但馬に来てから半年、田舎での珍道中は最初こそ面白がれたが、それももういまは着地をむかえ、ある「寂しさ」のようなものが顔をだすようになる。
「はやく仕事せねば」と思うものの、
出てくる求人は、旅館の清掃や炊事場、
お土産物の販売員にちょっとした事務のサポート。
40代から何かを変えたかったわたし、換金のためだけに、想いがのらない仕事に手をだすのか―
違う。
一方で、
「ああ、ようやく世の中に来たんだ。」
クサクサが止まらないなかでも、はっきり理解する感覚がある。
地方では何かの陰に隠れたり、ごまかしたり、気まずくなって放り出す行為が、とても難しい。
余白のみが存在している。
東京にいた頃の出版の仕事内容は、どちらかというと、裏方側にいた。本が一等好きなわたしは、書く行為に憧れがあるものの、日々の業務にかまけて、それをしなかった。
仕事がなさすぎるこの町の、無駄に広い3LDKの台所に立ちながら、わたしは公募ガイドの新着をスクロールする。
地方の小さな文学賞、旅のエッセイ、詩の投稿。賞金三万、賞金5000円のクオカード、賞金三万とトロフィー。
地方に来て突如「主婦」と化したわたしは、鳥もも肉とトマトを蒸し焼きにする合間、
セリアで買った100円のノートを広げて、
この文を、書いている。
更年期じゃないと、気づいていた私
更年期ではないと、どこかでわかっていた。
体の不調を「年齢のせい」にしてしまえば、安心できる。
周りにも同じような人がいる。そう思えば、自分もその一人でいられる。
だから私は、「更年期」という言葉にしがみついた。
でも、本当は違うと知っていた。
疲れやすさや、だるさだけでは説明がつかない。
体のどこかで、別の何かが起きている気がしていた。
それでも、考えないようにした。
もし重い病気だったら。
もし元に戻らなかったら。
そう思った瞬間に、今までの自分ではいられなくなる気がしたからだ。
婦人科に通っている間は、「普通の人」でいられる気がした。
診察室の空気も、同じ年代の人たちの存在も、私を安心させてくれた。
ここにいれば、大丈夫。
そう思っていた。
でも、体はごまかせなかった。
少しずつできないことが増えていく。
それでも私は、「まだ大丈夫」と思い続けた。
いや、思い込もうとしていた。
本当は、気づいていたから。
もう、普通ではないということに。
それを認めてしまえば、戻れなくなる気がしていた。
だから、見ないふりをした。
病名が怖かったのは、病気そのものよりも、
「普通ではない自分」を受け入れることだったのだと思う。
いまなら、そう言える。
あのときの私は、ただ怖かった。
だから、知っていることから目をそらした。
それでも体は、ちゃんと教えてくれていた。
もう、同じではいられないと。
そして私は、それを知っていた。
――それでも、認めたくなかった。
もう普通じゃないのに。
それでも私は、その現実の上で生きていくことを選んだ。
以前と同じではない自分を、前提にして。
母になった夜
当時5歳の息子を寝かしつけていたところだった。息子も「何の音…?」と不安そうに私のパジャマを握っている。布団を抜け出してリビングへと向かう。息子も私の後にくっついてくる。リビングでは、夫に生後1ヶ月の娘を預けていた。娘の激しい泣き声が続いている。床に、割れた食器が散乱しているのかと思いきや、床の上はきれいなままだ。ふっと目をやったシンクの中で食器が割れていた。何だか不自然だ。何が起こったんだろう。頭の中には疑問符が浮かぶと同時に、夫がやったのだという小さな確信があった。
私は夫が大好きだった。性格も趣味も全く違う。お喋りが大好きでよく喋る私と違って、不器用で口下手で人から誤解されやすい。でも、その不器用さの奥にある優しさやただ黙々と仕事をする職人然とした背中は尊敬に値すると思っていたし、この人の良さをわかってあげられるのは私しかいないと、本気で思っていた。息子が産まれた時、夫は本当に喜んで積極的に育児参加してくれた。かいがいしくおむつを替え、げっぷをさせ、膝に乗せてあやし、抱っこ紐で散歩に出かけてくれた。寝不足で動けない私に代わって食事を作り、洗濯をし、掃除をしてくれた。そんな風に過ごすささやかな日々があたたかく幸せで、夫と結婚したことを悔いたことはなかった。
そんな生活に翳りが見えたのは、五年後に娘を妊娠した時だ。息子の時にはなかったつわりが、娘の妊娠時にはあったのだ。激しい嘔吐はなかったが、ずっと乗り物酔いをしているような気持ち悪さが続き、食事もろくに喉を通らず、作ることもままならない日が続いた。お腹が大きくなるのに体重は増えない。安定期に入っても体調は変わらなかった。ぐったりと横たわってばかりの私に、夫はいらいらが募ったようだった。もともとせっかちで、食べることに関しては執着の強い性格。それに加えて、仕事で役職を任されてあちこちへとハードな仕事が続いている時期と重なったのも良くなかったのかもしれない。私が食事を作れないことにも摂れないことにも不機嫌になった。食事を作れないから息子と外で食べてきてほしいと言うと、私も一緒に行かなければいけないと言う。行っても喉を通らないから無理だと言っても聞いてもらえない。お前がどの店で何を食べるか決めないから息子は夕食をとれないな、どうするんだと詰め寄られ、早く決めろよ!と声を荒げる。こんな人は知らない、一体いつの間にこんな人になったんだろう…そんな思いがしこりのように私の胸に残った。
娘を無事に出産し、退院して里帰りすると今度は息子の赤ちゃん返りが待っていた。わがままなど数えるほどしか言ったことのない息子は、鉛筆を落とした、お茶をこぼした、一人で着替えられないと何かにつけて小鬼のように怒り、叫び、泣いた。一週間離れていただけで息子も別人になったようで、息子が幼稚園に登園してからこっそりと泣いていた。この時期の私の記憶は不思議とブラックサンダーと結び付いている。甘いものは確実に自分を癒してくれるような気がして、そうしたら事態は少しでも良くなるような気がして、半ば願掛けのように食べていた。今でもブラックサンダーを見ると懐かしく、そして少し切なく息子の赤ちゃん返りを思い出す。息子の赤ちゃん返りが緩やかになったのは、母の一言だった。私は息子と一緒にお風呂に入り、母がバスタオルを持って息子を迎えに来る。バスタオルで息子の体をふわっと包み、優しく拭きながら息子と目線を合わせた母は急に手を止めて、
「あなたのことが、みーんな大好きだよ。一番だよ!ママも、ばあばも、じいじも。赤ちゃんが一番じゃないよ、あなたが一番。だから、大丈夫だよ。」
その瞬間、息子の背中が急に優しくなった。和らいだ、という表現が一番近いと思う。見た目には何も変化はないのだが、その言葉を聞いた息子の背中は、絶対的に「和らいで」いた。もちろん私にとっても両親にとっても、どちらが一番などないし、どちらも一番なのだが、その一言で息子が抱いていた不安、焦り、嫉妬といったものがふっと軽くなったのを如実に感じた。あの背中を私は一生忘れないと思う。
そうして、少しお兄ちゃんになった息子と生後一ヶ月、ふわふわの娘と共に里帰りを終えて帰宅し、四人の生活が始まって、一週間ほどした時の出来事だった。緩やかになったとはいえ、まだまだ赤ちゃん返り中。淋しさを押し込めて爆発させてしまう息子と二人の時間を取るために、息子を寝かしつける間だけは娘を夫に預けることにしたのだ。確かに、今日の娘はなかなか泣き止まないな、と思っていた。割れた食器に少し溜まっている水の表面には、小さなかけらが頼りなげに揺れていた。手で口を覆ったまま、驚きで言葉を発せなくなっている私の斜め後ろに夫の気配を感じた。娘が泣いていたはずなのに、その瞬間の私の記憶は無音だ。割れてしまった無機質な食器、蛍光灯の無遠慮な明かり。
「ねえ、どういうこと?」
息子の静かな声が私の静寂を破った。はっとする。息子の声には恐怖も怒りもなかった。ただシンプルに、事の成り行きの説明を求める透きとおった静かさがあった。振り返ると申し訳なさそうな顔で娘を抱いている夫が言いにくそうに口を開いた。
「泣き止まないから…腹が立って、つい…」
その瞬間、腹の底から噴き上げるような猛烈な怒りを感じた。娘が泣き止まないから、腹を立ててシンクの中に食器を投げつけて割ったんだ。
「返して」
夫の手から娘を奪い取る。そんなやつに娘を抱かせておけるか!と思った。娘を抱いたまま、割れた食器を大まかに片付ける。夫は途方にくれたように立ち尽くしていた。怒りで言葉も出なかった。右手で息子の手をぎゅっと握り、左手に娘を抱いて寝室に入る。暗い部屋で二人の寝かしつけをしながら子どもたちの顔を見ていると、怒りは潮が引くように静かに去り、違う感情がこんこんとわいてきた。私が、この子たちの母親だ、と思った。私が、この子たちを守り、育てるんだ。強くありたい。私が「母」になった瞬間だった、と思う。自分の中に「母」というアイデンティティが生まれた。
子どもたちも、それから少しだけ大きくなった。息子はあっという間に小学生。娘はイヤイヤ期に突入、「もうおねえちゃんだもん!」と何でもやってみたい少しおてんばな女の子に成長した。子どもたちと笑い、泣き、怒り、悲しみ、ふざけ、叱り、また笑う。子どもたちもたくさんの経験を経て、様々なアイデンティティを獲得していくのだろう。あの夜の苦い記憶と、透きとおった静謐な息子の声が、「母」である「私」を今もなお支えてくれている。
嵐、のち春
理由は、私の選んだ生き方が、あの子の価値観に合わなかったからだ。
突然で、正直驚いた。
でも、思い返してみれば、違和感は少しずつ積み重なっていたのだと思う。
それでも——
言われた言葉にはちゃんと傷ついたし、今でも思い出すと少し痛い。
私は去年、10年間一緒にいたパートナーと離婚した。
理由は性格の不一致。
よくある言葉だけど、私にとっては、それ以上でもそれ以下でもなかった。
価値観がまったく違う人と過ごす時間の中で、少しずつ自分の気持ちが削られていった。
「どうして分かってもらえないんだろう。」
と思いながら、何度も泣いた。
離婚を決めたとき、正直ほっとしたし、すっきりした。
そんな時期に、少しだけ心が揺れた出来事があった。
私が離婚することを決めたと知った10歳年下の友人から、告白されたのだ。
彼とは講師と生徒として知り合った。
受験のサポートをする中で、自然と雑談をするようになり、気づけば話の合う存在になっていた。
恋愛感情を向けられるとは思っていなかった。
彼がかけてくれるまっすぐな言葉に、少し救われた気がした。
でも同時に、特に知り合ったきっかけを考えると、手放しで喜ぶことなんてできなかった。
彼のことで悩んだ話は、親友だったあの子にもした。
あの子は、私を現実に引き戻してくれた。
「もっと視野を広げなよ。」
そう言って、マッチングアプリを勧めてくれた。
私もそれに納得して、アプリをダウンロードした。
告白してくれた年下の彼は、前に進もうとしない私に見切りをつけた。
そして私は、マッチングアプリで別の人と出会い、穏やかな関係を築いていった。
あの子にも、そのことを伝えた。
嬉しくて、浮かれたまま。
あのときの私は、自分の変化に夢中で、あの子の状況や気持ちを考えきれていなかった。
マッチングアプリで出会った彼と交際を始めてから、私は本当に幸せだった。
彼の職場の移動のタイミングもあって交際から2か月少しで同棲を始めた。
「いつか子供が欲しいね。」
って話をしたら、なんと最初のタイミングで私は妊娠した。
彼はすごく喜んでくれて、バタバタと結婚したのが交際を始めてから4か月と少し経った頃。
忙しかったけど信じられないくらい幸せで、私は有頂天だった。
親友だったあの子にも、妊娠が分かって1か月過ぎた頃には話していたと思う。
久しぶりに電話をしたときのあの子は生後数か月の第一子の育児中で、彼のことが大好きで仕方ないという私の話を聞きながら
「でも、その人って本当に大丈夫なの?」
「その人も離婚したばっかりなんでしょ?」
「だけど、出会って数か月で本当にいい人かどうかなんて分からないよ。」
「でも」「だけど」の言葉が多かったし、電話の声もいつもより固かった。
育児で忙しいんだろうと思ったけど、彼女からまた「でも」「だけど」を聞くのが嫌で、自分が安定期になるまで彼女に連絡することを控えたし、彼女からも連絡はなかった。
安定期に入ってから一度、赤ちゃんを迎える前にそろそろ買いそろえた方がいいものをLINEで聞いてみたけど、何となくメッセージの雰囲気がいつもと違うとは感じた。
それは彼女が育児で疲れているせいだろうと思ったから、毎年のように彼女の誕生日にギフトとメッセージを送った。
「誕生日おめでとう!落ち着いたらまた会おうね。」
それが、彼女の限界を超えてしまった。
彼女が私のギフトを受け取ることはなかった。
おかしいなとは思ったけど、あまり深く考えないようにした。
数日後、彼女から
「連絡が遅くなってごめん>< 話したいことがあって、近いうちに電話できる?」
とメッセージが届いた。
彼女に不愉快になることをしてしまったんじゃないかと考えていたから、連絡がきて安心した。
でも…電話の内容は、すごかった。
「あなたとは距離を置きたい。」
「あなたの結婚も妊娠も心から祝福できない」
「離婚してすぐ他の人と子供を作って再婚する人は問題だよ。」
「子育てってそんなに簡単じゃないよ。」
その他、今まで彼女が私に対して思っていたけど今まで敢えて言わなかったことの数々。
途中で離婚を決めた経緯も、離婚してからの元旦那の態度が酷かったことも、新しい彼と一緒にいて私は幸せだということも伝えようとしたけど、彼女の耳には届かなかった。
電話の中盤から、私をいろいろな言葉で責めながら、彼女は泣いていた。
彼女は本当に私のことを心配してくれていた部分もあったと思う。
電話の最後に、彼女は言った。
「困ったことがあればいつでも話してね。 出産祝いも誕生日のギフトも返せてなかったから、あとから送るね。」
私は
「ギフトは彼女の気持ちが落ち着いたときに送ってくれたらいいよ。今は要らない。」
と伝えた。
でも彼女はこう言った。
「いや、それだと私の気が済まないから。」
その言葉で、あー…もう今までの関係には戻れないな、と感じた。
私の進み方に納得できない人や、受け入れられない人がいることは分かっている。
それでも、そこまで言葉にしなくてもいいのに、と思った。
心の中では彼女のことはもういい、昔みたいにはもう戻れないし、私だってあそこまで言われたら距離を置きたいと思うのに、身体はしっかりダメージを受けた。
夜中は悲しすぎて何回も起きて泣いた。
妊娠後初めて風邪をひいた。
体調を崩したことが心配で、一度余計に病院に行った。
体調を崩して1週間経つ頃には、
「たくさんの思い出を共有してきた相手だけれど、もう前と同じ距離には戻れない。」
と少しずつ納得できるようになった。
私は最後まで彼女に言い返したりしなかった。
私なりに、これ以上彼女を傷つけない選択をした。
もう、それでいいやと感じた。
何より私には、大好きな彼と、あと数か月後に生まれてくる赤ちゃんがいる。
誰が何と言おうと、彼は本当にかけがえのない、一緒にいて気持ちが安らぐ大切な相手だ。
この年で、こんな形で親友を失うなんて思ってなかったけれど、人の価値観は変えられないし、どちらかが間違ってるというものでもないから、仕方ない。
今後彼女とどうかかわることになるかは、彼女に任せるから分からない。
それでも、私は今の生活を選んでよかったと思っている。
離れた場所で、彼女も穏やかに過ごしていてくれたらいいなと思う。
春はいつも、新しい出会いを運んできてくれる季節だから。
気づけば陥っている
なんだか、体がうまく動かない。頭の中が堂々巡りでまとまらない。食欲がわかない。笑っている自分が他人ごとに感じる。こういうのって疲れているとよくあることだって思っていた。
講師ともにうまくいかないことを誰かに愚痴って慰めてもらったり同情してもらって気分転換をしているつもりだった。
でもなぜか、いつまでたってもしっくりこない。ますますみじめて、むなしくなってきた。そんな状態が何年も続いた。
やっと気づいた。私、悲劇のヒロインになることを前に進まない理由にしていたんだって。周りの気持ちなんてお構いなしにただただヒロインになりたかったんだって。
それに気づいたら、馬鹿らしくなった。自分で立つ方がいいんじゃない?って。
今でも悲劇のヒロインになりそうになる時がある。その時、「あ。また私周りを巻き込んで進まないことを選んでいる」って気づけるようになった。
大人になれたかな。
娘と私の分岐点
それはベビーシートを嫌がって泣く娘をみた時である。
現在14歳の長女がまだお腹にいた頃、私はよく散歩してまわっていた。
すでに胎動もあったので「娘と一緒に」出かけているつもりで。
長く歩く時もバスに揺られる時もあったが、娘は(当然だが)何も言わずについてきてくれた。
初めてのお産はそれなりに辛かったものの「赤ちゃんと一緒にがんばった」おかげで無事に外の世界へ招き入れることができた。
娘は相当に育てやすく、よく飲みよく眠った。
頑固な便秘には困ったが、それも私の管理がうまくいっていないせいであり、病院にかかれば解決できることだった。
要するに良くも悪くも生活の全てが想定内に収まっていたことで、娘にまつわることはなんでも私に理由・原因があり、私の頑張りと方法次第で全てはカバーできると思い込んでいたのである。
その瞬間までは。
その日は乳児検診かなにかでどうしても車で出かける必要があった。
まだお喋りもしていない頃なので10ヶ月くらいだったと記憶している。
いつも通り準備万端で娘をベビーシートに座らせようとしたが、突然ぎゃんぎゃん泣きながら抵抗されたのである。
ベルトで固定しようにも身体をのけ反らせて力一杯泣いているので、そもそもベルトに腕すら通せない。
受付の時間は迫っている、ベビーシートなしで車には乗せられない、かといってタクシーに乗れるほど現金もない、駐車場に響き渡る泣き声…まさに途方に暮れた。
今思えば単純に機嫌が悪かったのだろうが、それまで「正しい方法」でお世話すれば私の想定内の反応をしていた娘が、私の都合を一切無視するかのように抵抗するのは衝撃的ですらあった。
そうして「この子はもう私の一部ではない、1人の人間なんだ」と急に納得したのをはっきりと覚えている。(なんなら帰宅した夫へ興奮気味にこの天啓とも言える気づきについて説明した)
そんなの当たり前だろうと思われるかもしれないが、この「自分と子供は別の人間」という認識は、娘のすることにやたらと口をはさみたくなった時や先回りして手を出したくなった時に文鎮のような役割を果たしてくれている。
私自身は母親の好き嫌いを絶対としたルールの中で育ち、両親の反応を細かく察知することで自分の言動が正しいかどうか測ってきたので、「自分と子供は別の人間」ということを意識していなければ、当たり前に娘の気持ちはフル無視で親側の最良の選択を押し付け続けていたと思う。
現在の私の関わり方が適切かどうかはまだわからない。が、少なくとも自分がされて嫌だった(のかどうかはうまく理解できていないが…)関わり方はしないで過ごせているので、あの時エビ反りギャン泣きでおでかけ拒否の意を示してくれた娘には本当に感謝している。
「良い結婚」
コーヒーは冷めていて、変な味がした。エタノールみたいな、変な味。
コーヒーは悪くないのに。全てを聞いて吸収してしまったんだろうか。
コーヒーは、悪くない。
ママは、本当はとても綺麗な人だ。顔が小さくて、目は大きいし、肌も綺麗だ。でも、父のことを嫌う時は、そうじゃない。疲れて見えて、心配になる。「一人暮らししたいなあ」いつもいう。「したら良いじゃん」というと、そんな簡単に言わないでとピリピリする。私は、娘として疲れてきた。ママとパパは、私がこういう文章を書いていることを知らないままでいてほしい。こういうところは、まだちゃんと娘として生きている気がする。いや、どうだろう。知ったら、それは悲しいと思うけど、知って欲しい日もある。
一度私は、2人に対して怒鳴ったことがある。
「いい加減にして!!!もう2人をみてたら疲れるわ!!!」
キッチンでタバコを吸っていたパパも、早めにタバコの火を消して少しオドオドしていた。
ママは、多分泣いていたと思う。私も泣いていたから、視界一面が雨の日の窓みたいに、濡れていた。部屋に勢いよく入って、扉を壊れるくらい大きく閉めた。それを反抗期だと言わないで欲しかった。反抗期ではない。2人が嫌だった。多分2人は分かっていないままだと思うけど。それでいいよもう。
24歳の時。同じカフェで母に「もう別れて良いんだよ」と言った。
だってもう、約束通り大人だから。
母は言った、「今はそういう元気がない」って。
母の人生を、母自身も大事に考えて欲しかった。私を育てた時みたいに。
母は、たまに怖い人になる。
洋服をプレゼントをしても、変なことを言ったりする。
「こういうの似合わないから着ないかも。」
手料理を美味しいと言って食べても、
「そこまで言う?たかが手料理に言い過ぎだから。」という。
母が変わっていくたびに、つらくなる。
病気にならないか、心配になる。過度なストレスは脳を委縮させてしまう気がした。
でもこのままだと、私の心の方が先に壊れそうだった。
月経前不快気分障害を抱えている。ママもパパもそのことは知らない。
毎月、一定の時期になると、別の自分が現れる。別の自分とはいっても、どれも自分であることに変わりはないんだけど。
もう、世界が真っ暗になる。両親が結婚したのは、自分が生まれたからだ。そういう風な思考がしみついている。毎月、必ずこの時期を迎えると、そういう考えが簡単に浮かんでくる。そして悲しくなる。冷静に考えると、自分のせいじゃないことなんてわかるのに、わからなくなる時期がある。
毎晩夢を見る。その時期がくると、毎日怖い夢を見る。
家族が笑って食卓を囲む夢。
毎週日曜日に、みんなでお出かけをしている夢。
大きい車に乗って、沢山ショッピングをして、美味しいものを食べて、本当に幸せな家族だったと思う。幸せだった時を知っているから、そうでない今の2人を見るのが本当に苦しかった。2人は親だけど、なんだかもう、親でもない気がした。だって、子どもが苦しい気持ちになっていることに気づいていないんだもん。それは親じゃないよ。
家を出た。25歳の時。
3年付き合っていた彼と一緒に住むことになった。声が優しく、よく笑う優しい人だ。
彼は人を評価しない。人の悪口を言わない。人に意地悪をしないし、怒鳴らない。否定をしない。どんなこともあたたかく受け入れてくれる。一緒にいるだけで、ほかほかのこたつに入っている時のような優しいあたたかさがある。春風のような、夏空の星のような、秋のきんもくせいのような、冬のスープのような。例えていうならそういう人。間違いなく、彼は私の心を落ち着けてくれた。一緒にいるだけで、やわらかい気持ちになる。手とこころがとてもあたたかい人。
いつの間にか生理不順が治り、毎月決まった日にちに生理がくるようになった。
かつての自分は生理がこない月もあれば、生理が2回くる月もあった。体調もよく崩していたし、普段から頭痛が酷かった。生理不順が治ってから、こういった問題は私からすっかり消えていった。薬も医者もいらなかった。
月経前の憂鬱は、まだ私を悩ませているけれど、それでも段々昔の自分に戻って行った。
週に2回くらいは実家に行った。ペットを飼っているから、会いたくて。
その度に、私の心はまた元にもどっていく感覚になった。仕事終わりのたった3時間実家で過ごすだけで、私の心はボロボロになった。また彼の待つアパートに戻る。数日過ごす。また本当の自分の戻ることが出来る。また実家に行く、ボロボロになる。それを繰り返していた。まだ、娘だった。
26歳、結婚することになった。
大好きな彼と。
それを報告した時、父は喜んだ。ほんのり寂しそうではあったけど、ちゃんと喜んでくれていて安心した。母はまた、変な人になっていた。少し怖い顔だった気もする。もしかしたら、本当に2人暮らしになってしまうことに大きな不安を感じたのかもしれない。ああ、私はまた母の未来を考えてしまう。こんなに良い話をしている中でも、私は母を気遣う言動をしてしまう。母から「こうやって離れていくんだね」と言われたけれど、「離れたりしないよ」と伝えた。まだ、ちゃんと娘だった。
プロポーズに成功したことを家族に連絡していた彼をみていたからなおさら、自分も彼みたいに純粋に喜んで純粋に報告したかったって思った。プロポーズは、彼が連れて行ってくれた県外の素敵な旅館で受けた。だから、私も嬉しくて、当時嬉しい気持ちのまま、家族のライングループに連絡をした。おめでとう!なんて感じを想像していたから、反応が全然違ってショックだった。「おめでとうなのかな?」母からのラインにはそう書いてあった。どうして疑問形で送る必要があったんだろうと不思議に思ったけど、会って母をみてすぐに全てが理解できた。
「良い結婚もあるもんだね」と、その時の母は少しだけ優しい顔になった。
やっぱり、ちゃんと母だった。ちゃんと母であってほしいという希望を捨てていない自分に気づいて切なかった。
もう、娘はやめにしよう。これからは、1人の女性として生きていきたい。
生まれた場所と生きる場所。
いつだって選択肢を自分が持っていたい。
自分を守る勇気は、27歳になってやっと。
彼との生活が、私の人生を変えた。
本当は少し、罪悪感すら感じていた。自分は幸せな気持ちになっていいのだろうか。
母が幸せじゃないのに。それって駄目なことなんじゃないか。
違う。それは絶対に違う。
母が描いていた「良い結婚」を、私はするよ。
育ててくれて、ありがとう。
「叔母の残り香」
叔母はいわゆるキャリアウーマン。執刀医や他の看護師から頼りにされているのが姪ながらもわかったし、痴呆が出始めた患者さんから不意に体を触れられても、「それで元気になるのなら。でも他の看護師には絶対ダメよ!」と鮮やかにピシャリ。病院で開かれる夏祭りやクリスマス海では患者さんやそのご家族、スタッフを大いに盛り上げ、空気をパッと華やかにする。
一方、母は、兄と私を出産後に専業主婦になったが、祖母の通院や入院の付き添いで彼女が病院内を歩くだけで、寝たきりのお年寄りがむくりと体を起こし、にっこり微笑んでしまう。タイプは違うが、二人ともナイチンゲールのような人。その姿と威力をそばで見ていた私は、「こんなに強くて優しい人にはなれないや」と、看護師とは別の道を探していたように思う。
大学生になった私は上京し、叔母が住むマンションに居候していた。スーパーへ買い物に行き、気分が乗れば料理を作り、時にはデパートで洋服やコスメを買ってもらい、外食も楽しんだ。恋の話しもたくさんした。“叔母さん”というより、かけがえのない女友だちが一人増えたような感覚で、とても楽しかった。
私が二十歳になった時のことだ。不意に「振袖とお金、どっちがいい?」と聞かれた。迷いなく「お金」と答える私に苦笑いしつつも、「自分のために使って。その代わり、アタシに恥ずかしくない使い方でね!」と、30万円をポンとくれた。そのお金でアジアの発展途上国やヨーロッパ各国へバックパックツアーに出かけた。視野が広がり、視座が高まるーー。就職氷河期でどうにもこうにも窮屈だった日常に風穴が空き、おかげで、生きるのが少しだけラクになった。
転機が訪れたのは、一人暮らしを始めて5年ほど経った頃。私が29歳、叔母は63歳の時だった。還暦過ぎてもなお、看護師として日勤も夜勤もバリバリこなす叔母。なかなか弱音を吐かない彼女の「このところ体が重くてだるいのよね」に異変を感じ、いっしょに大学病院へ向かった。診察を受け、一時間も経たないうちに医師からこう告げられた。「現在、ステージ4のすい臓がん。看護師ならわかると思いますが、余命は半年、もって一年です」。急いで母に連絡をとり、入院の準備をし、再び大学病院へ向かう。この日を境に、世界線がガラリと変わった。朝起きたら叔母が入院する病院へ行き、その足で仕事場に向かい、就業後は再び病院。洗濯に買い物、叔母の看病、緩和ケアの面談……病気の進行とともに、少しずつ、私のタスクは増えていった。
宣告からちょうど半年経った頃だと思う。叔母からポンと通帳とカードを手渡された。「これからはできないことがどんと増えていくと思うから、お金が必要になったらここからお願いね」。食が細い叔母が唯一食べたがったゼリー代、気持ちが少しでも上向きになるといいなと手に取ったピンク色のパジャマ、お見舞いに来てくれた方へのお礼の品、公共料金、入院費……。目にいっぱい溜めながら支払った。
桜が満開を迎える頃、緩和ケアに移った。一般病棟とは別の棟、言ってしまえば異世界にあるそこは、クラシック音楽が流れ、小さな庭園には彩り豊かな花が咲き、何があっても決して動じない医師と看護師がいる。パラダイスのようだった。
と同時に田舎と東京を頻繁に往復しながら看病をしていた病弱な母が、病院に長期滞在することになった。「贅沢しちゃおうね」と選ばせてもらった広めの個室で、叔母と母と私は、思い出話に花を咲かせ、散歩に出かけ、好物を食べ、枕を並べて寝た。
猛暑を乗り越え、秋を迎えた頃。痩せ細り、歩くのさえ困難になった叔母と、扉の外にある小さな庭園に出た。秋の植物とともに、たくさんのコスモスが気持ちよさそうに秋の風になびいている。「アタシね、コスモスって好きなのよ。どこでも咲ける強さがあるし、雨風にも負けないじゃない?」。未亡人だった叔母とどうにかして付き合いたい、結婚したいと願う男性からバラやランをしょっちゅう贈られていた叔母だっただけに、私にとっては予想外の告白だった。
それから数日後、叔母は安らかに天国へと旅立った。64歳の若さで。
ーーあれから15年。独身だった兄は結婚し、私は姪と、2人の甥の叔母になった。彼女、彼らが二十歳になった時、叔母と同じセリフを言うために、毎月数千円ずつではあるが、せっせと貯金をしている。次の休みはいっしょに料理をしたいし、姪の受験が終わったら、行きたいと言っていた原爆ドームがある広島へ、旅に出よう。電車ラバーな甥っ子と、地方のローカル線にも乗るのも楽しそうだ。
彼女、彼らが人生に行き詰まったとき、落ち込んでどうしようもなくなったとき。「なんだか楽しそうな大人がいるな。人生は案外、楽しいのかもな」。そう思ってもらえたら、とてもうれしい。
花は枯れても、香りは残る。私はそう信じたい。
私の命から
ですよとみてもらえたが、私はとんでもなく。しかも夫は家で寝てしまっていて1人で泣きながら大きな声で泣き叫んでいた。あまりの事に看護師さんに椅子を持ってきてもらったのだ、しかし、出産まですすまず、結局、息子の呼吸が、浅くなったからということで、帝王切開となった。私としては、取りあえずこの痛みを、何とかしたいのでそうされる事に安心はできたのだった。人の話から聞くのに24時間かかったらしい人もいたらしかったなが、信じられなかった。その後、長女の時は、もう帝王切開で進む事が分かっていたので、少し心構えが出来ていた。もうすぐ、時間になるまでに、検査を受けたのだが、逆子になっていたらしく、お腹の上から、捻じるようにされた。帝王切開でも、逆子でないほうが、よかったらしかったのだ。しかし、お腹の中で、へその尾が、巻きついていて、帝王切開でなければ、あまりいい状態ではなかったのだった。3人目の次女の時は、私の体調が悪く、血圧も高かった事もあり、大きな病院での出産なり、早めの入院となり、様子を見られるながらの日を待っている事になっていた。しかし、やはりあまり調子が良くならないのでこの際、早めの出産にすることになったのだった。その場合、私の方も危ない状態で、覚悟をしてくださいといった状態だった。
しかし、そこは何とかして、無事に生まれて来てくれたのだった。私の方はしばらく調子が悪かったが、何とか一緒に退院する事ができたのだった。
本当にありがたいと思ったのだった。
3人の子らは、何やかにやで、
病気にかかったり、怪我をしたりなどで、危ない時もあったのだが、こうして成人も迎え
上の子は、結婚もする事ができたのだ。
子供を産むということは、子供にとっても親にとっても、本当に命がけなのだと改めて感じたの感じた。特に女性には、命がけのことだったのだ。うちの子供らも女の子は私のようになる日が来るかもしれないのだ。
子供らには、そうしたことを知っておいてほしい。
新しい風
入院中毎日、家に帰りたいと泣く母の気持ちに応えたくて、私は実家での自宅介護を選択した。
通院は難しいだろうと訪問看護師から提案された訪問診療もお願いすることになった。
どうして欲しいんですか?
診療所からの初めての電話連絡で言われた一言。
え?母を診る前に?
母も私も延命治療は望んでいないが、それ以上の返答は持ち合わせていない。母のような高齢者に積極的な治療は必要ないことも承知はしている。けれど医師ならば、どんな患者にも最善を尽くすのではないのか?あなたにとってはいつ死んでもいい高齢者でも、私にとってはたった一人の母です!ドラマのようなセリフしか思いつかない。
結局、他の診療所に変更をお願いすることにした。迅速で丁寧な診察をしてくださる今の医師には感謝しかない。
自宅介護の話をすると、みなさん、偉いわね、大変ね、と声をかけてくれる。
施設の費用と自分の労力を天秤にかけ、母が亡くなったあとに後悔したくないただの自己満足かもしれない私は偉くない。
大変だと思ったことはないが、自分の感情をコントロールできないことがつらい。鬱々としたりイライラしたり、母より先に消えてしまいたくなることだってたまにはある。
心が晴れない毎日。
とにかく何かを変えたかった。
物で溢れかえった実家の部屋。見て見ぬふりをしていたけれど、全て片付けよう、不用品を処分しようと決めた。
押入れや箪笥の引き出しに入っている物を全部出して仕分けしていく。幾度となく手が止まる。
元気だった頃の母の姿と、結婚して家を出ていくまでの私の過去とひとつひとつ向き合う作業だったから。
怒ると暴力を振るう父の顔色を伺い、洋裁の内職を一日中している母の背中を見ながら一人遊びをするしかなかった幼少時代。人間関係が上手くいかなくて、毎日泣いていた会社員の頃。楽しかったこともあったはずなのに、悲しいことしか思い出さない不思議な人間の記憶。
ただ灰色の絵の具で塗り潰したような思い出。
大きなゴミ袋を広げて、不用品と一緒に自分の過去も全部丸めて放り投げる。何度も何度も。
すっかり綺麗になった部屋の窓を開ける。
春らしい風が部屋中を駆け抜ける。
人生を変えることはできないけれど、少なくとも昨日の私とは違っているはず。
この新しい風のように私も新しい一日を始めよう。
気づいた時には
娘は、うん、と答えた。
遠い目をしていた気がする。
まだ何も選んでいないのに、
もう「おねえちゃんになる未来」が、
そこにあるように見えた。
気づけば、私もそうだった。
やがてその未来がやってくるとわかって、
人形で抱っこの練習をしたり、
ミルクをあげる真似をしたりした。
ベビーパウダーだって、使っていた。
いざ生まれてから、
優しくしようとしたのに、
触ろうとしただけで止められる。
危ないから、だめ。
じゃあ、
あの練習は何だったんだろう。
そのとき、はじめて思った。
私は、
“おねえちゃん”という役割を、
背負っていたのかもしれない。
しっかりしないと――
ちゃんとしていないと――
気づかないうちに、
頭のどこかで考えていた。
――私は、誰の人生を生きているのだろうか。
その問いは、今も消えていない
おだやかな人
進学先の大学で知り合った十個歳の離れた先輩と約二年付き合った。
後半は毎日のように別れ話をしながら、互いに依存していたあたしたちはなかなか離れられずにいた。
そんな中、大学入学よりも前から働いていているパブで知り合った一回り年上のお客さんと仲良くなった。
あたしは恋人とちゃんと別れられていない、相手の彼は離婚は確定しているものの状態としては既婚者。あまり良くないタイミングでグッと距離が縮まった。
時期が悪い。そうも思うが、お互いにそういう状況にいたからこそ仲良くなったのかもしれない、と今になって思う。
既婚の彼と一緒にいながら、予防線を張るようにあたしは元彼をキープしているような状態だった。それも長くは続かず、結果、二人ともとお別れをした。
既婚の彼からは「元彼のところに戻りそうなのがずっと嫌だった。それだけがどうしても認められなかった」と言われた。それもそうだけど、お前既婚じゃん、と内心思っていた。
そんな感じで荒々しい日々を過ごすあたしに、平穏をもたらしてくれる時間があった。
そのときをくれたのが、今の恋人だ。
彼とは、アルバイト先で三年前から知り合っていて、ずっと仲良くしていたのだけれど、既婚の彼と仲良くなりはじめたあたりから、二人で出かける時間が自然と増えたように思う。
そのなかで、あたしは自分の恋愛、生活の状況を彼に吐露し、気持ちを落ち着けていた。
なぜか、彼といる時間だけは心が安らいだ。
彼の気持ちにも気づかず、いや、本当は心のどこかで気づいていたのかもしれないが、あたしはツラツラと失恋話をしていた。
あたしはあたしで、はじめて彼と出会ったときから彼のことを気になっていた。
きっと、互いにあたしもう一人ぶんという年齢差がネックになっていたのだと思う。
そして去年の冬、あたしからその差を飛び越えた。
そして彼はそれを受け止めてくれた。
知り合って三年、付き合ってからは数ヶ月。
あたしたちはあたしたちのペースで、これから明るい未来を築いていきたいと思う。
これまでの苦悩も苦難も、今に至るために必要な時間だったのだと、今では思える。
彼の優しさと寛容さに甘えず、自立した人でいたい。
そして、人には見せないけれど、淋しがりで心配性な彼のこれからを支えていきたい。
エッセイを書くうえで、
意外と難しいのが「本当の気持ちを書くこと」。
格好悪い自分や弱い自分。
そんな、人には見せたくない自分も隠さず、
ありのまま言葉にした文章には、
読み手の心を動かす力があります。
飾らない本音や素直な感情を綴り、
読み手の心にそっと寄り添ってくれた作品をご紹介します。